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2017年10月

2017年10月19日 (木)

ワークショップ・.日本人「慰安婦」を知っていますか

回東京都文京区「男女平等センター祭り」参加・

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 テーマ

日本人「慰安婦」問題を考える ~各地の調査から見えてきた事~

   あなたは日本人「慰安婦」について聞いたことがありますか?

 なぜ、大勢いた日本人「慰安婦」を私たちはよく知らないのでしょうか?

 ご一緒に考えませんか。私達は去年と今年、旧ビルマの「慰安所」にいた

  日本人女性の本籍地と、各地の元遊郭を調査しました。その結果見えてき

  た事とは…

  日 時:2017年10月28日(土)13時半~16時半

   場 所: 文京区男女平等センター 研修室C

  (地下鉄・丸ノ内線・本郷3丁目、都営三田線・春日下車、各5分)

 コーディネーター 吉川春子・

   「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミ

                  ナール代表 

          報 告 棚橋昌代・同事務局長

    具島順子・同運営委員

    藤園淑子・同運営委員

 

 {その他の企画・同じ会場で}

 

★「慰安婦」問題に関するパネル展示9時半~4時半

 

★ DVD『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』審議

9時半~13時半(2002年7月参議院内閣委員会)

 入場無料

 

   「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール

東京都文京区本駒込6~14~8~602吉川気付

電話&FAX 03~5976~5188

RAAと「奈良R・Rセンター」

    朝鮮戦争の時も、米兵のために日本女性の性がささげられた!

 

よく知られているように、敗戦直後に政府は民間組織・RAA(Recreation Amusement Association)を設置して「米進駐軍の強姦・性暴力を防ぐため」55千人~7万人の女性を集め全国に「慰安所」作った。

しかし、朝鮮戦争の時にも地方自治体で同じようなことをやっていた事を私は知らなかった。102日に奈良に行って湯沢さんから其のことを聞いてびっくりした。

 

奈良県は占領軍受け入れに伴い占領軍用慰安施設の設置に積極的に取り組んだ。1945(昭和20)年に奈良市登大路「新温泉ホテル」・「あやめ池温泉」にキャバレーが設けられ、大阪からダンサーが集められたらしい。天理市丹波市町にも酒場万年楼が開業された(『奈良県警察史昭和編』)。

1946(昭和21)年、GHQによる公娼制度の廃止の指令を受け、31日奈良県は貸座敷業を廃止した。ここまではほかの都道府県と同じ対応である。

 

しかし、その数年後、朝鮮戦争勃発とともに日本の米軍基地はアメリカの恰好な前線基地となった。そして米兵に日本女性の性が再びあてがわれたのである。女性を性的な側面しか見ない政府の体質は、「慰安所」制度を創設したアジア太平洋戦争の時代と変わっていない。政府の女性の人権に関する認識が、敗戦を経て、日本国憲法が制定されても変わっていない事は許しがたい大問題である。

 

「奈良R・Rセンター」は、朝鮮戦争で戦う兵士の元気回復施設

 

RRセンター」とは1952(昭和27)年、51日、朝鮮戦争に際して国連軍(米軍)兵士のための「休養と元気回復」の施設である「RRセンター」Rest and Recuperation Centerが、大阪市内から奈良市横領町(平城宮跡正面)のセキスイ工場に移転してきた。

1月後には近辺にカフェーバー34戸、ギフトショップ12戸、飲食店7戸、キャバレー4戸、ストリップショウ3戸などが立ち並んだ。売春婦は3千人いたと言われ、周辺の風紀の乱れは著しかった。

 

「このセンターは朝鮮戦争から5日間だけ帰休する兵士の休息・元気回復を目的とした宿泊施設で、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって195251日に奈良県旧横領町に設置された。

「R・Rセンター」自体は性的慰安施設ではなかったが、設置されるや否や周辺にはカフェ―、キャバレー、バー、土産物店、洋品店などの店舗ができ、まるで西部劇映画に出てくるような独特の景観が出現し、夜も眠らない不夜城のようだったという」

「帰休兵を相手に仕事をしよう」と歓楽街に全国から1000人とも2,000人ともいわれる女性が集まって来た。女性達と米兵を仲介するポン引きも集まり、平城宮跡の南に位置した「R・Rセンター」一帯は性売買の基地と化していった。

