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2018年11月

2018年11月10日 (土)

朝鮮人労働者慰霊碑のある、「群馬の森公園」を歩く

  日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶ
    群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉の旅
 
2日目も天気は快晴。朝9時に旅館発、近くの長野原町の防空監視硝へ。

周囲は一面が畑ののどかな風景が広がる小高い丘の上にプラスティックの波板の屋根が見える(戦争中は藁葺屋根だった)。丘に登り屋根から中をのぞき込むと井戸よりはかなり浅い、二十人程が入れる風呂のような円形のコンクリートがあった。ここが戦争の際に敵機襲来の情報をキャッチして伝えた防空監視硝(聴音豪)である。 


   <敵機襲来の監視は、高等小学校生徒達にやらせた!>

 

太平洋戦争末期に日本は制空権も完全に奪われ東京を初め大中の都市は悉く空襲で破壊され人も建物も大きな被害が出た。

一九三〇年代から全国各地に敵機の襲来を監視する監視硝が設置された。そして群馬県には防空監視隊総本部の下、前橋、高崎、渋川に監視隊本部があり拠点の監視硝は40カ所もあったという。24時間体制で空の監視に当たったのは、多くは高等小学校の生徒だったという。肉眼や双眼鏡で、夜は爆音を頼りに機種、機数、進行方向を判断して本部に電話報告を行ったという。今の中学生の年齢である。

子どもが24時時間体制で敵機の襲来を監視させられるとは!空襲から国民を守るうえでは頼りなくもあり、子どもにこのような労働を課すとは、悲惨でもある。

米国の高度の技術と物量の戦争に、子どもたち中心の防空監視体制で都市の空襲が防げるはずがない。

二〇〇四年から長野原町の重要文化財として保存されている。こうした戦争遺跡を残すことは、いかに愚かな戦争だったか知る上で貴重である。


Photo_6

Photo_10

(写真上・防空監視硝跡の全景、写真下・上から防空監視硝を覗き込む)

(写真は防空監視硝の跡) 

 <無残な吾妻渓谷、八ッ場ダム建設現場へ>

 

♪ 夕日は赤く 身は悲し 涙は熱く頬つたう…

さらば、故郷よ わが村よ 幼き夢のゆりかごよ…♪

この歌は父がよく歌っていた、ダムの湖底に沈む故郷への哀惜をテーマにした映画の主題歌である。

 

長年に渡りダム建設反対で結束してきた住民が結局ダム建設を受け入れ、歴史ある川原湯温泉を移転させ故郷をダムの湖底に沈めなければならなかった。人々の胸中や如何に・・・

八ッ場ダム計画は1952(昭和27)年にさかのぼる。そして群馬県が八ッ場ダム水源地域対策事務所を設置するのは1993(平成5)年、水源地域整備計画の閣議決定は1995(平成7)年である。参議院議員時代私は、八ッ場ダムの調査に何度かここを訪れている。

初めて訪問した時私たち一行は川原湯温泉に宿泊し、地元住民や旅館経営者の方々も含めたダム建設を阻止する大会に出席した。岩佐恵美・共産党議員ら超党派の衆参国会議員は定期的にここを訪れ運動を激励していた。

そして民主党が政権を奪還した時には一時ダム建設中止の方針を出した。しかしすでにかなり移転事業は進み、道路も鉄道も高い位置に移転された後であった。しかも民主党政権はすぐ変わり、自民党公明党は予定通り工事を再開させた。

ダムの本体工事が始まったのは2014(平成26)年でごく最近であるがしかし、それまで国は既成事実を着々と積み上げてきた。水需要はなくとも、住民の反対が多かろうと何が何でも工事を進めてきた。誰のために?

