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2018年12月31日 (月)

伊勢参りの“精進落とし”に遊郭に通う文化

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写真・伊勢市古市参宮街道資料館リーフより

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写真・年末・夫の友人が届けてくれた水仙

 

古市遊郭を歩く


 私は1226日、瀬古由起子さん(元衆議院議員)の案内で三重県伊勢市の(天照大神を祭ってある)伊勢神宮内宮と外宮の中間にある古市遊郭跡を訪ねた。今も昔も伊勢神宮の内宮への参拝は国民的人気だが、そこにもかつて大きな遊郭があった事に私は驚いた。

 

今より娯楽は少なく旅をすることも自由でなかった江戸時代、伊勢参りは庶民の強いあこがれであっただろう。日常の生活から解き放たれ伊勢参りという正当な目的の旅に出るそれは大きな喜びであったと思う。

伊勢神宮の参道にある古市遊郭は、最盛期の天明期(江戸中期)には1千名の遊女と妓楼が70軒あった。江戸の吉原遊郭、京都の島原遊郭とともに日本3大遊郭と言われた、という。現在は大型バスが通う通りは車を避けることも大変なほど狭い道幅で両側の家が接近している。

遊郭とは読んで字の如く周囲を塀か、水路、運河等で囲んで出入り口には見張り番が立つ。前借金を負った遊女が勝手に逃げられないようにするためである。しかし、この古市遊郭は伊勢参りの街道にあり囲いはない。では遊女たちは自由に外出できたのか?それの点は聞きそびれた。

古市遊郭は先の戦争の時の空襲で大きな被害を受けたという。唯一残る「麻吉旅館」は当時の面影を残す。威容を誇る木造建てで当時の遊郭の繁栄が偲ばれる。


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写真・伊勢市の古市参宮街道資料集


 

大林寺の遊女の墓の由来

 

 遊女の墓があると聞いて大林寺を訪ねた。街道沿いの郵便局から狭い道を少し入った場所にあり車で通り過ぎてしまいそうな所である。古市の妓楼・油屋で起きた殺偽事件「油屋騒動」は歌舞伎の題材となり、今も上演さている有名な演目である。中心人物の遊女お紺の墓である。

翌日もう一度調べてくれた瀬古さんによると、お墓は油屋お紺と恋人の27歳の町医者孫福斎(まごふくいつき)の墓だった。油屋騒動はお紺が孫福斎の探していた名刀の鑑定書を手に入れるために心変わりを装い、それに孫福斎が誤解して刃傷沙汰になった。それを芝居にしたら大ヒットしたもの。その後油屋はお紺を見ようと多くの客がきて大繁盛し、お紺は49才(事件当時16才)孫福斎は事件で自害したため27才で亡くなっている。お墓の年齢差に初めて納得した。お紺の49才、孫福斎27才。どう考えても親子の差である。多くの歌舞伎俳優などが墓参している。

 

ところで肝心の遊郭にいた女性たちの墓については、大林寺の奥さんの話しでは「全くありません」ということだった。和尚さんがいなかったこともあるが。古市に瀬古さんの知人がいて、遊郭旅館を経営していた女将さんの書いた手書きの文書があるということが判明した。入手したら連絡くれる由。今後も調査を続ける。


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写真・遊女のお紺と孫福斎の墓、真ん中はお地蔵様



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写真・「麻吉旅館」の立派な建物と説明板


 

「伊勢市古市街道資料館」で遊郭の歴史伝える

 

街道の中ほどにあるこじんまりとした資料館だが1階の展示室は常設展示について市職員が丁寧に説明してくれる。遊郭の歴史を伺える写真や資料が公開されて興味深い。

それとは別に意欲的なテーマ別特別展が何度か開かれている。入館は無料。

町の歴史で遊郭に関するものをかくす自治体もあるが市が責任をもって常設展示館を設けて公開し資料を発掘する姿勢を評価したい。2階は研究室で料金が半日600円~800円と低料金で貸し出されている

*かつて私が訪ねた日田市では後の首相の松方正義県知事時代に遊郭で生まれた子どもを養育する児童養育施設があった。遊郭では多くの子どもが生まれるであろう。彼らを大切に面倒を見たという保育所である。これを記念して公園には大きな碑が建っていた。しかしこの事実を市の歴史に掲載してほしいとの市民の要求を拒否している、と聞いた

 

なぜ、神社と遊郭が近所にあるのか?

