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2020年7月

2020年7月19日 (日)

満蒙開拓団における性暴力

 

「告白 岐阜黒川 満蒙開拓団73年の記録」川 恵実 NHKETV特集取材班  かもがわ出版2020.3.1

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 この本は、201785日に放映された「告白~満蒙開拓団の女たち~」の取材の過程で起きた出来事や番組では伝えきれなかったこと、新しい証言、その後の人々の姿を書き残した」ものである(プロローグ)。

満蒙開拓団の引き上げに際する悲劇的な話は山ほど聞いたが、性暴力の具体的な被害については殆ど聞かない。そんなはずはない、と私は思っていた。NHKETV特集を見て、こんな形での犠牲者がいたことを知った。安江善子さん、佐藤ハルエさんは戦後70年を堂々と生きてきて、自ら体験を淡々と語っている。この勇気に感動した。自分の命を守るために少女たちをソ連兵に差し出した開拓団の大人(男性)たちは性暴力の共犯者としての認識を持っていたのか。

岐阜県黒川開拓団は129世帯650人が参加し、満州の陶頼昭に「分村」を作った。「父も開拓団の人も生涯永住できると思ったから家も山も全部売っちゃった。4年で無一文になって戻ってくるなんて夢にも思ってなかった」(安江善子さんの回想)

終戦の6日前、89日にソ連軍が日ソ中立条約を破り突如、国境を越えて侵攻。日本の関東軍の主力はいち早く撤退しハルエさんや善子さんら民間人は取り残されていた。

思えば他国の その土地に 侵略したる 日本人 王道国土 の夢を見て 過ごした日々が 恥かしい(善子さんの詩)

敗戦とともに開拓団には、もともと現地で暮らしていた中国の人々(日本は「匪賊」と呼んだ)が襲撃し、多くの日本人が着の身着のままで逃げ惑う。他の開拓団の集団自決も伝えられる。黒川開拓団本部も何百人、何千人もの匪賊に取り囲まれ…レンガや土の塊を投げ入れられた。こうした情勢の下で本部に集結した黒川開拓団も「集団自決をすべき」との声が強くなった。

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「接待」という名の性暴力

ソ連兵の「接待」のいきさつについて、記録を残した人がいた。「黒山の如くなって来る暴民には今の日本人では何ともならない。やはりソ連を頼むよりほかに道はないと思った。…駅の司令部のソ連兵は自動小銃で掃射しながらすぐ来た。ソ連兵は2人だった。乗馬だった。暴民はすぐ逃げた。…今後も世話になるだろう。いうなれば命の恩人である。何かこの司令部の兵たちのお礼の意味を与えなければならない。…あのうら若い女達の青春を犠牲とは何ということだろう。…私たちの心は暗かった。今このほかに道はない」

「そして団では事務室の一室に接待室を作った。司令部のソ連兵を接待した。…ソ連兵はウオツカを飲んでさわいでいた。…それにかしづいて接待する乙女たちの鳴く声ももれて来た。我々団員は、心の中で。泣いた(中略)これ以上は書かない。娘たちの名誉のために。どうしても敗戦国としては仕方のないことだった」

本書は、「どうやら日本の方から接待を提案した事がうかがえる」と指摘する。ソ連側から強く求められてやむに已まれず「接待」を行ったのではない、との指摘である。その背景には「敗戦に女はつきものだ」「あの時連合軍におかされてベルリン処女なしといった」とも書かれているのだ。

「接待」を強制された女性たち

黒川開拓団は15人の未婚の女性たちをソ連兵に差し出し「性の接待」を行った。2人がインタビューに応じ、1人は講演している

<佐藤ハルエさん>終戦当時20歳 1943年旧満州に入植、92歳で健在

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当時国は満州国に人を移住させた村には農村経済更生特別助成金を支払うことで移住を促進した。黒川村は村の経済悪化を打開すべく助成金目当てに分村計画を立てた。

昭和恐慌で一家7人の生活を支える収入を得るのがむつかしくなった。父・長太郎さんが隣の黒川村の一部の人々が満州に移住する「分村計画」を聞きつけ、母親は反対したが移住したが最終的に父が移住を決めた。一家は故郷に戻ることはない覚悟であった。ハルエさんは新天地満州を目指すことに当初ワクワクしていたという。「満州での生活はとても楽しかったですよ」。

