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2019年3月

2019年3月25日 (月)

早明浦ダム建設で人口400人に減少した大川村を訪ねて

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(写真・村の宿泊施設前で3月20日・左端吉川)


、 女性議員のいない町村を訪ね、今回は! 


3月19日(火)~20日(水)に女性元参議院議員4人で高知県土佐郡大川村を訪ねた。ここは以前に「議会廃止も検討…」などと報道されたいわゆる「限界集落」だ。村議のなり手不足解消のために地方自治法の「兼業禁止」を緩和する条例制定に歩み始めている(2018年12月、朝日)との報道を笹野貞子元参議院議員が見つけて今回の訪問となった。


私達「参議院協会」会員の女性は2、3年前から女性議員のいない村、町を訪ねて原因をさぐって来た。戦後70年間女性議員が一人も当選しない、海水浴場と「月の砂漠」のモデルとして有名な千葉県御宿町や日航機が墜落した群馬県上野村等を訪ねた。今回もその一環であった。しかし私が目の当たりにしたダムの街の姿は女性の政治参加云々を超える問題があり私は衝撃を受け、国(行政)への不信感を一層募らせた旅となった。(宿泊施設前で平賀真助議員と3月19日)


離島を除いて、日本最少人口の村にしたのは誰? Photo_1


 私は朝6時30分東京発新幹線のぞみで岡山駅下車、飛行機で先に着いていた黒岩秩子氏と共に笹野氏の車に便乗させていただく。瀬戸大橋を渡り高知自動車の大豊で降りて県道に入る。ここからは早明浦(さめうら)ダムに沿ってくねくねと曲がる道でハンドルはベテランの運転手が握るが眼下はダムなので心穏やかでは居られない。大川村役場に着いたのは家を出てから8時間後の午後2時まえだった。


 村役場で私たち一行を迎えてくれたのは初対面の平賀真助共産党議員だった。こんな険しい場所で奮闘する彼に尊敬の念でいっぱいである。「早明浦ダムで村はズタズタにされた」「水没地域の住民は補償金をもらって村を出て行った。主要産業だった鉱山が閉山され、林業も廃れた」と彼は言った。


同じ言葉が私達の会った方々から繰り返し出た。和田知士村長は「村にとってダムのメリットはゼロ」、「かつては大川村は不交付団体だったがダムと三身一体改革で村はとてつもない財政難に陥った」と。昭和47年、別子銅山と並び称された白滝鉱山の閉山が追い打ちをかけ4000人の村民が2018(平成30)年403人に迄減少する。


和田村長のお父さんは反対運動のリーダーだった。ダムは昭和42年に着工されたが、村民は昭和45年に湖底に沈むとわかって居ながら役場の庁舎を建築した。今でも渇水になると村役場が湖底から姿を現す。大川村発行のリーフにその写真が掲載されている。村民は今もダム建設に反対、の意思が伝わり心が痛む。


私は当初は大川村が早明浦ダムの立地であることを知らなかった。しかし、かの有名な早明浦ダムがここ!と、私の記憶がよみがえりダム建設反対運動の村の歴史が私の中で現実のものとなった。


東京オリムピック前年に建設省がダム計画を立ち上げてオリンピック景気に浮かれ、東京中心に戦後復興で華やかな時代に、東京から遠く、高知県大川村では故郷を守るため熾烈な反対運動が闘われていたのだ。国家権力がそれをなぎ倒してダムが完成したのは1973年。私が埼玉県八潮市議会議員に当選した年である。 


         子どもたちに希望が 


 “限界集落”という心痛む言葉が日本で聞かれるようになって久しい。大川村は400人の人口の内で、80歳代が一番多いという。また10年後は300人にまで減少するかもとの予測もある。


小中学生は25名だがそのうち10名は他所の県や自治体からの山村留学の子どもたちである。義務教育さえ外部の力を借りなければ成り立たない状況である。


私は早朝No散歩の時通学の中学生4人と会った。おはようございます、と声をかけてきた彼らの頬はバラ色、学校は楽しい?と私が聞くとクラスが少人数で先生とよく話せるから、と答えが返ってきた。


また、この2年間で子どもが11人が生まれるという希望もある。これは30年前からゼロ歳児保育(生後6カ月)を実施していて、保育料はタダだという、働く母親にやさしい施策の効果であろうか。


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(写真・橋の上からダムを覗く)


    村議会の危機に、兼職禁止を緩和


浅倉慧(あきら)村議会議長は「定数6名の大川村議会では果たして議員になり手がいるのか?そこで地方自治法94条にある村民総会について研究をしておこうと思った。それがマスコミで(議会廃止かのように)誤って伝えられてしまった」と言われた。「議員定数は8名欲しい6名では委員会が成り立たない」とも。


