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2018年10月

2018年10月18日 (木)

女性の人権問題にビッグな贈り物―ノーベル平和賞 紛争下性暴力との闘いに授与!

 

 

今年のノーベル平和賞は、戦時性暴力と戦う2人の人物に贈られた。

 

ナディア・ムラド・バセ・タハさん(25才)

 

 

受賞の理由

彼女は、「イスラム国」に6人の兄弟と母親が殺害され、拉致され性奴隷として3か月にわたり売買された。そして20169月脱出しその後は、性暴力の体験を語り人身売買の実行犯の責任を追及した。現在は人身売買の被害者の尊厳を訴える国連親善大使に就任して活動している。

 

デ二・ムクウェゲさん(63才)

 

授賞理由

コンゴ民主共和国(旧ザイール)で、内戦状態が続く同国東部で武装勢力の戦闘員らによるレイプ被害を受けた数万人の女性の合併症などの治療に努める産婦人科医である。自分の生命の危険を冒しながら紛争手段としての性暴力を止める努力をした。訪日したことがある。

 

  性暴力被害は恥、という概念から女性を解放

 

ノルウエー・ノーベル賞委員会アンデルセン委員長は2人の授賞の理由を、彼らの行動が「戦時下の性暴力を白日の下にさらし、犯罪者への責任追及を可能にした」、また「MeTooと戦争被害(との戦いとの)…共通点もある。それは虐待の実態と女性の苦しみに目を向け、性被害が恥だという概念から女性を解放し、声をあげることの重要性だ」と語っている。

「今年の平和賞は2016年に続いて過去2番目に多い計331候補(216人、115団体)の中から選ばれた。賞金は900万スエーデンクローナ(約11300万円)  Photo

(写真は自分の「慰安婦」としての苦しい体験を語る金学順さん1994年埼玉教育会館)

金学順さんのカミングアウトもノーベル賞に匹敵

 

私はノーベル平和賞が戦時性暴力と戦っている2人に授与されたニュースに、韓国人「慰安婦」の金学順さんの勇気ある行動を思った。性暴力の被害者として名乗りを上げることがどんなに困難なことか。金さんは1991年、今から27年も前に名乗り出て、「慰安婦」問題を白日の下にさらし、性暴力被害者が次々に名乗り出るきっかけを作った。

女性史が専門の藤目ゆき・大阪大学大学院教授は「千田夏光さんの本で『従軍慰安婦』を歴史的事実として知っていたが性暴力が恥辱とされている中で、被害を受けた女性がメディアに登場し怒りを全身全霊でアピールされる姿に感動と尊敬を感じた」と語っている(201878日「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの講演・東京)。

彼女の勇気ある行為は称賛しても称賛しきれない。彼女は1997年死亡しているので今回のノーベル賞の対象とならないが彼女の行為もこの平和賞に該当すると私は確信する。

 

金学順さんの受けた性暴力~同年12月日本政府を提訴の訴状(吉川要約)

〇1923年中国東北地方吉林省生まれ。父親は抗日運動をしていて金さんが生後100日になる前に拷問で殺された。貧しいので学校をやめ子守として働く。

〇金泰元の養子となり14歳からキーセン学校に3年間通う。養父に連れられカッカ県鉄壁鎮へ。ここで養父に売られ、将校から中国人の家で強姦された。

〇中国人の空き家が「慰安所」だった。「アイ子」と名付けられ、朝8時から30分おきに兵隊が来た。週または月1回軍医の検診を受け、結核にもかかった。 

〇趙という男性と「慰安所」から逃げた。彼と結婚して、娘と息子が生まれたが夫と2人の子供も幼く亡くなった

〇死のうと思ったが死にきれず韓国を点々と家政婦をして、今は生活保護で暮らしている。

〇日本政府は悪いと認め謝るべきだ。事実を日本と韓国の若者に伝え二度と繰り返さない事を望む

 

なお、金学順さんが「慰安婦」にされた経緯について強制連行なのか人身売買なのか(学者・運動団体の間でも)異論があると聞く。私も正確な事実確認の必要性を否定しないが、金額順さんが性奴隷とされた経緯の如何によって彼女の苦しみ、あるいは勇気ある行動が減じるものではない。また、日本人「慰安婦」は殆どが人身売買であるが「慰安婦」としての補償・謝罪を行わなくてよいとは思わない。

