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2017年11月

2017年11月25日 (土)

中国南京上海の旅 その3  2017年10月23日(月)

1842年上海、開港、1842年南京条約-辮髪の役人にイギリスによる租界強制、清朝が了解。墓地だった疎開地をイギリスが租借、イギリスに治外法権与える.1847年フランス租界要求、イギリスと同様の権限,1851年アメリカが疎界要求。1894年日清戦争

19世紀末から上海は列強に骨までしゃぶられた。 今回私達が訪問した上海は巨大な国際都市だった。

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写真・上海・豫園市場、大勢の人でごった返していた。

 

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(写真は私たち一行が南京で宿泊した古南都飯店)

 

 

<「中国人慰安婦資料館」20171023日午後>

 

 「中国人慰安婦資料館」は、上海師範大学構内に(中国人と韓国人の)少女像ができたことがきっかけで、昨年10月にここに移転し、1年経った。昔は地下室で湿気が多く、資料が置けない状態だった。修士、博士課程の大学院生と大学生のボランティアで運営している。この1年で来館者が4千人。同大学の教授たちの調査によって、上海には172個所「慰安所」があったことが判明した。

<このミュージアム完成の経過~陳麗斐先生の話>

蘇智良教授が『慰安婦』についてユネスコ世界遺産の登録のためパリへ出発しお会いできなかったので夫人の陳麗斐・同大学教授が代わって対応していただいた。

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写真上海師範大学構内の少女像の前に全員集合、少女像後ろの黒いメガネの人が陳先生

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写真・「中国慰安婦資料館」のある建物

 

〇中国「慰安所」調査の発端

夫の蘇智良先生が東大に留学し韓国の被害者とデモ行進している姿を見た。妻である自分は一橋大へ研修で一緒に行っていた。日本の学者から「慰安所」の話を聞いたが初耳だった。上海事件の研究をしている蘇智良先生も初耳だった。それを知らなかったことにショックだった。この問題を知らなければならないと1993年2人が帰国した。

 上海の楊家宅の慰安所の調査を始めた、日本の文献に基づいて資料に間違いが多かった。自分も調査に加わり170個所の「慰安所」があることが判明した。

 

 〇ご自分自身について

1997年になって「慰安婦」の調査に加わった。日本にいた時は「『慰安婦』は売春婦」という感覚で居たのでこの研究に加わりたくなかった。また、資料を家に持ってくると子どもが読んでしまうのではないかと心配だった。しかし、研究が深まると被害者の数はビックリするような数で1997年国連人権小委員会の研究に加わった。フィリッピン、韓国…その中に中国人は含まれていなかった。それらのレポーターは人数が20万人前後だったが中に中国人が含まれていない。これが調査の結論だとは思えない。地域が広く(日中)戦争の期間が長いので、この被害者の数は(少なすぎて)正しくないと思った。中国人「慰安婦」がいないのは不思議なことだと思った。原因は2つある。

 

第1、責任は中国政府にある。この問題を国連に訴えていなかったので国連の調査が来なかった。日本が中国に対してODA援助をしていたので中国政府が「慰安婦」に積極的ではなかった。

第2、中国人である私たちの責任は重大である。中国の大学に慰安婦問題をテーマに研究している学部がなかった。しかしODAがなくもやって行けるので、研究に加わることになった。

 

 蘇智良先生が全面的に加わるようになった。経済的に厳しいので仕事は続けなければならないので、夏休み、冬休みに子どもを連れて調査に出かけた。

 <民間のサポート>

 80年代になると中国の地方の歴史編纂ブームが起きた。地方の歴史を調べる中で侵略の歴史を調べ、日本兵の暴行も調べた。現在は地方の歴史研究チーム、ボランティアの協力、老人、若者も加わるようになっている。

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写真・日本でも知られている「慰安婦」、万愛花さんのパスポート

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写真・上海市内の慰安婦マップ

 

<展示ケースの中>

真新しいケースの中には様々な興味深い品物が、壁には沢山の写真が飾ってあった。私が気が付いた幾つかの資料、展示物を上げる。

1.コンドーム、フィルム入れ

楊家宅「慰安所」の写真

2.上海で『慰安婦』性病検査を初めて行った、麻生徹男医師の発案の木製の性病検査の診察台

3.被害女性の手形、足型の石膏

4.24カ所の「慰安所」地図と場所の一覧表 上海、南京、雲南省、黒竜江省等々

5.村瀬守康写真集『私の従軍中国戦線』より、慰安所の前に順番待ちの列をなす兵士達(私はこの写真は国会でパネルで示せなかった…あまりにも醜いので)

