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2019年12月

2019年12月30日 (月)

アニメ映画『この世界の片隅に』の描いた,広島県呉市(くれし)の、いま

「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」のフィールドワーク その3 軍港・呉市 

 私達のフィールドワークの3日目は広島県呉市である。呉市を描いて大ヒットした映画『この世界の片隅に』(片瀬須直監督)は主人公・北条すず(旧姓・浦野)を通じて戦争が打ちのめした庶民の暮らしを描く。この映画の舞台になった広島県呉(くれ)は原爆投下の広島市とは20Kの距離。アジア太平洋戦争当時の軍港、軍事産業の街・呉は戦災でさんざんな目に遭った。それから74年後、これに懲りて平和都市になっているかと思いきや、今も自衛隊の護衛艦、潜水艦がどっかりと居座り、「活気」に満ち、また戦争ミュージアムに多くの旅行者が訪れて新たな“活況”を呈していた。   

アニメ映画『この世界の片隅に』ストーリーPhoto_20191230112901 

1933(昭和8)年広島市に住む絵を描くことが好きな少女すずは18才で20キロ離れた軍港・呉市の海軍の文官・北条周作に嫁ぐ。結婚式の翌朝から、足の不自由な姑に仕え家事全般を任せられる。夫を亡くした周作の姉がすずにつらく当たる。戦前のお嫁さんはこんな立場だったのだろうな、とうなずく。呉市郊外の自然は豊かさ、中流家庭の日々の営みが懐かしく描かれている。しかし戦争がはげしくなり日常生活が日々圧迫され、出征した男性の死が次々に伝えられる。

1945(昭和20)年6月入院中の舅を病院に見舞った帰り空襲で連れていた兄嫁の娘は爆死、すずは右手を失い、絵を描くことはおろか家事もできなくなる。軍港のある呉は連日激しい空襲に晒され、また障害者となったすずは家庭内で居場所を失う。この時期広島はまったく空襲がない。原爆投下を計画していた米は温存していたのだろう。婚家の辛さにすずは実家の広島に帰る決心をする。その時まさに広島に原爆が投下される。すずの実家の人々も大きな被害を受ける。この映画は市井の人が戦争でどんな被害を受けるか淡々と描き、見た人の心に反戦を深く刻み付ける。(写真・アニメ映画『この世界の片隅に」の主人公・すず)

 

  『戦艦大和」の建造技術を誇る展示の大和ミュージアムPhoto_20191230113107 

私は呉市がこんなに激しい空襲に晒され人も物も大きな被害を出したことは『世界の片隅に』で初めて知った。

呉には海軍鎮守府、海軍工廠があり江田島に海軍兵学校があり、戦艦大和が建造された海軍の拠点・呉であれば徹底的に米軍の空襲にあったのも当然であろう。

いま、原爆投下の広島が平和都市として世界に反核を訴える象徴的都市となっている一方で、壊滅的な戦争の被害を受けた呉市民は何を学び、社会(世界)に何を発信しているのだろうか?

  『戦艦大和』という映画が私の小学生の頃信州の田舎町の映画館にもかかり私は父にせがんで映画を見に行った。映画の大和沈没の悲劇的な最後が心に焼き付いている。

 

1120日午前は呉市立・海軍歴史科学館「大和ミュージアム」に行く。1Fには「戦艦大和」の10分の1の模型が威容を誇って展示されている。「大和」建設の日本の技術が如何に素晴らしかったかが強調されている。

技術の粋を尽くした戦艦がなぜ簡単に撃沈されたのか。「既に制空権を失い、大和を守るべき航空機が1機もないまま沖縄特攻という無謀な作戦で出撃し徳之島西方20マイルの洋上で轟沈させられた」と説明された。

