フォト

最近のトラックバック

2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 2019年9月 | トップページ | 2019年12月 »

2019年11月

2019年11月10日 (日)

撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部 第8次訪中団 

遼寧省を巡る6日間  2019年 8月26日(月)~31日(土)

 

~ 撫順・瀋陽・金州・旅順・大連 ~     具島順子

 

 

今回の旅の目的は「万人坑」を学ぶことと友人を誘うことであった。
 この4年、上海・南京・湖南省(南京に次ぐ虐殺)・四川省・雲南省を旅した。さかのぼれば10回以上中国を旅している。あまりの残虐な加害に、友人たちを一人でも多く、直接、見て聞いて知ってほしいと切実に願った。お誘いして5人の方々と参加できたことは無上の喜びである。
 今回初めて訪問するのは金州だけであった。ところがこの十余年ですっかり違っていた。『愛国「教育基地」』がきちんと学術的にも研究され、いずれも迫力ある博物館として開館されていたことである。十余年前9・18のその日に訪問した瀋陽では、街角という街角に「勿忘国恥」のポスターが貼られていた。この地の「柳条湖」(地名)で鉄道を爆破、中国軍がやったとして「満州事変」へ突入。15年戦争への火蓋が切られた。「前事不忘後事之師」過去を未来のために学び決して忘れるな。「中国国民が愚かだったから日本の侵略を許してしまった」その痛切な反省から「日本侵略の爪痕」を博物館として遺しているのだと思った。

Photo_20191115104901 

 

 撫順戦犯管理所訪問@撫順  8月27日

  
趙毓英元婦長のご自宅に招かれる
 現在90歳、退院されたばかりのご自宅へ総勢10名も招いてくださった。出発前、「戦犯も変わり、私たちも変わった」という手記を読ませていただき、戦犯管理所での婦長や職員の仕事の大変さを理解した。1950年、シベリア抑留の「捕虜」約1000名がソ連の貨車で移送され、管理所へ受け入れるため駅頭へ出迎えることから仕事が始まった。趙さん21歳、天賦の資質を見込まれ婦長として任務に就かれた。まだ看護学校の学生であった。職員の中には日本軍に身内を殺された人も多く、いまだ食糧事情が極度に悪い中、「戦犯」に自分たちよりいい食事を与え医療を施すことへの抵抗も大きく不満がくすぶり、退職した職員もいたという。「ひとりの死者も出してはならない」というのが中央からの命令であった。梅毒の収容者には輸入しか手に入らない高価な注射も手に入れた。脳梗塞で寝たきりの収容者にはつききりの介護婦も付けた。筆舌に尽くせないご苦労が手記に書かれていた。
 ご自宅でお会いした趙さんは美しく穏やかで私たちを歓迎してくださった。「戦犯管理所」の任務は「軍国主義教育で鬼となった戦犯たちを人の心を持った人間に還すこと」であった。決して強いるのではなく「本人の自覚」を根気よく待つのである。
 世界にも例がない「実験」であったがこの「実験」は成功した。これは当時の中国共産党の方針であり、実践だった。周恩来総理が「日本の人民も戦争で苦しんだ。軍部による犯行とは別だ」として日本に「賠償」を求めなかった精神と同じだと思った。

  私は、2000年に東京で開催された「慰安婦」制度を裁く、「女性国際戦犯法廷」に全日程参加。以来、「慰安婦」の語り部をしている。金子安次さんがこの法廷で兵士の証言をされた。中国での「強姦・輪姦・性犯罪・慰安所」を「家族にも話していないことを証言します」と話された。証言が終わって一礼して退廷されるとき、「慰安婦」席から大きな拍手が起こった。「え! なぜ慰安婦席から拍手が起こるの? 憎き日本兵が目の前にいるのに」。そして私は気づいた。「よくぞ本当のことを話してくれてありがとう」の拍手なのだと。