6.スマラン事件、ジャワハラ・オハーン(オランダ「慰安婦」の写真)

7.纏足なので逃げられない女性の写真

8.雲南省の被害者の写真

万愛花、朴永心、上海被害者、4人姉妹が全員「慰安婦」に

朱巧妹(1910年生まれ)、夫はゲリラ戦で戦死

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写真・広い、上海師範大学キャンバス、後ろの旗は共産党大会を祝って掲げられている

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写真・上海師範大学構内の少女像、この像に対して日本総領事と日本政府高官は2回も抗議をしたとの事

 

 <吉川コメント>

 

この資料館は完成して1年なのですべてピカピカで新しい。学生が何人もいて私たちの見学を手伝ってくれた。陳麗斐先生の話しからは、ここまでくる道のりは長く、困難であったことがひしひしと伝わり、展示物以上に心打たれた。

 

 中国では「慰安婦」問題を人権問題としてとらえ調査活動が本格的に始まったのは、韓国等よりずっと遅れた、という。国連の調査に中国人が入っていない。そこに焦りを感じ、これではいけないと先生の必死の取り組みが始まったのだった。

「慰安婦」被害者の数が20万人?そんなはずはない、中国人女性が含まれていないのだ、という点が一つのスタートであったという。

 

「上海事変」「満州事変」から数えれば日本の侵略の期間は長いし、また満州から上海、雲南省というビルマ国境(垃孟)に及べば広大な地域であるが、日本は「慰安所」を各地に作り、中国、日本、朝鮮半島の女性達を集めたのである。

 

 上海だけで172個所も「慰安所」があった。中国全土では何カ所あったのか?、という我々の仲間の質問に対して、「現在調査中なので答えられない」と先生は答えた。今後の調査が注目される。

 

 さて、この旅を終えて中国の『慰安婦』問題の取り組みの様子は理解できた。一方、日本人「慰安婦」が限りなくゼロに近い状態を、日本で運動を担う私たちはどうべきなのか。ずっしりと重たい宿題を背負って帰ってきた(吉川)

 

 

2017年11月19日 (日)

中国 南京 上海への旅その3

20171021日(土)

 

<南京民間抗日戦争博物館>

日本人として、南京は絶対に行かねばならない都市であるが私は中国へ何回も行っているのに、南京は初めてである。

1937年末から1938年にかけて30万人の中国人が日本軍に虐殺され、数万人から10万人以上の女性が強姦された事実について、日本ではこれを否定する主張が公然と為されている。否定しないまでも「30万人も殺していない」等と数の問題に矮小化する意見が幅を利かせている。しかし、私達の旅はしっかりと日本軍隊が行った蛮行について向き合う旅であった。

「大量殺人の用具が発達し洗練された今世紀にはヒトラーが600万人ほどのユダヤ人を殺し、スターリンが4千万人以上のロシア人を殺したというのは確かな事だとしても、これらの死は数年間をかけてもたらされたものである。南京での虐殺はわずか数週間に集中して行われた(アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』200712月同時時代社)

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写真・揚子江の河岸にあった虐殺記念の碑

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写真・強姦を逃れて逃げ込んだ中国人女性をかくまった金陵女子学院

<日中市民交流会>2017.10.21 1300 

 

館長挨拶「来訪を楽しみにしていた。日中交流の基礎と喜んで受け入れた。日本には意見がバラバラあるようだが正しい認識にしてゆくために交流が第1.これもまた私がこの博物館をつくった目的の第1である。平和な生活は私たちにとって重要である。これがいつまでも続くように努力が必要。この博物館もその1つである

 

<犠牲者の末裔の発言1 男性>

 

生存者末裔劉さん。妻の母(義母)が南京大虐殺の生存者。義母が死亡したので義母の代わりに話す

義母が9歳の時に南京大虐殺あった。193712月に日本の侵略軍がやって来た。家族13人が殺され、13の家屋が燃やされた。義母は生き残った。義母はこの話をよくしてくれた。戦争は人の命が一瞬でなくなる。今の生活が貧しくとも平和であればいい生活だと言っていた。以下は義母の語った話