 

     週1回の性病検査、合格者に安全バッジ

 

1951年には奈良市に「売春取締条例」を制定。休暇を終え再び戦地に向かう兵士に性病が蔓延するのを防ぐために、県予防課では歓楽街の業者が中心になって「奈良駐留サービス協会」を設置させ、接客婦300人に会員になってもらい、米兵相手の女性を協会に登録させ、週1回の性病検診をうけさせた。性病に罹患していないことが証明されれば、バッチを与えこれを身につけることで「安全な女性」と米兵に知らせるシステムだった。…しかし隠れた多くの売春婦もおり、性病の状況は暗闇の中のように図りたいものがあった」(江夏香菜「R・Rセンターと古都の退廃」奈良県女性100年史㊻他)

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写真「R・Rセンター」傍の小学校、教師は毎朝コンドームを水路から拾う仕事…

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写真・小学校の道路の向かい側に建つ都跡村役場の碑

 

R・Rセンター傍の小学校教師は、毎朝・・・

 

 私はこの問題に詳しい研究者の案内で「R・Rセンター」のあった付近、旧・都跡村へ行った。都跡村跡には真新しい碑が建っていて(写真)、道路を隔てた向かい側は都跡小学校がある(写真)。

その方の話によると、当時教師は朝早く学校に来て、水路に投げ捨てられている沢山のコンドームを拾い、子どもの目に触れないようにすることが日課であったという。

 売春婦を間借りさせている家の3年生の子どもは、「どんなことがありましたか」の教師の質問に、「勉強を見に来る」、「パンパンガ風呂に入っている時アメリカ兵がたばこをくれと言って入ってくる」、「障子の影でキスをするのが見える」等々…児童の小さな目が好奇心を持って眺めている。小学生の中で「パンパンごっこという遊びが流行したり…近辺の子どもたちへの悪影響が心配される」と報告されている。(同上「古都の退廃」)

 

    反対運動

 

  こうした中、労同組合、大学教職員と学生、宗教者、地域住民の反対運動が活発化した。映画「饗宴」が当時のそうそうたる俳優を使って製作された。

1952(昭和27)年9月「R.Rセンター廃止期成同盟」結成(奈良ユネスコ協会、奈良総評、奈良教職員組合)、

1953(昭和28)年8月、奈良RRセンター調査団(奈良学生ユネスコ、奈良学芸大、奈良女子大学生)の調査行われる

812日、奈良R・Rセンター、神戸市への移転決定

824日、米海兵隊4000人が奈良市に駐留開始、

「R・Rセンター廃止期成同盟」は、「奈良市非武装都市建設同盟」を結成

912日、神戸R・Rセンター開設

926日、奈良R・Rセンター完全閉鎖

12月、映画『饗宴』ロケ開始、翌年公開(出演・望月優子、三島雅夫、東野栄次郎、中原早苗)

 

<吉川コメント>

平城京の美しい門が幹線道路から見えるが、そこを車で少し通り過ぎると、R・Rセンターの址付近都跡村役場跡の碑と都跡小学校がある。まさに平城京という日本の古代の中心地の真ん前で、アメリカ兵の性の狂乱の地となったのだ。

「語られてこなかった奈良の歴史のひとつが「奈良R・Rセンター(Nara Rest and Recuperation Center)」だ。「一般の女性の貞操を守るために兵士相手の女性を集め「守られるべき女性」と「彼女をまもるべき女性」の構図がつくられた。後者の女性達は戦争で働き手である親や夫を失い自活を余儀なくされたものだった」(「戦争と女性―奈良RRセンターが問いかけるもの」松村徳子(「奈良女子大アジア・ジェンダー文化学研究センターNo.11 )との指摘は重要である。

1953年同施設は神戸に移転し、「神戸R・Rセンター」が開設されたとあるが、その後どうなったのかについて今は情報がない。引き続き調査をしたい。日本人「慰安婦」問題を過去の問題にしてなはらない理由はここにもある。(吉川春子)

 

2017年10月15日 (日)

奈良県出身の日本人「慰安婦」を探す旅

 日本人「慰安婦」の身元は何故わからないのか

 

