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2019年9月

2019年9月28日 (土)

遊郭・公娼制、日本人『慰安婦』…そして青森

 

       

台風17号が日本海を北上する、2019年9月23日(月)青森県弘前市で<弘前女性9条の会15周年記念講演会>が開かれた。「日本人『慰安婦』が名乗り出られないのはなぜ?-「慰安婦」問題から考える女性の人権」という演題で講演した。参加者は男性15人を含む69人だった。

 

   TVの花魁(おいらん)道中を見過ごしていいのか

 

講演後、一人の女性が質問に立った。「テレビで美しく着飾った花魁道中が観光行事として放映されるがいつも疑問に思う。落語でも花魁の話がよく出てくるし…“けしからん”と目くじらはたてられないが黙って見過ごしていいのか」と。

私もNHKラジオ番組欄に名人の演ずる古典落語「廻し」を発見し聞いた事がある。「廻し」とは遊女が一晩に何人もの客を取る制度の事。西の方は廻しはない由。

 花魁とは遊女(売春婦)である。幼い時に父親に前借金で遊郭に売られ一生苦界から抜けられない悲惨な生涯を送る。*①江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に上位の遊女の称。②娼妓、女郎(広辞苑)

 

 遊郭は日本の“文化”!

 

1 江戸時代から港々商業都市など男性が集まる場所には遊郭があった

「江戸時代以前から続く日本の性売買(買売春)は長い歴史を持っている。当時の社会では性売買は特に不道徳ではなく当たり前のこととして受け入れられていた。近代日本ではその伝統を受け継いで不道徳だがやむを得ないという新しい形の性売買のシステムを作り上げた」(吉見義明『買春する帝国』岩波書店 2019年6月)

2 明治以降ー軍備拡張が遊郭拡大につながる

○1873(明治6)年、明治政府は一旦、娼妓禁止令を出すが2カ月後に公娼制を復活させる。明治初年より徴兵制が敷かれ常備軍が徐々に整えられてゆく。それにしたがって遊郭も拡張していった。軍隊と遊郭の関係について研究が進んでいる。

<弘前市は第8師団が新設され、遊郭が急速に発展した>

 住民の遊郭反対運動に対し県当局は1898年小学校を代官町に移転させた。1900(明治33)年には料理店146軒、貸座敷22軒、芸妓39人,娼妓142人の活況を呈した。

1936(昭和11)年、

青森県には八戸市、青森旭町、弘前寿町等遊郭13、貸座敷131、娼妓、芸妓594人である。

弘前市は、貸座敷24、娼妓120人である(『新吉原遊郭略史』昭和十一年二月 『遊郭と売春』二千八年復刻)

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(写真・吉見義明著『買春する帝国』2019年6月、岩波書店)

 

「大衆買春社会」

「日本史研究の横田冬彦によれば1900年頃の登楼者(妓楼に上がって遊興する人)数は京都の市部では年間延べ70万~80万人日露戦争後から20年ほどで2~3倍に急増し、1928年頃に186万人というピークをなす(京都府の「遊客名簿」から算出)。‥‥客の年齢は殆どが20~40歳代で…年平均8回以上登楼したことになるという。都市の壮年男性のほとんどがほぼ毎週遊郭へ行く。即ち買春行為が日常行動として組み込まれている状況を『大衆買春社会』と横田は名付ける.」(関口すみ子著『近代日本公娼制の政治過程』2016年白澤社)

 

   昭和10年、男性・2727万8千人が遊郭で買春

 

 また、吉見教授によると1924(大正13)年以前に貸座敷に上がった“買春男性の数”は、2200万人に上る。そして1924年―2340万5397人となり、成人男性1人当たり登楼数(遊郭に通う回数)は年1・5回である。さらに、1935年には、2727万8106人と増加している。(『買春する帝国』2019年6月)

