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2019年6月

2019年6月22日 (土)

アメリカ映画・「RBG(アール・ビー・ジー)  最強の85才」

RBG(アール・ビー・ジー)  最強の85才」は、(監督・プロデューサー:ジューリー・コーエン、ベッツイ・ウエスト、2018年アメリカ

原題:RBG 配給:ファインフィルムズ)第91回アカデミー賞、長編ドキュメンタリー賞/歌曲賞ノミネート

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ルース・ベイダー・ギンズバーグ(RBG)は、現在アメリカ合衆国最高裁判所判事である。

2017年、女性差別者と非難されるトランプ大統領が就任し、そして「# Me Too 」が広がる米国で今大人気が沸騰している女性裁判官である。

人生をかけて、女性の差別やマイノリティのために戦ってきた。ギンズバーグ判事の人形や、キーホルダー、バッジ、ステッカーなどRBGグッズが次々発売され、若者たちが彼女との写真撮影に群がるほほえましいシーンを映画は映し出す。

最高裁判事というお堅い職業の高齢女性が、なぜこのような人気者になったのか?アメリカという国は面白い。そして民主主義が息づいていることを映画は映し出している。

トランプを大統領に選ぶ国民に失望していた私も、アメリカの奥深さをこの映画から感じ取った次第。

 

  ロースクールをトップの成績で卒業、しかし職に就けなかった

 

1933年ユダヤの家系に生まれる。コーネル大学入学、ハーバード・ロースクールに進学、1954年、コロンビア・ロースクールをトップで卒業、にもかかわらず就職先がなかったアメリカも女性差別の歴史はある。

しかし彼女の才能は埋もれなかった。30歳の若さでラトガーズ・ロースクールの教授になる。弁護士としての実績を積み、1980年、ジミー・カーター大統領からÐ・C巡回区控訴裁判所の裁判官に指名される。

 

1970年代若き弁護士として

最高裁で依頼人の代理を務めたドラマティックな事件の数々…。見事な法廷戦術によって法の下での男女を対等な立場に置くための大きな1歩を踏み出す画期的な数々の判決が下された。

○1973年、最高裁で初めて口頭弁論。空軍で働く既婚女性のために男性と同等の住宅手当を勝ち取る

○1975年、妻と死別した幼い子のいる依頼人に、夫と死別した女性と同様の給付金が支払われるべきだと主張し勝訴する

 

最高裁判事として

 1993年、ビル・クリントン大統領に指名されアメリカ合衆国最高裁判手判事に就任した。

女性裁判官としては史上2人目である。

○1996年、最高裁はヴァージニア州立軍事学校が男性にだけ入学許可を与える方針を無効とし、性差別を認める政策を違憲とみなすように結論づけた

○2006年、グッドイヤー社の従業員リリーレッドベターは女性であるとの理由で男性より低い賃金で働いてきたが、告訴までに時間がかかりすぎたために補償を受ける資格はないと最高裁は判断した。これに対し、ギンズバーグは「女性が被害者となりうる、賃金差別の狡猾な手法を理解していないか無関心であると、最高裁に間違いを正せと要求した。

議会はリリーレッドベター公正賃金回復法を可決し、同判事の意見に沿った連邦法が改正される

トランプ大統領の入国制限措置は合衆国憲法違反と指摘

「ギンズバーグ判事は男女の平等だけではなく、すべての市民の権利を守るために今も力を尽くしている」(「監督の言葉」)

最高裁はドナルト・トランプ政権が導入したイスラム圏5カ国を含む8カ国からの入国制限措置の支持を示した。一方で、ギンズバーグはソビア・ソトマヨル判事の反対意見に賛同し、両判事は、最高裁は憲法修正第1条に定められた宗教の自由を侵害していると主張した。ソトマヨル判事は「冷静な観察者であれば、入国制限措置は反イスラム教的な動機付けがされていると結論付けるはずだ」「法廷意見は合衆国憲法にも我々の洗礼にも反する」と述べた。(同映画プログラム RBG07)

 

 オペラ、ジム、トレーニング

彼女自身仕事人間を貫く。家事そして育児も夫マーティンがかなりの部分をサポートしていて、彼女は裁判官、弁護士の仕事に没頭してきた。

だが、大腸がん、すい臓がん等様々な病気にかかり克服している。映画の冒頭のシーンではジムでトレーニングを受ける彼女が映し出される。器具を使い、かなりハードなトレーニングである。