 

「慰安婦」問題を抱える日本の責任

 

河野太郎外相は106日、東京都内でコンゴ民主共和国オキトゥンドゥ外相と会談し、ムクウェゲ氏のノーベル平和賞受賞決定に祝意を伝え、さらに「コンゴ政府がこの問題に真剣に取り組み、成果を上げていることに敬意を表したい」と述べたという(「週刊金曜日」10.12号)。元祖性暴力の「慰安婦」問題の加害国である日本の外相としてまるで他人事ではないか。しかし「慰安婦」問題はいまだ国連・国際社会から責任を問われている日本にとっては他人事ではありえない。

ちなみに父親の河野洋平元官房長官は1993年の『河野官房長官談話』で日本の加害責任を認めて謝罪し再発防止を誓っている。親子は別人格であり、親が立派でも子供がそのように育たない事例は数多いが、あまりにも違い過ぎる。

安倍総理が「慰安婦」問題の対応に不熱心な背景には、安倍内閣に40パーセントという高い支持率を与えている国民の存在がある。そして、国民が「慰安婦」問題に無関心な理由の一つに、日本人「慰安婦」問題を放置してきた(誰が?私を含めて…)つけでもあると私は自省している。

 

日本にとって未解決な戦時性暴力問題


日本では「慰安婦」問題のみならず、満州からの逃避行でソ連兵に差し出された女性たち、敗戦直後アメリカ進駐軍のために全国に「慰安所」を設置したとき駆り集められた女性たち等々戦時性暴力の犠牲になった日本女性は謝罪、補償はおろか顕彰もされていない。その結果現在起きている多くの性暴力加害者が責任を問われない結果多くの女性が泣き寝入りする風潮が続く。

改めて「慰安婦」問題にきちんと決着をつけることが女性の人権を守るためにいかに大切かを思う。わずかな希望は、#Me Tooの影響が日本にも少し及んで日本津々浦々で起きるセクハラ被害に女性が声を上げはじめて、責任を取って地位を去る男性のニュースが連日報道される事である。

ノーベル平和賞がこの動きを日本でも加速する力になることを期待したい。(吉川春子記)

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写真・20139月、京都で自らの体験を証言するナヌムの家の「慰安婦」3人と、司会をする吉川・左端


 

 

 

 

 

2018年10月15日 (月)

ご参加ください!旧日本軍が、南京、上海で行った行為を検証します

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虐殺の死体累々となった揚子江河岸

 


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南京市の「利済巷慰安婦資料館」前の北朝鮮籍の慰安婦朴永心さんの銅像

~「東京都文京区男女平等センター祭り」参加企画~

ワークショップ

  加害の歴史を見つめる南京・上海の旅から学んだこと

日時:2018年10月27日(土)13:30~16:30

場所:文京区男女平等センターC研修室

    (文京区本郷4-8-3  ☎03-3814-6159)

【お話しする人】

旅行団長・大森典子・弁護士

同参加者・小竹 弘子・元都議会議員

       笠井 恭子・当ゼミナール運営委員

       菅間  轍・同 常任運営委員

       後藤ひろみ・事務局次長

       吉川 春子・当ゼミナール代表(まとめ)

【司会】  棚橋 昌代・同 事務局長

 

達は昨年秋、第7回フィールドワークで日本人にとって忘れてはならない加害の象徴・南京事件の現場と、「慰安所」第1号を設置した上海を訪問しました。

 

南京大虐殺の被害者の御家族や中国人「慰安婦」の調査と資料館建設に努力された方々にもお会いし、歴史の事実を記録し、伝えていくことの大切さ、民間交流の意義の大きさを学びました。

 

私達はこの歴史の事実にどう向き合い、加害国の国民として何をなすべきか、みなさんと考えたいと思います。

 

【アクセス】

 

都営バス 真砂坂上下車徒歩3

 

都営地下鉄三田線 春日駅下車徒歩7分(A2

 

都営地下鉄大江戸線 本郷3丁目駅下車徒歩5

 

東京メトロ丸の内線 本郷3丁目駅下車徒歩5

 

東京メトロ南北線 後楽園駅下車徒歩10 

 

