満蒙開拓団における性暴力
「告白 岐阜黒川 満蒙開拓団73年の記録」川 恵実 NHKETV特集取材班 かもがわ出版2020.3.1
この本は、2017年8月5日に放映された「告白~満蒙開拓団の女たち~」の取材の過程で起きた出来事や番組では伝えきれなかったこと、新しい証言、その後の人々の姿を書き残した」ものである(プロローグ)。
満蒙開拓団の引き上げに際する悲劇的な話は山ほど聞いたが、性暴力の具体的な被害については殆ど聞かない。そんなはずはない、と私は思っていた。NHKETV特集を見て、こんな形での犠牲者がいたことを知った。安江善子さん、佐藤ハルエさんは戦後70年を堂々と生きてきて、自ら体験を淡々と語っている。この勇気に感動した。自分の命を守るために少女たちをソ連兵に差し出した開拓団の大人(男性)たちは性暴力の共犯者としての認識を持っていたのか。
岐阜県黒川開拓団は129世帯650人が参加し、満州の陶頼昭に「分村」を作った。「父も開拓団の人も生涯永住できると思ったから家も山も全部売っちゃった。4年で無一文になって戻ってくるなんて夢にも思ってなかった」(安江善子さんの回想)
終戦の6日前、8月9日にソ連軍が日ソ中立条約を破り突如、国境を越えて侵攻。日本の関東軍の主力はいち早く撤退しハルエさんや善子さんら民間人は取り残されていた。
思えば他国の その土地に 侵略したる 日本人 王道国土 の夢を見て 過ごした日々が 恥かしい(善子さんの詩)
敗戦とともに開拓団には、もともと現地で暮らしていた中国の人々(日本は「匪賊」と呼んだ)が襲撃し、多くの日本人が着の身着のままで逃げ惑う。他の開拓団の集団自決も伝えられる。黒川開拓団本部も何百人、何千人もの匪賊に取り囲まれ…レンガや土の塊を投げ入れられた。こうした情勢の下で本部に集結した黒川開拓団も「集団自決をすべき」との声が強くなった。
「接待」という名の性暴力
ソ連兵の「接待」のいきさつについて、記録を残した人がいた。「黒山の如くなって来る暴民には今の日本人では何ともならない。やはりソ連を頼むよりほかに道はないと思った。…駅の司令部のソ連兵は自動小銃で掃射しながらすぐ来た。ソ連兵は2人だった。乗馬だった。暴民はすぐ逃げた。…今後も世話になるだろう。いうなれば命の恩人である。何かこの司令部の兵たちのお礼の意味を与えなければならない。…あのうら若い女達の青春を犠牲とは何ということだろう。…私たちの心は暗かった。今このほかに道はない」
「そして団では事務室の一室に接待室を作った。司令部のソ連兵を接待した。…ソ連兵はウオツカを飲んでさわいでいた。…それにかしづいて接待する乙女たちの鳴く声ももれて来た。我々団員は、心の中で。泣いた(中略)これ以上は書かない。娘たちの名誉のために。どうしても敗戦国としては仕方のないことだった」
本書は、「どうやら日本の方から接待を提案した事がうかがえる」と指摘する。ソ連側から強く求められてやむに已まれず「接待」を行ったのではない、との指摘である。その背景には「敗戦に女はつきものだ」「あの時連合軍におかされてベルリン処女なしといった」とも書かれているのだ。
「接待」を強制された女性たち
黒川開拓団は15人の未婚の女性たちをソ連兵に差し出し「性の接待」を行った。2人がインタビューに応じ、1人は講演している
<佐藤ハルエさん>終戦当時20歳 1943年旧満州に入植、92歳で健在
当時国は満州国に人を移住させた村には農村経済更生特別助成金を支払うことで移住を促進した。黒川村は村の経済悪化を打開すべく助成金目当てに分村計画を立てた。
昭和恐慌で一家7人の生活を支える収入を得るのがむつかしくなった。父・長太郎さんが隣の黒川村の一部の人々が満州に移住する「分村計画」を聞きつけ、母親は反対したが移住したが最終的に父が移住を決めた。一家は故郷に戻ることはない覚悟であった。ハルエさんは新天地満州を目指すことに当初ワクワクしていたという。「満州での生活はとても楽しかったですよ」。
敗戦、状況は一変する。開拓団の広場に15人の少女が集められ副団長から話があった。『奥さんには頼めんでなあ。あんたら独身だけ、どうか頼む』といわれて」「泣いている人もいましたけれど、私は特に…。(岐阜の)郡上村の女塾に追って、川原塾長が『…戦争が起きたら女は犠牲になることは決まったようなもんだから、あんたら、そのつもりでおれよ』って、先生はもう見通しでそう言う教えをくださった」