また、オペラが趣味で、プリマの唄う美しい曲,オーケストラの奏でる音楽が紡ぐ、オペラのストーリイに身を沈めると全てを忘れるという。

実際に彼女は美しい貴婦人に扮してオペラ「連隊の娘」に登場する。セリフだけであるが得意満面である。

米国の裁判官は終身制なので自らが引退しなければ何時までも続けられる。そして彼女は引退をせず今も裁判官のハードな仕事を継続している。# Me Tooが広まっている米国では彼女に「もっと頑張れ」との声援も多い事だろう。

 

「夫との出会いは人生で一番の幸運」

彼女の今日あるを切り開いたのは夫の存在ではなかろうか。夫マーティンは妻の才能を誰よりも信じ、業界筋に売り込みをかけたマーティンの手腕なくしてはクリントン大統領からの最高裁判事の指名は実現しなかったかもしれない。

自身も税務部門の弁護士としてはトップの手腕を持ちながら当時としては(現代でも)非常に珍しい、妻の仕事を献身的にサポートする男性だった。

ルースにとって最初で最後の恋人であり、夫だったマーティン・D・ギンズバーク。

「いとしいルースへ。愛と尊敬の念は56年前初めて会った時からずっと変わらない。君が法曹界の頂点に登って行く姿を見られて満足だ」という言葉を残し、2人の娘と息子、そして孫にも恵まれ78歳でこの世を去った(「プログラム」RBG03)

癌で最悪の体調の中、こんなにも美しい言葉を妻に残した男性。このシーンは非常に感激的だ。マーティンは人間的に、また男性としても最高だ。(吉川春子記)

 

 

2019年6月20日 (木)

治安維持法に負けなかった、輝かしい生涯描く、玉川寛治著『飯島喜美の不屈の青春』

 

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写真左・「飯島喜美の不屈の青春」の表紙    写真右・飯島喜美、モスリンの着物を着て女工のスタイルで

 

玉川寛治著『女工哀史を超えた紡績女工、飯島喜美の不屈の青春』(発行:治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟千葉県本部、発売:学習の友社2019年6月15日)をご紹介します。

 

<はじめに>

戦前の日本は天皇制や私有財産制を批判しただけで死刑になる、言論、思想の自由を否定する稀有の悪法・治安維持法の下で、資本家は労働者をとことん搾取した。著者の玉川氏は豊富な資料によって悪法に抗して闘った一人の女性の人生を通して当時の日本を暴く。

尋常小学校5年を終えただけの飯島喜美は15才で東京モスリン亀戸工場に就職した。労働者たちが闘い続ける職場で喜美は急速に成長してゆく。

圧巻は18歳の彼女がモスクワで開催されたプロフィンテルン第5回大会に派遣され、世界の労働者に日本の紡績工場の若い女性労働者の実情を訴えるシーンだ。「賃金は男性労働者の半分。女性繊維労働者の多くは農村から集められて居り、工場付属の寄宿舎に居住し、牢獄のような生活を強いられている」「日本の若い革命的運動に対して援助を!」と。

1935年喜美は逮捕され、2年2月長期間の拘留で結核が悪化し、弱冠24歳で獄死する。喜美の闘いはジェンダー平等推進の今日につながるものでもある。

喜美と同じ紡績工場(大東紡織)で技術者として働いた著者ならではの、紡織工場の実情、また男性の目で当時一層虐げられていた紡績工場女工の実情も詳しく描かれている。一読をお勧めしたい。

 

 <飯島喜美の子ども時代>

生れ…13人兄弟姉妹の長女

1912年、飯島喜美は父・倉吉、母・ちかの長女として千葉県旭町に生まれる。父の職業は提灯製造であった。喜美を筆頭に8人の娘と5人の息子が生まれたが多くは夭折。喜美と3人の妹と弟2人が成人した。出産とわが子の死を繰り返し体験した喜美の母親は当時の女性が置かれていた姿だ。喜美の闘いはそこから抜け出そうとしたものでもある。

小学校

旭尋常小学校卒業(6年)。学校への出欠―4年生間で出席は1041日中、病欠5日、事故欠1日、喜美は学校が好きだったに違いありません(玉川)。学校の成績は、甲、乙、丙、丁で評価された時代、全部甲をもらうような秀才ではなかったが、かといって丙も無い。甲と乙が7つずつでよくできる子だった。

小学校卒業後

子守の女中奉公にだされた。「被告人は貧困なる家庭に生育し尋常小学校卒業後ただちに各所に女中奉公を為し昭和2年2月より東京モスリン紡織株式会社亀戸工場の女工となりたるか」(「予審終結決定」記載)

<過酷な労働環境~東京モスリン亀戸工場>

1927年、飯島喜美が旭町の募集人・高橋源三郎の手引きで、京モス亀戸工場に入社。採用は零細農家の子女。亀戸工場は、秋田、青森、栃木が主、従は茨城、千葉、宮城だった。1936年、東京モスリンは社名を大東紡織株式会社に変更した。