敗戦、状況は一変する。開拓団の広場に15人の少女が集められ副団長から話があった。『奥さんには頼めんでなあ。あんたら独身だけ、どうか頼む』といわれて」「泣いている人もいましたけれど、私は特に…。(岐阜の)郡上村の女塾に追って、川原塾長が『…戦争が起きたら女は犠牲になることは決まったようなもんだから、あんたら、そのつもりでおれよ』って、先生はもう見通しでそう言う教えをくださった」

<安江善子さん>20161月死去

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 善子さんは2013119日長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」の開館を記念して催された「語り部の会」で50人ほどの人々に初めて公の場で自らの体験を語った。その後2015年に「満蒙開拓平和記念館」の人々が独自に安江善子さんを訪ねインタビューをして映像も残っている。

 6人きょうだいの長女で貧しい家計を支えるべく東京へ女中奉公に出ていた善子さんは幼い弟・妹の世話係として呼び戻された。父の誠一さんは大工をしていたが収入はなく一家6人で満州にわたった。

   乙女の命と 引き換えに 団の自決を 止める為 若き娘の 人柱 捧げて守る 開拓団

<「乙女の碑」追記>ベニヤ板で囲まれた、元本部の一部屋は悲しい部屋であった。泣いてもさけんでも誰も助けてくれない お母ちゃん、お母ちゃんと声が聞こえる

善子さんの実の妹・鈴村ひさ子さんの話「接待所の近くには医務室が作られていた。接待した女性の体を病気や妊娠を防ぐため、洗浄することをひさ子さんらに指導した、」

 

 この日の善子さんの話の内容はずいぶんセンセーショナルなのに、また当日はおそらくマスコミも取材に来ていたはずなのに、なぜ2017年NNHK番組を放映するまで話題にならなかったのか。NHKは善子さんの生前のインタビューはしていない(知らなかった)。「満蒙開拓平和記念館」のある長野県阿智村も満蒙開拓団で犠牲者を大量に出している。性暴力被害はことさら驚くべきことではなかったのか?ちなみに私はこの日、偶然にも長野県上小地区にいて、午後には式典に参加していた議員等と落ち合っている。こんな話が語られていたとは!

     

Photo_20200719145904    河を渡る“船賃”としての「接待」

 19463月ソ連軍撤退。司令官はソ連に帰るべく黒川開拓団にあいさつに来た。中国では内戦が勃発。開拓団は日本へ帰るべく南下し新京を目指した。陶頼昭を出て松花江を渡らなければ日本へ帰れない。松花江を渡るために中国人にも船賃として接待を要求された。

(開拓団幹部から)もうソ連兵に犠牲になっているからここを渡るためにあんたら頼むよと言われ…た。「犠牲にならなければ鉄橋も落とされちゃう。向こうに行けば汽車にも乗れる、みんなのために頑張りますって」(ハルエさん)。

私(吉川)は2005年旧満州のチチハル、ハルピンに視察に行ったとき、松花江(しょうかこう)を通過した。ゆったりと流れ、冬はスケートリンクになって遊べるほどの大きな河である。満蒙開拓団の引き上げの証言には開拓団の行く手に松花江が立ちはだかった話は頻繁に出てくる。

 この時、女性の接待の間、数百人の開拓団は松花江の河岸で足止めを食ったということか。

 

         「戦争に女はつきもの」なのか?~吉川コメント

黒川開拓団の450人が日本に帰国することができた。接待に行かされた15人の女性のうち4名は帰国できずに亡くなった。11名が帰国して、2名の女性が「接待」について公然と語った。1名の女性は仮名でTVにも顔は見せていない。3人の女性たちの戦後も壮絶なものであった。

この本を読んで私は3つのことが心に引っかかった。

   その1 開拓団の女性の前に「慰安婦」が接待を引き受けた事実

20年以上にわたって遺族会会長を務めてきた藤井恒氏が語ったことによると「一番最初ソ連の兵隊が入ってきたとき女を要求した。当時は関東軍の兵隊が来ていてその兵隊は慰安婦を連れて歩いていて「私たちが出ましょう」ということで慰安婦がソ連兵の相手になった。その後武装解除して兵隊も黒川開拓団から引き揚げて、慰安婦も引き上げていくことになって満人や現地の住民が押し寄せてきた」。慰安婦の数は7人ほどいた(安江善子さんの妹ひさ子さんの証言)。

