フォト

最近のトラックバック

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »

2017年6月

2017年6月18日 (日)

    第193通常国会の暗と明

Photo

 

共謀罪成立と公明党の醜い姿

 

193国会は安倍内閣による、国民への監視を強め、内心の自由を侵す共謀罪法の成立という歴史的な汚点を残して終わった。

参議院ではさらに、委員会採決を省略して本会議採決を行う中間報告の暴挙まで行った。理由は、同法案審議している法務委員会委員長が秋野公造・公明党参議院議員であり、公明党委員長が委員会での強行採決している場面をテレビで放映されたくない、という身勝手なもの。自分の党の醜悪さをかくすために国会の民主的ルールを踏みにじって恥じないのが公明党なのだ。

私の知る限り(現役時代)公明党は野党の時も含めて参議院法務委員長のポストを独占してきた。自民党は、派閥華やかなりし時は法務大臣ポストは主流派が必ず占めてきた。法務大臣はいざという時に警察、検察に影響力行使できる?からである。

法務大臣が取れない公明党には、法務委員長を確保する必要があった(理由は公然と囁かれていた)。公明党は今回も自民党と手を組んで共謀罪の成立に乱暴な国会運営を行ってきたのに、強行採決はしていない、という体裁を整えとの見え透いた行為である。しかし国民がこの事をよく知れば同党の謀略性は一層焼き付けられるであろう。

 

 110年ぶりの刑法改正

 

通常国会の最終盤で、以下の内容で明治時代の刑法の性犯罪に関する罰条が大幅に改正された。

  一、強姦罪の名称を「強制性交等罪」に変更し、被害者に男性も含

     めて、性交類似行為も対象にする

 

  二、強姦罪の法定刑の下限を懲役3年から5年に引き上げる。強姦致死

    傷罪は懲役5年から6年に引き上げる。

 

  三、強姦罪や強制わいせつ罪の親告罪規定を削除する。これによって

    被害届がなくとも犯罪として捜査を開始できる。

 

四、父親の18歳未満の娘に対する性的暴力は暴行、脅迫がなくとも

     罰することができるようになる

 

 

 

Photo_2

(準強姦の被害に会った女性の記者会見)

Photo_3 

(「加害者」と訴えられた男性のフェイスブックより)

 性暴力被害を告発する女性の勇気

今回の改正で単純強姦罪から親告罪の規定を外した結果、これまで被害届のない事をいいことにはびこった強姦罪常習犯を減少させることが期待される。今回改正の陰には被疑者(団体)の奮闘が大きな力になったと思う。

この事件もその一つであるが、TBS元記者の女性に対する準強姦罪疑惑について、検察審査会で審査中と報じられている。この件で、所轄の警察が逮捕状まで取ったのに警視庁からストップがかけられ、逮捕状が執行されなかった(「その記者は安倍総理と親しい」などと週刊誌で報道された)。

しかし、被害女性が記者会見して加害者の男性を厳しく告発した。その姿に、私は性暴力被害に会った女性たちの変化に注目した。女性が泣き寝入りする時代を終わらせ、性暴力は当然加害者が悪いのであって、「女性に隙があった」、「(強姦について)強く拒否しないから合意があった」などの言い訳をさせる余地をなくす必要がある。当事者が声を上げる、そのことが法律を変え、社会を変えるのだ。3年後の見直し規定があるので今回不十分な点は次の改正に期待したい。

 

 13才からの父親の性暴力を告発した

 

 今回の刑法改正で私が特に印象深かったことは、父親による幼い娘への性暴力が処罰されることになった点である。父親の幼い娘に対する性暴力がかなり多いが、公然と問題にされることは少なかった。であるから、参議院の委員会で参考人として発言した山本潤さんのカミングアウトを初めてテレビで見て、私は衝撃を受けた。

彼女は20才で実家を出て独立して、やっと父親からの暴力からのがれた。母親に告げたが助けてもらえなかった。こんなことはどの家庭でも起きていることだと思っていたのだという。

DV(家庭内暴力)と呼ぶべきか「児童虐待」というべきか、あるいは両方の要素が入った複合型というべきか。戦前の家父長制の影をここでも引きずっている。

山本さんは2014年に性犯罪厳罰化の検討がスタートしたことに合わせて、15年「性暴力と警報を考える当事者の会」を設立し法制審議会に意見書を出し、与野党議員にも働きかけた。

「性暴力の本質は、人を者として扱う事、私たちは(被害者)心を、魂を殺される」と訴えた。

当事者の運動が岩盤に穴をあけた。

 

