カズオ・イシグロ著『私を離さないで』~守るべき命と差し出す命の矛盾~
写真・共産党埼玉県委員会旗開きでもらった花
十数年前、著者のイギリス貴族の使用人である執事を主人公とした『日の名残り』という映画を見てビデオを買って本も読んだ。イギリス貴族の執事という職業と歴史に精通した内容なので、カズオ・イシグロはずっとイギリスの作家と思い込んでいた。その後日系イギリス人で長崎で生まれ幼いころは日本で育ったと知った。今回『日の名残り』を再読し別の作品をと思って『私を離さないで』を読んだ。
主人公はキャッシー・Hという女性で、優秀な「提供者」の介護人である。彼女は「「ヘールシャム」という施設で生まれ育ち教育を受けて社会に送り出される。障害者か老人の介護がテーマではない。「提供者」とは臓器提供のために作られたクローン人間である。彼らは成人して何回かの「提供」を行い「使命を終える」のだ。
愛し会うカップルには「提供」を猶予する、制度の真偽
キャシーたちは「ヘールシャム」では絵画などの作品制策の授業が熱心に行われていた。生徒たちは「本当に愛し合っているカップルには「『提供』が猶予される」といううわさを信じそれに希望を託す。生徒たちは熱心に作品制作にとり組む。作品は「展示館」に保管されて本当に愛し合うカップルか否かの判断の証明となると信じられていた。
「ヘールシャム」を出て介護人となったキャシーと「提供者」となったトミーは愛し合うカップルと認定されたい一心で「展示館」のマダムを探し当てる。そこで彼らは「提供が猶予される」事実はなく、単なる噂であったという残酷な事実を告げられる。しかしキャシーはこの日のために多くのエネルギーを割いてきた。恋人のトミーはすでに四回目の提供に直面しているのだ。あきらめきれないでマダムを問い詰める。
クローン人間にも魂はある、と確かめたかった
「そもそも何のための作品制作だったのか。何故、教え、励ましあれだけのものをつくら得たのですか。どのみち提供を終えて死ぬだけならあの授業は一体なぜ?読書や討論は何故だったのです」と。
マダムにこの事を行わせた仕掛人、エミリークロード先生は答える。「私たちが作品を持って行ったのはあなたがたにも魂が―心が―あることがそこに見えると思ったのです」
「なぜそんな証明が必要なのか自分たちに魂がないとでも誰かが思っていたのか」とキャッシーは問い詰める。
「ある意味感動ですよ。…あなたが言うとおり、魂があるのかなんて疑う方がおかしい。…運動を始めた当初は決して自明のことではなかった」と先生は答える。「試験管の中で得体のしれない存在、それがあなた方」。しかし「生徒たちを人道的で文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じように感受性豊かで理知的な人間に育ちうる事を世界にしめした」と、自分がしてきた業績が決して無駄ではなかったと証明しに来てくれた、キャシーとトミーに感謝さえする。
しかし、「でもあなた方のその夢、提供を猶予してもらうという夢は私たちの力の及ばない事です」ときっぱり。「気の毒に思います。でも落胆ばかりしないでほしい…振りかえってごらんなさい。あなた方はいい人生を送ってきました。教育も受けました」こんな先生の言葉がキャシーとトミーの何の慰めになるだろう。二人は絶望してマダムとエミリー先生の居所を辞す。トミーは四回目の提供で使命を終る。
癌は治るものと知ってしまった人に、
不治の時代に戻れとは言えない
エミリ先生は言う。「突然、目の前にさまざまな可能性が出現しそれまで不治とされていた病にも治癒の可能性が出て来ました…でもそういう治療に使われる臓器はどこから?真空に育ち無から生まれる…と人々は信じた、…世間があなた方生徒の事を気にかけはじめ、どう育てられているのか、そもそもこの世に生まれるべきだったのかどうか考え始めた時はもうおそすぎました」「…癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます?不治の病だった時代に戻ってくださいと言えます?そう逆戻りはあり得ないのです」。
私は臓器移植法案が国会にかかった時の息苦しさを思い出した。政治的イデオロギーだけではなく宗教観、倫理観が問われ結論は簡単には出ない。幾つかの党は党議拘束を外すという例外措置を取り法案は可決された。私はこの法案に反対した。
カズオ・イシグロのSF小説が投げかけている問題はとてつもなく大きく難しい。科学技術の進歩によって人権のかけらもない「人間」を作り出す事を認めてはならない。「わたし提供を受ける人、あなた提供する人」という線引きは絶対に認められない。
「守るべき性」と、「差し出す性」
日本政府は敗戦後米軍の日本上陸に備えて「良家の子女を守るため」全国に「慰安所」をつくった。慰安所で働かせる女性を集めたのは各県警察である。
良家の子女を守るるために別の女性を犠牲にした。戦争中には遊郭から大勢の醜業に携わる女性をかき集めて中国、ビルマ等の「慰安所」に送った。
戦後、特に一九九〇年代以降「慰安婦」問題が女性の人権侵害と認識され解決を求められている。その中で日本人「慰安婦」がクローズアップされない理由は、彼女たちはもともと売春婦だったから、仕方がないのではないかとの考えにある。しかし、遊郭の女性だから「慰安所」で性奴隷とされてもいいとの理屈は成り立たない。
「慰安婦」のイメージとして性的経験のない少女・女性を強制連行して軍の「慰安婦」にしたことが許されないのだ、との考えがある。その裏に遊女は別という思想がありはしないか。しかし遊女はそもそも親から遊郭に売られた少女達である。彼女たちなら「慰安婦」にしてもいい、という理屈は絶対に成り立たない。
女性を二分して一方を犠牲にして他方を守る考え方は、カズオイシグロのSF小説『私を離さないで』で強く告発している問題につながるのではないか。心の中に潜む差別意識が現実の悲劇を引き起こすとの警告として受け止めたい(吉川記)
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