Photo_7 (写真・吾妻渓谷、川原湯温泉を湖底に沈めて進むダム本体工事、展望台で吉川)


 

  始めたことは、やめられない日本-戦争、無駄な公共事業、etc

 

八ッ場ダムは当初、首都圏の水需要に対応するとして計画されたが、既に首都圏の水の需要は減少して、八ッ場からの取水はなくてもたいして困らないことも数字が示している。

むしろ各自治体は八ッ場ダムの負担金が財政を圧迫する要因となっている所もある。

加えて、このダムは水害対策に有効なのか。温泉の継続営業の保障、地元の人々の暮らしは守られるのか…等々問題山積である。

しかも九州の耶馬渓にも匹敵する、絶景の吾妻渓谷の風景を台無しにし、移転先も地すべり地帯である。膨大な費用をつぎ込んで地滑り対策がされたと聞くが、効果はあるのか?

膨大な国の予算をつぎ込んで、反対運動が強い中でも強引に工事は進められ、完成は目前に迫っている。

「完成したらまたいらっしゃってくださいね」との声に送られて、私たちは八ッ場ダムを後にした。私は水没した河原湯温泉や、姿を変えた秋の吾妻渓谷を見るのはつらい。

 

無駄な公共事業に膨大な国家予算を費やす一方で、多くの「慰安婦」には支払われるべき賠償金を支払わない日本政府。国民の税金の使い方がおかしいのではないかと、私は思わざるを得ない。


 

<群馬の森・美しい公園の戦争の爪痕~>

 

旅の終わりに、内藤真治先生の解説で私たちは「群馬の森公園」を散策しながら、広大な敷地にある戦争遺跡をたどった。この公園は明治百年事業として一九七四年に高崎市に開園したが、東京都心にほこる新宿御苑の数倍の広さがあるのではないか。樹木の多さ、高さ、太さも引けを取らない。

 

Photo_4

 

写真・「群馬の森公園の「ダイナマイト発祥の地」の碑

    火薬製造工場と強制労働の犠牲者

 

この県民憩いの場に生まれ変わる前は、一八七九(明治一二)年に設立された陸軍の火薬製造所(東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所)があった。日露戦争後の一九〇六年にはダイナマイト製造が始まる。公園内には「我が国ダイナマイト発祥の地」の大きな碑が建つ。

日中戦争開始とともに火薬の大増産の戦時体制に入り不慣れな労働者が長時間労働で劣悪な食事、労働環境の下で働かされた。一九三八年だけでも四回の爆発事故が起き、二四人もの死者を出している。

 

「群馬の森」公園に整備されるときに百棟も危険な火薬製造所が全て取り壊され痕跡は何も残っていない。敷地が隣接する日本原電や日本化薬の敷地にはまだいろいろ戦争遺跡が残っているが「群馬の森」から柵を隔てて覗き込むほかない、とは残念である。

1995年に国の文化財指定基準が変わりこの岩鼻火薬製造所も「軍事に関する遺跡」(戦争遺跡)の詳細調査対象五〇件の中にはいっているという(内藤真治氏)。

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(写真・「群馬の森公園」と民間の火薬工場の間に積まれたコンクリートの厚い壁に空いた明かりの漏れる“窓”~ポーランド映画『地下水道』(アンジェワイダ監督)のラストシーンを髣髴とさせる)


 

     ドイツのように戦争遺跡を残したい

 

戦争遺跡を残す点はドイツは徹底している。例えば各地にあったナチスの強制収容所が建物が残っているものもそうでないところも、全部ミュージアムとして保存され、公開されている。何故ナチスが猛威を振るったのかという研究が行われている機関でもある

私には負の歴史を繰り返さない、というドイツ国民の決意が伝わって来た。日本でもこうした措置が必要だが政府の酔っては殆ど行われていないということを痛感する。戦争遺跡を保存し残すという文化庁の試みに期待したい。

 

群馬の森・朝鮮人追悼碑

 

「群馬の森」の散策の終わりに、「朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」に行った。ここが今日のメインともいえる見学場所である。碑文には以下のように記されている。

 

◆碑文 

 20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。

 21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。

 過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。

 この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。(写真下は朝鮮人強制連行追悼碑)

