学者の国会といわれる日本学術会議会員の105名の改選で、菅首相は6名の会員の任命拒否を行い大問題になっています。私が参議院議員に当選した1983年秋にこの法律が参議院に回ってきて文教委員会で私はこの問題で政府を追及しました。請われるまま文京革新懇で当時のことについて特別報告を行いました。
以下は去る2020年10月10日に「3000万署名推進文京アクション!」で私が学術会議法について特別報告した内容です。
報告する吉川春子
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私が参議院議員に当選したのは1983年6月第100国会で、当時はロッキード事件で田中角栄首相逮捕等により国会はもめにもめて動かず、本(『50番目のハードル』)を1冊書いたほど暇を持て余した。秋深くなって急に国会が動き出した。
私は文教委員会に所属した。議員になって最初に質問した法案は「日本育英会法」で、それまで無利子だった奨学金に利子を付すという悪法だった。続いて2番目が「日本学術会議法」だった。渡辺洋三先生など大学の教科書で名前を知っている高名な大学教授が何人か私の国会事務所に陳情に見えて、恐縮したことを覚えている。
<学問の自由>
日本国憲法には俳句と同じ五・七・五で成り立つ条文がある。第23条である。
学問の 自由はこれを 保障する
旧憲法にはなかった条文である。
日本国憲法では第19条 思想及び良心の自由、第20条 信教の自由、第21条 集会結社及び言論出版の自由等の保障等があり、これだけでも学問の自由は十分保証されるが特別に23条が設けられている。これには大学の自治の保障を含んでいる。
また23条は単なる自由権ではない。軍事研究の自由が認められるわけではない。当然第9条の制約がある。
<戦前の学問の自由・大学の自治弾圧事件>
学問の自由が特別に規定されたのは第2次大戦中の学問に対する弾圧への反省がこめられている。以下に有名な弾圧事件を挙げる。
〇京大滝川事件(1933年)
内務省は京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として著書を発禁処分にした。鳩山一郎文部大臣は滝川教授の休職処分を要求、教授会の同意なしに行った。(西総長は文相の要求を拒絶したが文部省は休職処分を強行した)(『注釈日本国憲法・上』)
発端は滝川幸辰教授が1932年10月、中央大学法学部で行った講演「『復活』をとおしてみたトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的とされた。
〇天皇機関説事件(1935年)
通説的学説であった天皇機関説の代表的学者である美濃部達吉博士の『逐上憲法精義』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』の3冊の著書が安寧秩序を害するものとして発売禁止処分になる。
「国民の代表である議会は内閣を通して天皇の意思を拘束しうる」という美濃部学説は政党政治に理論的根拠をあたえた。しかし1932年五・一五事件で犬養毅首相暗殺され、憲政の常道が崩壊。1933年ドイツでナチスがユダヤ人の著作に対し焚書が行われたことも影響し、天皇機関説が敵視された。1935年貴族院において天皇機関説が公然と排撃され勅選の貴族院議員・美濃部博士が弁明に立ち結果、不敬罪により取り調べを受け、貴族院議員を辞職した。後の東京都知事美濃部亮吉氏は博士の子息である。
<学術会議の設立の意義>
戦争中に学者は自説の学問を弾圧された一方で、侵略戦争遂行の政府に協力させられたという痛恨の歴史がある。その歴史を踏まえて、学者の国会といわれる学術会議は、国民は食糧難で飢えて、東京は焼け野原住む場所もない状況の続く日本敗戦4年後1949年に設立される。
同法前文には「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し世界の学会と提携して提携して学術の進歩に寄与することを使命として」設立された、とある。前文のある法律は少ないが、特に付した。そして、第1回総会では声明を発表する。「…我々はこれまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉の増進のために貢献せんことを誓うものである」
<「日本学術会議法」の改悪案審議 1983年11月24日 参議院文教委員会>
入場人員を絞って密を避けた文京区民センター
第100回国会に提案された「学術会議法改正案」は、会員の選出方法において、それまでなかった総理大臣の任命制を導入するという学術会議の自主性と独立性に赤信号がともり学問の自由の侵害となりかねない内容であった。当時反対運動が大きく盛り上がった。
