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2018年5月

2018年5月31日 (木)

松代大本営跡を、日本の侵略戦争の遺跡として保存することを求める

 

私は2018年5月20日に民主長野県人会の旅行で松代大本営跡を訪れました。訪問は今回で6、7回目になりますがここ、松代大本営跡は国の責任で保全され、公開する必要があることを改めて感じました。それは『政府の行為によって戦争の惨禍の起こる事のないようにすることを決意し』(日本国憲法前文)た私たち日本人の責任であると思います。

 

侵略戦争推進の精神的バックボーンとなった靖国神社は、今も戦前の思想そのままでありながら、多額の税金で維持管理されている一方、侵略戦争遂行の戦争遺跡にほとんど国費を投じない日本の在り方は、再び戦争を引き起こす危険性があると痛感します。

 

長野県の由緒ある城下町松代(長野市)に、第2次世界大戦末期に天皇、大本営、霞が関の行政機能を移す大計画で、巨大な地下壕(大本営地下壕、あるいは象山壕等と呼ばれる)が建設されました。

昭和197月、サイパン陥落、グアム陥落で日本全土が連合軍による爆撃可能になりました。

日本の主要地方都市そして東京空襲が迫り、さらに地上戦も想定される中、時の権力者は天皇制維持のために最後まで戦う態勢をとって大本営、国家行政組織(霞が関)、NHK、電信・電話等を安全な地へ疎開させる巨大地下壕建設を極秘裏に進めました。

 

 長野県民を開拓団として中国へ送り出した結果、地下壕建設の労働力が足りない分を朝鮮人を動員し過酷な労働に従事させ200人の犠牲者を出しました。

 

地下壕のすぐ近くには「慰安所」を設けました。明治時代から製糸工場として栄えた六工社の元娯楽場を、持ち主の渋るなか警察が無理やり「慰安所」として借り上げ、富岡製紙工場で名を挙げた和田英という優れた女工指導者の歴史を、女性の性暴力の場に変えました。

 

長野県で幼少期を過ごした私は、1990年代に参議院予算委員会で、長野県選出の羽田孜大蔵大臣(後の総理大臣)に、「松代大本営跡」を国の責任で保存するように要求しました。当時初めて松代大本営の豪に入りその重要性を感じた私はたまたま羽田氏が長野県選出ということもあり、故郷の重要施設ということなので理解を得られると考えたからです。

しかし、羽田氏は上田市が選挙区の中心で長野市とは近いこともあり「自分も子供の当時壕の中に入って遊んだ」ことなど述べる一方で、「文化財の保護は100年未満のものはむつかしい」と消極的な答弁でした。

 

私はその後、ドイツに行ってナチスの強制収容所跡もことごとく保存され、あるいは破壊された物は再建され、ミュージアムを建設し公開されていることを知りました。ゲシュタボの建物(地下)はナチスの地勢史資料館として、ヒトラーのあのような暴力的行為をなぜ可能にしたか研究、資料公開施設になっています。

 

河野官房長官談話も指摘しているように私たちは「誤りを再び繰り返さないために、後世に事実を引き継」がなければなりません。日本のミュージアムは加害の事実をほとんど展示していません。国民も自らの戦争被害だけを声高に叫ぶとしたら、国際社会との友好関係を築くことはできません。侵略性戦争遂行に最後の最後までこだわった日本のかつての指導者の愚を、肝に銘ずる施設として松代地下壕を国家の責任で保存、公開することを求めます。

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写真・松代にある海津城は真田家が幕末まで10万石の城主であった。石垣が美しい)

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(写真・大本営跡の地下壕で説明を受ける一行)

 

<資料・松代大本営跡(象山壕)とは>

(「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール・ブログ吉川春子引用・2016914日訪問)

 

太平洋戦争末期、地上戦をにらみ199411月より大本営、霞が関の行政機能、天皇の御座所を東京から長野県に疎開させるために象山地下壕を掘った。

昭和1910月工事命令(小磯内閣)縁起を担いで、111111時に初めの発破かける。

昭和20816日工事中止命令(天皇の戦争終結宣言の翌日!)