 

  ~~~~~~~   ☆  ~~~~~~Photo_5

民間団体が群馬県と協定を結びこの日が設置された。管理は民間団体が行っている。

この碑の前で毎年行っている追悼式などで、設置条件に反する政治的発言があったとして県議会で意見が出て、群馬県が設置期間の延長を拒否した。これに対して民間団体側が、延長拒否の処分取り消しを求めて、裁判が続いている。裁判の争点は主として以下の2点である。

 「政治的行事」は行わないとする設置条件は表現に自由を侵さないか

 不許可処分は合憲といえるか

 

一審判決では

 について、「強制連行」という言葉を使用した集会は「政治的行事」に当たると判断し、

県の主張を認めた。しかし、②について「処分は取り消す」と判断し、原告の主張を認め碑は撤去されないとした。現在、控訴審に継続中である。

Photo

(写真・森「群馬の森公園」の朝鮮人強制連行追悼碑の前で)

 

   強制連行の痕跡を確認した旅

 

また、戦争中多くの公共事業に、多くの朝鮮半島や中国の労働者が強制動員され、過酷な労働を強いられていたことをあらためて知った。

群馬県でダム建設の強制労働に従事させられた中国の李万忠さんの証言は、戦争中に日本に送還されて言語に絶する奴隷の扱いを受けた様子が語られている(「群馬フィールドワーク資料2」)

「昼夜分かたず武装警察官が私たちがトンネルを掘るのを見張っていた」「3日に上げず逃亡者が出たが捉えられて後ろ手に針金で縛りあげられ、この傷痕は心の傷痕とともに残っている」「風呂には一度も入らず、タオルの支給もなかった」「寒い冬も綿の服もなくセメントの空き袋を服代わりにして着ていた」等々。

今年1031日、私たちの旅の終わった直後に韓国の元徴用工への損害賠償を日本企業に命じる判決が韓国最高裁で言い渡された。「日韓請求権協定で最終決着済み」などとは到底言えない、と私は思う。


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(写真・内藤先生の説明に聞き入る参加者・朝鮮人強制連行追悼碑前)


 

今年の私達のフィールドワークは、外国人への強制労働もハンセン病に対するぬぐえない差別感情もともに今日の問題でもある。人権という問題を深く突き付けられた旅であった。(吉川春子)

 

2018年11月 4日 (日)

草津楽泉園「重監房資料館」他を見学

 

第8回フィールドワーク・群馬県の旅  第1日目

   Photo

(写真・中国人殉難者慰霊の碑)


みなかみ町 如意寺(にょいじ)、草津のハンセン病患者施設へ

 

二〇一八年十月二八日(土)から二九日(月)にかけて、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール主催で、「日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶー群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉への旅」を行った。首都圏はじめ遠く福岡、山口、名古屋からも総勢二六名の参加者があった。

群馬県在住の吉村れい子さん(団長)を中心に企画し、ぐんま教育文化フォーラム運営委員、元群馬県高校教師、内藤真治先生の詳細な説明があり、群馬県の戦争遺跡、ハンセン病患者への人権蹂躙の歴史、また政府によるダム工事への中国人、朝鮮人強制労働の実態と、反面、それを償い慰霊する県民の良心にも触れた旅だった。

 

バスは東京駅を8時半に出発し1時間後には高崎駅前に到着。ここで吉村さん、内藤先生の2人が乗り込んだ。車中で高崎名物“だるま弁当”で昼食をとる。最初の訪問地、みなかみ町(合併前は月夜野町)の如意寺の「中国人殉難者慰霊の碑」へと向かう。(寺の本堂は住職親族の葬儀で使用中のため中に入れなかった)。ここは太平洋戦争中に東京都板橋区志村第三国民学校五,六年生一五五人の生活の場だった。濡れ縁には児童達の使用した木製の下足入れがずらりと残されていた。

 