特攻という言葉どおり敵艦に艦もろとも突っ込んで体当たり=玉砕である。国民の多額の血税を注ぎ込み建設した戦艦と多くの人命(3000人―奥田和夫氏)を犠牲にして、撃沈されるための出撃である。こんなバカげた作戦について責任を問われた軍人、政治家はいなかった。70年以上を経て展示するのだからその事への言及(批判)はあってしかるべきだろう。しかしこのミュージアムの展示には見当たらなかった。何のためのミュージアムか。回顧?今度は失敗しない決意?まさか!命を落とした一般兵士、その家族こそあわれである。(写真上・「大和ミュージアム」の建物、下・戦艦大和の模型)

Photo_20191230113104

 

     非人間的兵器の極み、「回転」

Photo_20191230113103

 

また同ミュージアムには呉で建造された人間魚雷「回転」の実物大模型も展示されている。狭いハッチに兵士が入って蓋をすると蓋は中からは絶対に開かないという。ハッチのふたを閉められると後は自分で敵艦の方向を目指して突っ込む他ない仕掛けであるとのこと。航空機による特攻はエンジン不調等で引き返すこともあったが、回転は乗り込んでハッチを閉めれば敵に体当たりするほかないという悲惨極まる兵器である。

「『大和ミュージアム』は靖国神社の遊就館ほど露骨ではないけれど、大東亜戦争史観に基づく展示がなされており遊就館に次ぐものである」と案内の呉市会議員の奥田和夫氏の説明があった。

たしかに、「こんなにも素晴らしい戦艦があった」という点に来館者の目が奪われるような展示であることも確かだ。かの戦争についての批判的視点を養える内容にはなっていない。

『戦艦大和』建造、軍事産業の拠点であったため徹底的に無残な空襲被害を被った呉市として、ここからどんな教訓を汲むべきか、あるいは汲んだのかという観点の資料の展示は皆無だ。税金を投入して建てる市立のミュージアムなら、なおさらこの点の配慮があってしかるべきではないか。(写真下・人間魚雷「回天」の実物大模型)

 

   海自の宣伝・鉄のクジラ館

 

潜水艦とクジラの「鳴き声」が似ている。かつてソ連の潜水艦を題材にした『レットオクトーバーを追え』という小説や映画があった。クジラと敵の潜水艦の音を聞き分けて判別する事が重要な仕事だった時代があった。

「鉄のクジラ館」には海上自衛隊の潜水艦の内部の展示がされている。説明員は自衛隊のOBが当たっているという。私は興味深く潜水艦内部を見た。

かつて海上自衛隊(海自)の潜水艦「なだしお」が、船舶入り乱れるラッシュの東京湾入り口で釣り船に衝突した。海難審判でも回避義務は海自側にあった。潜水艦と釣り船では、月とスッポン、釣舩の乗船者が海に投げ出されたが潜水艦乗組員はブイも投げず救助しなかったため多くの犠牲者が出た。

その時、内閣委員だった私は国会で自衛隊の責任を追及した。当時の瓦防衛大臣は責任を取って辞職した。最近麻生財務大臣が個人的興味からか潜水艦に乗船し非番の自衛隊員に案内させて批判されて事件が起きた。

当時自衛隊基地の視察はずいぶん行き護衛艦にも乗ったが、潜水艦に乗った事のない私は興味を惹かれ丁寧に見た。 

所々に立っている説明員に「なだしお」事件の事を質問したが「そんなことはありません」の防戦一点張りだった。ミュージアムには海自の潜水艦について客観的に説明できる人物を配置すべきだと思った。全部税金で運営されている以上、海上自衛隊の宣伝用のミュージアムであってはならないのだから。

 

   港の見える丘、日米安保のわかる丘

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 1120日午後は日本共産党呉市議会議員の奥田和夫さんから呉市を案内していただいた。初めに港が見える丘に登る。ここからは市内が一望できる。港にはガントリークレーンが林立し、戦艦大和建造工場の屋根、米軍秋月弾薬庫、海軍兵学校のあった江田島、自衛隊と共に大きくなった火薬製造、中国化薬、米軍と一体の貯油所等々が見える。(写真・港の見える丘から、呉港をバックに記念撮影)