(春日町交差点から本郷3丁目交差点までの坂道の春日通りの途中、本郷4丁目交差点にあるハンバーガー店の所を、春日から来るとは左、本郷3丁目からは右に入るとすぐ、本郷小学校前にあります)

 

みなさま、ぜひご参加ください



28回「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール

連絡先:文京区本駒込6-14-8-602吉川気付 

 

当日連絡先 090-6505-3500(吉川)、 090-4227-7478(棚橋)

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「上海・南京の旅の報告集」500円で当日販売

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上海師範大学構内の少女像の前で、旅行参加者が記念撮影



   

 

     
 

 


  

 



 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

2018年10月 5日 (金)

大原富枝著『めぐりあい』 ~日本文学が描く遊郭の女と日本人「慰安婦」~

 

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これは、戦争に負け様変わりした日本社会を生きる二人の女性の物語である。

一人は、南方の島の「慰安所」の元日本人「慰安婦」の榊光子(節子)。もう一人はマッカーサー指令で廃止された遊郭の後続性産業“青線”で働く村中菊代である。

出身地も経歴も異なる2人だが、生きる支え“希望の星”は共に明石義人である。彼は南方でアメリカ軍のB29の搭乗員を殺しBC級戦犯を裁く軍事法廷で「30年の重労働」の判決を受けて現在巣鴨プリズンに服役中である。

 

米占領軍(GHQ)が放った、女性解放の嚆矢

 

<『めぐりあい』が描く、敗戦直後の日本>

 

1946(昭和21)年太平洋戦争敗戦の翌年、マッカーサーの「娼妓開放に関する覚書」が出されて日本の“伝統”であった遊郭が廃止され「人身売買」と「自由の拘束」が許されないことになった。それ以前は、娘たちは親から金で売り飛ばされて借金は膨らみ身体の自由は拘束され、いつ返せるか当てもない生活だった。

GHQの指令で女性たちを縛って居た借金がチャラにされた。女性史における大転換である。占領軍の政策として、農地開放あるいはそれ以上に意義は大きい。

これまで貧困な少女・若い女性達を金で買って売春をさせて大儲けをしていた男たち=性産業の業者たちは娼妓たちの借金を棒引きにされて打撃をこうむったが、GHQの指令なので敗戦国の男たちは抵抗できない。こうして革命的な女性解放事業が実施された。

 

   売淫は認めたGHQ

 

米占領軍によって「人身売買」「自由の拘束」は許されないことは明確に打ち出されたが同時に、「生計の資を得る目的をもって、個人が自発的に売いん行為に従事することを禁ずるものではない」との項目もあった。貧しい娼妓たちにとっては救いだった。娼妓たちは私娼として売春が認められた。遊郭地帯は赤線(指定地帯)として認められた。

GHQ(米占領軍)が嚆矢を放った性産業からの女性の解放への道は、七十数年後の今も継続中である。なんと長い道のりであることか!(吉川の嘆き)

 

『めぐりあい』のストーリー

 

<村中菊代VS.明石義人>

 

12歳で親に身売りされ苦界を泳いできた菊代は、GHQの指令で借金が棒引きされ自由になった。しかし、本当の食糧難と本当の空腹、ひもじさは戦後にやってきた。郷里の母親からは菊代の弟の学資の仕送りを求めてきている。売春稼業から足を洗うことはできなかった。収入の手段のない菊代は私娼の街に流れてきた。「2丁目の女」(新宿の赤線地帯)に戻ることは食い止めたが、「特飲街の女」「青線の女」とならざるを得なかった。

 

1952年、血のメーデー事件が起きる。明石義人は巣鴨プリズンの“同僚”とメーデーに参加して警察官の暴行を受け頭に怪我をした。警察はメーデー参加者を指名手配し、街角だけでなく家庭まで訪問して次々逮捕するという蒼然たる中、ケガ治療の包帯を巻いて帽子で頭を隠し、追手から逃れて特飲街の菊代の店の客となる。事情を知って菊代は二人の“客”を匿い件の客は無事逃げおおせる。この出来事を契機に菊代の心には明石義人への思いが深く刻まれる。

 

対日講和条約発効で「巣鴨プリズンの囚人たちの釈放相次ぐ」とのニュースが報じられて村中菊代はいてもたってもいられず、巣鴨プリズンに明石義人の面会に訪れる。突然の訪問に明石は、青線の女性が急に会いに来たので、「私はまたいつかの時に借金でもしてきたのかなと思って」と応対し、菊代は深く傷つく。