 

 「80年経ったが恨みは忘れても真実は永久に忘れたくない。日本がこの真実を…

11軒の隠れている家から村人が外に追い出され群れを男と女に分けた。若い男性がされ、老人と子供は1つの部屋に入れられた。部屋は狭かった。日本人が入り口で待機していた。母の兄弟、当時9歳と一緒に入れられた。夜になると燃えるものだされて日本兵にご飯を炊いた。(川へ?)手榴弾投げて魚を取ろうとした。若い男魚取りに。冬なので凍死した。大変だった。食べた後日本兵が火を燃やして、間もなく後に女性の部屋に入り、女を辱めようとした。若い女性は一人ひとり縛られていた。みんな恐怖心おぼえた。部屋に残った女たちが後ろの山へ窓から逃げた。母も弟と妹を連れて山へ逃げた(幸いなことに)。

翌日逃げた人は村の人々を助けたという事で村の男性全員捉まえた。担当の所は一人ひとり縛られて連れて行かれた。彼らを輪にして(並ばせ)真ん中で手榴弾投げて多くの人死んだ。母の兄、お祖父さんは幸い生き残った。日本兵が銃剣で死んでいない人を刺し殺し、母の兄は刺殺された。お祖父さんは生き残った。この後日本兵はいなくなった。

血まみれの祖父が逃げて…祖父はその事を一生話すことはなかった。(お祖父さんの写真示す)、だいぶ前に70歳で死去した。小さいころお祖父さんを見ていた。日本と中国が仲のいい隣人になるように願う(終わり)

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写真・南京民間抗日戦争博物館の前で

 

<犠牲者の末裔の証言2 女性・白髪>

 

今日ここで中日交流の場で話す。1942年父親を亡くす。父は国民党の軍人として秘密の戦いのために南京に派遣された。裏切り者の処罰の仕事をしていた。軍を裏切ったものの処刑で、弾が命中せずに摘発され処罰された。南京の憲兵隊(日本の?)が過酷な尋問したが父は一言も言わず、その結果殺害された。

 

1957年母が、父が死んだ経過を話した。日本憲兵が怒って高いところから突き落として内臓も犬に食われ悲惨な死だったと父の同僚が話してくれたことである。

自分は19424月生まれ、生後間もなくなので父の顔は知らない。幼い時に父を亡くし母は苦労して、母は私を連れてあちこち逃げ回る。健全ではない家庭で苦しんだ。それを思い出すとつらくなる。(泣く)。今回の訪問団(我々の事か?)70歳超えている。もう1回繰り返すと次の世代がくれぐれも(我々の時代のように)ならないように。孫の代のこの話をしても理解されない。理解してもらえなくともどんどん話をしてゆこうと思う。皆さんお伝えて行っていただきたいと思う。(終わり)

 

<研究者の講演―南京の人口は、事件1年前には百万人を超えていた!>

 

当時、公安局の調査で南京の人口が100万人を突破していたことは明確に分かっている。南京の人口は30万人も居なかったという日本の右翼の発言は誤り。

1937年、南京事件直前のデータ。勤労大学、政府の役所関係、全て調べられている。人口が増えたことは事実。

1軍人の数、12万人いたが、戦死、西方面への脱出で残ったのは10万人。

2増えた分―数えきれない難民、南京に流れ込んできた。どこが安全なのかと。

3 資料ではピーク時よりは少ないが南京陥落時の人口は70万人~80万人

南京大虐殺の後傀儡政権出来た。直後の人口40万人(傀儡政権・軍が調査)

 

しかし、人口が30万人いたか否か、一番重要なことではない。虐殺の事実が重要である。日本兵の100人斬りのような事実があった。日本の新聞が報道しているのであって、中国の作り話ではない。(虐殺の人数、人口等の数字も)人数は学術面で重要だが、虐殺があったことが重要である(以上)

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写真・死体が大量に流れ着いた揚子江、今は護岸もきれいに整備されている

 

旅行団の質問と館長&研究者の答え

 