 

<大本営とは?>戦争のときに天皇の下に陸軍参謀総長(陸軍の作戦と指揮を執る最高指導者)、海軍軍令部長(海軍の作戦と戦争を指揮する)が最高の作戦を練り指揮する機関。日清戦争が始まる1893年設置。その後、1904年(日露戦争)、1942年~45年(アジア太平洋戦争)の3カ所のみ

大本営を長野県へ移転させようとした理由

 

  地理的条件 長野県は地上戦で真っ先にやられる東京からは離れ、飛行場があった(今はない)

  地盤が固く山が沢山あった

  都会から疎開している人多く、労働力が豊かと思われていた。しかし当時長野県は満蒙開拓団に23千人も送り出していたので高齢者、女性子どもが多かった。他の県より労働人口は少なかったのが実態で、計画に誤算を生じた。その結果、朝鮮人労働者を6,500名集める

  信州は神州に通じるー皆神山の地名がある(この根拠は疑わしい)

そのうち②が最大の理由である

 

そして、地域住民109戸、124世帯の住民が強制的に立ち退きさせられ平穏な生活が奪われました

松代大本営・地下壕の規模

 

陸軍東部軍が西松建設、鹿島建設とその下請けで工事行う。幅4.3M、高さ2.7M。

総工費:2億円弱(研究費、調査費含め)~今に換算すると4,000億円

人 員:延べ300万人(11万人)*女性は入れない、山の神が怒る(嫉妬する)

(地下壕群、3個所合計で1万米)

工事は初めは、8時間3交代制でスタートしたが途中から12時間2交替制に変更

  大本営~天皇の御座所予定地 舞鶴山1600M。 20163月まで地震計設置、いまは無人

  象山 5900M(5.19には公開)、国家公務員、NHK、NTT-1万人~地下壕を公開中

  皆神 1900M 皇族居住棟予定。しかし地盤が弱いので食糧庫に

さんかん機 56センチ穴にダイナマイト仕掛ける 穴が小さいので危険。ズリ(岩を砕いたかけら)を運ぶトロッコの線路敷設の跡(レールをはがした跡あり)

 

朝鮮人労働者

 

長野県は1938年ころから農民を満蒙開拓団として全国トップの33千人送り出し、残されたのは、高齢者と女性、子どもであった。誤算の結果、大本営設営の労働力を補うために西松組、鹿島組が6,500人の朝鮮人労働者を使役した

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(写真・象山壕入口近くに建つ朝鮮人犠牲者追悼碑)

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(写真・地下壕の壁に書かれた文字等、大邱と読める)

【労働者の集め方】

 

  4,000名は徴用令に基づき朝鮮半島から5回に分けて強制的に連行。初めは会社の「募集」方式、1942年朝鮮総督府が管理する「官斡旋」方式、1944年国民徴用令を適用。徴用令で集めて脱走を防ぐ

  在日朝鮮人に松代に働き口あると誘う。

日 当――日本人4円、朝鮮人(親方)135

食 事――高粱のおかゆ、塩味。自分で来た人は金を持っているので近所の人から食料を買って食べたが、強制連行の人々は金を持っていない

宿 舎――きよのの飯場に3800人いた。三角兵舎~冬寒く夏は暑い。長野県は寒冷地のため、冬は宿舎の中も-3℃~4℃になった

犠牲者数――200名以下と思われるが不明。名前は4人だけわかるのみ

崔小岩(チエ・ソアン)自主的に来た人

 朝鮮人労働者は日本敗戦後は暴動も起こさず「万歳」と各地に散っていった。実態については、証拠の書類を全て燃やしたので何もわからない

少し経った頃から、チエ・ソアンさん(日本名を催本小岩)が生き証人として徐々に重い口を開き、いろいろわかった。残念ながら1991年死去(71歳)、死因はじん肺

 

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(写真・金網の向こうは非公開の空間)

沖縄地上戦と松代地下壕建設との関連

 