 陶頼昭に駐留したソ連の輸送司令官が安江団長を招待した。それに団の娘たちを同動して来いということだった。ソ連と少しも交際を持っていない時期だ。進んで同道する娘はいない。815日の終戦時に陶頼昭に停車した乗客に軍の慰安婦が78人いた。この人たちが団の娘たちをよく取り計らうから一緒に行ってくれることになった。この招待は何事もなく終わった」

 満州には日本将兵の「慰安」のために多数の「慰安所」があり「慰安婦」たちがいた。敗戦で彼女たちは今度はソ連兵の「慰安婦」にさせられたのか。本土では日本人「慰安婦」が米兵の「慰安婦」にさせられたように。武装解除の後、「慰安婦」は立ち去り、開拓団の若い女性が差し出された。どこまで行っても女性が犠牲にされる構図である。

 

  その2、命の恩人たちに対しどう報いたか

山本みち子さん(仮名当時18歳)は黒川開拓団に対して複雑な思いを持つ。「いくつかの命は救ったのだから『あの衆には苦労かけたよな』くらいの話はあってもいいけどそれを言わなかった…『そんな汚いものをうちの息子の嫁にしたくないとか、向こうから来た衆は』そういうことを言う人はいっぱいいる。だけどもほんとにかなしいおもいをしたものにぶつける言葉じゃないでしょ」。身を犠牲にして集団自決迄決意した団の命を救った一人としてのみち子さんの怒りと悲しみが私にも伝わってくる。

「お布団がずらーと敷いてあったよ。そして連れてきた女をね、ロシア人はバンって、押し倒す。・・・

私なんか鉄砲でブーンとぶつかれて。横へ飛んで行ったよね。布団の上へ。手を引いて寝ろ、じゃないよ。汚いものをさわるみたいに、鉄砲の先で私たちを動かしたからね。…これで私抵抗したら、爆発したら私、死んでしまうよ。もうただお母さん、お母さんって泣くだけ」

 みち子さんは八路軍の従軍看護婦として留用され帰国できたのはみんなより6年遅れた。

また、先に紹介した佐藤ハルエさんは、犠牲になりながらも最後まで開拓団とともに日本へ帰国した。しかし故郷では満州から帰ってきた女性に対する悪いうわさが流れていた。…うちの弟が…誰も嫁なんかもらってくれへんわ、なんて言ったがね」。引き揚げてから3年後ハルエさんは故郷を離れ、人里から離れた山奥で山林を開拓することにした。蛭(ひる)しかいないといわれる蛭ケ野で満蒙開拓少年義勇軍に行っていた佐藤健一さんと結婚。「主人も引揚者ですから私が犠牲になって、病気になったことも知っとって、納得で迎えてくれたんですよ」

彼女たちは開拓団員多数の命を救ったある意味では英雄なのではないか。感謝されこそすれ、貶めるような態度をされる覚えはないのだ。しかし、故郷にいられない、結婚できない、さらに経済苦が襲いかかるさんざんな戦後である。

 

  その3 帰国後PTSDに苦しむ女性たち

接待に出た女性たちは数カ月後に淋病や梅毒に侵された。そのうち4人が現地で命を落としている。戦後40年経って、黒川開拓団遺族会の役員の女性の下に1本の電話がかかる。満州で接待に行き帰国後病により岐阜の病院に入院している女性の同級生の男性から「同じ団員の人に補償してほしい、と遺族会の会長に伝えてほしい」と。そして彼女は病院で亡くなる。

病院で亡くなったその女性の姪御さんをNHKのディレクターは訪ねた。

 「伯母は自分の母(妹)を含め女ばかりきょうだいが4人いたが妹たちを守るためにそういうことを引き受けた。伯母に2人の娘もいるがたぶん一言もしゃべっていない。元気なころ必ずキレる状態になる時があった。テレビなんかで韓国の従軍慰安婦の問題があった時に限って母(妹)に電話をかけてきてわーって何かしゃべる」

