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2017年10月19日 (木)

RAAと「奈良R・Rセンター」

    朝鮮戦争の時も、米兵のために日本女性の性がささげられた!

 

よく知られているように、敗戦直後に政府は民間組織・RAA(Recreation Amusement Association)を設置して「米進駐軍の強姦・性暴力を防ぐため」55千人~7万人の女性を集め全国に「慰安所」作った。

しかし、朝鮮戦争の時にも地方自治体で同じようなことをやっていた事を私は知らなかった。102日に奈良に行って湯沢さんから其のことを聞いてびっくりした。

 

奈良県は占領軍受け入れに伴い占領軍用慰安施設の設置に積極的に取り組んだ。1945(昭和20)年に奈良市登大路「新温泉ホテル」・「あやめ池温泉」にキャバレーが設けられ、大阪からダンサーが集められたらしい。天理市丹波市町にも酒場万年楼が開業された(『奈良県警察史昭和編』)。

1946(昭和21)年、GHQによる公娼制度の廃止の指令を受け、31日奈良県は貸座敷業を廃止した。ここまではほかの都道府県と同じ対応である。

 

しかし、その数年後、朝鮮戦争勃発とともに日本の米軍基地はアメリカの恰好な前線基地となった。そして米兵に日本女性の性が再びあてがわれたのである。女性を性的な側面しか見ない政府の体質は、「慰安所」制度を創設したアジア太平洋戦争の時代と変わっていない。政府の女性の人権に関する認識が、敗戦を経て、日本国憲法が制定されても変わっていない事は許しがたい大問題である。

 

「奈良R・Rセンター」は、朝鮮戦争で戦う兵士の元気回復施設

 

RRセンター」とは1952(昭和27)年、51日、朝鮮戦争に際して国連軍(米軍)兵士のための「休養と元気回復」の施設である「RRセンター」Rest and Recuperation Centerが、大阪市内から奈良市横領町(平城宮跡正面)のセキスイ工場に移転してきた。

1月後には近辺にカフェーバー34戸、ギフトショップ12戸、飲食店7戸、キャバレー4戸、ストリップショウ3戸などが立ち並んだ。売春婦は3千人いたと言われ、周辺の風紀の乱れは著しかった。

 

「このセンターは朝鮮戦争から5日間だけ帰休する兵士の休息・元気回復を目的とした宿泊施設で、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって195251日に奈良県旧横領町に設置された。

「R・Rセンター」自体は性的慰安施設ではなかったが、設置されるや否や周辺にはカフェ―、キャバレー、バー、土産物店、洋品店などの店舗ができ、まるで西部劇映画に出てくるような独特の景観が出現し、夜も眠らない不夜城のようだったという」

「帰休兵を相手に仕事をしよう」と歓楽街に全国から1000人とも2,000人ともいわれる女性が集まって来た。女性達と米兵を仲介するポン引きも集まり、平城宮跡の南に位置した「R・Rセンター」一帯は性売買の基地と化していった。

 

     週1回の性病検査、合格者に安全バッジ

 

1951年には奈良市に「売春取締条例」を制定。休暇を終え再び戦地に向かう兵士に性病が蔓延するのを防ぐために、県予防課では歓楽街の業者が中心になって「奈良駐留サービス協会」を設置させ、接客婦300人に会員になってもらい、米兵相手の女性を協会に登録させ、週1回の性病検診をうけさせた。性病に罹患していないことが証明されれば、バッチを与えこれを身につけることで「安全な女性」と米兵に知らせるシステムだった。…しかし隠れた多くの売春婦もおり、性病の状況は暗闇の中のように図りたいものがあった」(江夏香菜「R・Rセンターと古都の退廃」奈良県女性100年史㊻他)

Photo

写真「R・Rセンター」傍の小学校、教師は毎朝コンドームを水路から拾う仕事…

Photo_2

写真・小学校の道路の向かい側に建つ都跡村役場の碑

 

R・Rセンター傍の小学校教師は、毎朝・・・

 

 私はこの問題に詳しい研究者の案内で「R・Rセンター」のあった付近、旧・都跡村へ行った。都跡村跡には真新しい碑が建っていて(写真)、道路を隔てた向かい側は都跡小学校がある(写真)。

その方の話によると、当時教師は朝早く学校に来て、水路に投げ捨てられている沢山のコンドームを拾い、子どもの目に触れないようにすることが日課であったという。

 売春婦を間借りさせている家の3年生の子どもは、「どんなことがありましたか」の教師の質問に、「勉強を見に来る」、「パンパンガ風呂に入っている時アメリカ兵がたばこをくれと言って入ってくる」、「障子の影でキスをするのが見える」等々…児童の小さな目が好奇心を持って眺めている。小学生の中で「パンパンごっこという遊びが流行したり…近辺の子どもたちへの悪影響が心配される」と報告されている。(同上「古都の退廃」)

 

    反対運動

 

  こうした中、労同組合、大学教職員と学生、宗教者、地域住民の反対運動が活発化した。映画「饗宴」が当時のそうそうたる俳優を使って製作された。

1952(昭和27)年9月「R.Rセンター廃止期成同盟」結成(奈良ユネスコ協会、奈良総評、奈良教職員組合)、

1953(昭和28)年8月、奈良RRセンター調査団(奈良学生ユネスコ、奈良学芸大、奈良女子大学生)の調査行われる

812日、奈良R・Rセンター、神戸市への移転決定

824日、米海兵隊4000人が奈良市に駐留開始、

「R・Rセンター廃止期成同盟」は、「奈良市非武装都市建設同盟」を結成

912日、神戸R・Rセンター開設

926日、奈良R・Rセンター完全閉鎖

12月、映画『饗宴』ロケ開始、翌年公開(出演・望月優子、三島雅夫、東野栄次郎、中原早苗)

 

<吉川コメント>

平城京の美しい門が幹線道路から見えるが、そこを車で少し通り過ぎると、R・Rセンターの址付近都跡村役場跡の碑と都跡小学校がある。まさに平城京という日本の古代の中心地の真ん前で、アメリカ兵の性の狂乱の地となったのだ。

「語られてこなかった奈良の歴史のひとつが「奈良R・Rセンター(Nara Rest and Recuperation Center)」だ。「一般の女性の貞操を守るために兵士相手の女性を集め「守られるべき女性」と「彼女をまもるべき女性」の構図がつくられた。後者の女性達は戦争で働き手である親や夫を失い自活を余儀なくされたものだった」(「戦争と女性―奈良RRセンターが問いかけるもの」松村徳子(「奈良女子大アジア・ジェンダー文化学研究センターNo.11 )との指摘は重要である。

1953年同施設は神戸に移転し、「神戸R・Rセンター」が開設されたとあるが、その後どうなったのかについて今は情報がない。引き続き調査をしたい。日本人「慰安婦」問題を過去の問題にしてなはらない理由はここにもある。(吉川春子)

 

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