  尊属殺の規定を廃止したきっかけも、児童虐待

 

尊属殺人(刑法200条)が削除されきっかけも児童虐待であった。その女性は14才の時に父親から強姦されそ、の後も父親は妻(女性の母親)の目を盗んで娘に肉体関係を強要し続けた。母親に訴えてもその行為はやまず彼女は親戚の手を借りながら父親からの脱出を図ったが失敗し相次いで5人の子をもうけ、世間的には夫婦と異なる所のない生活を15年間送った。彼女が職場の同僚と愛し合い結婚を訳し、父親に結婚話を打ち明けたが父親は「相手をぶっ殺してやる」と怒鳴り、彼女は結婚をあきらめるが…女性は父親を殺害に及んだ…」

この殺人罪には尊属殺が適用され、情状酌量されても執行猶予がつかないどころか死刑と無期懲役しか言い渡せないという不合理についに頑迷固陋な最高裁も「この規定は憲法14条違反で無効」と判示した。(197344日)

「この判決のあった1973年は、第1回世界女性会議(1975年、メキシコシティ)の前で国連が女性への暴力撤廃宣言を行う20年も前です。女性の人権の中でも、女性への暴力撤廃について日本は夜明け前でした」(吉川春子著『翔びたて女性達――美しい性のレボリューション』20031130日ケイアイメディア)

今回の刑法改正に親が18歳未満の娘への性暴力処罰規定が入ったことは画期的なことと言える。

 

    26回ゼミナールのテーマに

 

「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール、1126日のテーマは「『慰安婦』問題と現代の性暴力」で110年ぶりの刑法改正を取り上げる予定で、講師を選考中である。

2017年6月 3日 (土)

山形出身の日本人「慰安婦」調査②  

     日本人の「慰安婦」は遊郭から送られた

 

私たち一行は南陽市赤湯温泉に宿泊した。ここは有名な温泉地で戦前には遊廓があった。そして調査2日目、23日(火)は、かつての赤湯遊郭と宮内遊郭の跡を訪ねた。

2

(山形県の調査のメンバー)

Photo

 (熊野神社の大鳥居の右側がかつては遊郭街だった)

 

日本は人身売買禁止条約に加入していたので、多数の日本人の「慰安婦」は成人(21歳以上)で醜業に従事している女性が多かった。山形の「慰安婦」も遊郭から送られたのではないか、と想像した。

ものの本によると、赤湯遊郭は「山形県東置賜郡赤湯町にあって…町は温泉地であるため相当活気のある街であり、当時客の出入りも相当多い様である。遊郭の妓楼約三軒、娼妓約十三人居」た。割合のんびりして遊べる處だ。娼妓は主に同県人の女が多い。付近の名勝として烏帽子山と白龍湖であらふ。丘上には県社の八幡神社があり傍らに県下第一の桜の名勝偕楽園がある。白龍湖は古の置賜太湖の遺物で中には浮島があって鮒、鯉海老等が採れ、赤湯の宝庫である。湖畔には弁財天がある。」

また、宮内遊郭は「山形県東置賜郡宮内町にあって、鉄道は東北線赤湯駅で永井線に乗り換え宮内町で下車する。養蚕地として昔から知られているので製糸工場が多い。遊郭の貸座敷は約三軒娼妓は約十二名居る。…町の後ろに今雙松公園があって相当大規模な公園だ。風景の良い公園であって熊野神社がある。

(「全國遊郭案内」昭和五年七月五日発行、日本遊覧社 20081月コレクション・モダン都市文化第34巻 遊郭と買春)

旧社格の一つ。県から奉幣した神社。国弊社の下、郷社の上に位する。幣帛=神に奉献するものの総称、ぬさ(「広辞苑」)。

 

神社の鳥居近くに遊郭がある!驚き

 

2個所の元遊郭とも立派な神社の大きな鳥居に隣接してあった。これまでの調査で私は男性の集まる場所、例えば港、交易の船着き場、鉱山、工場等に遊郭は付物という事は理解していたが、神社は男女とも参拝に訪れる所であり、男だけが集うわけではない。家族連れを含めて、老若男女が各地から集う場所であろう。

事実、人間の本性むき出しの遊郭が神社に隣接して存在していたのだ。神様はそうした事にも寛容なのか。他の土地でも神社と遊郭がセットのように存在する例もある。山形県特有ということでもないのだ。そこまで男の思うまま女性を支配する社会が続いてきた。遊郭はそのシンボルのように思える。こうした“文化”が戦場に持ち込まれ、無数の「慰安所」になったという事を私は認識した。

 

   Yさんのご親戚との遭遇

 