呉基地の中心は海上自衛隊で艦艇保有数は全国の海上自衛隊中最大で護衛艦、潜水艦、掃海艇を保有している。私たち一行は護衛艦と共に潜水艦が浮上している姿をすぐ傍で確認できた。私は内閣委員を長く務めた関係で各地で自衛隊艦船を見てきたが、浮上している潜水艦を見たのはここ呉が初めてだった。潜水艦はめったに浮上しないものと思っていた。呉市民は日常的にこのように護衛艦、潜水艦を目の当たりにして生活しているのだ。

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そして、奥田市議の説明で、岩国市の米海兵隊基地、広島市の八本松川上弾薬庫、等々米軍基地とも一体化して存在している事も改めて目の当りにした。(写真上・浮上停泊する海上自衛隊の潜水艦)

「核と人類は共存できない」「核戦争阻止」のメッセージを世界に向けた発信し続けて平和のイメージが強い広島県で、「これに挑戦するようにヒロシマを取り囲む日米の軍事基地軍が存在しアジア太平洋地域はもとより世界に槍を向けているのです」(「呉基地ガイドブック」奥田和夫)

呉市の「大和ミュージアム」「鉄のクジラ館」は、広島市の原爆投下の悲惨さを訴える「原爆資料館」とは相対立するかのようだ。戦争当時の日本の造船技術がいかに優れていたか、今もそれを受け継いで発展させている、また「大和」の乗組員たちは如何に勇敢に死んでいったか」日常的に市民を教育しかねない「社会教育施設」ではある。加えて今回は行かなかったが江田島の旧海軍士官学校もかなり密度の濃いミュージアムとなっている。それはそれとして興味深い展示であっても、こうした情報に日常的にさらされて呉市民及び国民に対して、これらが何を引き起こしたか、将来の国民に何をくみ取り何を受け継いでほしいか、日本国憲法を理念とする展示であってほしい。

Photo_20191230113105(写真・潜水艦をバックに旅行参加者の記念撮影

 

      遊郭と『この世界の片隅で』 

               ~遊郭の街から女性の人権を守る街に

 

呉市の見学の最後に遊郭のあった街を観光バスで通った。『この世界の片隅で』には主人公すずと遊女の出会いがワンシーンだが描かれている。現在2019年年末から上映されている『この世界の片隅で』の続編(新作)はすずと遊郭の女性リンとの交流が挿入されているという(朝日・夕刊)

明治時代以降、軍隊は遊郭と共にあった。あいまって発展した。従って大本営の昔から海軍鎮守府の呉はまた、多くの女性の悲惨な人生も数限りなくあった街である。現在は遊郭の跡形もないが、戦争というもの、軍隊というものは女性の敵であることは否めない。

激しい空襲を受け隣の広島市とはまた別の意味で、壊滅的な戦争被害を受けた呉市がここから何を学んだのか。

それが今回つかめなかった私は、74年後の呉市、平和都市広島と対照的…戦争放棄の憲法がないがしろにされているただならぬ危険を感じた。(文責・吉川春子)(写真下・呉市を襲う米軍航空隊―「この世界の片隅に」プログラムから)

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2019年12月19日 (木)

フィールドワーク2日目 大久野島へ~旧日本軍毒ガス遺棄の調査に~

 私(吉川春子)と大久野島の関わり Photo_20191219160501

(写真・船上から大久野島を望む(鉄塔が建つ島)

2019年10月、「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」のフィールドワークの事前学習会を開き中国人毒ガス被害者の裁判の代理人である南弁護士から「遺棄化学兵器に被害問題」について話を聞きまた、映画「苦い涙の大地から」を見てその実態について勉強した。