以下は、吉川春子の政府への質問と、これに対する丹羽兵助大臣答弁である。
吉川春子(文教委員会理事)
学術会議の発会式(昭和24年1月)で総理大臣祝辞として「新しい日本を建設することを決意した私どもは、単に自国の平和と自国民の幸福を図るのみならず、文化の発展、なかんずく科学の振興を通じて、世界の平和と人類社会の福祉に貢献しようとする大きな理想を持たねばなりません。まことに科学の振興こそ新日本再建の基礎であるとともにその目標であると思うのであります」と述べそして、「日本学術会議はもちろん国の機関ではありますがその使命達成のためには、時々の政治的便宜のための掣肘(せいちゅう)を受けることのないよう高度の自主性が与えられているのであります」と時の総理大臣が述べている。そういうことを踏みにじって法改正を急ぐ。これは政府の意のままに動く学術会議にしようとする、御用機関化しようとする何物でもないとおもう。学術会議の自主性尊重、自主改革尊重といってきたのはうそだったのじゃあないか…」
国務大臣(丹羽兵助君)
「…これが設立された当時の総理がお祝いの席で述べられたあいさつはそれはその気持ちと、そして学術会議がこういう性格のものであるとはっきりしたことを言っておられますがそのことについては今も私は少しも変った考えを持っていません。あくまでこれは国の代表的な機関であると、学術会議こそ大事なものだという考え、政府がこれに干渉したり劉章したり運営等に口を入れるなどという考え方は少しも仕替えるべきではない、当時総理が言われたことと変わっておりませんと思っています。
ただ今度の改正はそういう大事な学術会議でございますから学術会議が立派な機能あるいは使命を果たしていただくための選出方法を、近頃いろいろ選出方法について意見も出ておりまするし学者離れ云々というような嫌なことも耳にしておりまするので、今度はちゃんと推薦制にして、その推薦制もちゃんと歯止めをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会のほうから推薦していただいた者は拒否しないその通りの形だけの任命をしてゆく、こういうことでございますから、決して、決して総理の言われた方針が変わったり、政府が干渉したり中傷したりそういうものではない」云々。
「総理大臣の任命は形だけのもので決して政府が干渉することはない」との丹羽兵助大臣答弁を政府は38年間守ってきたが、今回菅総理はこれを破った。いつかは悪用される、という懸念が現実のものになった。
6人の学者任命拒否の菅総理の狙い
日本学術会議は第2次世界大戦中の日本の科学者の戦争協力の反省が出発点であるのでその点を明確にした声明を何度も出している。
1950年「戦争を目的とする科学の研究は絶対に行わない声明」、1967年「軍事目的のための科学研究を行わない声明」そして、2017年「軍事的安全保障に関する声明」では、「1950年67年の声明を継承すること」を確認している。
これに対して安倍内閣は大学等の研究成果を防衛装備品開発に積極的活用もくろんできた。2013年12月の閣議決定で「国家安全保障戦略」で「産学官の力を結集させて安全保障分野においても有効活用」うたい学問の力を軍事的利用をうちだした。⒉015年「安全保障技術推進制度」創設し、その結果2015年度3億円の予算額を2016年度110億円に前年比18倍に増額し露骨な、学問の軍事利用を進めようとしてきた。今回の菅首相の日本学術会議会員の6名任命拒否は、内閣が学者の国会に圧力をかけ屈服させようとする露骨な強権発動である。学術会議の政府による支配をもくろむもので許されない。
今回の事態を海外で注目
海外の反応として、ネイチャー誌は、学問の自由への侵害として脅威‐「研究者と政治家がお互いに尊重する信頼」が必要だが脅威にさらされている」として、具体的最新事例として菅首相による任命拒否紹介された。また、英主要経済紙フィナンシャル・タイムズ電子版は「管首相が「最初のスキャンダルのただなかにある。任命拒否は「彼らの政治的見解によるもののようだ」。今回の問題は蜜月期間を早期に終わらせかねない、としている。*「蜜月」-新しい政治指導者が就任した直後に一般にみられる、メディアや社会との良好な関係
私の講演後、さらに内閣に対する抗議が大きく広がる一方で、政府・自民党は「日本学術会議」を行革の対象として、あるいは軍事研究に協力させる方向めざし検討を開始。年内に結論を出す由。与党はこれを奇貨として学術会議への干渉を強める構えである。しかしこの与党の動きに対して元学術会議会長が「問題のすり替えだ。先ず6名の会員任命拒否の理由を菅首相は説明せよ」との厳しい声が上がった。予断が許されない情勢である(吉川春子)。
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