如意寺に発電所導水路工事の「中国人犠牲者の慰霊碑」を訪ねる

 

一九四二年太平洋戦争開戦直後、岩本発電所建設のため利根川上流から取水する導水路敷設工事を開始、中国人労働者六〇六人と朝鮮人労働者約千人が動員された。

全長14.4キロメートルの大部分が地下を通るトンネルで、食糧はトウモロコシ、カボチャ、サツマイモが主食、一日一二時間労働という過酷な状況。日本人飯場頭の暴力・虐待…で1年足らずの間に四三人もの中国人が死亡し、近くの旧月夜野町の如意寺(曹洞宗)に葬られた。住職は「たとえ敵国の俘虜であってもしなば仏の前では一視同仁」と、手厚く葬り過去帳には出身地・年齢まで詳しく記載し遺骨は本堂に遺骨を安置した。

一九五三年に遺骨は返還されるが寺では「遺骨安置所」の看板を「取り去るべからず」と書き加えている。その後「慰霊碑を建立しよう」の声が上がり一九七〇年月夜野町(当時)の後援、自民党代議士・松村健三氏の揮毫で「中国人殉難者慰霊之碑」が建立された。

 

…そして朝鮮半島の強制労働犠牲者は?

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(写真・韓国人徴用工への賠償命じる韓国最高裁判決を報じる新聞10.31東京)

 

私たち一行は紅葉の木々に囲まれ秋空に青く高く聳えるように建つ碑を訪問し、強制労働の犠牲になった中国・朝鮮の労働者の労苦を忍んだ。

朝鮮人労働者については当時(植民地なので)日本人扱い(?)で、記録は全く残っていないという。くしくも韓国人徴用工に損害賠償支払いを命じる韓国最高裁判決が出たのはそれから3日後であった。この問題は日韓請求権協定では終わっていないのだ、ということを思い知らされた国民も多いのではなかろうか。

国と国とで条約による決着がついたとしても、個人の請求権は消滅しておらず、損害賠償請求について消滅させるものではない、ということは日本政府が明言してきた。日本政府は韓国併合、植民地支配について真摯に反省し問題解決に当たるべきである。

 

ハンセン病患者の強制収容施設・栗生楽泉園へ


私達はフィールドワークの訪問地にハンセン病元患者が共同で生活する栗生楽泉園を選んだ。

長い間、ハンセン病は遺伝性の病とされ怖れられた。しかし1873(明治6)年にはハンセンによってらい菌が発見され遺伝性はない事がわかった、感染力もとても弱い事もわかっていた(中村紀雄『死の川を越えて』上毛新聞社、他)。

しかし恐ろしい伝染病であるから感染を防ぐために隔離することが必要であるとし、1度隔離したら2度と外に出さないという日本政府の方針が長いこととられてきた。また戦争の時期と重なったためハンセン病の特効薬が患者の手に届くことが遅れれ、苦しみが倍加された。

ハンセン病患者組織はいわれなき差別と果敢に戦い、国との裁判に勝利し今日に至っている。ハンセン病患者組織の戦いは当時参議院議員であった私の目に焼き付いている。

 

一九三一年、国は患者隔離撲滅のために「らい予防法」を施行しハンセン病患者の強制隔離政策に転じた。栗生楽泉園はそれまで草津町内のハンセン病の患者自由療養地「湯之沢」を解散して、ハンセン病の患者を強制的に隔離し送り込む目的で1932年開設された施設だ。

太平洋戦争が終わり日本国憲法が施行された後もハンセン病患者の隔離政策は続いた。政府が誤りを認めたのは二〇〇一年、熊本在住の患者たちの提訴により裁判所が人権侵害認める判決を出し、政府が控訴を断念した小泉内閣の時、私がまだ参議院議員在職中のほんの最近の事である。

 

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小学生でハンセン病への恐怖を、中学生で患者の苦しみを知った 

 

私は中学1年生の担任に北条民雄著『いのちの初夜』を紹介されて読んだ時の衝撃を忘れられない。ハンセン病(当時は[ライ病]といわれた)を宣告された著者が親兄弟社会から一切切り離されてハンセン病施設に強制的に隔離される苦しみが描かれていた。長野県の小学校時代、教師から「ライ病」がどんなに恐ろしい病気かを教え込まれていた(文部省の方針だった)から、この小説の主人公を襲った悲劇が強烈に私の心に突き刺さったのだった。

 

一九八〇年参議院選挙全国区候補の私は、選挙区の群馬県栗生楽泉園を訪問し患者の皆さんと親しく懇談した。また、居住する患者さんの全戸に通じている有線放送を通じてマイクに向かって挨拶した。その時、マイクに耳を傾けているであろう数百人の患者の皆さんの一人一人たどった人生を思って、言葉が詰まった事を

(写真・栗生楽泉園の歴史、患者たちのくらしを語った入所者自治会副会長、左から4人目の男性)

 覚えている。

 

人権侵害の極致~重監房、証拠を残す意義

 

今度の栗生楽泉園見学の中心は、二〇一四年に完成した「重官房(正式名=特別病室)資料館」と遺構である。

 ハンセン病隔離政策により多くの患者が入所を強制された結果、患者の逃亡や反抗も頻繁に起きた。ハンセン施設所長には「懲戒検束権」が与えられ各施設にはこれに対する監禁所(監房)が置かれた。草津栗生園には、それよりも重い罰をあたえるための「重監房」と呼ばれる施設があった。全国の施設から「『監禁所』では対応できない」とされた患者が送られてきて草津の「重監房」に収容された。収監された患者の人権は完全に無視された。

 

 一九三八年設置の「重監房」は谷沿いの山を切り開いて108平米、高さ4メートルのコンクリートの塀で覆い厳重な仕切り8カ所内に木造平屋建ての監房があった。

 いくつもの南京錠を開けて入る房内は身をかがめてやっと入れ、広さは4畳ほど。床、壁は板張り天井に電灯の笠はあっても電球はなく外からの明かりは縦13センチ、横70センチの窓から辛うじて入る。食事は12回握り飯1つほどの箱ベンと梅干し、薄い味噌汁…運搬はおなじく患者だが看守が見張っていて言葉を交わせない。孤立地獄、闇地獄、飢餓地獄、冬季は零下20度の獄寒地獄だった。

こうした扱いを受けた結果、死亡者は89名に達している。(「国立ハンセン療養所 栗生楽泉園ガイドブック」栗生楽泉園入所者自治会)

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(写真・納骨堂前で全員集合)


 

栗生楽泉園敷地内には重監房の遺構が残されて碑も建つが、私たち一行は、秋の日がとっぷり暮れて暗闇となり、残念ながらその場所へ行くことはできなかった。

 

裁判に勝つ、という意味

 

日本国憲法の施行後も続いたハンセン病患者の隔離政策が終焉したのは2001年「らい予防法違憲国賠訴訟」で患者側が勝訴して国が控訴を断念した結果である。

国はそれまでのハンセン病患者への扱いについて誤りを認めた。以後ハンセン病に関わる歴史を悉く残す努力が国によっても行われるようになった。

 

同じように人権侵害の極致を体験した被害者達に賠償も行われず、人権侵害の記録を保管展示する資料館もない「慰安婦」問題とは格段の違いがある。裁判に負け続けている結果である。

しかし、長きにわたってハンセン病への偏見が国民に植え付けられた結果、社会がハンセン病患者を受け入れる壁は依然篤い。その結果、元患者は社会復帰もできず故郷へも帰れない。故郷に帰れない遺骨が栗生楽泉園でも多く保管されている。

日本国憲法は基本的人権の保障をうたう。その人権保障を実現するためには関係者・国民の血のにじむ戦いが必要ということを感じた旅でもあった。(吉川春子)

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