岡田黎子著『絵で語る 子どもたちの太平洋戦争―毒ガス・ヒロシマ・少国民』
去る9月8日、当ゼミナール会員で広島在住の岡田黎子さんが、「後世の人々の英知によって、全人類の統合による恒久平和が完成することを頼みつつその一助となれば…」と思い本著を刊行され、吉川宛に送られてきましたので紹介します。
この本は過去に出版した『大久野島・動員学徒の語り』(1989年12月15日発行)と、『子どもたちの太平洋戦争』(2009年12月8日発行)の2つの画集を一つにまとめて再刊行したものです。
第Ⅰ部は、ご自分が60歳の時「昭和天皇が亡くなった時に戦争にかかわった自らの体験を顧みたもの」、第Ⅱ部は、80歳の時に、「戦争へ戦争へと歩を進める国策に強い危機感を抱き、かつての太平洋戦争が国家によってどのように仕組まれ、国民がどのように洗脳されて戦争へと導かれていったか、戦争の実態がどのようなものであったか、その国情の一面について、子供時代の体験を記したもの」です。
岡田さんの可憐なこども、少女の絵ですがそれだけに無邪気な可愛い子ども達を戦争に動員し犠牲にした当時の国家の恐ろしさと怒りが伝わってきます。
⒉学徒動員(1944年11月)
1943年ころから筆者(広島県三原市在住)の通う忠海高等女学校では上級生から次々と兵器製造工場へ出て行った。「歩調とれ、頭右(かしらみぎ)」と号令をかけ守衛に敬礼
⒍勤労奉仕、火薬袋縫製(1943年、昭和18年6月~12月)女学校高学年
勤労奉仕で忠海近くの工場へ。週2日出勤させられ発煙筒の発射用ドーナツ型火薬の袋を縫製等、後の4日は学校で授業を受ける。
⒛気球の塗装仕上げ(1945年1月~2月)
完成した球体(風船爆弾の一部分)に空気を入れ満球にして、雨などの防水用にラッカーを塗って球体部分を完成させた。塗り終わったものはたたんで箱詰めにし、大久野島での気球製作で行う立て加工はこの段階で終了、209個、ほとんど学徒たちの手で作った。爆弾等の取り付けは他所で行う。気球の組み立ては、日本国内と満州新京を含めて24カ所で製造され、9,300個が放球(アメリカ大陸へ向かって飛ばす=吉川注)された。
27 保管庫から桟橋まで(1945年7月)
毒ガス入りのドラム缶運搬作業~大八車等にドラム缶を4~5個積んで、酷暑の炎天下を毎日13往復、その距離は延べ約16キロ。積み下ろしに時間がかかり、朝から晩まで走り通しで運ぶ。夕刻になると、汗びっしょりの体に涙や鼻水くしゃみが出て…顔をくしゃくしゃにして走る。漏れている毒物の恐ろしさよりも、皆の顔がおかしいのでケラケラ笑いながら行き交う。学徒にはドラム缶の内容物については説明されなかった。
29.大三島にわたって(1945年7月)
大久野島から船で運ばれたドラム缶をころがして芋畑に運ぶ。ドラム缶から出る油状の毒物で手が滑るので支給されたゴム手袋の上に藁草履をはめて転がす。重くてドラム缶は女学生の手に負えなかった。高学年の中には水泡ができたり、視力が低下した人もいた。敗戦後このドラム缶は全部ほり出しされて、土佐沖の太平洋に船もろとも沈められた。
⒉爆弾三勇士(1937年、昭和12年)小学2年生 日中戦争勃発
1年生の「読みかた」国語(国語教科書=吉川)は、サイタ サイタ サクラガ サイタ で始まり次が ススメ ススメ ヘイタイ ススメ だった。「『爆弾三勇士』は自分の命をかけて肉弾となって敵陣を攻撃した。三勇士は軍神である」と授業で教わった。私はその後病気休学をしたとき”人間はいずれみんな死んでゆく。同じ死ぬなら戦死が一番良いな”と考えた。
⒋提灯行列(1937年昭和12年)小学2年生
中国の首府・南京が陥落した。村を挙げての祝意。私は勝利の意味を知らず皆と一緒に歩いた。多くの国民は日本軍が南京で何をしたかを知らなった。提灯行列には子どもも多数動員された。
33竹槍訓練(1945年8月)
敗戦の色濃くなった頃、本土決戦に備えて、海辺近くの倉庫の前で、竹槍訓練があった。「前へ、前へ、後ろへ、前へ突け!」私たちのような体重30キロ余りのものが竹竿をもって米軍を倒せるのだろうか。「ズドンと一発撃たれたらおしまいなのに」と思った
24ヒロシマへ被爆者救護1(1945年8月)
敗戦になり久しぶりの夏休み、まもなく被爆者救護の校長命令があり、3年生と4年生が何人か動員されました。広島駅に着くと見渡す限りの瓦礫の中に建物の壁面がちょうどお墓のようにぽつぽつと立っていた。建物がないのですぐそこに似島がみえた。しばらく呆然と立っていると蠅が群がって無遠慮にまとわりついた。
250人ほど、体育館や教室に軽症者から重傷者まで収容されていた。…人の世とも思えない惨い状態を見て私は目まいがした。”助けに来た私が目まいなんかしておれん。”と自分をふるい立たせ、目まいをのりこえて救護活動をした。3度の食事を作り、掃除。食事は1キロほど離れた兵舎にリヤカーを引いて行っておにぎりを作った
~吉川コメント~
当ゼミナール主催の第9回フィールドワーク(2019年11月)で、岡田さんから学徒動員で、大久野島で毒ガス入りのドラム缶の運搬をさせられた経験など、戦争中の毒ガス製造・運搬と風船爆弾製造にかかわった体験を聞き一同大変感銘を受けました。
岡田さんは「自分は加害者だった。風船爆弾が米オレゴン州に飛来して人の命を奪った」と、痛切な反省から画集を英語版でも出版して世界に送っています。そしてかつて敵国だった国の人々との間に友情が芽生えています。岡田さんの行動に私は励まされ、教えられています。
当ゼミナールのニュース第44号で紹介した『90年の旅』を著した岡田さんは、「90年も生きた 面白かった!闘った!」と92歳の今も元気いっぱいあの戦争の実像を後世に伝えようと、頑張っていらっしゃいます。
今、あの戦争を伝えなければと、戦争を知っている世代が衰える体力と戦いながら必死に、あちこちで頑張っている姿に勇気づけられます。
日本の平和、民主主義はこうした庶民の努力で守られてきたのです(了)
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