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2018年11月 4日 (日)

草津楽泉園「重監房資料館」他を見学

 

第8回フィールドワーク・群馬県の旅  第1日目

   Photo

(写真・中国人殉難者慰霊の碑)


みなかみ町 如意寺(にょいじ)、草津のハンセン病患者施設へ

 

二〇一八年十月二八日(土)から二九日(月)にかけて、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール主催で、「日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶー群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉への旅」を行った。首都圏はじめ遠く福岡、山口、名古屋からも総勢二六名の参加者があった。

群馬県在住の吉村れい子さん(団長)を中心に企画し、ぐんま教育文化フォーラム運営委員、元群馬県高校教師、内藤真治先生の詳細な説明があり、群馬県の戦争遺跡、ハンセン病患者への人権蹂躙の歴史、また政府によるダム工事への中国人、朝鮮人強制労働の実態と、反面、それを償い慰霊する県民の良心にも触れた旅だった。

 

バスは東京駅を8時半に出発し1時間後には高崎駅前に到着。ここで吉村さん、内藤先生の2人が乗り込んだ。車中で高崎名物“だるま弁当”で昼食をとる。最初の訪問地、みなかみ町(合併前は月夜野町)の如意寺の「中国人殉難者慰霊の碑」へと向かう。(寺の本堂は住職親族の葬儀で使用中のため中に入れなかった)。ここは太平洋戦争中に東京都板橋区志村第三国民学校五,六年生一五五人の生活の場だった。濡れ縁には児童達の使用した木製の下足入れがずらりと残されていた。

 

如意寺に発電所導水路工事の「中国人犠牲者の慰霊碑」を訪ねる

 

一九四二年太平洋戦争開戦直後、岩本発電所建設のため利根川上流から取水する導水路敷設工事を開始、中国人労働者六〇六人と朝鮮人労働者約千人が動員された。

全長14.4キロメートルの大部分が地下を通るトンネルで、食糧はトウモロコシ、カボチャ、サツマイモが主食、一日一二時間労働という過酷な状況。日本人飯場頭の暴力・虐待…で1年足らずの間に四三人もの中国人が死亡し、近くの旧月夜野町の如意寺(曹洞宗)に葬られた。住職は「たとえ敵国の俘虜であってもしなば仏の前では一視同仁」と、手厚く葬り過去帳には出身地・年齢まで詳しく記載し遺骨は本堂に遺骨を安置した。

一九五三年に遺骨は返還されるが寺では「遺骨安置所」の看板を「取り去るべからず」と書き加えている。その後「慰霊碑を建立しよう」の声が上がり一九七〇年月夜野町(当時)の後援、自民党代議士・松村健三氏の揮毫で「中国人殉難者慰霊之碑」が建立された。

 

…そして朝鮮半島の強制労働犠牲者は?

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(写真・韓国人徴用工への賠償命じる韓国最高裁判決を報じる新聞10.31東京)

 

私たち一行は紅葉の木々に囲まれ秋空に青く高く聳えるように建つ碑を訪問し、強制労働の犠牲になった中国・朝鮮の労働者の労苦を忍んだ。

朝鮮人労働者については当時(植民地なので)日本人扱い(?)で、記録は全く残っていないという。くしくも韓国人徴用工に損害賠償支払いを命じる韓国最高裁判決が出たのはそれから3日後であった。この問題は日韓請求権協定では終わっていないのだ、ということを思い知らされた国民も多いのではなかろうか。

国と国とで条約による決着がついたとしても、個人の請求権は消滅しておらず、損害賠償請求について消滅させるものではない、ということは日本政府が明言してきた。日本政府は韓国併合、植民地支配について真摯に反省し問題解決に当たるべきである。

 

ハンセン病患者の強制収容施設・栗生楽泉園へ


私達はフィールドワークの訪問地にハンセン病元患者が共同で生活する栗生楽泉園を選んだ。

長い間、ハンセン病は遺伝性の病とされ怖れられた。しかし1873(明治6)年にはハンセンによってらい菌が発見され遺伝性はない事がわかった、感染力もとても弱い事もわかっていた(中村紀雄『死の川を越えて』上毛新聞社、他)。

しかし恐ろしい伝染病であるから感染を防ぐために隔離することが必要であるとし、1度隔離したら2度と外に出さないという日本政府の方針が長いこととられてきた。また戦争の時期と重なったためハンセン病の特効薬が患者の手に届くことが遅れれ、苦しみが倍加された。

ハンセン病患者組織はいわれなき差別と果敢に戦い、国との裁判に勝利し今日に至っている。ハンセン病患者組織の戦いは当時参議院議員であった私の目に焼き付いている。

 