私がこの問題を初めて知ったのは2005年頃である。日本が中国に遺棄した毒ガスに触れて被害にあった中国の人々が裁判をおこし公判の度に来日して議院会議室等で訴えたので実態を知った。Sany0194

(写真・毒ガスを含む土が公共事業に使用された現場にて―2006年チチハルで、右端・吉川)

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(写真・少女が被害に。母親からき取り―チチハル市で―2006年吉川)

私は2006年8月にモンゴルでの公務の帰途、ウランバートルから北京経由で旧満州のチチハルに行った。市の郊外の広大な原野の上をタンチョウ鶴が乱舞する姿は壮観だった。それ以上に心に残ったのは、日本が敗戦時に遺棄した毒ガスをそれと知らず接触して健康被害にあった人々から直接聞いた話である。旧日本軍が遺棄した化学兵器(=毒ガス)で3年前にも44人が被害に遭い1人は死亡した。私は8人の被害者から直接話を聞き、遺棄された毒ガスが発見された現場の調査を行った。

戦争中に日本軍から三光作戦で膨大な被害を受けただけでなく、今日未だ被害者が出て、裁判で争わねばならぬとは。こんな割に合わない話があるだろうか。

日本政府はかつての侵略戦争の加害責任について終始消極的である。国民もまた、自分は戦争被害者であるとの意識は強いが加害者意識は薄いといわねばならない。今回の当ゼミナールの調査の旅はこうした事にメスを入れる目的で行った

 

 いざ、大久野島へ

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(写真・人懐こく兎は餌を求めて近づいてくる)

 

2019年11月19日(火)広島空港からバスで竹原市忠海へ、そこからフェリーで15分程度乗って大久野島に渡った。島に着くと私達を迎えてくれたのはかわいい兎たちである。大久野島は今は国民休暇村として外国人を含めて多くの観光客が押し寄せる。きれいなホテルがあり温泉もわく。兎たちはかつての毒ガスの製造の島という歴史を覆い隠すために観光大使の役割を担わされているかのようだ。

<周囲4キロの大久野島でなにが?>

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(写真・説明する山内氏、この島の案内人としてボランティアで何十年も活動している)

私達は「大久野島から平和と環境を考える会」の山内正之さんの案内で、いくつかの毒ガス製造をほうふつさせる建物・遺構と、毒ガス資料館を見学した。

1929年から大久野島で生産された毒ガスは⑴イペリット、⑵ルイサイト・⑶青酸ガス・⑷ジフェニ―ルシアン(くしゃみ性ガス)、⑸クロロアセトフェノン(催涙ガス)の5種類。島には数十棟の毒ガス清浄工場が立ち並んだ。

毒ガス製造は24時間体制で、工員は交代制、昼夜の勤務になっていた。防毒面と防毒服着用で毒ガス製造に当たったがその影響から免れることはできない。多くの人が死亡しまた工員、学徒全員が毒ガスの後遺症に一生苦しむことになった。資料館には着用の服と様子が分かる展示を見て心痛んだ。

 

このガスを人に向かって使用するとどんなことが起きるか。日本人以上に被害を受けたのは中国の人々である。日本は山西省を中心に中国人にこの毒ガスを大量に使用した。化学兵器禁止機関執行理事会での中国外務省劉穀仁氏の発言によると「日本は戦前中国で毒ガスを大量に使用、被害状況は1241例、死亡した中国人は20万人。敗戦時に日本軍は大量の毒ガスを地下に埋め河川や湖に投棄した。日本政府は1997年から条約を締結し毒ガスの処理を行っているが遅々として進んでいない)』」(「吉川春子国会レポート2007年」)

 

15年間毒ガス製造し工場は1945年まで存在したが、毒ガス製造は1944年7月、アジア太平洋戦争末期に中止している。理由はアメリカに毒ガス製造が知られると報復として日本に対して使用されることを恐れたためだという。