ディレクタ―が「パニックになるっていう、怒るって言うのは、何に対してどんな風に起こるのか?」と重ねて聞くと

 「自分としてはそれだけつらいことをされて、でもやっぱり日本は戦争に負けちゃったし、で日本が向こうの方へ侵略していったもんで、そういう立場上、絶対に言うことができないったことは自分で強く思っていたと思うんですね」、「訴えたい。でも自分…日本女性のつつしみとして絶対そういうことはできないので、私はこんなにがまんしているのに、なんで?っていう気持ちもあったかもしれないです」

日本軍「慰安婦」たちが何十年にもわたってPTSDの後遺症に苦しむことは知られているが、同じ症状が接待の女性にも表れている、と私は見る。性暴力の後遺症は接待でも同じである。

 

日本人「慰安婦」が名乗り出られない、現在も性暴力被害者に対する非難、差別。共通の根は女性にだけ貞操を求める戦前の家父長制の思想ではないか。この思想は未だに日本社会から払しょくされていない。形を変えて今日も女性を苦しめている。

黒川開拓団の女性たちが勇気をもって語ってくれたことで、満蒙開拓団にも女性への性暴力があったことが明らかになった。これは氷山の一角かもしれない。戦争と女性の性というテーマの研究材料が提供された。NHK取材班にも拍手を送りたい。(吉川春子記)

2020年7月 3日 (金)

緊急集会 朝鮮半島と日本の未来を考える

 

 コロナで久しく集会もない東京都内でしたが、久しぶりに刺激的な講演会がありました。以下に、和田春樹東大名誉教授の講演要旨をお知らせします。

 

    集会の全体の構成

 

朝鮮戦半島と日本列島は、過去、現在、未来によっても結ばれておりこの結びつきを真剣に考えない限り日本の平和も安全もない。横田滋氏が亡くなられた。北朝鮮が南北共同連絡事務所を爆破し我々を驚かせたが北朝鮮は制裁とコロナウイルスの感染脅威で窮地に立っている。

時あたかも朝鮮戦争開戦70周年の記念日(625日)にあたり戦争を本当に終わらせるためにふさわしい時期である。

 

2020年629日(月)午後2時半~5

場所:衆議院第1議員会館地下大会議室

主催:朝鮮半島と日本の未来を考える会(連絡先 練馬区大泉学園町 和田方)

 弁士は

  • 北朝鮮はどうなっているのか 

発題 平井久志(ジャーナリスト)

  • 在日コリアンはこの国でどのように扱われているか

発題 田中 宏 一橋大学名誉教授

  • 私の知る横田滋さん、ウンギョンさん

 発題 小坂浩彰(NGOレインボーブリッジ事務局長)

 

 和田春樹氏の提起

  • 今どうすることが必要なのか、何ができるのか

 発題:和田春樹(東京大学名誉教授)

(以下は和田春樹先生のレジュメの引用である)

  • 朝鮮半島・日本列島では安全保障・平和の問題が第1の問題である

2017年の米朝戦争の危機は回避されたが、米朝の平和プロセスが進まないことが現在の問題である。

「米朝が戦うときには日本は米国を支援する」と安倍総理はいうが、「米朝戦争になれば日本の米軍基地を攻撃する」と北朝鮮は言う。

こうした情勢の下、いま必要なのは日本が北との関係を改善すること、「日本に向かって撃つな」と北を説得すること、撃ちそうになったら米軍が先制攻撃し、日本は米朝戦争に巻き込まれて日本は終わりになる。

 

  • 新型コロナ・ウイルス蔓延で隣国北朝鮮は危機にある

制裁が緩められないうえにコロナ対策で自己封鎖して、苦しさは極限化しているはず。

そして、思い出すのは3.11(東日本大震災=吉川注)の時の2011316日の労働新聞の報道である。

曰く「日本政府は10万名以上救助隊を派遣し災難救助に総力を挙げている。国際社会も日本で発生した自然災害について深甚なる憂慮と同情を表しており、その救助事業に協力してゆこうとしている。国連事務総長は緊急記者会見を開き可能なすべての支援を提供するつもりだと述べた。現在、中露など40余か国の緊急救助団が派遣されるか、派遣待機状態にあり、様々な人道主義的救助物資を送っている。すぐる14日わが国の赤十字会中央委員会委員長は日本赤十字社社長に慰問電文を送り、地震及び津波被害を受けた数多くの被害者に深い同情と慰問を表明した。今差し迫っていることは地震、津波に被害に直面した人々を救助し、災害防止対策を立てることである」と。 