Q上海から南京へ、日本軍は膨大な中国人を殺したその数はわかっているか

A.日本軍は集団として日清戦争以来やって居た事である。

1980年、南京の捕虜虐殺で毎日新聞社が写真集出版した。捕虜、民家の虐殺は上海から南京の間について調査行ってきた。昆山租借、蘇州の町調査などが進み明らかになっている、具体的数は調べている最中

 

Q自分は19375月生まれ(南京事件の年に生まれた事を強調)40歳の頃、南京大虐殺の写真集を出した村瀬守康さんと一緒に仕事していた。今回有り金は焚いて中国に来た。生活は楽ではないが

 

Q生存者はどんな活動しているか

A.南京大虐殺は中国でも注目されるようになった。民間の人から中秋の名月に慰問金届いたりしている。民間レベルでボランティア活動で高齢化している生存者に日頃の見守りやっている。90才等の高齢の生存者は100人居るかいないかである。親の活動を中断されずに語れるように力を入れている。

 

Q南京のシンドラー、ラーベの映画について

A.観客数は少ない。中身が悪かったわけではない。中国には『南京 南京』という映画もあって。日本ではそうした映画は少ないのではないか、「ラーベ」は日本で多く上映してほしい

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写真・虐殺から数万人の中国人を救ったジョンラーベの胸像、彼はドイツ企業の南京支社長でナチス党員だった

  吉川のコメント

 私はこの民間抗戦戦争博物館の館長の呉先斌氏には去年名古屋で会っている。名古屋市公会堂で開かれたシンポジューム・東アジアから日本の憲法を考える」(アジア太平洋文化フォーラム発足5周年行事/コーディネーターは水野磯子さん)で、パネラーとしてともに参加した縁で私はこのミュージアムの存在を知った。

 

その時、呉さんは、私財を投じて資料館をつくった事、経済的にも政府の援助は受けていない事、本当の歴史を伝えるために政府の出資をうけず、10年間続いていると述べた。

 また名古屋に来る前に京都、金沢、長崎、岡山を回っているうちに右翼の勢力が伸びていることを感じ氣が重くなった、中国のマスメディアより日本がひどいと感じた、とも語った。

シンポジュームに参加して、日本にはこんなに素晴らしい皆さんが居る事に敬意を表する。平和憲法を改悪されないようにと念じて皆様と連携したい。ぜひ南京に来てほしいと呼びかけた。

 

 私達は南京では「大虐殺博物館」が改修中で見学ができなかったが、呉館長が設定してくれた交流会で私たちは目的を達することができた。

  

 そして、南京虐殺の生き残りの遺族が2人、虐殺の生々しい事実を、加害国の私達に語ってくれた。それだけではなく、日本と仲良くしたいと述べたことに感動した。

 南京に名100万を超える人口があり、事件発生当時も7~80万人がいた事もはっきりした。しかし、館長が言うように、人数が最大の問題なのではない。アイリスチャンが言うように、今世紀最大のホロコーストに対して明確に向き合っていない日本の責任が問われているのだ。

 

 日本人の最大の課題は歴史の事実と向き合い、それを記憶にとどめる事である、と改めて思った。加害の歴史博物館が日本に建立されるのはいつの日か。

2017年11月12日 (日)

中国 南京 上海の旅 そのその2

 

Ⅰ 南京利済巷慰安所旧跡陳列館(「利済巷慰安婦資料館」)

 旅の二日目、私たちの見学の最初に訪れた「利済巷(りざいこう)慰安婦資料館」に入るや否や建物の正面の大きな銅像に私は度肝を抜かれた。お腹の大きな女性とそれにすがって泣き崩れる2にの女性の像である。悲しみと怒りがこれほど伝わってくる銅像も珍しい。その人は北朝鮮の「慰安婦」朴永心さんである。

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写真・大きなおなかの女性にすがって泣きじゃくる2人の女性

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写真・利済巷慰安所の建物

 

「南京利済港慰安所旧跡陳列館」リーフによれば

「この建物は中華民国時代の8棟の歴史建築で構成され、国民党中将楊普慶氏のよって1935年から1937年築かれた2階建てのレンガと木材混合の建築物であり、「普慶新村」と名付けられた。1937年末日本軍が南京を占領後、利済巷2号の建物を「

東雲(しののめ)慰安所」(朝鮮人慰安婦・吉川注)に、18号の建物を「

故郷(ふるさと)