<発電所跡>

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(写真・発電所跡の建物跡、ここで風船爆弾も組み立てられた)

フェリーの船着き場から歩いても遠くない場所の土手にトンネルがある。それをくぐった奥には毒ガス製造時代の発電所の建物があった。海から建物をかくすために築かれた土手(壁)に木々がうっそうと茂っている。トンネルをくぐると向こうに大きな建物がある。中は天井は高く七.八〇年の間、全く手の入らない荒れ果てた不気味な姿をさらしている。

この発電所は毒ガス製造中止以降は風船爆弾の製造の場として使われ、大久野島に学徒として動員された岡田さんらはここで寒さをこらえて手にべたつくのりと闘って風船を作らされた、という。(岡田黎子さんの講演参照)

山内氏によると1990年環境庁(当時)には発電所跡の建物取り壊す計画があったが、大久野島毒ガス被害者から建物を残してほしいという声が上がり10万人を超える署名が集まった結果解体を免れたという。

毒ガス資料館には、「中国山西省で毒ガスを使用するように命令した旧日本軍の文書」、「青酸ガスを入れるための容器」通称「チビ」、工員たちが着用した防毒面、防毒服など貴重な現物、資料が陳列されている。

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(「毒ガス資料館」は竹原市の運営、毒ガス製造に関する貴重な資料が保管されている)

参考文献:『フィールドワークと教材化のための資料 おおくのしま平和学習ガイドブック』

「大久野島から平和と環境を考える会」編 山之内正之・監修

 

   参議院・行政監視委員会で麻生外相に質す

 

かつて日本軍が遺棄した毒ガスが今日も中国人民を健康被害、生活苦に追い込んでいる。

私は中国までいってみて、こんな悲惨な兵器が日本のどこで生産されたのか!と調査して、大久野島を知った。早速2006年10月10日広島県大久野島へ調査に行き、毒ガス資料館研究所・山内正之氏の説明をうけた。また、2008年『大久野島・動員学徒の語り』を出版した岡田黎子さんとも知り合い、その後出版した私の著書『アジアの花たちへ』(あゆみ出版2008年)に岡田さんとの対談を収録した。

私は中国の北京で政府からのレクチャーを受け、現地のチチハル市で被害者との面談、現地調査、帰国して広島県大久野島の調査を経て2006年10月3日、国会でこの問題を追及した。私の質問に対して麻生大臣は「持ち込んだ毒ガスの量も使用した量も極めて断片的な数字しかない。化学兵器禁止条約に基づき出来るだけ早く処理する」と抽象的な答弁だった。日本国内に遺棄した毒ガスについては詳細なマップを作り被害が出ないように注意を払っている政府であるが、対中国に対しては全く無責任な態度に終始している。

 

   戦後も、ひた隠しにされた大久野島の歴史

 

原爆投下の広島市から80Kしか離れていない大久野島。広島の原爆は超有名だが毒ガス製造の大久野島はなぜ知られていないのか?

1946年の極東軍事裁判(東京裁判)でアメリカの意向で日本の毒ガス問題は裁判にかけられず、日本政府も国民にも県民にも隠してきたからだ。

「大久野島は地図から消されその部分は真っ白。海岸を走る呉線は大久野島が見えないように窓に鎧戸を下ろして走った。島の事は家族にも言ってはならぬと注意を受けた。その秘密ぶりは発煙筒の製造時に大爆発が起き火災になった。生徒2人が重態になったが両親にも会わせず大病院にも運ばず島の診療所で治療した」というほどである(岡田黎子さんの講演)。

 大久野島については戦争中のみならず、戦後も隠し続けた。私の夫は広島県生まれで高校卒業まで広島で育つが今回の旅行まで大久野島については知らなかったという。学徒を動員して軍属として武器を作らせていた事実を、学校の授業で生徒に教えることもなかったのだ。