 金子安次さんは「戦犯管理所」に送られてきたシベリア抑留者である。「自分は天皇の命令でやったのだから、天皇が助けに来てくれるに違いない。上官の命令でやたのだから、自分は悪くない。」戦場での犯罪を認めようとしなかったので「認罪」まで長い月日を要した。しかし「命令といっても手を下したのは自分じゃないか」と思えるようになるまで6年もかかり、やっと「認罪」に至ったと語っておられる。「戦犯管理所」は、自分が「戦争犯罪」を犯したと自覚するまで見守る「奇蹟」の場所だと思う。金子安次さんのような「中帰連=中国帰還者連絡会」のお蔭で、中国での蛮行の数々が明らかになった。中帰連の方々が帰国後、日本で果たした役割は大きい。金子安次さんの「認罪」のお蔭で「慰安婦」裁判も真実が明らかになった。

  シベリア抑留者は56万とも76万ともいわれる。その多くの抑留者の中から、どのような基準で約1000名がここに送られて来たのか。理由は明らかにされていない。この1000名が中国で殺戮した数は80万人と聞いた。中国には、どの部隊が一番むごい殺戮を行ったか、わかっているはずである。私は、「戦犯管理所」には、最も「残酷」な部隊を移送したと思う。なぜなら「鬼から人へ」生まれ変わらせる実験なのだから。
 「謝罪の碑」に献花し、謝罪と感謝の黙祷をして「撫順の奇蹟」の地を後にした。

Photo_20191130113501

(写真・戦犯管理所)

 


 

 

撫順炭鉱露天掘り見学@撫順   8月27日


眼下に見る「石炭露天掘り」は広大な長方形で、遠くは霞んで見えない。底深くに線路が敷かれ、今も貨車が走っていた。鉄道模型のミニチュアを見るようだった。逆光で写真も撮れなかった。古くは14世紀から掘られていたようで、日露戦争後の1905年から満鉄が経営し、大規模な石炭採掘がおこなわれた。中国人労工に対し劣悪な生活条件下で過酷な労働を強い、死者数は25万人という膨大な数にのぼるという。「徴用工」の現地版である。犠牲者の遺体は撫順各地に捨てられ1971年の撫順市の調査で36カ所の「万人坑」が確認されているとのこと。石炭倶楽部で食事をとったが、その豪華さは目を見張るばかりであった。「黒いダイア」で巨万の富を得た人々の宴が催されたことだろう。膨大な労工の犠牲の上に得た富は、偽「満州国」の栄華に湯水のように注がれたに違いない。なんと残酷なことを!参観できる万人坑は残されていない。犠牲者に心からの黙祷を奉げた。

 

平頂山惨案紀念館@撫順 8月27日


「露天掘り」からバスで移動、「平頂山」はすぐ近くだった。再訪であるが、愛国「教育基地」として充実し様変わりしていた。「村民が苦悶する巨大なモニュメント」「惨案紀念館」「遺骨館」で構成されていた。

1932年9月12日。平頂山村での虐殺があった。抗日義勇軍に撫順炭鉱を襲撃され面目を失くした日本軍守備隊は、義勇軍が通過した平頂山村の村民すべてを集め機関銃で銃殺した。

しかも、炭鉱襲撃の翌日に決行している。満州事変で15年戦争に突入した、翌年の事件である。抗日軍がすでに活動していたこと。その標的を中國労工を酷使し「黒いダイヤ」で巨万の富を吸い上げている満鉄経営の撫順炭鉱にしたのである。抗日義勇軍が村を通過したのを「通報」しなかったという「ただそれだけ」で「全村民を虐殺」するという暴挙! 日本軍へ協力しないことへの「見せしめの報復」だろう。当時の村は500所帯、3000人が住んでいた。生存者は54名。遺体の下に潜り込んで死んだふりをしたり、村外に出かけ難をまぬがれた人たちなのだろうか。生存者は民衆、特に若い人たちに日本軍の暴虐を語りついでおられるという。私は、二回目の訪問だが、「遺骨館」は、尾瀬のように木道がめぐらされ、むきだしの遺骨の間を木道を歩いて巡るようになっていた。今回は長年遺骨を空気にさらしていると痛むので「ガラス」で天井まで密閉されていた。立派な紀念館が造られ、天井も廊下にも犠牲となった全村民の名前がびっしりと刻まれていた。村の家屋も当時のままにミニチュアで再現されていた。慰霊堂には数えきれないほどたくさんの「折鶴」が供えられ、JR東日本労組各支部のリボンがつけてあった。日本人の参観は嬉しいことだ。横たわる遺骨にはおさなごに寄り添う母の姿をとどめた遺骨もあり胸に迫る「万人坑」である。慰霊館で献花し黙祷をささげた。参考文献「天皇の軍隊と平頂山事件」 高尾翠著