昨日訪ね当てた、Yさんの本籍地の地番に建物はなかった。でも何らかの手がかりを求めて同じ部落にあるYさんと同じ苗字の2のお宅を訪問することにした。

日中はお留守だったので家人にお会いできたのは私たちの帰りの新幹線の時間が迫った夕刻だった。来意を告げるとその方は快く私たちを招き入れてくれた。そしてその方は幸運にもYさんのご親戚筋の方であった。

溢れる思いで失礼をかえりみず、私たちは矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。Yさんが最近までご存命だったが、亡くなられた事、それは関西の地であったことが判明した。Yさんは遊郭から「慰安婦」にされたのではない事もはっきりした。

しかし短時間では聞けなかった事も多い。またYさんよりはるかに若いこの家の主が、Yさんがビルマに行ったか否か等の戦前の生活については知る由もなかった。

Yさんがこの地に実際に住んでいたのか、両親のお名前、戦後はどんな生活をされていたのか、判明できないまま後ろ髪引かれる思いで、この地を後にした。今後の調査を引き続き行い少しでも、このご苦労されたと思われる女性の軌跡をたどりたいと思う。

 

    日本人「慰安婦」の調査の今後について

Photo_2

(八幡宮の大鳥居、この崖下は遊郭だった)

 

私達はビルマ(現・ミャンマー)従軍の元軍人の笠置慧眼氏(故人)から日本人「慰安婦」の名簿を入手した。名簿には日本人「慰安婦」の名前と本籍地、現住所の他に戸主の名前が記されていた。

これに基づいて、201637日から11日まで、熊本県、大分県、福岡県、佐賀県の4県の出身7人の本籍地と現住所を訪ねた。同年10月は再度天草に行った。20171月にはこの調査とは別のメンバーによって和歌山県出身「慰安婦」の調査を行った。

これら事は、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールニュース(21号~28号)とこのブログ(3月と5月)にすでに掲載した。

私たちは日本人の「慰安婦」を訪ねて、県都から車で3時間以上離れた場所にも行った。また港町、河の船着き場、遊郭の町の跡にも足を運んだ。山奥、あるいは大都会からかなり離れた場所に戦前(1943年~44年頃)の現住所と本籍地(複数)の住所を訪ね当てる事ができた女性もいた。戦後に建てられたものではあろうが、家もあった。そこには親戚(戸主の長男、あるいは甥)が住んでいた。一人の方の親戚の方とは言葉を交わすことができた。もう一人の方は留守だったが近所の方の証言で、この住所所で間違いない事が判明した。

Photo_3

(宿泊した赤池温泉の古い旅館)

 

私たちが入手したこの名簿は、海外渡航の許可を売るために、本人の氏名と共に戸主の名前、本籍地をその筋に届け出たものなので非常に正確であった。しかし本籍地に行っては見たが全く手掛かりがつかめない人もいた。空襲で焼けて全く新しい街に変わっていたところもあった。福岡、北九州はその例である。また、「現住所」が遊郭の中にあった女性は、遊郭が戦後のGHQによる「廃娼」の命令、米の占領終了後は売春防止法の成立、赤線禁止で昭和33年ころ遊郭の名残も赤線も、公然とした売春施設は廃止された。遊郭の建物は跡形もなくなっている所が多く新しい街並みになっていた。住人もその後引っ越してきた人々なので、手掛かりをつかめなかった。

 

  女性への暴力なくす社会へ

            ~100年ぶり刑法改正

 

 

戦前の家族制度の下では醜業(娼妓、芸妓等の売春)に従事する場合も戸主の承諾が必要だった。逆に言うと、戸主(親)が親権を行使して金(前借金)を受け取って娘を遊郭に売る事を政府は許していた。女性が自立して働くことが認められない時代、遊郭しか働く場のない悲惨な時代が具体的な姿で私に迫って来た。

この様は悲惨な一人一人の「慰安婦」の苦労を聞く機会を私は永久に失った。あと10年早く調査に行っていれば1人か2人は、或は行き会えたか、否、それも無理だったかもしれない。性暴力被害者が名乗りを上げられる社会を何としても作らなければならない。

今国会で100年を経てようやく刑法改正が行われ、強姦罪の非親告罪化等が実現される運びである。女性への暴力がなくなる日本社会を形成するためにも、日本人「慰安婦」の調査を続ける。

 

Photo_2

東置賜郡高畠町出身童話作家・浜田広助の記念館敷地内の胸像)

Photo

(国語の教科書に載っていた浜田広助作「泣いた赤鬼」)

 

« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »