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2020年11月 1日 (日)

「中帰連平和記念館」を見学~中国で日本兵は何をしたか

   「中帰連平和記念館」とは?

 

 当ゼミナールは20201024日、フィールドワークをNPO法人「中帰連平和記念館」で実施した。コロナ禍で4月の総会、7月の講演が中止に追い込まれ今年度初めての行事である。

 同館は埼玉県川越市のはずれにある。東武東上線・鶴ヶ島駅からタクシーに分乗して現地に向かう。近くの東松山には原爆の図で有名な丸木美術館もある。

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(写真・「中帰連平和記念館」のブックレット『撫順の戦犯が許された歴史を忘れない』)

 

 「中帰連平和記念館」には蛮行の限りを尽くした日本の将兵が革命間もない中国政府の「国策」によって侵略戦争反省の日々を生き鬼から人間と変わる感動の物語が詰まっている。

書棚に囲まれた、天井近くには中国人慰安婦「コウコウレン」さんの大きな写真が私たちを見下ろす部屋で、芹沢昇雄「中帰連平和記念館」事務局長の説明を受けた。その後、中国帰還兵たちの自ら中国人民への行為についての証言と、平和&日中友好活動のDVDが上映された。

 国策により赤紙1枚で戦場に駆り出され殺戮を繰り返し鬼とさせられた兵士たち。彼らも犠牲者の一人であるには違いない。戦犯管理所では鬼のような自分の行動と向き合いを自らを見つめなおすという非常に困難な作業を経て人間の心を取り戻す。それを可能にした当時の中国政府の計らいと兵士らの言動に心を揺さぶられた。

 顧みて、かの戦争から帰還した数百万の元日本兵は、人間に戻るチャンスを与えられないまま多くは鬼籍に入る。中国帰還兵とは対照をなす。

 

       シベリア抑留から中国の捕虜に

 

 1945年815日日本敗戦後にソ連軍によって60万人の日本兵士が満州からシベリアへ抑留された。1950年(中国革命成功の翌年)、そのうちの約1千人がソ連から中国側に引き渡され数年間、戦犯管理所で中国政府による粘り強い教育を受けた。1960年代前半迄に全員が帰国した。

「中帰連」=「中国帰還者連絡会」とは、撫順戦犯管理所に収容されて後日本への帰国を果たした元日本兵達が組織した会である。

 1956年帰国した元戦犯を迎えた日本は社会も価値観も大きく変わっていた。「アカ、洗脳者、中共帰り」のレッテルが張られ公安警察に監視され就職が困難だった。1957年出版された、彼らの管理所での体験を綴ったカッパブックス『三光(さんこう)』を出版し、ベストセラーになったが右翼の妨害で増刷できなかった。

 人間性を取り戻した元兵士らは帰国後、生活の困難にめげずに平和運動、日中友好運動に生涯をかけた。「中帰連平和記念館」には彼らが中国人に行った残虐行為を告白し良心の呵責に苦しみまたPTSDに苦しみながら、戦後社会を生きる記録が保存されている。

*三光=「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」の意味で日本軍が中国人民に行った行為をさす。

 

     中国人民に行った加害を自認~南京事件、731部隊、強姦・輪姦…

 

 日本は柳条湖事件~満州事変、盧溝橋事件、そして太平洋戦争~敗戦に至る15年間にわたって中国への侵略を行った。中帰連の元日本軍兵士たちは具体的にどのような行為をしたのか。(以下パンフレット『撫順の戦犯が許された歴史を忘れない』2019.10.26より引用)

   ☆731細菌部隊

 中国人3000人以上をマルタ(丸太)と称して人体実験を行うが194589日ソ連が参戦すると証拠隠滅のため建物を破壊し400人のマルタを毒ガスで殺して焼却した遺骨を松花江に遺棄した。「少年隊員」だった篠塚良夫は帰国後、長い間証言活動をつづけた。証言活動で訪米した際シカゴ空港で日本へ「強制送還」された。「石井四郎を免責して細菌戦情報を手にした米政府はアメリカ国内で篠塚に不都合な証言をしてほしくなかったのでしょう」(同上)

   ☆阿片謀略

 古海忠之、西尾克己は阿片生産販売にも関与した。日本の阿片謀略による中国人犠牲者は1000万人ともいわれている

   ☆実的刺突

 戦犯管理所で中帰連メンバーは「自筆供述書」に日本軍が戦闘以外でも多くの女、子どもを含む住民を拷問、殺害、虐殺を行ったことを書いている。戦地では初年兵の訓練・度胸試しに農民捕虜などの中国人を杭に縛り付け、集団で銃剣で突き殺す「実的刺突」を実行した。この体験を語る元兵士の涙ながらの供述に、私は命令を下した上官に対し怒りが心頭に達した。

   ☆強姦

 鈴木良雄は「戦場での強姦は命令ではなくなんと批判されても仕方ない」と悔悟する。鈴木安次は2000年女性戦犯法廷で鈴木良雄と共に性暴力の加害行為を証言・告白した。「慰安所」は金がかかるが強姦ならただだった」とも。強姦、輪姦は日常茶飯事であり、それは「慰安所」だけではなく、街中で公然と行われた。

   ☆生体解剖

 山西省(さんせいしょう)潞安(ろあん)陸軍病院で軍医をしていた湯浅謙は当時自ら中国人の生体解剖に参加していたことを証言し続けた。管理所収容時代に被害者の母親から告発され、検事からそれを見せられた。それでも湯浅は起訴免除とされた。湯浅は「生体解剖は731部隊だけでなくどこの野戦病院でも行っていた。内科医を戦地で通用する外科医とするためだと証言した。

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(写真・中国人『慰安婦』コウコウレンさん(左の人物)の写真が掲げられている―大森典子弁護士が訴訟代理人として奮闘)

 

 戦争は日本が中国に出かけて行って(=侵略)中国本土が戦場になった。これによる犠牲者数は、1995年中国共産党中央委員会の総書記・江沢民の発言によると、中国軍・民間死傷者500万人に達した。(中国の軍事科学院軍事歴史部の研究による『中国抗日戦争史』の概算統計によると抗日戦争期間中の中国軍隊死傷者380万人、中国人民犠牲者2000万人余)

 

    撫順戦犯管理所での生活

 

 ソ連から中国への日本兵の移管はスターリンの提案だったといわれる。シベリア抑留の「戦犯」たちはシベリア各地から「ダモイ(帰国)」と騙されてトイレもない3段になった貨車に詰め込まれた。507月ソ満国境の綏芬(すいふん)河(が)着、中国側で待機していたのは貨車ではなく座席に白いカバーの掛かった客車で、温かい食事が用意され医師と看護婦が乗り込み「戦犯」の体調に気を配った。3日後撫順駅に到着。中国人民に移送が知られ暴動が起きることを心配して極秘で行われた。

 戦犯管理所では周恩来指導の下「一人も逃亡させてはならない、一人も死亡させてはならない…人権を尊重し殴打も罵倒も許さない」との指示が徹底された。管理所はㇱべリアと違い一切の強制労働も強制学習もない。彼らはやることもなく無為に過ごし日々反抗を繰り返した。「俺たちは白米を食べるのだ」と威張っていた。管理所では日本兵には三度々々白米、肉魚を与えていた。

 一方、管理所職員は日本軍に家族や親せきを虐殺された職員も少なくなかった。管理所への移動を「復讐のチャンス」と考えていた職員もいた。「自分たちよりはるかに豪華な食事に反感を持った炊事班職員もいた。温久達医師は戦犯の待遇に納得がゆかず何度も転勤を希望したが受入れなれなかった。

 

    鬼から人間へ

 

  一方、戦犯たちは豊かな食事に「最後の晩餐か」と心配し、焼却炉に煙が立てば「あそこで焼かれるのか」と内心は疑心暗鬼だった。

 戦犯たちはどのように反省、謝罪をしていったのか?強制労働も、強制学習もない、有り余る時間の中で筆記用具や新聞・書籍が提供され、考える時間を与えられた。そんな中で処刑の恐怖から自殺した者が2名、精神病になった者もいた。

 捕虜達の収容所の生活が4年経過した19544月某日、元39師団232連隊第1大隊中隊長の宮崎弘が、管理所中庭に集まった戦犯全員の前で自己批判した。「初年兵教育で模範を示すため十数名を刺殺した。老人、子供、妊婦を殺害し村を火の海にした」。涙ながらに「自分は人間の皮をかぶった鬼だった。ここに中国人民に心からお詫びし、いかなる処罰も受け入れる覚悟である」と。

 宮崎の体験はほとんどの戦犯が身に覚えのある事だが「処刑されるのでは?」と恐れて自分の体験を吐露できなかった。この宮崎の自己批判後に戦犯たちの認罪の意識が広がっていった。

 5年余の「教育」を終え1956年、約1000人の戦犯の中、45人だけが瀋陽・太源の特別軍事裁判に起訴された。残りの人々は「起訴猶予」「即日釈放」され帰国が許された。死刑も覚悟していた元兵士達は思いがけない結果に涙にくれた。「中帰連平和記念館」でみせられた映像では、即日解放の措置を知ったその瞬間「戦犯」たちの顔はどれも涙でゆがんでいる。

 「起訴された者も死刑も無期懲役も1名もなし。最長20年の懲役刑だったがシベリア抑留と戦犯管理所の6年の計11年が刑期に参入されほとんどが刑期満了前の1964年までに帰国している(二木ふみ子・まえがき『撫順の戦犯が許された歴史を忘れない』2019.10.26発行)。

 記録によると、アメリカはじめ連合国のBC級裁判で日本兵千余名が死刑に処せられている。これと比較すると、寛大な措置といえる。

 中国の特別軍事法廷の判決原案には死刑も無期懲役もあったが周恩来はそれを認めず判決文は4回も書き直されたという(同ブックレット)。周恩来の「悪いのは日本軍国主義で国民も犠牲者だ」との思想がここにも表れている。

 

     中国から投げられたボール

 中国からの帰還兵たちの運動もあり、1972年に日中国交回復が実現した。中国は日本への戦争の賠償要求を放棄した。戦犯に対する寛大な扱い、中国残留孤児の中国人養父母による養育と日本への帰国等中国との特別の関係は久しく続いた。中帰連の会員たちは戦後日中友好運動に身を投じた。

 他方日本人のどれほどの人が中国人民への加害を知り反省しているか。残念ながら日本は侵略戦争遂行した勢力が戦後も権力の中心にいる。加害への反省は乏しい。結果、国民も戦争犯罪への反省の心は弱いのではなかろうか。

 私は「中帰連平和記念館」の成り立ちと保有する資料を多くの日本人が知り学ぶ必要を痛感する。

 その後、中国は60年代後半から文化大革命、天安門事件を起こし国際的批判を受けた。中国社会主義革命成功直後の理想とは経済を見ても今は距離があるのではないか、と私は思う。

 しかし、ヨーロッパで独仏再び戦わずの決意がEUに導いたように、日中再び戦わずの双方の決意が東アジアの平和と安定の道であると確信する。(吉川春子記)

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(写真・ぎっしりと書籍、資料の詰まった「中帰連平和記念館」にて記念撮影)

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