私はこの2年間、9人の日本人「慰安婦」等の本籍地と現住所を尋ねる旅をしてきた。しかし、なかなかご当人の消息に訪ね当たらない。この女性もその一人である。

笠置慧眼著『ああ、策はやて隊(私のビルマ従軍記)』に次のように記されている女性がいる。

 

本籍地 奈良県 芸名・ハツエ 本名 ●藤 トク

 

私は笠置慧眼医師の姪である藤園淑子さんを介して名簿について少しくわしい情報を入手した。現住所は大分県速見郡であった。

20163月私は藤園淑子、棚橋昌代、具島順子の3氏と共に大分県共産党書記局長の車で大分県へ調査に行った。元町議の安倍さんが案内役として加わり、現在は杵築市に合併されている該当の部落を尋ねた。そこは「限界部落」かとも思われる雰囲気である。1軒の家があり尋ねて見たが留守だった。通行人も通り過ぎる車も見当たらず、なす術もなくそこを後にするほかなかった。

現住所が遊郭の中だと、戦後赤線に移行し、さらに売春防止法施行で赤線も廃止される等で街も一変している。手掛かりはつかめない。しかしそこは山村で戦争前は人口が一定数いたと思われる。彼女の親戚縁者が全くいないはずはない、と思いつつも手掛かりはないので諦めた。

 

     戸主との姓(苗字)の違いが意味するもの

 

この女性を仮にK女と呼ぶことにする。現住所はだめでも、本籍地には親兄弟の痕跡があるのではと考え、2017102日私は藤園淑子さんと一緒に、K女の本籍地を尋ねた。

K女は戸主(父親又は夫等)との苗字が違うのだ。娘か夫である場合は戸主と同姓である。旧民法の知識に乏しい私には、どんな場合に戸主と苗字が違うのか、わからない。(どなたか教えて下さい)

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写真・女性の故郷の街道

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写真・部落名を刻んだ掲示板

 共産党宇陀市議の八木さんが色々調べてくれて、当日一緒に回っていただいた。本籍地の部落は現在の町の中心部からは少し離れている。ほんの狭い地域なので地番がわかれば住所は確定できるのだが笠置軍医から入手した名簿には地番がない。この地域のお寺も訪問して過去帳の調査をお願いした。突然訪ねたにもかかわらず住職が心よく事情を聴いて下さった。

小雨降る街道を行きつ戻りつしてK女の本籍地を目に刻んだ。そこはくすり問屋が沢山ある裕福な街として栄えた。町並み保存をしたら観光客が殖えそうな趣がある。八木市議のお父さんの友人という古老が、自分は一貫してこの町に住むが、そのような名前、苗字の人は聞いたことがないという。翌日町役場でいろいろ調査してくださったが、結局わからなかった。

 

将兵の名前・身元・軍歴は何故判明しているのか?

 

70数年前の事なので、「慰安婦」として送られた芸妓・娼妓の身元がわからないのは不思議ではない」という見方もあるかもしれない。しかし、同じく戦場に駆り出された男性達、即ち数百万人の日本軍将兵は名簿と軍歴が明らかになっていて、軍人恩給がきちんと支払われているのだ。兵士が死亡した場合には妻子に恩給が支払われて来た。

戦火を経て、また敗戦後は不利な証拠の隠滅を政府、地方組織に至るまで、大々的に焼却したが、兵隊の名簿は、何処にあったにせよ、残っていたという事である。

赤紙1枚で戦場に駆り出し、命を奪ったのだから、名前、軍歴を政府がきちんと掴み保存することは当然である。その資料を焼却しなかったことも当然である。

一方、なぜ女性の名前は不明なのだろうか。日本人「慰安婦」の数はおそらく多くても数万人であろう。遊郭から女性を「慰安婦」として東南アジアへ送るときは、住所、本籍、戸主等の名前を警察に申告させて許可証を発行している。そうしないと海外渡航は許可されない時代であった。警察が名前等を掴んで、保存していてもおかしくはない。それは植民地であった朝鮮も同様である。私の入手した名簿には朝鮮人の女性の名前も掲載されている。

