金子兜太氏とトラック島の「慰安所」、そして男性のセクシャリティ
(写真・金子兜太氏からいただいた著書『荒凡夫 一茶』白水社2012年)
一茶に似た句風?の兜太氏
2月20日、俳人の金子兜太氏が誤嚥性肺炎による急性呼吸促迫症候群のため98歳で亡くなった。朝日新聞の俳句の選者として、また近年は東京新聞平和の句の選者として90歳を過ぎてなお活躍をされていた。心からご冥福をお祈りする。
私は「議員をや止めたら暇で時間を持て余す」と一時期知人から俳句の手ほどきを受け、我が郷土の俳人一茶も何冊か読んだが、兜太氏の句風はどこか、一茶に似ていると感じることがある。一茶がエルや、スズメなど小さい生き物に共感し、兜太氏は反権力を貫いているからかもしれない。兜太氏は戦後日銀に復職しても労働運動に関わり出世街道を歩まなかった。
金子兜太氏が太い筆で「安倍政治を許さない」と揮毫しそのコピーをプラカードに掲げ、カバンに括り付けて多くの人々が、安倍内閣の戦争へと暴走する政治へ抗議の意思を表明していた。
金子さんは熊谷市在住だったので、埼玉県から国政選挙に出馬した私は自宅にご挨拶に伺ったことがある。私が30歳代の頃である。
二度目の自宅訪問は2007年に参議院議員をリタイアした後に、金子さんの熊谷高校のずっと後輩にあたる、秩父市在住の藤元勝夫さんに案内していただいて、大森典子弁護士と一緒に熊谷市のお宅を訪問した。
「慰安所」に通わなかった兜太氏
きっかけは、私が参議院議員会館で、元軍属の松原勝氏の講演を聞いて金子さんもトラック島にいた事を知った。松原氏はご自身の「南国寮出入證」(「慰安所」の入所カード)を示し勇気をもって「慰安所」の体験を証言した時に、金子兜太さんにも言及されたからである。
金子さんは大学を出てすぐ、太平洋の真ん中のミクロネシアのトラック島に海軍中尉として赴任していたが、「自分は慰安所には通わなかった」と著書(『二度生きる』)に書かれている。
どこでも「慰安所」の前には日本軍将兵が列をなしたと聞いていたので、そこへ行かなかった軍人がいた事に驚いた。
金子氏は人なつこく、政治の話しもお好きで、ちょうど3.11の福島原発の大事故の直後、総理大臣だった官直人氏に対する厳しい批判と、官降ろしが民主党内からも、野党自民党からも撒き送っている時だったので私にこんな質問をされた。
「福島原発のメルトダウン事故に対して菅総理はとても頑張って居ろと思うが吉川さんはどう思うか」と。
「私も同感です。原発事故は自民党が推進してきた原発政策の結果で、民主党の責任ではない。誰が対応してもこんな事故に有効に対応できない。自民党もよく言う、と思います」
私は率直に、トラック島の責任者で、「慰安所」の責任者でもあった金子さんが、何故「慰安所」に行かなかったのか、と伺った。
金子さんは、「自分は絶対に「慰安所」には行かないと決めて、赴任した。人間はそう決意するとできるものです。慰安婦の性病検査には立ち会いました」と言われた。
そしてご自分の著書でも次のように記している。「次の二つの事柄に関しては、戒めに近いものを戦地で自分に課しました。それは女性と食い物に関してです。トラック島には従軍慰安婦が大勢いましたがサイパン陥落後は、彼女たちは本国に返され島からは慰安婦の姿は消えました。すると兵隊や工員の中からは島のカナカ族の女性のところに忍び込んで欲望を遂げようとするものが現われ始めました。…」士官という特権を利用してカナカ族の女性と夫婦関係をもったり、あるいは忍び込んで通っていたのです。…」(「二度生きる」金子兜太著2005年)
トラック島の「慰安婦」~『流人島にて』(窪田精)より
それではトラック島にはどのくらい「慰安所」があったのか。作家の窪田精氏の小説から拾ってみる。高級軍人も、下士官も、兵士も、工員も、軍属に至るまでそれ用の「慰安所」があり、日本と朝鮮女性の「慰安婦」がいたという。(1992年 新日本出版)
(窪田精著『流人島にて』)
☆外交屋の行き先は、陸上基地の金剛山―コブ山の裏側にあるメッチテニ村という元島民部落であった。そこには海軍施設部の軍夫達の宿舎があった。日本人や朝鮮人の女たちがいる慰安所などもあった。
☆夏島には、海軍の高級軍人用の料亭が、いっぱいあるんじゃ。1軒や2軒じゃねえ。10軒近くもあるそうじゃ。一応民間業者の経営という事になっておるが、海軍の直営みたいなものじゃ。日本から連れてきた芸者がおおぜいおるらしい。ここには水兵や下士官は一切近寄れねえ。割烹料理―などと言っても、実際は慰安所じゃ。高級軍人専用の酒池肉林の社交場じゃ。
☆「夏島には一般水兵や下士官、軍属などの専用の慰安所もあるんじゃ。」
・・・・
「うちの部隊の看守たちの話によると、南星寮とか南国寮とかよばれる、ハーモニカ長屋のようなバラックが何列も立ち並んで、おおぜいの女たちがいるそうじゃ。」
・・・
「そこも士官用、水兵や下士官、軍属工員用などの分かれているそうじゃ」
「慰安所も、階級別になっているんですか」
「そのとうりじゃ。前者の方は日本人女性が主じゃが、後者の方は朝鮮人女性が多いという話だな」
「日本人女性の多くは本土の各地で芸者置屋や遊郭などにいた女性が、溜まっている借金を海軍に払ってもらうという条件で連れてこられているんじゃ。海軍が業者の親方を使って、女の売り買い―女衒をやっておるんじゃ。もとをさぐれば、みんな貧しい農村や漁村の子女じゃ。親の事情でそういうところに身を沈めた女たちが多いんじゃ」…
「朝鮮人女性の中にはひどいやり方で連行されてきているものもいるそうですね」
「そのとうりじゃ。朝鮮の奥地の村から女子愛国奉仕隊募集とか、特志看護婦などの名で騙されて強制連行された娘などもいるらしいのう」…
☆「春島の南風寮の方は日本の女が7割、朝鮮の女が3割といったところらしいのう。ここも、士官用、水兵や、下士官用、軍夫用と別れているそうじゃ」…
まだまだ記述は続く。日本の軍隊は中国、東南アジアの諸国のみならず太平洋のミクロネシアの島々にも「慰安所」をつくっていた。金子氏によると女性達は戦争が激しくなる前に日本へ送り返されたという。しかし城田すず子さん以外は名乗り出ていない。
何故日本の軍隊は「慰安婦」を必要としたのか。「慰安婦」制度解明のためには男性のセクシャリティの面からも迫る必要があると思う。(吉川春子記)
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