地方自治法92条の2は地方議員が当該地方自治体の請負する者との兼職を禁じる。今年の議会で大川村は兼職緩和条例が成立し平成31年4月1日から施行される。条例は「請負」等について緩和規定を設けた。これによって大川村村議の資格を拡大する狙いである。この規定が何人かの候補を増やす効果が上がるのかはいまだ不明である。


議員のなり手を増やし、村議会を維持したいとの意向で、学者の知恵を借り、総務省の同意を取り付けて画期的な条例施行となった。全国初の事であり、今後議員になり手を増やす方途として大川村に続く自治体が生まれるであろう


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(写真・村議会議場、椅子、演壇は地元産の木材で作られていた。議長席に座る吉川)


      村議へ女性の立候補 


3月19日、東京では桜の開花が云々されるのに冬のような寒さの大川村で私達一行は村の宿泊施設に泊まった。村特産の“はちきんブロイラー”の焼き肉は頗る美味だ。一方住民の暮しは山間地でもあり生活条件は都会の私から見て厳しい。


この宿泊保養施設は大川村からの指定管理者業務を委託されている「大川村ふるさと公社」が運営している。ここを切り盛りしているのは渉外課長の近藤京子さん(56才)である。


この公社の職員は本来ならば議員になれないが、今度の条例第3条の(2)では指定管理者を外し、「自治法92条の2の請負に該当せず」とした。その結果、近藤さんはにわかに脚光を浴びた。村議選への立候補に対して各方面から熱い視線が注がれているからである。


法的には立候補可能となっても女性の場合は家族の状況、同意等超えるべき課題もあるだろう。この村では村史上2人の女性議員がいたという。彼女が3人目の女性議員となるか、まだ彼女は立候補についても答えを出していない。


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(写真は早明浦ダムにかかる橋)


 


  八ッ場ダム、原発との類似性 


 私は大川村を訪問し早明浦ダムをこの目で見てダムはこんなにも人々の生活を困難に陥れるものかと衝撃を受けた。1960年代から70年代の日本の経済成長期に全国でダムをつくり、その結果人生を変えられてしまった多くの人々を思った。ダムが必要だったと仮定しても、ダム湖を抱える住民にのみ犠牲を押し付けていいのか。


 昨年バス旅行で、群馬県の八ッ場ダムへ行った。かつて八ッ場ダム反対住民の決起集会に参加したこともある私は、既に自然を破壊し9割方完成している八ッ場ダムの姿を見るのはつらかった。


昭和30年代から反対運動が続き、又宙ぶらりんの期間が長引いて旅館業者もついには賛成に転じダムは建設された。しかし、名目とされた首都圏の水需要はほとんどなくなり、他方、酸性の強い水に石灰を膨大に投げ入れて、それを利根川に流す等々環境破壊が凄まじい。何のためのダムなのか疑問はなお解けない。


そして早明浦ダムが大変な苦労を子孫に今も強いている愚を思うと、この八ッ場ダムも後の世代にどんな負の遺産を残すのか、暗澹たる思いがする。


 原発も同じことがいえよう。原発で利益を得る者のために建設され、いったん事故が起きると犠牲は国民に押し付けられる。裁判では東電の最高幹部はこれだけ深刻な被害を発生させながらこぞって無実を主張する。国家もこれを擁護する。国家とは何なのか。人間とは何なのか。


 

2019年3月17日 (日)

関東大震災当時の日本を描く韓国映画「金子文子と朴烈(パクヨル)」

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(『金子文子と朴烈」のジャケット)

 

    日本人監督には撮れない?映画


 

渋谷駅は大規模工事中でわかりにくい上に街もなじみ少ない私は親切な通行人に会ってこの映画館シアター・イージーフォラムにやっとたどり付けた次第。

ここで上映中の韓国映画『金子文子と朴烈』(イ・ジュンイク監督)は、日本人が観るべきだと私は思う。このような映画は日本人の映画監督には制作できないと思うから。

即ち日本人はこれほど天皇制について痛烈な批判はできない。また関東大震災に対してこの様なリアルなシーンの映像は取れないだろう。これはしかし事実なのだ。祖父母の世代が植民地支配の苦しみを心底味わい、関東大震災の時に恐怖の体験を味わった朝鮮半島の人でない限りこうした映画は撮れない、あるいは日本社会が受け入れないだろうと思う。

主人公たちはアナキストだったが、アナキストであろうと社会主義者であろうと思想を罰する治安維持法の下で植民地支配下の朝鮮人に過酷な弾圧が降り注ぐ。そのことを描いている映画である。