 ガイド氏の話を聞いて私は大変驚き、また心が痛んだ。戦争末期米軍を沖縄にくぎ付けにしておいたため、沖縄住民に被害を増大させたのだという。沖縄は、1945530日、首里陥落、それでも降伏しなかった。その最大の理由は、大本営地下壕工事推進の時間かせぎのため!だというのだ。

616日、阿南陸軍大臣が松代を視察し工事の見通しを得た?結果、621日阿南大臣が沖縄の牛島中将に「本土決戦の準備が完成」と打電。623日牛島中将自決、沖縄戦の組織戦が終結した。

 

「米軍上陸から3か月、10数万人の住民と10万人の将兵が死んだが司令官は、これを『軍の任務を遺憾なく遂行できた』と言って、『同慶の至り』とし、この事態にいたっても、生き残った将兵に対し、降伏させず、最後まで戦って死ねと命令した。

将兵らは、住民の保護について米軍と交渉することもせず、彼らを砲煙弾雨の中に放置したまま自決した」(「ひめゆり平和記念館資料館ガイドブック」P50

 

726日連合軍、ポツダム宣言、

815日日本ポツダム宣言受諾を表明(この間に広島長崎に原爆投下)。

日本政府の情報収集能力の完全なる欠如。この間に国体護持(天皇の地位まもる)の可能性を探る

ソ連に戦争終結の仲介依頼(ヤルタ協定で、ソ連はドイツ敗戦後3日後に対日宣戦布告することを知らなかった!

 

子や孫に伝えよ―ガイド氏

 

天皇と地下豪~天皇御座所の天井はコンクリート(3月まで人がいた。今は無人地下壕)。敗戦後の昭和2210月、天皇が長野県訪問の際、林虎雄知事に「このあたりに無駄な穴を掘ったというが、どこか?」と聞いたという。天皇が地下壕について知らないことは絶対ない(ガイドの塚田氏)

「今後、戦争に巻き込まれないために、この地下壕について、今日見学した皆さんがぜひ内容を伝えてください。」と話を締めくくったガイド氏。聞いている私たちも思いを共有した。

 

 

数少ない?日本国内の「慰安所」

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(写真・像塹壕入口の小さなミュージアムの看板)

 

地下壕入口付近に元製糸工場六公社の工女娯楽場の建物を強制的に借上げ「慰安所」を設けた。ここには朝鮮人一家5人と用心棒、「慰安婦」4人(3人との証言もある)がいた。韓国人「慰安婦」カンドッキョンさんがここにいた。写真左・韓国人「慰安婦」カンドッキョンさんの描いた「松代の慰安所」1996

 

<吉川コメント>

“遷都”(天皇の信州への疎開)準備のために本土空襲、地上戦を1日でも遅らせるべく、沖縄の司令部(首里)陥落後も「頑張らせ」、沖縄県民の被害を拡大した政府。国民の犠牲をかえりみず、ひたすら天皇制維持を策した政府の眼中にあるのは国体護持のみ。地下壕建設の進捗状況を見ながら沖縄司令部にサインを送った陸軍大臣の非情さに思わずおののいた。

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(写真・姥捨て駅から見下ろせば棚田風景)

 

2018年5月 1日 (火)

まぶしい!若きマルクス・エンゲルス~映画「「マルクス・エンゲルス(THE YOUNG KARL MARX)」を見る~

 

 

この映画は1818年生まれのマルクス、6歳年長の妻イェニ-(貴族階級出身)、マルクスより2年若いエンゲルス。3人の若者が社会変革を目指しかの有名な「共産党宣言」を著すまでの物語である。

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 産業革命による生活の糧を奪われた農民の姿

 

映画の冒頭、ドイツ・ライン州、薄暗い森の中で落ちた枯れ枝を拾う貧しい服装の農民たち。彼らを騎馬警察官が容赦なく蹴散らし暴力的に排除するシーン。産業革命で資本家、地主も肥え太り貧富の格差は広がるばかり。落ちた枯れ枝を薪として使い生計の足しにする人々に初期資本主義の過酷な姿を見る。