 

この古市遊郭は伊勢神宮参拝の「精進落とし」の場として栄えたのだという。

「精進」の期間は「ひたすら仏道修行に励みその間肉食は避けるが、「精進明け(落とし)」とは「精進の期間が終わって肉食をする事」とされている(「広辞苑」)。

伊勢神宮に身を正して参拝し、御役目が済んで緊張感から解かれて“娼妓を買う”ことが許される。これを精進落としというのだろうか。

そういえば私が2016年に日本人「慰安婦」の本籍地を訪ねた時、神社の傍に遊郭があった。山形の赤湯温泉の熊野神社、佐賀市の元遊郭の近く等…。今回「精進落とし」のため古市遊郭が発展したと聞いて、神社の近くに遊郭?の疑問が解かれた思いがする。

神社のみならず、港、河の船着き場、工場、商業都市、鉱山…等々男性の集まる場所に必ず遊郭があった。日本は遊郭列島であった。男性にとっては「精進落とし」、遊山であっても芸妓、娼妓とされた女性達の苦しみは顧みられたのか。

貧乏故に少女の時に遊郭に売られ借金は膨らみ、その後の人生はいかばかりだったか。モノ言えず歴史の中に消えていった女性達の事を思わざるを得ない。

 

   太平洋争中に遊女たちはどこに行ったのか

 

古市遊郭は、「明治5年(1872年)貸座敷33軒、娼妓640人。昭和初期(1930年)では22軒、135人に減少した(「ウィキペディア」)」

古市遊郭の近くの新古町三遊郭(宇治山田市の等三ケ町)は古市より交通の便が良く昭和十一年頃貸座敷二四軒、娼妓が2百人もいた。(吉田昌志編「遊郭と買春」)等々…三重県にも沢山の遊郭があり大勢の女性が娼妓、芸妓として働いていた。

古市遊郭、新古町三遊郭の双方とも太平洋戦争中空襲にあい商売はおぼつかなくなる。ここで働いていた娼妓、芸妓その他の人々は働き先をなくして何処へ行ったのか。

 

ところで、中国で南京事件後の昭和十三年頃から貸座敷の経営者や女衒が高知、和歌山、群馬、山形まで西から東へと跋扈して遊郭の女性をリクルートして上海の「慰安所」へ送った。和歌山県警がこの様子を内務省警保局長に報告している公文書が1996年に警察庁から吉川宛てに提出された。(「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールニュース」№3234に解説記事を掲載)。

また私は別のルートから和歌山県に本籍地のある女性がビルマ(現・ミャンマー)の「慰安所」にいたとの名簿を入手した。彼女の墓地を私達のゼミナールの会員が突き止めている。

三重県の遊郭から「慰安婦」が派遣されたとの公文書は残っていない。「慰安婦」募集の業者が三重県には行かなかったとは断定できない。政府は日本の戦争責任の証拠となる公文書は可能な限り焼却したからである。どちらも可能性は否定できないと考えると、今回の三重県の遊郭跡訪問は私の中で大きな意味をもつ。昭和10年代初め頃まで各地にあった遊郭で働いていた女性達の運命は戦争中どうなったのか。そのことを掴みたいと私は思っている。情報提供等のご協力をお願いします。(吉川春子記)


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クリスマスに送られたシクラメン、背景は六義園


 

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コメント

伊勢神宮などの大規模な神社の参道の裏側の一部に作られることがあるのは性風俗ではなくお墓である。伊勢神宮などの大規模な神社の参道にできるのは普通食べ物やおみやげ物のお店だけど。神社参拝のついでに墓でも立ち寄るかという感じである。墓は神社や寺が所有していないこともある。

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