楼慰安所」(日本人慰安婦=吉川注)に改造した。利済巷2号の2階にある19号室は朝鮮籍「慰安婦」被害者朴永心氏が3年間日本軍の性奴隷に強いられたところであり20031121日、朴氏が南京に来られた際、この場所を確認した。ここもまた唯一の外国籍「慰安婦」被害者に現場で確認された慰安所である。201411月、南京人民政府が利済巷慰安所旧跡の修復、展示作業を行い、201512月から正式に開館した。

アジア最大の慰安所の資料館・201512月開館。日本軍第16司令部駐屯地近く。3か所の慰安所のうち2カ所が残った。記念館として残る。

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写真・ここは1等地。利済巷慰安婦資料館の周辺は超高層ビるが林立する

 

<こう館長挨拶>

「皆さんを歓迎する.。南京市のど真ん中にある利済巷ミュージアム。(「慰安所」の)現場に建てられた。7つの建物は1920年代から30年代に建てられた。「慰安所」の跡。2つの慰安所。

「東雲慰安所」は朝鮮人女性を監禁していた。

「故郷

慰安所」は日本人女性が監禁されていた。

 2003年に朴永心さんがここに自分が入れられていると本人が確認し外にある銅像は雲南省で米軍の捕虜となった時の写真を基づいて作られた像である。日本軍国主義者が起こした侵略戦争で朝鮮の人権を踏みにじった(朴永心の事か?)事の反省をすることがこの間の趣旨である。中国、日本、世界の人民の平和の時代に生きたいという願いが発展してきた。より多くの人に来館していただき再び悲劇を繰り返さないでほしいという事が我々の願いである」と語った。

 

<館長とのやり取り>

私は1995年北京女性会議では中国人の「慰安婦」はワークショップに参加をさせられなかった事を念頭に以下の質問した。

 

Qミュージアムの建設が遅いと思うが、中国政府の方針の変換があったのか

 

A「(朴永心さんによって?)現場が確認された後すぐに学者に呼びかけた。土地が高いし買収に大変苦労した(この辺りは1当地で高層マンションが林立している=吉川)。建設の条件がそろってから半年で建設した。「慰安婦」問題について政府の方針変わらない。自分も政府の一員だがこの先も新しい資料を求めてゆきたい。被害者は幅広く日本人、韓国人、ヨーロッパ人、中国人等でこれからも幅広く研究してゆく課題があり之からも頑張って行きたい」との回答であった。

 

その他活発な質問が出て、館長は精力的に回答してくれた。

 歴史教育は中国では全国民に対して行っている。しかし南京大虐殺と「慰安婦」に関しては小さい子どもには配慮して行う。館の広さに限界があるので入館者を制限している。1200人が限度で、「南京大虐殺記念館」のようには受け入れられない。

 

 地域の小中学校の社会科見学については、学生の来館者が多く、教育の場として館を利用することについて学校と協力関係にあり、学生ボランティアを活用している

 

 「慰安婦」の証言ビデオをとってほしいとの要望には、大事なことだ。しかし中国伝統的考えで人の前で語るのは困難だった、近年、映画監督によるものが公開された。32のドキュメントがある。今22のドキュメントを公表して大変好評を得た。「慰安婦」問題をますます多くの人に知られるようにしたい。

 

高齢などでなくなって、生存者はいま14人である。急がなければならない課題である。皆様の様な研究者と資料の共同研究をしたい。後藤ひろみさんが22人の「慰安婦」の映画の公開が日本で準備されていると補足した

 

 南京における日本人「慰安婦」の人数、「慰安所」の数についての質問には、管理者によって他へ連れていかれたか調べている。日本で情報があったら教えてほしい。

 

 南京大虐殺については学者のリュウさんが「この館は「慰安婦」がテーマだが南京大虐殺の中には性暴力も含まれる。我が館ではまだ十分見せることはできないと思うのでこのテーマについて頑張っている

 

朴永心さんの事

 「192112月平安南道南浦に生まれ17歳で日本人巡査に「お金が儲かる仕事がある」と騙されて南京の「慰安所(キンスイ楼)」に売られ2回の19号室に閉じ込められた。「いう事を聞かないと軍刀で切り付けられたり拷問された。1942年ビルマに移送、その後中国雲南省の第56師団の