北の義援金10万ドル(日本円810万円)が25日伝達された。

しかし日本の外務省のリストに入れられなかった。(外交に“礼”があるか知らないが、礼を欠く対応ではないか)

 

4月5日、日本は3.11の混乱のさなかでも、日本政府(菅直人内閣=吉川注)は、北朝鮮制裁継続を発表した。

朝鮮中央通信は48日の評論で、「日本政府は現在のような混乱時に北朝鮮制裁などを演じて、時を過ごすのではなく、被災地の人民の生活を安定させ、放射能被害を防ぐ体策を講じるべきだ」と評論した。和田教授は「隣国が安全でなければ自国も安全ではない。コロナの世界で学んだことではないのか、とコメントした。

 

<吉川コメント>

北朝鮮の隣国日本の311の津波地震災害に寄せた同情と見舞いの言葉、そして寄せられた義援金をリストに載せないという「国際的礼儀」(という言葉があるかは知らないが…)に欠ける態度。この点の朝鮮中央通信の見解に私は同感する

 

  • 日本と北朝鮮は清算すべき歴史的過去を持っている

75年前に植民地支配は終わったが、日本と北とは清算はなされていない。平壌宣言に明記されている。

朝鮮戦争は70年前に起こり67年前に停戦になった。当時日本は米国に占領されており独立国ではなかった。 米国は北から攻められた韓国を助けるために日本占領軍を韓国に送り、横田と嘉手納から飛び立ったB29 は北人民軍と北朝鮮全土を攻撃した。日本経由で出動した米精鋭部隊が北人民軍を破ると今度は韓国軍が米軍とともに北へ攻め込み平壌を占領した。

元山上陸のため海上保安庁の掃海艇が北の機雷を撤去した。日本は自分の意志で韓国を助け北朝鮮を攻撃したのではなく、GHQの命令でそうしたのだが、事実上この戦争の準参戦国となり、米軍の最重要基地、司令部の所在地だった。だから戦後長く50年間日朝関係は敵対関係にあった。その中で、拉致事件、工作船侵入がなされた。最後は2001年12月の奄美大島沖の工作船沈没、15人死亡である。

2002年平壌宣言でこの関係の停止は宣言された。以後、拉致も工作船侵入も起こっていない。

 

「日朝平壌宣言」抄 2002(平成14)年9月17日

⒉日本側は過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。(以下略)

⒊…また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は日朝が不正常な関係である中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。

 

4 拉致問題は日朝交渉を止め、国交正常化を阻むために利用されてきた

“拉致”は王様の新しい着物!

拉致問題は北朝鮮の犯罪的行為で解決されなければならない。

 

2006年に国策として安倍内閣が打ち出した3原則が障害、行き詰りの原因である

  • 拉致問題はわが国の最重要の課題である。…最重要でないことを最重要ということですべてを固定化する。金縛りにする(王様の新しい着物)
  • 拉致問題の解決なくして国交正常化なし…小泉方式(唯一の前進例)の否定
  • 拉致被害者は全員生存している、即時全員帰還させよ、それが解決

「一三人中五人生存、八人死亡」、はじめ通告があった時の家族会の悲しみ横田滋氏の涙を見た。家族会は「証拠隠滅のために殺された可能性が大だ」という意見に傾いた。死んだという証拠はない、生きている可能性が高いと言い出したのは「救う会全国協議会」だった。家族会がこれにすがったのは自然。(生きているから返せ、といえば永遠に運動できる)

しかし、これが安倍内閣の方針となる。北朝鮮側が死亡していると言っているのに、日本政府が生きている、と主張し保証し(何の証拠もなく)これで国論を統一して異論を許さないのである。この3原則は交渉決裂、最後通帳の原則。交渉する気がないということである。

 

 交渉するためには、安倍3原則を放棄しなければならない

まず、ストックホルム合意でなされた北の再調査委員会の報告を受けとるべきである。検討し、意見を表明し交渉する。

  死亡を通告された人について →死亡の状況について説得的説明を要求する

  入境していないと通告された人→船上で殺害したのではないかと問いただす

  生きている人がいれば   →返してもらいたいと要求する

・・・

 

