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« 長野県伊那市で「慰安婦」問題について講演~感想 | トップページ |     第193通常国会の暗と明 »

2017年6月 3日 (土)

山形出身の日本人「慰安婦」調査②  

     日本人の「慰安婦」は遊郭から送られた

 

私たち一行は南陽市赤湯温泉に宿泊した。ここは有名な温泉地で戦前には遊廓があった。そして調査2日目、23日(火)は、かつての赤湯遊郭と宮内遊郭の跡を訪ねた。

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(山形県の調査のメンバー)

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 (熊野神社の大鳥居の右側がかつては遊郭街だった)

 

日本は人身売買禁止条約に加入していたので、多数の日本人の「慰安婦」は成人(21歳以上)で醜業に従事している女性が多かった。山形の「慰安婦」も遊郭から送られたのではないか、と想像した。

ものの本によると、赤湯遊郭は「山形県東置賜郡赤湯町にあって…町は温泉地であるため相当活気のある街であり、当時客の出入りも相当多い様である。遊郭の妓楼約三軒、娼妓約十三人居」た。割合のんびりして遊べる處だ。娼妓は主に同県人の女が多い。付近の名勝として烏帽子山と白龍湖であらふ。丘上には県社の八幡神社があり傍らに県下第一の桜の名勝偕楽園がある。白龍湖は古の置賜太湖の遺物で中には浮島があって鮒、鯉海老等が採れ、赤湯の宝庫である。湖畔には弁財天がある。」

また、宮内遊郭は「山形県東置賜郡宮内町にあって、鉄道は東北線赤湯駅で永井線に乗り換え宮内町で下車する。養蚕地として昔から知られているので製糸工場が多い。遊郭の貸座敷は約三軒娼妓は約十二名居る。…町の後ろに今雙松公園があって相当大規模な公園だ。風景の良い公園であって熊野神社がある。

(「全國遊郭案内」昭和五年七月五日発行、日本遊覧社 20081月コレクション・モダン都市文化第34巻 遊郭と買春)

旧社格の一つ。県から奉幣した神社。国弊社の下、郷社の上に位する。幣帛=神に奉献するものの総称、ぬさ(「広辞苑」)。

 

神社の鳥居近くに遊郭がある!驚き

 

2個所の元遊郭とも立派な神社の大きな鳥居に隣接してあった。これまでの調査で私は男性の集まる場所、例えば港、交易の船着き場、鉱山、工場等に遊郭は付物という事は理解していたが、神社は男女とも参拝に訪れる所であり、男だけが集うわけではない。家族連れを含めて、老若男女が各地から集う場所であろう。

事実、人間の本性むき出しの遊郭が神社に隣接して存在していたのだ。神様はそうした事にも寛容なのか。他の土地でも神社と遊郭がセットのように存在する例もある。山形県特有ということでもないのだ。そこまで男の思うまま女性を支配する社会が続いてきた。遊郭はそのシンボルのように思える。こうした“文化”が戦場に持ち込まれ、無数の「慰安所」になったという事を私は認識した。

 

   Yさんのご親戚との遭遇

 

昨日訪ね当てた、Yさんの本籍地の地番に建物はなかった。でも何らかの手がかりを求めて同じ部落にあるYさんと同じ苗字の2のお宅を訪問することにした。

日中はお留守だったので家人にお会いできたのは私たちの帰りの新幹線の時間が迫った夕刻だった。来意を告げるとその方は快く私たちを招き入れてくれた。そしてその方は幸運にもYさんのご親戚筋の方であった。

溢れる思いで失礼をかえりみず、私たちは矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。Yさんが最近までご存命だったが、亡くなられた事、それは関西の地であったことが判明した。Yさんは遊郭から「慰安婦」にされたのではない事もはっきりした。

しかし短時間では聞けなかった事も多い。またYさんよりはるかに若いこの家の主が、Yさんがビルマに行ったか否か等の戦前の生活については知る由もなかった。

Yさんがこの地に実際に住んでいたのか、両親のお名前、戦後はどんな生活をされていたのか、判明できないまま後ろ髪引かれる思いで、この地を後にした。今後の調査を引き続き行い少しでも、このご苦労されたと思われる女性の軌跡をたどりたいと思う。

 

    日本人「慰安婦」の調査の今後について

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(八幡宮の大鳥居、この崖下は遊郭だった)

 