 

第二次世界大戦連合軍捕虜収容所旧跡陳列館@瀋陽  8月28日

Photo_20191130113304

(写真・捕虜収容所)


 太平洋戦場から運んできた連合軍の捕虜収容所である。当時は奉天捕虜収容所とよばれていた。 その面積5万㎡。アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリア・オランダ・フランスなど6か国。高度な技術をもった捕虜を選び2000名を収容した。日本軍が国内を含む世界各地でつくった主な18の捕虜収容所のうち一番保存状態が良いとされている。国際条約に違反して連合軍捕虜を迫害した様々な展示がある。亡くなった捕虜たちの名を刻んだ大きなモニュメントもあった。収容所の生活を三人の捕虜が漫画や絵に描いた大きな展示室があった。広大な敷地で高度な技術をもったとされる捕虜たちに何をさせていたのだろうか。中国人が隠れて食べ物を分け与え、それで命をつないだ「かつての捕虜」が、戦後、感謝のため、その中国人を尋ねてきて、お礼を述べる再会の写真が幾枚もあった。命を救った中国人は何人もいたのだ。       北九州の水巻町に「十字架の塔」がある。日本国内で命を落としたオランダ人捕虜すべての名が刻まれている。ここでも、こっそり食べ物を分け与えた日本人炭鉱労働者がいた。「お礼をいいたい。命の恩人を探してほしい」とオランダからやってきて倉敷に住む恩人を探し出し、やっと、会えたという記事を読んだ。中国にも日本にも捕虜の命を救った心優しい人がいたんだ。中国大陸にまで「欧州人捕虜収容所」を建設し、高度な技術を利用していたとは! 知らない戦争がここにもあった。もちろん、ここも愛国「教育基地」である。


瀋陽日本人戦犯特別軍事法廷旧跡陳列館@瀋陽 8月28日

この陳列館は「九・一八」博物館に属していて2014年5月18日に一般公開された。つまり、一級の分館である。愛国「教育基地」の充実がめざましいと感じた。1956年6月9日から7月20日までの間、中華人民共和国最高人民法廷がここ瀋陽で日本人戦犯を公開裁判した様子を展示している。「判決を受ける」場面は、広い法廷をそのまま再現し、兵馬俑の武士のように36人全戦犯をひとりひとり背格好も顔もそっくりの人形で構成していて臨場感がある。東京裁判法廷も再現されていた。

 

九・一八歴史博物館@瀋陽  8月28日

「満州事変」という屈辱の暦史が始まった日であり、昨年リニューアルされた博物館は国家一級博物館、愛国「教育基地」である。
博物館前の広い敷地には巨大な卓上カレンダーが見開きになり「1931年 9月18日 星期五(金曜日)」の文字と「碑文」が刻まれている。
918

(写真・9.18博物館、立つ人左から2人目が筆者)

二時間かけてやっと見終える広さで、年間100万人が訪れるという。「屈辱の歴史を忘れるな!」力がこもっている。中国語なので理解に時間がかかるし椅子がないからへとへとになった。これだけ詳細・膨大な展示なのに全く「脱落している歴史」がある。 旧「満州」にはおびただしい「慰安所」があった。多くの「慰安婦」証言者が「満州の慰安所」に居たと証言している。 2000年に東京で日本軍「慰安婦」制度を裁く、女性国際戦犯法廷が開催された。法廷に間に合うように、各国が「慰安婦・慰安所」の調査をした。中国の研究者・NGOからも「慰安所」があった都市・町の名が提出された。その調査は『「慰安婦」戦時性暴力の実態Ⅱ4巻』のp80 に 記載されている。それによると今回訪問した都市、瀋陽・旅順・大連が記載されている。ガイドに尋ねても「慰安所はなかった」と言い、ある日本人は「中国(政府)が明らかにしようとしないのでは?」との意見だった。しかし、上海でも南京でも「慰安婦問題」の研究・解明が進み、両市には大きな「慰安婦」博物館がある。2月に旅した「雲南省・竜陵」にも、「慰安婦」陳列館は開館。当時の「慰安所」として使われていた董家が、そのまま「慰安婦」陳列館になり、第56師団エリアには24もの「慰安所」があり、館内に慰安所の名前まで明記されたMAPが貼られていた。「湖南省」の戦役陳列館にも、日本軍による「性暴力」がくわしく展示されていた。