菊代はやがて明石義人には節子という恋人がいることを知る。しかし明石への思いを自らの「青線」脱出のエネルギーに変えて、知人夫婦の援助を得て、衣料品販売の商売に打ち込みたくましく戦後の日本を歩む。菊代は戦前の遊郭から戦後「青線」(私娼)を経て、経済的に自立してゆく女性の成功例として描かれる。

 

<榊光子(節子)VS.明石義人>

 

 騙されて「慰安婦」に

戦争中、明石義人は仏印から移っていった南の島で「慰安婦」節子に出会い、心を惹かれた。

彼女は「あたし、看護婦になるつもりだったのよ、南方に従軍したら早く資格が取れるって教えてくれた人があったの。騙されたのよ。大ウソよ、もう日本に帰れない、帰らないわ」と明石に訴えた。東北の生れで、雪国の娘らしく肌は白く豊かで輝くような身体をしていた。またたく間に流行りっ子になって、将校たちの間で彼女をはり合う騒ぎであった。少尉に任官したばかりの学徒出陣の彼は、士官学校の専任少尉や中尉の向こうを張って女を争う気にはなれなかったが、節子も明石義人に強い思いを寄せていた。

明石義人は「こんな南の島くんだりまで流れてくるについては、一人一人、それぞれの事情はあったのであろう。しかし、一歩踏みちがえるとずるずると奈落へ墜ちてゆく女の生涯というものが、彼にはもどかしい気がする。騙されてこんな生活に落ちたと嘆く節子だけは元の健全さに何とか立ち返らせてやれないものか」と思う。

…しかし(戦争中のこと故)彼の命には保証がなかった。「いい加減こんな生活からは足を洗うんだ。うかうかとこんなところで日を過ごしているべきじゃないよ。絶対に秘密だが、戦況はよくないんだ。君を内地に返しておきたいんだ」と告げるが、…しかし要員引き上げの船より先に赤石義人の(ニューギニアへの)転勤命令が来た。

 

巣鴨プリズンへ舞い込む1枚の葉書

 

差出人の名前を見ておっ!と明石は思った。「お久しぶりです…私は今、病気して療養所に入っています。ここであなたの帰られたことを知って心も体もふるえながらこの葉書を書いています」。結核療養所のある町は東京西部の郊外にあって楢や橡の木が散在して武蔵野の面影が残っている。節子はタオルの寝巻の上に銘仙の羽織を着て立っていた…

「どうしてわかった?おれがあそこにいることが」「偶然なの。事務所にいる人の兄さんが巣鴨に居るんですって。話しているうちにひょいとあなたの名前が出たの…」

「いつ病気になったの」「もう長いのよ、終戦の翌年からですもの」

「手術はどうなのだろう」「それができにくいところらしいの」

「家の方はどうなっているの。お母さんはあの頃いなかったんだなあ」「九つの時死んだの。いたらあんな南方へなんか流れて行かなかったわね」

「お父さんは」「一昨年死んだの。兄がいるけど子どもが沢山いるし…全然頼ってはいないわ」「泣くなよ、おれが帰って来たんだからもうそんな不自由はさせないよ。あんな所にいてもおれも何とか稼ぐことはできるようになったんだから」。 

 

若い医者は、明石は節子の病状について

「あなたにも見えるでしょう、空洞が3つもあるんです。この患者の場合…なおすてがかりがないのです。せめて5年前に栄養状態が手術に耐えうる程度だったら、僕なら切ったと思いますがね。僕は4年前にここへ来ました。すでに手遅れでした」

明石「彼女は希望は持てないのですね」

医者「本人がこうしたいということでしてやれることがあったらしてやってください。旨いものを食わせてやって、なるべく長持ちさせてください、それだけです」

 

<節子に結婚衣装を着せる菊代

~もう一人の自分がそこにいた…>

 

 なじみの喫茶店に偶然、菊代が現れる…明石義人は節子への見舞を頼む。「実はもうあんまり長くないとはっきり言われましてね。医者が会いたい人には合わせるように、と言うのです。」

 