5 拉致問題の交渉を行うためには、無条件日朝国交正常化を行うことが必要

  20187月 田中均氏が平壌に連絡事務所を置くことを提案

  20189月 石破茂氏が総裁選で公約として東京、平壌に連絡事務所を開くことを掲げた

田中、石破提案も悪くないが・・・

  和田春樹氏~北朝鮮に後戻りしない実利を与える提案をすべきだ。オバマの無条件キューバ国交樹立の例にならい、無条件国交樹立、大使館開設、以後4つのテーブル(核ミサイル、拉致、経済協力、制裁解除)で交渉開始を提案する。

 

和田春樹氏らの講演を聞いて考えたこと~吉川

  拉致問題解決の最大の障害は安倍首相

拉致問題について、安倍内閣は解決しない(できない)3原則を掲げて、外交交渉ではなく政治的に利用してきた。また米朝会談に際しては、トランプ大統領に拉致問題の仲介を頼む等、政治的パフォーマンスをもてあそんでいる。

横田滋さんが亡くなった。私はかつて国会の「拉致問題対策委員会」(この名前は不正確かも…)メンバーとして調査で新潟を訪れ横田めぐみさんの通っていた学校から拉致された現場の海岸迄を歩いた。日本海に面した殺風景な海岸から娘を拉致された母親がわが娘の名を呼び、探し回った場所に立ち胸がつぶれる思いがした。めぐみさんの死亡が伝えられお孫さんの映像がTVで公開された時も、いろんな思いが胸にあふれた。

父親の滋さんが交渉を求め孫娘のヘギョンさん会いにゆくために訪朝することを求めたが抑えられた由。横田夫妻の心中を察するに余りある。拉致問題の政治的利用はやめて、拉致問題解決のためにも日朝国交回復の方向へ舵を切る時である。

2002年、小泉内閣で前進が見えかけた拉致問題を解決不可能の方向にかじを切ったのが安倍首相であったことがこの講演で明らかにされた。

拉致問題以外も、モリ・カケ、桜を見る会、検察庁法改悪、オリンピックのためにコロナ対策後回し…何一ついいことをしなかった自民党・安倍内閣の一刻も早い退陣が日本のためである。

 

 韓国人「慰安婦」の問題を日朝の歴史の中で考える必要

 

日本は北のみならず韓国との関係も現在大きな困難を抱えており、日韓関係はよくない状態にある。

思えば1990年代には「慰安婦」問題に対して同情と反省の気持ちを多くの日本人が持ち、解決しなければとの機運も盛り上がり、幅広い文化知識人も結集された。それに押されて政権党も一定の努力をした。(韓国の人々が受け入れたかは別としても…)

あれから30年間『慰安婦』問題についてはNGO、とりわけ女性たちが奮闘して今日に至っているが解決とは言えない状態にある。世論の多くは「『慰安婦』問題は、解決済み」と捉えている。

 

私たち「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」は、「慰安婦」問題解決の運動を2010年から10年続けてきた。「慰安婦」問題を通じて日韓(日朝)が友好的関係を築き、平和を共有する関係になることを目指したがその道は半ばである。「慰安婦」たちが高齢化し姿を消した後、運動はどんな方法で行われるべきか具体的方策を模索中でもある。

 

和田先生が指摘されるように、万が一、米朝戦わば日本にある米軍基地から米戦闘機は飛び立ち朝鮮領土・人民を攻撃するであろう。そしてその逆(報復)もある。その時、日本はひとたまりもない…ことを考えれば、朝鮮半島の平和こそ日本の平和の絶対条件である。

「米中戦うときは米軍を支援する」(安倍首相)などとの発言はどこの国の首相の言葉なのか、と首をかしげたくなる。日米安保という難解な問題が横たわるが、朝鮮半島との友好関係を築くことが最優先の政治課題であることは間違いない。

「慰安婦」問題は女性の人権、歴史認識、戦争反省の3側面がある。加えて日朝、日韓の平和構築の課題であり、近現代の歴史に位置付けてみると、日本の平和のためにも最重要課題であることを痛感した講演であった。(吉川春子)

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