 入会権は日本の民法でも認められているが戦後も20世紀後半山林地主との長い戦いがあった。

1843年プロイセン政府はそれまで慣習によって認められていた地域の農民の木材採取(落ちた枯れ枝等)を禁じる「木材窃盗取締法」が施行される。森林の枯れ枝も地主の財産と主張し入会権を認めない州議会議員達に対し、マルクスは貧しい人たちの慣習的権利を奪うこの法律を厳しく批判する記事を「ライン新聞」に書く。

 

     暴利を貪る資本家を仮借なく追及するマルクス

 

マルクスが健筆を奮った「ライン新聞」は官憲によって発禁処分となり、ここへの記事の執筆を生活の糧としていたマルクスも生活の糧を失った。

それに加えて、マルクスの仮借ない鋭い資本家批判の論文に対し、仕事を奪われ、資本家の手先である官権はマルクス一家に対し居住するフランスから24時間以内の国外退去を命じられる。幼子と、妊娠中の妻イェニ―とともに途方に暮れるマルクス。ベルギーに生活の拠点を移すが個々にも居られなくなり,一家でイギリスに渡る。

「彼等は裕福な家庭に育ったものの当時の不公平、不平等、出版物などの検閲を受け入れることができず、そんな窮屈な世界を変えようとしたのだ」(ラウルペック監督)。社会に妥協する道を選ばず、貧困に負けず、変革の困難な道を歩む3人の姿に感動した。

 

マルクスの父親はユダヤ人で弁護士である。マルクスもボン大学からベルリン大学に学ぶ知識階級である。この映画のもう一つの見所はエンゲルスである。(映画の原題は「若きマルクス」となっていてマルクスの方に焦点を当ているが…)

 

    階級を超えた恋が、

「家族私有財産国家の起源」に結実?エンゲルス

 

エンゲルスはイギリス・マンチェスターの紡績工場を共同経営する父親を持つ、いわば社長の“お坊ちゃま”である。彼と父親との確執を映画は描く。

映画では、エンゲルスの父親が経営する紡績工場の過酷な労働条件の下で働く状態に不満を述べる女子工員が解雇され、啖呵を切って工場を飛び出すシーンがある。若きエンゲルスがこの女工を追って貧民窟へと足を踏み入れる。これがきっかけで階級を超えた恋に陥り二人は結ばれる。

エンゲルスの著す数々の著作から非常に温かいものが感じられるのもこうした貧しい労働者の生活に目を向け、実態を知っているエンゲルスならではといえるかもしれない。

貧しい女工を愛したエンゲルスが後に女性解放の書『家族私有財産国家の起源』(『起源』)を書き上げるのも、女工との恋で、女性の置かれているあまりに過酷な状態からその淵源をさかのぼったのではなかろうか。

マルクス理論はジェンダーの視点に欠ける」と批判を受けることがある。しかし、エンゲルスは女性解放のバイブルともいえる書をなし、また女性差別開始時期について「女性の世界史的敗北」にあると喝破した。今日の女性への暴力の淵源を突き止めている。

私はその昔、『起源』について各地で講師活動をして勉強し、階級社会をなくすことが男性による女性への暴力支配の廃絶の道であり、それ以外ない事を学んだ。(いわゆる一元論)。こうした提起の根底!に階級を超えた恋が、あったのではないか。

 

     若者にこの映画を薦める

 

私の人生を変えた重要人物、マルクスとエンゲルスの映画ということもあり、上映2日目、岩波ホールへ駆けつけた。上映時間30分前に行ったのに切符売り場は長蛇の列で、私の整理券番号は122番。30年も岩波ホールに通って映画を見ているがこんなに観客が多い場面には初めて出くわした。マルクス、エンゲルスは遠からず、の感がした。

しかし、「本作は若者のために制作し、(ドイツ、フランスなど)その反応も素晴らしいものだった」(ラウル・ペック監督)との言葉に反して、日本では行列の中心が私を含めて高齢者で、若干の中年世代が混じり、若者の姿は殆どなかった。

6月中旬まで上映されるので、ぜひ若者に多く足を運んでほしい。社会の矛盾に切り込み社会を変革者の姿にぜひ接してほしいものである。(了・吉川春子)

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Photo_3 (文京区・近所のお宅のバラ)

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