(ついでながら長野県の小学校で戦後、満蒙開拓団の歴史を教えなかった事と共通している。学童を満州に送り出すために教師たちは授業を使ったが戦後はこの悲劇を教育の題材にしなかった)

当時広島を代表する国会議員であり後の総理大臣にもなった池田勇人は毒ガス島のイメージを消すために大久野島を国民休暇村にしたのだという。島に上陸すると兎が人懐こく寄ってくる。今日兎の島として観光客にもしられ、人気の島である。

広島の原爆については広島県人がどんなに被害を被ったか如何に許しがたい兵器であるか大宣伝しているにもかかわらず、大久野島で毒ガスを製造し中国で大量に使用しておいて「持ち込んだ量も使用した量もはっきり知らない」と大臣はうそぶくほどである。

 また、戦争被害については敏感な日本人も加害者としての自覚はすくない。岡田藜子さんのように自分は加害者であると企画して謝罪行動を一人でも行う人物はめったにいない。(前回ブログ「岡田藜子さん講演・参照)

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(写真・2006年、チチハルのホテルで、毒ガスに知らずにふてれ後遺症に苦しみ提訴した事情を吉川に語る被害者)

 

 

2019年12月 3日 (火)

毒ガス製造の大久野島へ、フィールドワーク

大久野島(広島県)と軍都・呉市への旅 その1 ⒉日間2019年11月19日~20日

 

今年度のフィールドワークは「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の1泊2日の企画に、「埼玉アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会」(埼玉AALA)がオプショナルツアーでもう1泊してリニューアルなった広島市の原爆資料館、平和公園と広島城(最初の大本営を設置)を見学するコースが加わった。28名参加。天気も良く充実した旅であった。

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(写真・忠海から大久野島を臨む(鉄塔が建つ島)

 

第1日目 11月19日(火)

首都圏からの参加者18人は朝7時20分羽田空港に集合。ANA673便8時15分発広島へ向かう。広島空港からはバスで大久野島へのフェリーの船着き場のある竹原市忠海に向かう。途中三原駅で九州、山口、名古屋からの参加者10人と合流した。

船着き場の近くの公民館では学徒動員の体験者・岡田藜子さん(90才)から瀬戸内海に浮かぶ美しい島・大久野島のとんでもない過去について聞く

 

<岡田藜子さんの学徒動員の話しを聞く>

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(写真1時間30分熱弁をふるった岡田藜子さん)

経歴:

岡田さんは1929年広島に生まれ90才。1944年11月から1945年の敗戦まで県立忠海高等女学校から毒ガスの運搬、風船爆弾製造のため大久野島に学徒動員。中学3年生の時、被爆直後の広島に救護活動に入る。1952年京都芸大卒。中学、高校の美術教師。「自分は戦争の加害者である」と自分の体験『大久野島・動員学徒の語り』(1989年12月15日 毒ガス島歴史研究所)出版(写真下)。中国の他欧米のミュージアムに寄贈し、謝罪活動を行っている。Photo_20191203205503

出会い;

私(吉川春子)は、2005年参議院議員の時、中国人の毒ガス被害者の要請で中国東北地方のチチハルに旧日本軍の遺棄した毒ガス被害の調査に行く。そして「毒ガスは日本のどこで生産されたのか」と調査した結果、大久野島を知り岡田藜子さん、山内正之さんに出会う。著書『アジアの花たちへ』【(2008年3月かもがわ出版)で岡田さんとの対談掲載】

 

~岡田藜子さんの話し~

(正確なテープ起こしをして何らかの形で皆様にお届けする予定です。これは第1稿です)

 

私は、「殺されることは名誉である」と国に命を捧げる学校教育を受けた。学徒は準軍属という身分にされて大久野島に動員された。

島では毎朝皇居に向かって敬礼させられ、軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)を暗唱させられた。岡田さんはこうした生活になじめず周囲から孤立し2カ月くらいは鬱状態だった、という。島では体が弱いと馬鹿にされた。インフルエンザに罹った後は軍人の処に報告に行った。男子は病気をすると国賊と言われ、無理して島へ行った生徒は死亡した。朝7時呉線(くれせん)で忠海に来て大久野島へ渡り、夕方5時の汽車に乗り帰った。

