企画展示「性差(ジェンダー)の日本史」の画竜点睛(がりょうてんせい)
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)企画展示「ジェンダーの日本史」(2020年10月6日~12月6日)をみた。資料によって日本の女性たちがどういう歴史をたどってきたかが示されている。展示物は埴輪、絵画(絵巻、紙芝居)、様々な道具、図表・地図、模型、公文書、私文書等々でわかりやすい。学校では男性の日本史を教えられてきた私は、20歳代の頃本気で「女性の日本史」を書こうか、と考えていたので興味深かった。
(著名な画家の絵画展よりさらに厚い!本・企画展示のカタログを以下引用する)
(写真・国立歴史民俗博物館 展示企画『性差の日本史』カタログ)
企画は以下の7つのセクションに分かれている。
第1章 古代社会の男女 第2章 中世の政治と男女 第3章 中世の家と宗教
第4章 仕事と暮らしのジェンダー―中世から近世へー、
第5章 分離から排除へ―近世・近代の政治空間とジェンダーの変容、
第6章 性の売買と社会、
第7章 仕事と暮らしのジェンダー―近代から現代へー
原始時代は自立した人間であった女性が歴史を下るにしたがって自立性が失われて従属化し男性の支配下に置かれる変化が各分野で資料によってとらえられる。日本史上女性が最低の地位に落ちた明治であり、その先にはいくつもの戦争があった。世界大戦に敗北。そこで展示は終わり現代には触れていない。
性売買を真正面から取り上げた展示
注目は第6章である。性の売買と社会に関する展示が公の施設で行われるのは初めてであろう。この章では「売買春の場に生きた人々―遊女娼妓たちの声を聴きその経験に迫ることを重要な課題として位置付けている」。内容は、
1 中世の遊女-家と自立
2 近世遊郭の成立―商品化される遊女
3 遊女の群像
4 芸娼妓解放令の衝撃
5 近世遊郭の再編と近代公娼制度の展開
遊女たちはなぜ放火するのか
遊女の逃亡を防ぐためあの吉原遊郭には出入り口の門が1カ所しかなく火事で逃げ遅れた遊女達が大勢死亡するという痛ましい事情を私は聴いたことがある。
本企画展示によると新吉原遊郭では「1800年以降幕府が倒れるまでに23回もの大火が発生してうち11回は吉原が全焼、原因のうち13回は遊女の放火であった」という。例えば、「1849年遊女屋梅本屋抱え遊女16名が2年間合議を重ねて集団で放火し、名主方に自首し、抱え主佐吉の非道を訴える事件まで起きた」。この放火事件の調書が展示されている。
着飾った花魁(おいらん)の豪華絢爛の浮世絵も展示されている。しかし、実際の遊女の生活は幼いとき父親から人身売買で遊郭に売られ、返済不可能な前借金に縛られ、抱え主の暴力にさらされ、自分の欲望を満たすための利用客達の横暴等々で、今流の言葉でいえば性奴隷であった。
近代の遊郭・遊女
明治維新で遊女の身分にも変化が起きる。「吉原、深川の遊女屋からの巨額な上納金を明治の新政府も受け継いだ」。彼女たちが血と涙で稼いだ金が政府の財政を支えていた、という。
1872年明治政府は芸娼妓解放令を発する。近代化政策と人権擁護を求める国際世論への対応という面もあった。「人身売買と売春の強要を禁じるこの法令は遊女たちに熱狂的に歓迎された」(カタログP206)
「近代公娼制度のもとで娼妓は「自由意志」にもとづいて性を売るものとされた。しかし現実には…「家」や親の都合による身売りが継続した。身売りの代金(前借金)は親が受け取り、娼妓となった娘が年期中に貸座敷で性を売った代金から返済するという契約を結ばされた。しかし前借金の返済は極めて困難であった」(カタログ・P214)
明治以降になって廃娼運動や、労働運動、細井和喜蔵「女工哀史」等の影響を受けて、娼妓たちは自由廃業めざし立ち上がった。自分たちを遊郭に売った親に疑念を持つようになり、全借金の返済が困難な死捨て身に疑問を持つようになった。松島遊郭のストライキを報じる大阪朝日新聞記事(1931(昭和6)年10月20日)の展示は興味深い(カタログ・P216)。
性を買う男たち
遊郭を利用する側=男性の事情についての資料も興味深い
江戸時代は
- 参勤交代で出府する武士、江戸庄家の奉公人…独身男性が膨大に集中する特異な人工都市。幕府は公認遊郭とそれを担う傾城町を通じて性的秩序を保った…
- 大店事件簿~奉公人のみが少年時代から住み込みで奉公するという体制、横領や商品横流しで金を作っては遊郭につぎ込む不正が多発
- 北信濃下高井郡井上村(現長野県須坂市)豪農坂本家に残されていた江戸新吉原遊郭遊女との書状 文久年間参勤交代緩和
明治時代以降
「近代社会は、男性が遊郭で女性を買うことに極めて寛容な社会であった。政府、政治家や陸海軍、貸座敷業者らは強姦防止や性病予防のため、あるいは地域経済発展のため、一部の女性が犠牲になることはやむを得ないこととし公娼性を維持した」、