一九三一年、国は患者隔離撲滅のために「らい予防法」を施行しハンセン病患者の強制隔離政策に転じた。栗生楽泉園はそれまで草津町内のハンセン病の患者自由療養地「湯之沢」を解散して、ハンセン病の患者を強制的に隔離し送り込む目的で1932年開設された施設だ。

太平洋戦争が終わり日本国憲法が施行された後もハンセン病患者の隔離政策は続いた。政府が誤りを認めたのは二〇〇一年、熊本在住の患者たちの提訴により裁判所が人権侵害認める判決を出し、政府が控訴を断念した小泉内閣の時、私がまだ参議院議員在職中のほんの最近の事である。

 

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小学生でハンセン病への恐怖を、中学生で患者の苦しみを知った 

 

私は中学1年生の担任に北条民雄著『いのちの初夜』を紹介されて読んだ時の衝撃を忘れられない。ハンセン病(当時は[ライ病]といわれた)を宣告された著者が親兄弟社会から一切切り離されてハンセン病施設に強制的に隔離される苦しみが描かれていた。長野県の小学校時代、教師から「ライ病」がどんなに恐ろしい病気かを教え込まれていた(文部省の方針だった)から、この小説の主人公を襲った悲劇が強烈に私の心に突き刺さったのだった。

 

一九八〇年参議院選挙全国区候補の私は、選挙区の群馬県栗生楽泉園を訪問し患者の皆さんと親しく懇談した。また、居住する患者さんの全戸に通じている有線放送を通じてマイクに向かって挨拶した。その時、マイクに耳を傾けているであろう数百人の患者の皆さんの一人一人たどった人生を思って、言葉が詰まった事を

(写真・栗生楽泉園の歴史、患者たちのくらしを語った入所者自治会副会長、左から4人目の男性)

 覚えている。

 

人権侵害の極致~重監房、証拠を残す意義

 

今度の栗生楽泉園見学の中心は、二〇一四年に完成した「重官房(正式名=特別病室)資料館」と遺構である。

 ハンセン病隔離政策により多くの患者が入所を強制された結果、患者の逃亡や反抗も頻繁に起きた。ハンセン施設所長には「懲戒検束権」が与えられ各施設にはこれに対する監禁所(監房)が置かれた。草津栗生園には、それよりも重い罰をあたえるための「重監房」と呼ばれる施設があった。全国の施設から「『監禁所』では対応できない」とされた患者が送られてきて草津の「重監房」に収容された。収監された患者の人権は完全に無視された。

 

 一九三八年設置の「重監房」は谷沿いの山を切り開いて108平米、高さ4メートルのコンクリートの塀で覆い厳重な仕切り8カ所内に木造平屋建ての監房があった。

 いくつもの南京錠を開けて入る房内は身をかがめてやっと入れ、広さは4畳ほど。床、壁は板張り天井に電灯の笠はあっても電球はなく外からの明かりは縦13センチ、横70センチの窓から辛うじて入る。食事は12回握り飯1つほどの箱ベンと梅干し、薄い味噌汁…運搬はおなじく患者だが看守が見張っていて言葉を交わせない。孤立地獄、闇地獄、飢餓地獄、冬季は零下20度の獄寒地獄だった。

こうした扱いを受けた結果、死亡者は89名に達している。(「国立ハンセン療養所 栗生楽泉園ガイドブック」栗生楽泉園入所者自治会)

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(写真・納骨堂前で全員集合)


 

栗生楽泉園敷地内には重監房の遺構が残されて碑も建つが、私たち一行は、秋の日がとっぷり暮れて暗闇となり、残念ながらその場所へ行くことはできなかった。

 

裁判に勝つ、という意味

 

日本国憲法の施行後も続いたハンセン病患者の隔離政策が終焉したのは2001年「らい予防法違憲国賠訴訟」で患者側が勝訴して国が控訴を断念した結果である。

国はそれまでのハンセン病患者への扱いについて誤りを認めた。以後ハンセン病に関わる歴史を悉く残す努力が国によっても行われるようになった。

 

同じように人権侵害の極致を体験した被害者達に賠償も行われず、人権侵害の記録を保管展示する資料館もない「慰安婦」問題とは格段の違いがある。裁判に負け続けている結果である。

しかし、長きにわたってハンセン病への偏見が国民に植え付けられた結果、社会がハンセン病患者を受け入れる壁は依然篤い。その結果、元患者は社会復帰もできず故郷へも帰れない。故郷に帰れない遺骨が栗生楽泉園でも多く保管されている。

日本国憲法は基本的人権の保障をうたう。その人権保障を実現するためには関係者・国民の血のにじむ戦いが必要ということを感じた旅でもあった。(吉川春子)

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