   県警の歴史に「慰安婦」の記述がない、不思議さ

 そういえば、『各都道府県の警察史』には廃娼運動、遊郭の取り締まりに関する記事は詳しく記述されている。遊郭について知ろうと思えばまず警察史をよむべきである。また、敗戦後の米進駐軍のための「慰安所」についてもどのようにして設置したかの記述も詳しい。しかし、遊郭から娼妓・芸妓を「慰安婦」として海外渡航させた記述を、私はまだ読んでいない。(沖縄県史にはあるかも…)

ぜひ次の警察史発刊の折にはこの件について県警は語ってほしいと思う。

   政府は日本人「慰安婦」実態を公表すべき

 

政府は「慰安婦」として海外に送った女性達たちにも、兵士の恩給と同額は言わないが、生活の糧を支給すべきであった、と私は考える。すくなくとも、何人の女性を「慰安婦」として海外に送ったのかをぜひ明らかにしてほしい。(吉川春子)

2017年10月14日 (土)

奈良県大和郡山市の遊郭調査へ

 

 遊郭は日本人「慰安婦」の供給源 

 

 2017年103日、私は奈良県出身の日本人「慰安婦」の調査に宇陀市に行った(この件は別項で報告したい)。翌日奈良県の遊郭を見学した。遊郭の調査は、日本人「慰安婦」調査の一環である。

 

奈良は古都にふさわしく遊郭の歴史も古い。私は湯沢和子・忠一ご夫妻の案内で大和郡山市の「洞泉寺」遊郭跡を見学し、帰りに郡山駅に行く途中車で「東岡」遊郭跡を商店街の中を通過した

 

日本人「慰安婦」の中かなりの人達が遊郭から動員されている。戦争で遊郭の商売が成り立たなくなって、町が寂れ料理店など遊郭の業者も日本の侵略、占領地へ商売を移動していった。女性達は軍が前借金を500円~1000円出すという条件に呼応していった。こうして遊郭は「慰安婦」供給源となったのだった。*遊郭=ある定められた一角に、貸座敷、娼妓、芸者、待合、料理店等の集合している遊里のこと

 

 

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写真・市の協力を得て保存、活用されている建物。ハート形の窓の下は隣接の寺の境内

Photo_2 写真・道に面した貸座敷の面影遺す建物 

 

  郡山遊郭には300人以上の芸妓・娼妓が

 

 

「奈良県に置かれていた遊郭は、奈良市内の「辻」、大和郡山市の「洞泉寺」「東岡」

 
の合わせて3か所。…大和郡山は城下町。商業の街として栄え戦時中も空襲の被害をうけ
 
なかった。妓楼は洞泉寺の門前から参道一体に並び昭和5年6月には17軒の店に娼妓
 
165人。戦後は赤線に移行することなく廃止された。現在も当時の建物が数棟姿をとどめ
 
ており、ハート型の窓が目を引く三層楼「川本邸」は市によって保存活用が進められてい
 
る」(木村総『色町百景―定本赤線跡を歩くー』2014.6.30 彩流社) 
 

 奈良の遊郭には県内以外の大阪、京都、兵庫などからも女性が集められてきたと

いう。女性が自立して働くことができなかった時代、また義務教育は小学校6年まで

で上級に進学できない女の子が圧倒的に多かった時代、彼女たちは性産業以外に働

き口は皆無に等しかった。

 

ここは時代をタイムスリップしたかのような古色漂う街並みで、歴史を感じる建物

が軒を接して残されており、街角から芸妓が三味線を抱えてふと出てくるような趣

がある。

 

   女性が体を売ることを当然としていた戦前の日本 

 

また、別の本によると「郡山東岡遊郭は奈良県生駒郡郡山町字東岡に在って関西線

郡山駅の東南約7丁の地点に当たっている。…ここもやはり遊郭になっていて、揚屋(貸座敷)が21軒娼妓が全部で190人居る。ここは総て大阪式で、置屋から娼妓を揚屋に呼んで遊ぶのである。従って*廻しは一切取らずに全部時間制または仕切り制になっている。…洞泉寺遊郭は、東岡遊郭よりは建築においても…あらゆる点において一歩譲って居る。貸座敷は目下17軒あって、娼妓は150人居る」(全「コレクション・モダン都市文化 第34巻 遊郭と買春 全国郭案内」2008125日 ゆまに書房)*貸席=関西方面の言葉で、御茶屋または揚屋を言う。芸娼妓を上げて遊ぶ家料理は仕出し屋からとっている  *貸座敷=芸者の置屋、揚屋、又は兼営の家等を総称したもの  *廻し制=一人の娼妓が同時に2人以上の客を取って順次客から客へ回って歩く事