<安江善子さん>2016年1月死去
善子さんは2013年11月9日長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」の開館を記念して催された「語り部の会」で50人ほどの人々に初めて公の場で自らの体験を語った。その後2015年に「満蒙開拓平和記念館」の人々が独自に安江善子さんを訪ねインタビューをして映像も残っている。
6人きょうだいの長女で貧しい家計を支えるべく東京へ女中奉公に出ていた善子さんは幼い弟・妹の世話係として呼び戻された。父の誠一さんは大工をしていたが収入はなく一家6人で満州にわたった。
乙女の命と 引き換えに 団の自決を 止める為 若き娘の 人柱 捧げて守る 開拓団
<「乙女の碑」追記>ベニヤ板で囲まれた、元本部の一部屋は悲しい部屋であった。泣いてもさけんでも誰も助けてくれない お母ちゃん、お母ちゃんと声が聞こえる
善子さんの実の妹・鈴村ひさ子さんの話「接待所の近くには医務室が作られていた。接待した女性の体を病気や妊娠を防ぐため、洗浄することをひさ子さんらに指導した、」
この日の善子さんの話の内容はずいぶんセンセーショナルなのに、また当日はおそらくマスコミも取材に来ていたはずなのに、なぜ2017年NNHK番組を放映するまで話題にならなかったのか。NHKは善子さんの生前のインタビューはしていない(知らなかった)。「満蒙開拓平和記念館」のある長野県阿智村も満蒙開拓団で犠牲者を大量に出している。性暴力被害はことさら驚くべきことではなかったのか?ちなみに私はこの日、偶然にも長野県上小地区にいて、午後には式典に参加していた議員等と落ち合っている。こんな話が語られていたとは!
1946年3月ソ連軍撤退。司令官はソ連に帰るべく黒川開拓団にあいさつに来た。中国では内戦が勃発。開拓団は日本へ帰るべく南下し新京を目指した。陶頼昭を出て松花江を渡らなければ日本へ帰れない。松花江を渡るために中国人にも船賃として接待を要求された。
(開拓団幹部から)もうソ連兵に犠牲になっているからここを渡るためにあんたら頼むよと言われ…た。「犠牲にならなければ鉄橋も落とされちゃう。向こうに行けば汽車にも乗れる、みんなのために頑張りますって」(ハルエさん)。
私(吉川)は2005年旧満州のチチハル、ハルピンに視察に行ったとき、松花江(しょうかこう)を通過した。ゆったりと流れ、冬はスケートリンクになって遊べるほどの大きな河である。満蒙開拓団の引き上げの証言には開拓団の行く手に松花江が立ちはだかった話は頻繁に出てくる。
この時、女性の接待の間、数百人の開拓団は松花江の河岸で足止めを食ったということか。
「戦争に女はつきもの」なのか?~吉川コメント
黒川開拓団の450人が日本に帰国することができた。接待に行かされた15人の女性のうち4名は帰国できずに亡くなった。11名が帰国して、2名の女性が「接待」について公然と語った。1名の女性は仮名でTVにも顔は見せていない。3人の女性たちの戦後も壮絶なものであった。
この本を読んで私は3つのことが心に引っかかった。
その1 開拓団の女性の前に「慰安婦」が接待を引き受けた事実。
20年以上にわたって遺族会会長を務めてきた藤井恒氏が語ったことによると「一番最初ソ連の兵隊が入ってきたとき女を要求した。当時は関東軍の兵隊が来ていてその兵隊は慰安婦を連れて歩いていて「私たちが出ましょう」ということで慰安婦がソ連兵の相手になった。その後武装解除して兵隊も黒川開拓団から引き揚げて、慰安婦も引き上げていくことになって満人や現地の住民が押し寄せてきた」。慰安婦の数は7人ほどいた(安江善子さんの妹ひさ子さんの証言)。
陶頼昭に駐留したソ連の輸送司令官が安江団長を招待した。それに団の娘たちを同動して来いということだった。ソ連と少しも交際を持っていない時期だ。進んで同道する娘はいない。8月15日の終戦時に陶頼昭に停車した乗客に軍の慰安婦が7,8人いた。この人たちが団の娘たちをよく取り計らうから一緒に行ってくれることになった。この招待は何事もなく終わった」
満州には日本将兵の「慰安」のために多数の「慰安所」があり「慰安婦」たちがいた。敗戦で彼女たちは今度はソ連兵の「慰安婦」にさせられたのか。本土では日本人「慰安婦」が米兵の「慰安婦」にさせられたように。武装解除の後、「慰安婦」は立ち去り、開拓団の若い女性が差し出された。どこまで行っても女性が犠牲にされる構図である。