 

(毒ガス島の特異性)

大久野島は地図から消されその部分は真っ白。海岸を走る呉線は大久野島が見えないように窓に鎧戸を下ろして走った。島の事は家族にも言ってはならぬと注意を受けた。

発煙筒の製造時に大爆発が起き火災になった。生徒2人が重態になったが両親にも会わせず大病院にも運ばず島の診療所で治療した。

義務教育を終えた子どもを大久野島に送った。エリート意識をもって大久野島に送られたが、やめたいと思ってもやめさせない。やめるには兵隊か兵器学校に行かされた。大久野島をやめた人は3か月目に赤紙(軍隊への召集令状)が来た!

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(写真・鎧戸を下ろし大久野島が見えないようにして呉線は走った)

 

パイプの中は硫酸が流れていた。その下で生徒は作業していた。防空壕の土を運ぶ途中、後ろの子に硫酸が5センチ落ちる⇒生涯傷になって残った。

楽しい語らいの時…松葉を取って爪楊枝代わりにしたら、歯茎がはれ上がった。(下の挿絵)

敗戦前に毒ガス製造が中止された*⇒建物撤去作業中に、下級生がホコリを吸い込んで肺癌になった。

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*毒ガス製造・使用がアメリカにばれると、今度は報復にアメリカ軍が日本軍に毒ガス使用することを恐れたため、中止した(1944年)

 

(作業の内容)

①  発煙筒つくり発射を実験行い、対岸が見えないくらい煙が上がった。これは人権兵器、という説明を受けた

②  学童の手で爆弾作り

直径10Mの紙風船の下に爆弾を吊るし米本土に送り爆発させる。千葉、茨城、福島の勿来など太平洋側から風船を米本土に飛ばした。

神風特攻隊のよう人間爆弾と違い人(日本兵)は死なないが、相手が死ぬ。アリューシャン9300個、メキシコ285個回収。自分はこのような爆弾では実害は出ないと思っていたが1986年ミシガン大学の先生から、ワシントン州で、オレゴン州でピクニックに来ていた6人が死亡、と聞き自分が加害者であると知った

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(写真は風船爆弾を制作する高女の学徒)

 

③  毒ガス運搬

大三島が大久野島と間違えて爆撃された。大久野島が爆撃されたら広範囲に毒物に侵されるので大三島に毒ガスを疎開させることになり、作業に学徒が充てられた。ドラム缶に入った毒物を桟橋まで運ぶ役目が岡田さんの忠海高女低学年の役目だった。敗戦直前の20日間。

大久野島保管庫から港まで1日13往復させられた。軍手をはめて。毒物に触れた軍手で肌に触ってはいけない。ドラム缶の中に何が入っていたか知らされなかった。(写真はドラム缶を運ぶ学徒)

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「1945年7月、大三島に渡って忠海高女高学年がドラム缶を転がして芋畑に運んだ。水泡ができたり視力が低下した人がいた。これらのドラム缶は戦後堀り出されて船ごと土佐沖に捨てられた(「大久野島動員学徒の語り」より)

 

<大久野島の戦後>

イペリットが多い。致死性で肌に着いたら1滴でもものすごくあつくて熱が出る。大久野島に行った人は全員呼吸器癌にかかる。皮膚、聴覚、知覚障害を起こして家庭崩壊。学徒の癌死亡者1%。大人の工場従業員は癌患者全国の2倍。染色体異常も。