なぜ、瀋陽の広大な「9・18大博物館」で「女性への性暴力・慰安所」が欠落しているのか、あきらかにしてほしいし、展示されるべきテーマである。今後の私の課題でもある。

 

 金州龍王廟万人坑遺跡記念館@大連市金州 8月29日


 早朝、新幹線で金州へ。関東軍第693部隊の軍病院とその関連施設建設工事は、1942年から5年の工期予定で始められた。「労工」たちはその工事に従事させられた。この病院は731部隊と同類の軍病院として細菌兵器の試験・研究と製造のための秘密施設として建設がすすめられ、長大な地下室を備える巨大な施設だったようだ。
金州と各地を結ぶ道路や鉄道の建設工事と併せて数万の中国人が労工として徴用されたが敗戦により工事は中断された。693病院建設だけで10482人が徴用され8000余人が命を落とした。どれほどの過酷な仕事を強いられたか。この数字が物語っている。多くの労工が「いい仕事がある」と甘言に騙されて連れてこられた山東省出身者だという。日本語ガイドの曲さんは山東省出身、当時の山東省は「出稼ぎに出なければならない、貧困があった」と。犠牲者の遺体は、主に金州城北の周家溝一帯の「人捨て場」に捨てられた。金州龍王廟万人坑を形成している。遺体がつぎつぎに打ち捨てられるので、掘っても掘っても人骨が重なっているという。今は、野ざらしでなく遺骨館になっている。遺骨館は「人捨て場のほんの一部」だと理解した。    献花し黙祷をささげた。

  

旅順を再び訪れる日があろうとは!


203高地@旅順  8月30日


 日露戦争100周年の2005年、初めて旅順の地を踏んだ。大きな日露戦争の博物館があり、なぜ、中国がこんなにも「100年前の戦争」に力を入れるのかがだんだんわかってきた。「敵の将軍ステッセルと乃木大将の会見場」は小さな小屋のような建物だった。私は子どものころ「♪敵の将軍ステッセル、乃木大将との会見は、ところはいずこ水師営♪」という歌を歌っていた。今も歌詞が浮かんでくる。「日本軍は苦力(クーリー)と呼ばれた中国人労工を使って塹壕を築かせ、塹壕の構造の秘密を知っているという理由で全員虐殺した」とその時、聞いた。100年も前に「万人坑」があったのだ。でも、これが最初の「万人坑」ではない。ロシアと日本が中国の領土で戦争する。こんな屈辱があろうか。戦場となった203高地は小高い山になっており、足に自信がない私は登るのを諦めた。「登った甲斐があった!」と、旅順港が一望できたとみんな大喜びだった。

旅順万忠墓と紀念館@旅順 8月30日

Photo_20191130113302  

(写真・旅順万忠墓)