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守備隊の慰安所に連れていかれた」(「第14回特別展カタログ・地獄の戦場ビルマの日本軍慰安所」)

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写真・「自分がここ2階19号室に閉じ込められていた」と証言のため2階へ急ぐ朴永心

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写真・源氏名「若春」、(本名・朴永心)の木札

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写真・保護された時の朴永心、裸足、目はうつろ、お腹は大きい

 

 拉孟陣地の陥落が刻一刻と迫り横股陣地から慰安婦の何人かが飛びたしたのを吉竹伍長が見ている。その中に「若春」本名朴永心もいた。日本人の女性(慰安婦)が「一緒に逃げよう」と言い、一緒に壕を飛び出した。中国兵に捕まった。…流産しかかって歩くのもつらかった。中国人医師の手術を受けたがおなかの子は死産であった。治療を受けた後…混迷の捕虜収容所に連行された。20068月死去している。

 

 200311月に南京を訪れこの「慰安所」219号室にいたと証言している(利済巷慰安所資料館館長の話)という事は死ぬわずか29カ月前である。利済巷資料館は彼女の死後9年を経て解説している。

 波乱万丈というにはあまりにも痛ましい人生であった。しかし「慰安所」の事実を後世の記憶にとどめるため朴永心は大きな貢献をしたことになる。

2017年11月11日 (土)

加害と「慰安婦」の視点でめぐる 中国 南京 上海 その1

 

「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の今年のフィールドワークは中国の南京、上海で行った。突如、国会解散総選挙が入り旅行をキャンセルせざるを得ない方も数名出たが私たちは予定通り決行した。

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(写真・高層ビル、南京)

南京駅のすぐ傍は玄武湖があった。亀の上に蛇がいる日本の古墳の壁画に登場する玄武はここが発祥の地であったのだ。また、三国志の英雄・孫権が都とした地でもある。忌まわしい近現代の歴史がなければ南京のイメージはどんなにか文化的であったことか。

「上海だより」、「上海の花売り娘」、「上海帰りのリル」…戦前も戦後も歌謡曲に歌われなじみ深い上海はまた、「慰安所」第1号が設置され女性達の屈辱と苦しみの歴史で汚された都会である。いずれも中国人民に全く罪はない。私にとって懐かしい、親近感を持つ都市である。

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(上海の夜景)

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(揚子江の雄大な景色、昭和12年当時、死体累々の護岸は今は整備されて)

   以下数回に分けてフィールドワークを紹介する。

 

加害と「慰安婦」の視点でめぐるー中国 南京 上海

日本の加害の歴史に向き合う旅

 

2017年10月20日(金)~10月24日(火)6日間

 

{第1部 日程}

 

1020日 第1日目 東京~上海~南京

成田空港発 10:55 上海空港13:25 

福岡空港発 9:45 上海空港着 10:50

(成田発と、福岡発が合流)

鉄道 上海駅発15:30 南京着19:25

古南都ホテル(南京グランドホテル)泊

 

1021日 第2日目 南京

  利済巷慰安婦資料館見学(アジア最大の慰安婦の資料館、2015年開館)9:3011:30

  南京民間抗日戦争博物館見学13:3016:00

  夕食(江蘇人家:江蘇料理)

古南都ホテル(南京グランドホテル)泊

 

1022日 第3日目 南京

  南京国際安全区見学9:3012:00

  ○中山埠頭 ○旧金陵女子文理大学 ○ジョン・ラーベ記念館

 

  南京市内見学

  ○中華民国総督府

  夕食(レストラン福憶祥:広東料理)

 

1023日 第4日目 南京⇒上海

  南京発(高速鉄道)8:00  上海着 9:39

豫園市場見学10:1512:30

 

上海師範大学構内「中国慰安婦資料館」(中国初の「慰安婦資料館」)見学

14:0016:30

夕食(致琉餐庁:上海料理) 夕食後に外灘(バンド)の夜景観賞

1024日 第5日目 上海⇒羽田/福岡

  上海市内見学8:3011:45

  ○上海博物館、 ○魯迅公園

  大一サロン見学(世界初の「慰安所」の跡)

   (成田空港行きと福岡空港行きが分かれる)

  上海発(羽田行き)17:25  羽田空港着 21:20

  上海発(福岡行き)18:10  福岡空港着 20:50

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