戦後10年は大蔵省で、その後40年は厚生省が補償した。

加害が多く、しかし戦争被害は訴えるが加害行為についてはひた隠しにしてきた。

毒ガスは貧者の核兵器、と言われてきた。北朝鮮、ベトナム、イラン、イラク…従業員は自らの被害は訴えたが加害について語ったのは3人のみ。1994年サリン事件起きた。事件まで広島の人さえ大久野島に言及しなかった。NHKが初めて報じた。「消された毒ガス島=大久野島」。

 米国が戦後日本の毒ガス製造について裁かなかった。理由は、①米国自身が原爆を投下した、②将来米国も毒ガス使用するので731部隊の資料を日本から受け取っている、③進駐軍が3000トンを海に捨てた、➃1963年に大久野島を国民休暇村にして兎を飼った。なぜ兎か?戦争中から軍人の防寒服のため日本中で兎を飼わされていた。それが戦後の兎の島との関連

 

Ⅳ 私の戦後

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(写真・最初の日程、岡田さんの講演に引き込まれる旅行参加者。「涙が止まらなかった」との感想も)

 

アウシュビッツはよく知っていた。日本はドイツのようなそんなひどい事はしていない、日本人でよかったと思っていた。20年後加害の歴史、南京大虐殺の写真見て、3光作戦を知った。戦争は人間性が破壊される。原爆以上に酷い事をやっている。

自分自身、1989年天皇が死の床に居た時加害者である事を知った。戦犯責任を免れて、死ぬ時まで輸血だ、下血だと騒がれた。戦争はやらされただけでなく、国民みんながやった。

大久野島へ、500億ドル中国への賠償金免れた。戦争の謝罪をしていない。1990年日本に生まれた人間として、1994年韓国独立記念館に、よくぞ独立してくださいましたとお詫びのメッセージを送った。

一人ではなく他の人も誘ったがその人は「自分は加害者ではない。岡田さんが(そう考えるのなら)個人でやってほしい」と断られたので私個人としてやった。日本を恨んでいた人たちが「日本人の見方が変わった」と沢山のプレゼントが送られてきた。「岡田さんのやったことは素晴らしい」と。南京からは河原の血のにじんだ石。(秦の始皇帝の)兵馬俑の飾りと手紙が沢山来た。

撫順戦犯管理所所長。憎むべき行為をした人(日本兵)が働いていた。遠くから取り寄せて調べさせた。中国帰還者連絡会として日本で戦争反省の活動をしている。

上海産婦人科医師から「(自分の家族は)南京で幸せな暮らしをしていた。日本軍の侵略から逃れた。…姉は亡くなった。あれ以来一家団欒はない」と。24年間付き合い84歳で死亡した。

アメリカでは風船爆弾でなくなった方へ手紙を書いた。日本中で24カ所の女学校で風船爆弾を作った。山口では風船爆弾製造の女学校で血判押させた。結果、米国の11歳から14才の少年少女が犠牲になった。

1996年70才近い年に謝罪に14人で米国へ行った。「(お会いした米国の方は)日系人収容所へ放火したいと思ったが、日本人の心に触れて恥ずかしいと思った」と言われた。

国家権力の向こう側にいる人はみんな同じ人間。相手の側に身を置いて考える。戦争する国家が加害者である。加害に苦しむ戦争世代。原爆を投下した米兵が加害者として苦しんでいると。広島は戦後生まれが(多数)。加害者は生き証人である。右翼は戦争を正当化する。

<平和への思い>

平和な時代に命を全うする事。戦力不保持の憲法―安保があったにもかかわらず平和が保たれてきた、最大の国際貢献

日大のアメフトの選手が「やれと言われてもやらなければよかった。私が弱かった」と語った。

有名な映画監督・オリバーストーンが2014年に来日(広島原爆の悲惨さを世界に伝えるため活動・吉川注)。「日本は食べ物がおいしい。映画もいい。ただ日本はノーと言わなかった」原爆。力は正義。エゴイズムを超えて普遍的な人間愛を。(吉川春子・記)

 

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