 

 

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写真・貸座敷の内部

         芸妓・娼妓は性奴隷だった

「洞泉寺町」遊郭で細い路地を歩いていると2メートル程しかない狭い路地の両側に大きな石が置いてあって、そこに見張り番がいて、女性の逃亡を防ぐ場所が残っていた。

 

 

古色騒然とした木造の建物の窓は一面に格子で覆われており、当時も建物の中で何が行われているのかうかがい知ることはできなかっただろうと思う。 

 

貧しい農家出身の娘で芸妓・娼妓となった女性達は、客を次々に取らされて自分の体を犠牲にして稼がざるを得なかった。病気で働けなくなるまで働かされ、廃業の自由は事実上なく、借金は増えても減ることはなかった。性病をうつされ、結核になり、或は妊娠して子どもの出産はどうしたのだろう。子どもは無事に育てられたのか…等々、女性達の苦しみは想像以上だっただろう。 

 

江戸時代の浮世絵の花魁を芸術作品として鑑賞の対象としてきた私は、今は苦い思いを噛みしめている。観賞用に着飾れるだけ着飾り、高いぽっくりを履き、大きく結った髪にかんざしを沢山さして街を歩く派手な女性達。そのいでたち以上に借金を負い、家族の生活を背負い、心の傷に耐えていたに違いない、という思いが今の私にはある。

 その女性達が、アジア太平洋戦争の時代、「お国のために」という、軍と政府の誘い文句で、前借金を軍が支払って『慰安婦』にさせられたのである。

彼女たちは強制連行させられたのではない。また無垢な少女でもない。しかし遊郭の女性なら「慰安婦」にさせられても仕方がない、彼女たちは金もうけのために「慰安婦」になった、ともし考えるならそれは大変な女性蔑視の考えではないだろうか。

彼女たちが一人も名乗り出て政府の責任を追及いない日本。日本人「慰安婦」の政府の責任が明らかになるまで、「慰安婦」問題が解決したとは言えないのである(吉川春子)。

 

 

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写真・3階建ての元貸座敷

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  写真・格子に覆われた外壁

 

 

 

2017年10月 1日 (日)

第20回全国シェルター・シンポジュームひらく

   

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  写真・シンポジュームの資料集

    
   永田町の目と鼻の先で

 

永田町では、安倍首相が権力欲むき出しの衆議院解散を挙行し、これを奇貨とし便乗した小池都知事の新党「希望」の立ち上げ等のむき出しの権力闘争が行われている。海外諸国にも恥ずかしい日本の政治の姿である。

 

この永田町とは目と鼻の先の文京区で2017930日(土)、「全国シェルター・シンポジュームin東京」が開かれた。女性への性暴力をなくし、被害者救済の活動を20年間続けているNGOの集会(NPO法人全国女性社ルターネット共同代表・北中千里、実行委員長:戒能民江お茶の水大学名誉教授)が開かれた。この大会は全国各地で持ち回りで行われ、私も何カ所かは参議院議員として参加した。

 

このNGOは、かつて「配偶者暴力防止法制定」時には被害者当事者の声を直接国会議員に利かせる等、積極的に行動し、法律の内容を充実させる役割を果たした。会場の東京都文京シビック大ホール(オペラも上演される)は、加者で9割方が埋まった。

 

基調講演は「乗り越える力:当事者から見た暴力の影響とトラウマ」と題して、オルガ・トゥルヒーヨさん(米国弁護士・コンサルタント)が行った。

 

先の通常国会で刑法が110年ぶりに改正され、強姦罪の非親告罪化、同罪の法定刑の下限の引き上げ、家庭内で父親等の幼い娘に対する性暴力を犯罪とする等の画期的な内容である。講演は刑法改正後に、まさに時宜にかなったものであった。

 

 3才で実の父親に強姦された少女の体験

 