当時は公娼制で国家が管理する買春制度だったのでこうした統計がつかめたわけである。私娼など遊郭以外の場所での買春も含めると更に多い数となる。

青森1県内に13の遊郭があり貸座敷(女郎屋)が131、娼妓が600人近くいたという数字である。男性はいつでも買春できる環境が整っていた。青森県に限らず日本中がそういう状況であった(『新吉原遊郭略史』)女性にとっては大変恐ろしい社会、「日本の文化」ではある。

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(写真・関口すみ子著『近代日本 公娼制の政治過程』白澤澤社2016年9月)

 

   日本人『慰安婦』は遊郭から”募集“

 

 昭和10年頃までは大繁盛の遊郭も、日中戦争、太平洋戦争に突入する中で男性達は戦場へ召集され、また「ぜいたくは敵」というお達しで遊郭は閉鎖に追い込まれる。

 結果、戦場に買春の場=遊郭が必要になった?!欧米の兵隊のように休暇制度もなく、一旦召集されれば何年も家庭に帰れない日本兵。日本は支配地域に沢山の「慰安所」をつくる。  

 遊郭で働いていた女性たちはどこへ行ったのか?1996年月、警察庁が私に提出した内務省警保局の公文書には日本各地の遊郭の女性達を民間業者を使って「募集」し、日本軍が「慰安所」を戦地に作り、「慰安婦」として送り出した記録がある。

 

誘拐犯は前借金400円で『慰安婦』に勧誘

~驚くべき和歌山県知事の内務省警保局長への報告

 

 昭和一三年一月六日、下田辺町飲食店街で徘徊している挙動不審な男を所轄署員が婦女売買の疑いで逮捕し取り調べる。

 男曰く「自分は軍部の命令で上海皇軍慰安所に送る酌婦(売春婦)募集のために来た。三千名の要求に対して、七十名は昭和十三年一月三日、長崎港より陸軍御用船で憲兵護衛の上送致済み」と自白した。

 また、「上海では情交金、将校5円,下士弐円で2年後,軍の引き揚げと一緒に引き揚げるものとして前借金は八百円迄を出して募集し軍のJの手先として和歌山に入り込み,勝手を知らないためHに案内させて御坊町で,A女には前借金四百七十円、B女には前借金を三六二円を支払い,両名を海南市H方に預けた」と自供した

 和歌山県警は男が協力を要請したと言う大阪九条署、長崎海上警察署にそれぞれ問い合わせた。その結果、男の供述どおり両方の警察署が便宜を図っていたと回答を寄せた。男は内務省の指示で「慰安婦」として上海に送る娼妓を女衒等に集めさせていたことが判明した。警察の取締の網にかかった、婦女誘拐犯を泳がせていたのは内務省と外務省と、軍隊だった!

 

ビルマに従軍した日本人『慰安婦』

 

 私は、和歌山県警の報告どおり、遊郭から戦地の「慰安所」に連れていかれた女性を私は訪ね歩いた。それはビルマ(現・ミャンマー) 従軍の軍医から入手した日本人「慰安婦」の名簿に基づく9人の日本女性の本籍地を訪ね当てた。それは笠置慧眼著『ああ、策はやて隊―私のビルマ従軍記』(1990年7月西部読売開発部出版局)に掲載されている。私の手元にその日本人「慰安婦」の名簿の詳しいコピーが郵送されてきた。京都市での講演会に私の話を聞きに来ていた大阪在住の女性からだった。 医師で、僧侶の叔父の笠置慧眼(かさぎ・えげん)氏に依頼して入手したもので、「自分が教員退職後に女性たちを訪ね歩こうとしたが、吉川に託す」という趣旨の手が添えられていた。実際に私たちは彼女の本籍にたどり着いた。

 1996年警察庁が私に提出した公文書が事実遊郭から女性を戦地に連れて行ったことが、2010年代に元軍医の手書きの名簿によって証明された。十数年を経て2つの文書が私の手元に集まり、ストーリーが話がつながった、という事になる。

 

   RAA(特殊慰安協会)はマッカーサーと日本政府の合作?

 

さて、日本人「慰安婦」の話は戦争中だけでは終わらなかった。敗戦直後に日本政府は自国の軍隊が行った女性への行為を、今度は日本に進駐してくる米兵が行うことを恐れた。天皇の戦争終結の玉音放送後ただちに、米進駐軍のための「慰安所」を全国に作る通達を発した。何十万人かの連合軍の兵隊が日本に上陸するという恐怖におののいたのは国民だけではなかたのだ。

 「日本女性の解放に一肌脱いだ」マッカーサーも、日本政府と合作で米兵へ性病から安全な日本女性をあてがう政策を遂行する。憲法24条で女性を解放したはずのGHQの政策の2面性が現れる。米兵向けの「慰安所」は本国の批判を浴びて1946年3月に閉鎖される。ここに集められていた女性たちはパンパンガールと呼ばれる街娼になった。

 そして、この占領軍「慰安所」は旧日本軍「慰安所」と連続性があると指摘するのは平井和子・桜美林大非常勤講師である。全くそのとうりである

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(写真・少女の目から見た米進駐軍「慰安所」の狂騒曲を描く、乃南アサ著『水曜日の凱歌』)

青森県にも!「特殊慰安協会(RAA)」

 

 私は今回の講演を準備する中で、青森県や弘前市の遊郭について少し調べた。軍都・弘前は昭和以前から遊郭もかなり大掛かりに存在した。そして敗戦後も…

○青森県になんと1万500人の米軍等の進駐軍が来た、弘前には4822人、八戸が3200人…フィリッピンなどの最前線で戦ってきた猛者たちで何をしでかすかわからない…「疎開できるものは他所に移ること」「女は化粧もせず」「モンペかズボン着用の事…」

○空襲で焼けず残っていた「特殊料理店」を利用

 二百万円の資金で設立。大湊町9件、田辺町2軒の慰安所経営を許可。「従業員」にはコメの加配。「一般婦女子の防波堤になる」という悲壮な覚悟で飛び込んだ女性もいた…」(「青森警察史」)

 

          青森から、全国から…日本人「慰安婦」の可能性

 

 私の講演を聞いて、外地からの引き揚げ者という方が感想文をよせてくれた。

「日本に帰ってから物心ついた時に、大人の会話で「慰安婦」さんだった隣人のおばあさんのうわさを聞いたことがある。(吉川の話しを聞いて)その方を思い出した。その方の面影を忘れず、女性としての人権を汚す事には鋭く声をあげたいと思った」と。

 貴重な証言である。私達の行った日本人「慰安婦」調査では9人の中に東北地方では山形県の女性が入っていた。また長野県の資料館の研究者の報告で飯田付近の遊郭から「慰安婦」として送られた女性がいたと聞いている。日本中に遊郭があり特に、戦争末期には全国的に娼妓が「慰安所」に送られたのではと思う。証言や証拠はほとんど残っていないが。

 「お国のために」と言われ「慰安婦」として海外迄出かけて行った女性たち。戦後になって幸い生還しても、自分の過去に封印してひっそりと世を忍んで生き、亡くなられた女性が多数いた事は想像に難くない。「その方の面影を忘れず…」と感想文にある通り、その事実が葬り去られて、女性の尊厳が深く傷つけられた歴史を、なかった事にはできない。

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(写真台風一過の岩木山。百年以上弘前の遊郭の歴史を見守っていた…)

 

 

ジェンダー平等社会を展望する

 

 軍隊と遊郭は持ちつ持たれつ…軍隊の駐屯地は遊郭と相まって存在する。日本軍「慰安婦」「慰安所」政策はその1里塚である。

 そうしてみると一切の戦力を放棄する憲法9条は女性の人権規定である事が明らかである。建前的には軍隊がない日本(これは多くの人は信じないであろう)でも、性暴力に泣き寝入りする女性は大勢いる。

 男性のみが君臨する社会では、何処まで行っても女性の性を男性の快楽に提供する道程は続く。男性のみが権力の中枢にいる限り女性への性暴力はなくならない。それをなくすために、ジェンダー平等社会に向かって私達は歩み続けなければならない。(吉川記)

 

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