 

キラキラする青春映画の側面

 

映画の冒頭で金子文子は朴烈を訪ねて、彼の「犬ころ」の詩に惹かれたといって同棲を申し込む。当時の日本社会で差別されていた朝鮮人の青年の詩に共感し、生涯を共にしたいという自分の意思を明確に表せる金子文子とは並みの女性ではない。

彼女は両親から出生届も出されず、従って小学校にも行っていないが、獄中や公判での堂々とした態度はどうして身に付いたものか、同棲者(内縁の夫)たる朴烈への信頼と愛情のためか。映画では描かれていない。

以後、どこまでも信じあう心は変わらず一心同体である。簡単に同棲を始めたかに見えるがそれはいい加減な気持ちではない。それは二人が交わした3点の規則が物語る。文子は以下の二人の約束事を書面に書いて、それぞれ拇印を押す。

その1、同志として同棲すること

その2、私が女性であるという観念を取り除く事、

その3、一方が思想的に堕落して権力者と手を結んだ場合は直ちに共同生活を解消すること

この規約には、固い思想で結ばれ権力にも屈しない決意がみなぎっている。それは過酷な日本の官憲の弾圧に対しても貫かれる。

1923年(大正12年)おでん屋で働く文子と朴烈の二人は「不逞社」を設立し他の仲間と政治活動を行う。

 

    関東大震災が2人の運命を変えた

 

同年9月新婚の2人を関東大震災が襲う。町では流言飛語による自警団、警察の朝鮮人への虐殺が始まり、東京と神奈川全域に戒厳令が出される。亀戸署に河合義虎など南葛労働者、日本人社会主義者が逮捕殺害される。

数千人(映画では6千人)の朝鮮人が虐殺された。今日もなお慰霊祭が行われているが、小池都知事になってからこの集会に向けたメッセージを拒否している。関東大震災に端を発した朝鮮人虐殺に無反省の都知事であってはならない。

文子と朴烈が予防検束される。朴烈らは「爆弾を入手しようとした(だが実現しなかった)」だけなのに長期の取り調べの中で供述が誘導され皇太子暗殺を謀ったという話に膨らみ、法定刑は死刑のみの大虐罪で起訴される。大審院での審議が始まると本人たちも法廷闘争を通じて自分たちの主張を述べる場とする。二人はひるむことなく日本の官憲への批判を述べる。

その過程で、朴烈は文子を説得し東京牛込区役所に婚姻届けを出す。身寄りの全くない文子の遺体を朴烈の遺族が引受人となり荼毘に付されるようにと。文子に対する朴烈の愛情を感じるシーンである。死刑判決宣告後に婚姻届けのコピーが文子に渡されるシーン。本当の妻と夫になったのだ。

文子と朴烈は恩赦により死刑判決を無期懲役に減刑される。これが獄中にいる二人に告げられるシー-ン。死刑が執行されなくて私は心からホットした。

しかしせっかく生を得たのに文子は宇都宮刑務所で自死する。彼女の不幸な生い立ちが生きることに心底絶望させたのか。朴烈は22年間服役して1945年10月治安維持法の日本人服役者と同じ日に釈放される。朝鮮に帰国1974年北朝鮮で死去した。

 

   反日映画ではない

 

「体制内の良心を体現する立花検事」(これも実像とは異なる)」や、2人を支援する布施辰治弁護士、作家の中西伊之助といった多様なキャラクターを描き出し物語に深みを与えることができた」(「葛藤の時代を生きた二人を浮き彫りにする虚実の妙」加藤直樹 ノンフィクション作家~映画のジャケットより)の指摘するように、単純な反日映画ではない。

文子と朴烈の無罪を信じ弁護を積極的に買って出た布施辰治を映画に登場させてもいる。かれは2004年韓国政府から「大韓民国建国勲章」を授与された唯一の日本人である。

予審判事になった韓国人の俳優の日本語の上手さに舌を巻いた。それ以上に朴烈、文子の取り調べに彼の法律家としての誠実さを垣間見、早く起訴して死刑に持ってゆきたい上司との板挟みに苦しむシーン等もあった。閣内の様子も一様ではなく矛盾点も描かれていた。

日本は植民地政策で朝鮮の人々にどんな傷を負わせたのか、直視する国民は残念ながら少ない。ネトウヨの極端な嫌韓街頭宣伝に対する日本人の批判も乏しい気がする。

真実に向き合うことは時には苦しいけれど、被害を受けた方がもっと苦しい事を忘れてはならない、と語りかける映画である。(以上)

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