私達はビルマ(現・ミャンマー)従軍の元軍人の笠置慧眼氏(故人)から日本人「慰安婦」の名簿を入手した。名簿には日本人「慰安婦」の名前と本籍地、現住所の他に戸主の名前が記されていた。

これに基づいて、201637日から11日まで、熊本県、大分県、福岡県、佐賀県の4県の出身7人の本籍地と現住所を訪ねた。同年10月は再度天草に行った。20171月にはこの調査とは別のメンバーによって和歌山県出身「慰安婦」の調査を行った。

これら事は、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールニュース(21号~28号)とこのブログ(3月と5月)にすでに掲載した。

私たちは日本人の「慰安婦」を訪ねて、県都から車で3時間以上離れた場所にも行った。また港町、河の船着き場、遊郭の町の跡にも足を運んだ。山奥、あるいは大都会からかなり離れた場所に戦前(1943年~44年頃)の現住所と本籍地(複数)の住所を訪ね当てる事ができた女性もいた。戦後に建てられたものではあろうが、家もあった。そこには親戚(戸主の長男、あるいは甥)が住んでいた。一人の方の親戚の方とは言葉を交わすことができた。もう一人の方は留守だったが近所の方の証言で、この住所所で間違いない事が判明した。

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(宿泊した赤池温泉の古い旅館)

 

私たちが入手したこの名簿は、海外渡航の許可を売るために、本人の氏名と共に戸主の名前、本籍地をその筋に届け出たものなので非常に正確であった。しかし本籍地に行っては見たが全く手掛かりがつかめない人もいた。空襲で焼けて全く新しい街に変わっていたところもあった。福岡、北九州はその例である。また、「現住所」が遊郭の中にあった女性は、遊郭が戦後のGHQによる「廃娼」の命令、米の占領終了後は売春防止法の成立、赤線禁止で昭和33年ころ遊郭の名残も赤線も、公然とした売春施設は廃止された。遊郭の建物は跡形もなくなっている所が多く新しい街並みになっていた。住人もその後引っ越してきた人々なので、手掛かりをつかめなかった。

 

  女性への暴力なくす社会へ

            ~100年ぶり刑法改正

 

 

戦前の家族制度の下では醜業(娼妓、芸妓等の売春)に従事する場合も戸主の承諾が必要だった。逆に言うと、戸主(親)が親権を行使して金(前借金)を受け取って娘を遊郭に売る事を政府は許していた。女性が自立して働くことが認められない時代、遊郭しか働く場のない悲惨な時代が具体的な姿で私に迫って来た。

この様は悲惨な一人一人の「慰安婦」の苦労を聞く機会を私は永久に失った。あと10年早く調査に行っていれば1人か2人は、或は行き会えたか、否、それも無理だったかもしれない。性暴力被害者が名乗りを上げられる社会を何としても作らなければならない。

今国会で100年を経てようやく刑法改正が行われ、強姦罪の非親告罪化等が実現される運びである。女性への暴力がなくなる日本社会を形成するためにも、日本人「慰安婦」の調査を続ける。

 

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東置賜郡高畠町出身童話作家・浜田広助の記念館敷地内の胸像)

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(国語の教科書に載っていた浜田広助作「泣いた赤鬼」)

 

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コメント

失礼いたします。
私は仙台在住で、東北地方の遊郭について学んでいるものです。

本記事を拝読し大変感慨を受けました。
遊郭という文化は日本の裏面史であり残された文献も非常に少ないため、
このようなフィールドワークによって調査し、記録することこそ後代が過ちを繰り返さないために
非常に重要な研究になるのだと感じております。

そこで不躾ながら、一つお伺いしたいのですが、
私も最近宮内町の遊郭跡地の場所の調査を行っており、いままでその場所がつかめずにおりました。
本記事には、遊郭跡地が”大鳥居の右側にあった”とありますが、
そこには料亭の跡(笠原)などがあることを確認しております。
それがかつては妓楼だったということでしょうか。
それともその料亭を過ぎた通り沿いに遊郭があったということでしょうか。

お手数おかけしますが宜しくお願いいたします。

たびたび失礼いたします。

さきほどの質問の補足になってしまいますが、
宮内町の遊郭跡地について、どのように場所を確定されたのでしょうか。
文献があったのか、ヒアリングされたのかなど・・。

重ね重ね、大変お手数おかけしますが宜しくお願いいたします。

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