その2、命の恩人たちに対しどう報いたか
山本みち子さん(仮名当時18歳)は黒川開拓団に対して複雑な思いを持つ。「いくつかの命は救ったのだから『あの衆には苦労かけたよな』くらいの話はあってもいいけどそれを言わなかった…『そんな汚いものをうちの息子の嫁にしたくないとか、向こうから来た衆は』そういうことを言う人はいっぱいいる。だけどもほんとにかなしいおもいをしたものにぶつける言葉じゃないでしょ」。身を犠牲にして集団自決迄決意した団の命を救った一人としてのみち子さんの怒りと悲しみが私にも伝わってくる。
「お布団がずらーと敷いてあったよ。そして連れてきた女をね、ロシア人はバンって、押し倒す。・・・
私なんか鉄砲でブーンとぶつかれて。横へ飛んで行ったよね。布団の上へ。手を引いて寝ろ、じゃないよ。汚いものをさわるみたいに、鉄砲の先で私たちを動かしたからね。…これで私抵抗したら、爆発したら私、死んでしまうよ。もうただお母さん、お母さんって泣くだけ」
みち子さんは八路軍の従軍看護婦として留用され帰国できたのはみんなより6年遅れた。
また、先に紹介した佐藤ハルエさんは、犠牲になりながらも最後まで開拓団とともに日本へ帰国した。しかし故郷では満州から帰ってきた女性に対する悪いうわさが流れていた。…うちの弟が…誰も嫁なんかもらってくれへんわ、なんて言ったがね」。引き揚げてから3年後ハルエさんは故郷を離れ、人里から離れた山奥で山林を開拓することにした。蛭(ひる)しかいないといわれる蛭ケ野で満蒙開拓少年義勇軍に行っていた佐藤健一さんと結婚。「主人も引揚者ですから私が犠牲になって、病気になったことも知っとって、納得で迎えてくれたんですよ」
彼女たちは開拓団員多数の命を救ったある意味では英雄なのではないか。感謝されこそすれ、貶めるような態度をされる覚えはないのだ。しかし、故郷にいられない、結婚できない、さらに経済苦が襲いかかるさんざんな戦後である。
その3 帰国後PTSDに苦しむ女性たち
接待に出た女性たちは数カ月後に淋病や梅毒に侵された。そのうち4人が現地で命を落としている。戦後40年経って、黒川開拓団遺族会の役員の女性の下に1本の電話がかかる。満州で接待に行き帰国後病により岐阜の病院に入院している女性の同級生の男性から「同じ団員の人に補償してほしい、と遺族会の会長に伝えてほしい」と。そして彼女は病院で亡くなる。
病院で亡くなったその女性の姪御さんをNHKのディレクターは訪ねた。
「伯母は自分の母(妹)を含め女ばかりきょうだいが4人いたが妹たちを守るためにそういうことを引き受けた。伯母に2人の娘もいるがたぶん一言もしゃべっていない。元気なころ必ずキレる状態になる時があった。テレビなんかで韓国の従軍慰安婦の問題があった時に限って母(妹)に電話をかけてきてわーって何かしゃべる」
ディレクタ―が「パニックになるっていう、怒るって言うのは、何に対してどんな風に起こるのか?」と重ねて聞くと
「自分としてはそれだけつらいことをされて、でもやっぱり日本は戦争に負けちゃったし、で日本が向こうの方へ侵略していったもんで、そういう立場上、絶対に言うことができないったことは自分で強く思っていたと思うんですね」、「訴えたい。でも自分…日本女性のつつしみとして絶対そういうことはできないので、私はこんなにがまんしているのに、なんで?っていう気持ちもあったかもしれないです」
日本軍「慰安婦」たちが何十年にもわたってPTSDの後遺症に苦しむことは知られているが、同じ症状が接待の女性にも表れている、と私は見る。性暴力の後遺症は接待でも同じである。
日本人「慰安婦」が名乗り出られない、現在も性暴力被害者に対する非難、差別。共通の根は女性にだけ貞操を求める戦前の家父長制の思想ではないか。この思想は未だに日本社会から払しょくされていない。形を変えて今日も女性を苦しめている。
黒川開拓団の女性たちが勇気をもって語ってくれたことで、満蒙開拓団にも女性への性暴力があったことが明らかになった。これは氷山の一角かもしれない。戦争と女性の性というテーマの研究材料が提供された。NHK取材班にも拍手を送りたい。(吉川春子記)
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