オルガさんは暴力が日常的に行われる家庭で育った。父親が母親をレイプする場面を少なくとも5回は目撃した。彼女はそれを止めようとして、逆に父親からレイプされた。3歳の時だった。彼女が父親の暴力に立ち向かうたびに、父親の暴力は逆に狂暴化した。父親はオルガさんの兄たちにも彼女にレイプするように仕向けた。

 

11歳の時に父親は心臓発作で亡くなる。しかし彼女に対するレイプは終わらなかった。彼女の兄達、そして兄達の友人によるレイプがずっと続いたからである。

 

親切で勇敢な隣人の女性が居なければ今自分はここにいないだろう、とオルガさんは語った。また学校の先生たちの様々な援助もあった。他方、暴力の現場に警察を電話で呼んだ時、父親はその場をごまかし、彼女の境遇からの救助にはつながらなかった。アメリカの警察も当時は家庭内暴力を見抜くノウハウを持っていなかった、という。

 

彼女は幸運にも大学に進学し、法科大学院にもゆき弁護士になった。レイプが止んだのは、就職して仕事が余りにも忙しいので外出する時間がなく、レイプ相手の男性達と会わなくて済んだからだという。

 

彼女が余りにもすざまじい自分の体験を淡々と語ることに私は息をのんだ。また彼女は、性暴力にあっても必ず立ち直れる、そして当事者こそが最高の専門家であるという事を力を込めて語った。

 

シンポジュームでパネルの発言後短いコメント

 

オルガさんは12401530分という長い講演の後のシンポジュームにも参加して、感動的なコメントを残した。     

 

彼女は司法省で仕事をする中で、上司からもっと自分の体験を語るように助言を受けた。しかし初めは語ることで信頼を失うことを恐れたという。

 

オルガさんは幼い時から自分の身に何が起きたのか把握することができなかった。多くの被害者もそれを把握していない、という。それを把握できてから、自分の経験を多く語って来た。サバイバーが声を上げる事で実態が伝わる、とオルガさんは強調した。

 

父親がなぜこんなに暴力をふるうのか?のだ、と指摘する。加害行為を行う人は権力を行使する。加害者はそれが自分に許されいると考えるからである。オルガさんの父親はオルガさんを自分の所有者であると考えていたからである。

 

ここまでひどくなくても日本でも親は子供が自分の所有物と考える人は少なくないかもしれない。日本でもある親子心中は、善意であったとしても、子どもが自分の所有物と考えるからできるので、子どもを独立の人間と認めていない表れである。

 

   トランプ政権に負けない!

 

一方、サバイバーは自分のせいで暴力を振るわれると考えている。自分にも原因(あるいは責任)があると考えるのだ。そして暴力が、加害者と自分の個人的な問題であると考えている。

 

しかしそれは違うのだと、オルガさんははっきり言う。新しい変化。社会が私たちにどういう変化をもたらすのか。現在のアメリカの動きは、二歩進んだと思ったら三歩下がる状態である。去年まで性暴力について政府はどうにかしてくれるという状態だった。今の政権は違う。前進していたことが今は後退している、という。

 

でも我々は躓いてもまた立ち上がってまた(性暴力撤廃の運動を)続けることをしよう!

皆さんが居る事が、パネルの人がいることが性暴力被害者の力になっている。全てにつながっている。大切にして下さい。私達全員がいて大切な仕事を続けよう(大きな拍手)

 

     妻、子を自分の所有物と思う父親の思想との戦い

                               ~洋の東西を問わず

とても勇気づけられる講演だった。私も「配偶者暴力防止法」の立法に携わった際に性暴力被害者の声を直接聞いた。子どもが犠牲になっていることに心が痛んだ。これを契機に住民基本台帳の公開を止めさせた。

 

オルガさんの父親は妻を、子どもを自分の所有物と思い、暴力で支配した。奴隷を扱うように家族に接した。これが許される社会、が恐ろしい。周囲の大人も気が付きながらストップできなかった。警察も通り一遍の対応しかできず、幼い子を救うチャンスを逃した。

 

シェルターネットは家庭内能力や様々な暴力の犠牲になっている人々を救い、社会を変える活動を地道に行っている。世の中を簡単にいい方向にはリセットできないものだ。倦まず、たゆまず、努力しなくてはならない(終わり)

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 住宅地で見つけた秋の花

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