表7「内地における遊郭数の推移」によると1924(大正13)年23,405,397人→1939(昭和13)年―33,029,826人である(人見佐知子「日本帝国統計年鑑」及び内務省警保局「警察統計報告」より作成)。日中戦争がはじまっていても3千3百万人の男性が遊郭に通っていた!という驚くべき数である。ちなみにこれは日本内地の遊郭のみで当時相当数あった、植民地、占領地の遊客数は含まれていない。
他方、「男性たちは自分の妻や娘には良妻賢母の貞操道徳を求め」た。刑法には女性のみを罰する姦通罪迄設けた。女性にとってはまことに窮屈な時代であった、と言わなければならない。
アジア太平洋戦争中の遊女の運命を語らない展示
展示は「日中戦争、アジア太平洋戦争に際しても遊郭は廃止されることなく持続した」と指摘する(カタログ・P22)。継続された遊郭で働く遊女たちは戦争中どうなったのか?展示には彼女たちの生活実態の説明がない。画竜点睛を欠く、と言わざるを得ない。
私が1996年警察庁から入手した一連の内務省資料によると、1938年彼女たちは軍の要請により内務大臣公認で『慰安婦』として戦地に送り出された。内務省は前借金を抱える遊女には、最高1千円までを支給した。内務省と軍は女衒を使って慰安婦として送り出す遊女を集めた。少なくとも一人の名前と住所は件の警察庁資料に掲載されている。警察庁資料は国立公文書館で公開されている。
現に遊郭からビルマの戦地へ慰安婦として送られた女性達の身元を、ビルマ(現・ミャンマー)従軍軍医作成の名簿によって、私たちは突き止めている。(「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールニュース)参照)
また、朝鮮半島や台湾の植民地にも遊郭は多数進出していた。台湾(台北、台中、高尾、場公…)、朝鮮地方(釜山、大邱、平壌…)、関東州地方(大連、旅順…)ここでも多くの日本男性は植民地と本土を頻繁に往来して、植民地の遊郭にも登楼している。その旅の遊郭の案内の本も出版されている。(全国遊郭案内・1930年日本遊覧社)が、その展示もない。植民地は日本本土とほぼ同じ行政が行われ、そこには日本人とされた遊女たちが多数雇われていた。こうした事実に目をふさいではならない。
(写真・旅行する男性向けに書かれた遊郭案内 1930年)
米兵への性の提供
また、政府は1945年8月18日、敗戦3日後全国に指令を発し、米軍の進駐に備えて全国の警察に米兵向けの「慰安所」設置を命じた。日本に上陸した米兵の相手をさせるために。7万人に及ぶ日本女性が動員された。性売買という民間ベースではなく、政府自身が一方(買う?側)の当事者である。こうした資料は多数残っているし証言もある。
性売買というと何やら民法で規定する商取引の「売買」を連想させて民間の契約行為のような錯覚が生じるが、遊郭には一貫して政府=公が関与してきた。単純な商行為ではないのだ。
まして、戦場に送る遊郭の遊女達や、米兵の相手をさせるために駆り出した女性たちは性「売買」という概念には当てはまらない。政府による強制であり、動員である。
第6章の表題は「性の売買と社会」である。こうした政府=公が一方の当事者たる事象は「売買」に当たらないとの理屈で慰安婦や米軍兵士への性の提供問題を省いたとしたらとんでもないことだ。
なぜ、遊郭女性の戦中生活の欠落を重視するのか
「性差(ジェンダー)の日本史」と銘打ってこれまで触れられない女性の暗い部分に光を当てた企画は大いに評価されるべきである。しかし今回のある意味“売り”でもある「性売買」の企画から日本人「慰安婦」問題を外したことは大問題である。私は日本人「慰安婦」を省いた理由を知りたい。
国連も指摘しているように(北京第4回世界女性会議・「行動綱領」)、女性への暴力がジェンダー平等を最も妨げている。
日本で最も深刻な女性への暴力=「慰安婦」問題はいまだ解決されていない。戦争中に遊郭の女性達が多数「慰安婦」にされた事実を多くの国民には知らされていない。日本人「慰安婦」たちは名乗りを上げず戦後ひっそりと社会の片隅で暮らし、生を終えている。自分が性暴力の犠牲者であることを名乗り出られない社会である。それを促す運動も、残念ながら起きなかった。これが日本の姿である。
彼女たち、日本人「慰安婦」の人権回復に成功しなかった日本社会は、今深刻な、性差に苦しんでいる。国際比較でジェンダー格差121位という恥ずかしい地位に甘んじている。女性への様々な性暴力が横行している。これをなくしてゆく決意が政府と国民に求められている。ジェンダー平等社会の根幹に『慰安婦』問題が横たわっている、そこをあえて外した企画が残念である。
写真・国立歴史民俗博物館・遠景(吉川春子)
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