 万忠墓は巨大な墓石の後ろに鉢を伏せたような大きな塚があった。私たちは献花をし黙祷を奉げた。日清戦争で攻め上った日本軍は旅順で兵士・一般民2万余を虐殺した(1894年11月)。「旅順大虐殺」の慰霊碑であり、中国で最初の「万人坑=人捨て場」とされている。けれど現地に立ちながら、歴史認識不足で私には説明がよくわからなかった。日清戦争は朝鮮半島で戦闘があったと理解していたので、なぜ、旅順で日清戦争の虐殺があったのか?「九・一八博物館」の売店の書籍コーナーで「万人坑を知る 日本が中国を侵略した史跡 李乗鋼著」日本語版を見つけた。李先生は2月に旅した「雲南省・拉孟」の旅で全日程ご一緒だった。今回、瀋陽のホテルにも会いに来てくださった。「万人坑」の研究者である。帰国して読んでよく理解できた。1894年、甲午戦争(日清戦争)は、私は朝鮮半島で展開されたと今まで理解していた。7月に日本軍は開戦し、中国(清国)はピョンヤン戦役・黄海戦役で失敗、日本軍は10月に大連に上陸、金州、大連湾を占領。11月に旅順を占領。旅順の大虐殺を行なったのだ。詳細は省かざるを得ないが、日本人記者や軍人により「万朝報」で報道され、紀念館に展示されていた。先生の本にも詳細が載っている。更に、1994年発掘されたおびただしい遺骨の写真も載っている。旅順での虐殺はすさまじく、清国の兵士2500人・平民1万8000人を虐殺。中国における「最初の万人坑」とされている。日清戦争で旅順まで攻め上がり、手当たり次第の虐殺をしていたことは全く知らない歴史だった。李先生のご本によれば、『旅順の大虐殺で「懲罰と非難」をあまり受けなかったので済南の虐殺・平頂山の虐殺・南京大虐殺に至ったのではないか」と。愛国「教育基地」である。何万本もの桜が植えられメーデーの頃、桜は満開で一日5万人で賑ぎあう海が見張らせる桜の名所の公園になっている。

旅順大虐殺の犠牲者の遺体は主に三ヵ所に集めて焼却され埋葬されたが、最も多く焼却・埋葬されたこの地に1896年中國(清国)が墓碑と廟を建立したのが「万忠墓」で、紀念館は1997年愛国「教育基地」として開館している。



日露監獄旧跡博物館@旅順  8月30日


 この監獄は、1902年にロシアが建造し、日露戦争後に日本軍が拡張工事をおこなった巨大な監獄旧跡。一階も二階も細い廊下の左右に独房・監獄があった。拷問用具の展示もあった。中国共産党の活動家や政治犯が投獄され、厳しい拷問や刑罰・処刑が行われた。ハルピン駅頭で伊藤博文を暗殺(1909,10,26)した韓国独立運動家の安重根が投獄され、処刑までをここの独房で過ごした。処刑は1910,3,26であった。絞首刑執行の部屋もそのまま残されている。
処刑の後、綱を降ろせば真下に大きな桶が置かれている。そのまま棺桶にされたのだろう。今も、安重根は朝鮮半島では英雄でありソウルには「安重根博物館」がある。暗殺された伊藤博文は歴代総理をつとめ、初代韓国統監で国会に立像があるそうだ。それだけ、韓国と日本には、大きな国の落差があるということだ。旅順という中国の領土の上に「ロシアが監獄」を造り、日露戦争に勝利した日本は、更に拡張して「巨大な監獄」を造った。その監獄に「抗日分子」を投獄したのだ。監獄の構築には中国人労工が動員されたに違いない。1931年の満州事変から「中国侵略15年戦争」と理解してきたが、日清戦争では旅順で大虐殺をし、日露戦争直後から中國の地に「監獄」をつくり「抗日分子」を弾圧していたとは! 歴史を学びなおさなければならない。何という屈辱だろうか。今更ながら、中国のスローガン「勿忘国恥」国の恥を忘れるな! 中国人民よ、愚かであってはならない! 自戒のメッセージを思った。愛国「教育基地」である。

 

大連満鉄旧跡陳列館@大連   8月30日


 大連の町の中心部は、その昔、古い中国の家屋を全部撤去して町造りがされたそうで、何十年も経つのに日本統治時代の建造物が多く残され、レンガ造りのビルのたたずまいは美しく落ち着きがあり堂々としていた。まだ十分に活用されている。

 訪問した「満鉄本社」は、今も、「大連鉄路」の事務所として使われているが、「満鉄時代」を彷彿とさせる豪華さだった。「満鉄」の遺留品が豪華な一室に集められ目を見張るばかり。物凄い数の「銀製品」で、何の目的でこれらの財宝が集められたのだろうか。「露天掘り」も「満鉄」の経営だった。「鉄道」を敷くにもおびただしい労工の犠牲があったに違いない。日清戦争の賠償金は、学芸員によると時価で15兆円に上り、「満鉄本社」は湯水のように「賠償金」を使って、当時のお金で3億円が建造に充てられたとのこと。真偽はわからないが、相当のお金が使われたことは間違いない。当時「満鉄」で働いた人は50万人に上ると聞いた。「満鉄」の羽振りを伺い知った場所だった。見学に値する博物館である。「財宝」と「満鉄本社の社屋」見学だけではなく、「満鉄」の果たした罪業の数々を『愛国「教育基地」』として発信してもらいたいと思った。