女工の教育程度~亀戸工場在籍2,740人中、96.5パーセントが未就学を含む小学6年卒以下。高等小学校卒(現在の中学2年)は96人、わずか3.5%だった。

労働時間~年端も行かない子供たちが前番、午前5時から午後2時、後番、午後2時から午後11時の9時間二交代制ではたらかされた。休憩30分、実働8時間30分

ちなみに戦後の1958年3月から、全繊同盟の全国統一ストライキで30分の深夜業が撤廃された。

寄宿舎…梅寮は1室15畳で、居住定員は10人。竹寮は1室22畳で居住定員は14人

こうした劣悪な生活環境に対し労働組合は、「監獄的寄宿制度撤廃、通勤、結婚の自由獲得の闘争」(1932年日本繊維組合の行動綱領第29項を掲げる)を行い労働条件の改善を求めた。

一方、女子を募集する「日清紡績㈱本社工場工女募集案内」には美味しいげな言葉が並んでいる。

「当工場の寄宿舎は日本つくり2階建てで夜具布団は常に清潔なものを貸与し風呂は毎日朝夕沸かし、洗濯場も広く、各室内の換気を十分にし、冬季は室内を温め、専ら衛生に注意し悪い病気の起らぬよう努めていますから皆様にはまことに住み心地がよろしいのであります云々」と、まるで詐欺。

過酷な労働条件に労働者は果敢な戦いをくりひろげた

1914年 東京モスリン吾嬬工場女子労働者1600人が首切りと賃上げ反対ストライキ

1916年 日本で初めて労働組合婦人部、友愛会婦人部設立。東京モスリンに友愛会支部生れ繊維産業における労働組合運動の先駆となる

 1919年 友愛会大会で婦人部独立。

 1920年 3.日本総同盟友愛会東京モスリン支部結成。6・東京モスリン金町工場争議、8.東京モスリン亀戸工場争議、東京モスリン吾嬬工場(3,150名)争議

1929年 6.東京モスリン吾嬬工場で争議再燃、11.東京モスリン沼津工場で争議、12.東京モスリン金町工場で賃金引き下げに反対しストライキ、勝利す

1930年、2.東京モスリン亀戸工場で、工場閉鎖、スト、解雇者の一部復職、解雇手当支給

 東京モスリン亀戸工場スト、 9.東京モスリン沼津工場で争議

1933年 3.東京モスリン亀戸工場で争議

1934年 東京モスリン沼津工場で賃下げ反対で交渉、5.東京モスリン吾嬬工場と沼津工

場で待遇改善要求、6.東京モスリン亀戸工場で争議

1935年 2.東京モスリン金町工場で争議、スト、5.東京モスリン沼津工場で争議、6.東京

モスリン亀戸工場で争議

 <飯島喜美の闘いの記録>

こうした状況の中に喜美は1927年 喜美、東京モスリン亀戸工場に入社し、1928年ストライキを指導(伊藤憲一の回想P48)した。1929年「四.一六事件」(=共産党、支持者大弾圧事件)で男性の党員、同盟員が根こそぎ検挙された直後の五月に共産党に入党、27年入社間もなく喜美が細胞長(支部長)になった。大工場の細胞長を務めたのは喜美が初めて。

 

18歳でプロフィンテルン(労働組合国際連合)に出席、国際会議で演説

喜美は1930年8月15日から開催されたプロフィンテルン【=労働組合国際連合(1921年~1938年)の略称】第5回大会出席のため4月、会社を辞めてモスクワに向けて旅立つ。団長・紺野与次郎(東京地方委員)、団員―男性4人(全員労働者)、女性2人(喜美と党活動家)、通訳・蔵原惟人。日本の代表団はバラバラに、時間的にも違ってモスコウに到着して顔を合わせた。

世界各国から集まってきた、大勢の(殆ど)男性の参加者を前に演説した事は、喜美の人生最大の晴れ舞台であったであろう。大先輩の山本縣蔵の指導の下、原稿を書いて日本の情勢を訴え支援を呼びかけた。彼女の報告や、原稿はロシア語やその他の外国語に翻訳されており、演壇の下で同時通訳がお行われた。国内旅行もままならない当時、革命でできた新しい国ソ連にはるばる出かけた喜美の心は期待で膨らんだのではないか。密出国で緊張の連続だったと思うが、いろんな人物の援助の下、大役を果たした。

     ~~~~~~  ☆  ~~~~~~

日本婦人代表の演説(要旨)(「無産青年」第四十号 昭和五年九月二十七日掲載)

「日本の労働婦人の組織は非常に微弱で大衆を持っていない。黄色労働組合(総同盟組合同盟等)は皆で二万余の労働婦人が組織されている。この微弱な組織力は資本家に容易にむごい搾取をほしいままにさせている。繊維工業では80%即ち80万人に上り、主として若年の婦人である。これらの婦人労働者の賃金は非常に低く男子労働者の賃金の半分である。婦人繊維労働者の多くは「生きた商品」を買い集める様な方法で農村から集められて居り、従って彼女等はなくてならぬような用具すら備えていない工場付属の寄宿舎に住居し、牢獄のような生活を強いられている。おまけに彼女らの一日の行動は一々厳重に監視されているのだ。

吾々の任務はそれらの大衆の活動を指導して正しい方向へ導くことにある。今まで日本の左翼労働組合(全国協議会)はその任務を軽視していた。革命的な婦人労働者はその指導下に統一することについては何もやらなかったと言っていい。それ故に左翼組合(全国協議会)は一九三〇年の繊維工場のストライキ(鐘紡、…日の出、東洋モス、東京モス等々)の指導権を握ることができなかったのである。この任務を実行するためには、工場内の婦人労働者の中から組織者並びに指導者を養成しなければならない。結論として、日本の労働者運動のために国際的連帯の特に重要であることを強調した。私はすべての同志に向かって日本の若い革命的運動に対して、思想的組織的援助を与えてくれるよう呼びかけるものである」

~~~~~~~~  ☆  ~~~~~~~~

 

プロフィンテルン第5回大会は終了後、飯島喜美はクートベ(東方勤労者共産大学)で短期間教育を受ける機会を与えられた。喜美が当時モスコウに在住していた日本共産党幹部から期待がかけられていたからであろう。そして、彼女はその期待に応え日本に帰国後、治安維持法の弾圧に抗して、思想的転向をせずに最後まで闘ったのだった。

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喜美にはカサブランカが似合う…

 

○共産党中央婦人部の時代の喜美

1931年10月にウラジオストークまで送られて帰国。直ちに日本共産党婦人部担当の岩田義道の下で中央婦人部の任に就く。中央での活動期間は短かったがそれなりの成果もあげた。

⑴  『赤旗』48号(32.7.15)1ページ立ての婦人欄設けられた。婦人のたたかいの記事が多くの節編集方針に。女性労働者を組織するために、共産党、強制、全協、全農などに婦人部を作り活動強化を進める。

⑵1932年「全協・日本繊維労働組合の行動綱領」の制定に大きな役割果たす。具体的内容は、臨時雇用制廃止、同一労働同一賃金支給の闘争、7時間労働制、月経1週間、産前産後8週間休養日獲得、監獄的寄宿者制度廃止等々。

○結婚、検挙…

1932年10月に結婚。相手は藤本正平、1930年慶大経済学部予科在学。慶応最初の学生スト指導。32年逮捕、拷問と虐待のため発病、保釈となり闘病の後38年3月6日死去。飯島喜美が共青中央オルグとして静岡県の共青再建に力を尽くしたが1933(昭和8)年5月21日、飯島喜美神奈川で活動中に検挙される。

 

*治安維持法違反事件年度別起訴人数、1928(昭和3)年~1934(昭和9)年の7年間で4,000人が起訴されている。喜美が検挙起訴された1933年が1,285人(女性92人、7.1%)と最高である。この年(昭和8年)検挙されている著名人は、小林多喜二(2月10日同日築地署で拷問虐殺)、野呂栄太郎(11月28日重病のため釈放されたが間もなく死亡)、宮本 顕治(12月26日残虐な拷問に耐えて生還)である。党への弾圧が最もはげ行われた年に喜美も検挙された。

1935(昭和10)年6月26日予審最終決定「東京刑事地方裁判所の公判に付す」ことが決定。

 玉川氏推測では、9月 懲役7,8年の判決、10月確定している。喜美は控訴しなかったので遅くも10月3日までに栃木刑務所に収監された。瀕死の重症の喜美が裁判中に死ぬのを恐れた権力が、もう充分苦しめたから、刑務所に送りそこで獄死させようとしたとしか考えられません―玉川氏)

1935年12月18日 栃木刑務所で獄死、24歳…残虐な拷問・屈辱に耐え不屈に戦う

(1933年5月に検挙され35年12月3日までは特高の手中におかれた。この間2年2カ月長期の拘留の間に若くて健康な喜美が結核で命を絶たれるほどの残酷な処遇を受けたのだ。

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吉川の自宅の紫陽花

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