菊代は明石の頼みを受けて自分の営む衣料品の商売の客でもある節子の入院する療養所へ見舞った。

節子は「打ち明け話ししましょうか。昔の恋人が生きて還って来たの。南方から…ねえ、よく生きて還って来たものでしょう。私元気になったら結婚式をあげるの」「今更結婚式なんか…とあの人は言うのよ。でも私はやっぱり結婚式をあげたいの、一度でいいから…わかってくれるでしょう、あなたは女だから」最後を節子は息切れしながらいった。

「そりゃあたしは、南方くんだりまで流れて行った女ですよ。騙されて…だからといって、どうしてまともな結婚がしてはいけないのでしょう?ねえ、そうでしょう?」

 

菊代は、なんとなく胸を引くような、ぎょっとした気持ちで相手を見た。まるで菊代自身の過去を知り抜いているような節子の愬(うったえ)であった。そうか、この人は南方で、そういう女として明石義人と知り合い、愛し合ったのかと初めて菊代は納得する。

 

節子の中に、菊代は自分を見ていた。もう一人の自分がそこにいた。もしも菊代が健康に恵まれていなかったらおそらく光子と同じ道をたどったに違いない。菊代は考え実行した。

彼女は商売の先輩に花嫁衣裳の調達を頼んだ。「せめて結婚式の着物をあの人に上げたいの。…あの人、考えてみると私自身みたいなんだもの。」「あの人にしてあげるというよりももう一人の自分にしてやるのと同じきもちなのよ」。

菊代の持って行った結婚式の留めそでを見て、節子が意識が朦朧としながらも、満足して喜ぶところでこの小説は終わっている。

 

吉川のコメント

~時代の制約の中の『めぐりあい』~

 

その1

戦争を挟んで日本女性の地位は大きく変わった。女性の人権のかけらもなかった戦前の時代から、敗戦後の憲法24条はじめ女性も人間らしく生きられる仕組みがつくられた。戦争、敗戦の傷痕を引きずりながら、困難な中でも女性は希望をもって生きられる。そうしたことをひたむきに求める女性の群像をこの小説は描こうとしているのではないか。

戦前の女性の中でもさげすまれ、みじめな境遇にあった売春によってしか生きられなかった女性がたくましく、或は病気に侵されながら人間らしく生きようとする姿を描くという点からして、昭和20年8月までは書けなかった新しい時代の小説であろう。

 

その2

ここに登場する明石義人はじめ男性陣が、性産業に働く女性への差別意識を持っていないないことについては、当時の一般男性の感覚とはかけ離れていると思うが、その理由は小説からは感じとれない。

 他方男性達は当時の世相でにわかに盛り上がっていた講和条約をめぐる論争、平和運動に一定の関心を持ち、運動にも参加していた進歩的な男性であったが、慰安婦、や遊郭、青線等性産業での自分たちの遊びに後ろめたさも違和感も持たない(らしい)。

この点は、民主主義、男女平等思想が嵐のように襲った時代であっても女性への固定観念=差別意識は戦前の男性のままである。性産業に働く女性に同情を寄せながらも、そのような制度の中に位置づけられている女性について違和感を持たないかのようである。女性を対等な人間として見ているのかとの疑問がわく。小説からはそれに対する女性作家の批判的な眼は感じられない。

 

その3

『めぐりあい』は女性への視点はあってもジェンダーの視点にやや欠ける、と言ったらこの時代の作品へのないものねだりになるのかもしれない。

これは金学順がカミングアウトし日本社会で「慰安婦」への認識が一挙に広がる1990年代の10年前に書かれた小説である。そのためか、遊郭、「慰安婦」の描き方に決定的な物足りなさを感じる。また既にメキシコ、ナイロビで国連世界女性会議が開催されてジェンダー思想も一定程度日本にも影響を与えていたが作品には反映されていない。結果、この小説については“時代の限界”を感じる。

むしろ逆に1991年以降の女性への暴力、人権思想の広がり、深まりについての日本社会の進歩を認識できる。それは日本の進歩勢力に対して金学順のカミングアウトが、日本の加害責任や女性を性奴隷にすること等の女性の人権問題への取り組みを促した結果といえる。

小説の甘さを云々するよりも、この間の日本の女性の人権をめぐる運動の発展、思想の進歩を評価すべきであろうと思う。今日も運動を継続する女性達の歴史を推進するエネルギーに喝さいを送るべきであろう。(以上)

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