 

 旅の終わりに


 衝撃の旅だった。少しは知ってるつもりだったが、私の粗末な歴史認識は打ちのめされた。19世紀末の「旅順大虐殺」に始まり何と長きにわたり虐殺・侵略を続けたことか。旅順日露監獄は中国の地・旅順に日露戦争直後、20世紀の初めに日本が「抗日」分子=愛国中国人を収監する監獄であったこと。こんな屈辱があろうか。この10余年で、『愛国「教育基地」』が続々と造られ、今回の旅で私たちが瀋陽で訪問した「教育基地」は4カ所、「九・一八歴史博物館」「帳作林爆破現場」「二戦同盟軍捕虜収容所」「日本戦犯法廷」だが、「文化の旅・瀋陽抗戦」のパンフによると、まだたくさんの「教育基地」が開館している。瀋陽だけでもこれだけあるから、中国全土でどれほど多くの「教育基地」が造られ、残酷な日本の侵略の歴史を学ぶ場を提供していることだろう。学ばなければならないのは日本人である。今回の旅は遼寧省だけであった。中国には、一時期100万の日本軍が「居た」そうだ。中国大陸での「侵略」を私はほとんど知らない。日本軍は食料は現地調達であり、「慰安所」の数は途方もない数である。

 満州時代のホテル・大和ホテルは五つあり、今も国営ホテルとして営業している。私たちは今回の旅で、そのうちの二つのホテルに宿泊した。とてもいい旅の企画だと思った。旅順の煤都賓館と瀋陽の遼寧賓館である。

遼寧賓館のロビーにはかつての著名な宿泊者の名を刻んだ銘板が二つあり、満州時代・戦後を通じて宿泊した中国人・外国人の名が刻まれていた。金日成・毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳・林彪などの名があった。日本人では朝香宮の名を認めた。彼は明治天皇第8皇女の婿、大日本帝国陸軍軍人である。私事だが、父は瀋陽、当時の奉天で会社経営をしていた。終戦のずっと前に引き上げてきたが、贅沢好みの父だからこのホテルに泊まったに違いない・・・と父を懐かしんだ。毎年、8月戦争番組が放映される。原爆・空襲・引き揚げ・特攻隊・戦災孤児などなど。戦争の悲惨さ・残酷さ・悲しさがあった。しかしほとんどが、日本の被害の番組である。この夏の番組で数少ない加害の番組「フイリッピンの首都マニラ市街戦で民間人の死亡推定は10万人」が放映された。日本の侵略戦争はアジア全域に及び、中国だけではないのだ。ほんとうに恐ろしいことだ。アジアに顔向けできない国なのに、「教えない・学ばない・知らない」ことは更に恐ろしい。 謝罪の証は本当の「歴史認識」を身に着けることであり、再び、決して加害国にならない決意ではないだろうか。ひとりでも多くの人に現地を踏んで知ってほしいと思う。おそらく中国での「教育基地」はもっと増えていくことだろう。今の中国の姿勢に「どこの国からも決して決して再び侵略を許さない」の固い決意を感じている。

 私が北京を訪問したのは、まだ、ロバが北京の街中を野菜の車を引っ張っていたころだった。今の北京にはどんな「教育基地」が何を発信しているのだろうか、行ってみたい。重慶は日本が絨毯爆撃し途方もない犠牲者を出した地であり、アメリカの「日本都市での絨毯爆撃」は重慶を見習ったものだと聞いている。重慶にも行ってみたい。機会あるごとにアジアの地を踏み、見たこと、聞いたこと、知ったことを伝えていければと思っている。

参考文献 「万人抗を訪ねる 満州国の万人抗と中国人強制連行」青木茂著 緑風出版 2500円          

「華南と華中の万人抗 中国人強制連行・強制労働を知る旅」青木茂著 花伝社1700円         

青木茂さんとは雲南省・拉孟の旅でご一緒しました。

« 2019年9月 | トップページ | 2019年12月 »