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2017年5月

2017年5月29日 (月)

長野県伊那市で「慰安婦」問題について講演~感想

Photo_4写真・主催者挨拶)

 

5月13日(土)国際女性デー記念講演会で私(吉川春子)は、「「慰安婦」問題から考えるジェンダー平等*女性の人権」と題して、今日の「慰安婦」問題について講演した。

長野県は私の故郷であり、かつての選挙区でもあるが、「慰安婦」問題をテーマとした講演はほとんどしたことはない(数年前に上田市と、真田町の「らいてうの家」で其々講演した)。参議院議員引退後、私が「慰安婦」問題に特化して活動していることについて選挙区と言えども知る人ぞ知る、状態である。

 

私は議員リタイア後、各地で「慰安婦」問題の講演を続けてきた(百回程度?)が、最近自分の講演内容を多少見直している。心境の変化のきっかけは日韓政府合意である。

 

 

   日韓合意は「慰安婦」に取り組むNGOに混乱 

 

日韓請求権協定50年の201512月、「慰安婦」問題について衝撃的に「日韓合意」が行われた。日本の世論はこの合意をもって日韓の「慰安婦」問題の一応の決着と受け止めた。しかし、挺身隊問題対策協議会(「挺対協」)や運動の先頭に立ってきた韓国人「慰安婦」は「日韓合意」無効を主張する。韓国国民の多数からも受け入れられていない。どんなに努力しても日本を許す気持ちにはなれなない程、韓国の人々は傷ついている。日韓合意は「慰安婦」問題解決を目指す運動に混乱をもたらした。

 

 日韓世論の隔たりに苦しむ日々…

 

「慰安婦」問題解決を目指してきた日本のNGOとして私は、迷い苦しんだ。講演内容もこれまで以上に試行錯誤を繰り返した。それまで私の講演は(韓国)「慰安婦」問題の解決のために日本政府はどう変わらなければならないかとの内容で日本政府に向けての批判が中心だった。

しかし現政府の歴史認識、対韓政策は国民の高い支持に支えられている。国民の意識が変化しない限り、韓国に対する対応は変わらないのだ。「将を射んとすれば馬を射よ」。世論をどう変えてゆくかが私のテーマとなった。

 

また、これまであまり注目されなかった日本人「慰安婦」問題に時間を割くことにした。同胞の女性も朝鮮半島の女性達と同じように性奴隷として苦しんできた事実をお話しすることで日本の人々が「慰安婦」問題を身近に感じ、世論が変化するのではと考えるからだ。何より「慰安婦」問題は韓国との関係がよくなれば終わりではない、という点を意識して盛り込んでいる。

こうした葛藤が続いている中…私は伊那市の講演会に臨んだ

 

主催者のお許しを得て、以下に講演を聞いてくださった方々の感想を、掲載させていただく。  

Photo_5

(写真・吉川の経歴等紹介する)

 

参加者感想まとめ 18

 

・きちんと聞いたことがなかった問題だったので、(新聞の記事を読んで心を痛めていたことではあったのですが)話しが聞けたこと、お話の内容、とても心からのことばでよかったです。

 

・吉川先生 ありがとうございました。 性の問題や慰安婦の問題もわかりやすく話してくださって(あまり詳しいことを知らなかったので)びっくりする程でした。

 今までにいろいろなところで断片的に聞いた話が一本につながった様に思います。

最後は本当に憲法ですね。今の政府のやり方にちゃんと反対して行きたいと思います。

 

・久しぶりに吉川さんにお会いでき、良かったです。

 国会当時のご活躍に増して、女性の平等、慰安婦問題などで研究実践されていて、有り難いです。私たちも、学び、歴史を忘れず、次世代にも伝えて行かなくてはと、痛切に思いました。

 

・とても分りやすくお話しをしていただき、ありがとうございました。

 私も40歳の頃 中国への侵略戦争について勉強する機会があり、従軍慰安婦についても学びました。戦争という最大の人権侵害の行為の中で、人として扱われることなく、女性が人格を否定されたことに、怒りを感じます。そして、そうした被害にあった女性たちの思いに寄り添う取組みが、私たち女性の人権を守る闘いだろうと思っています。頑張ってください。

 

・「慰安婦」の問題は、人権問題であると常々思っていても、本日吉川さんの話の中で、女性自身が立ち上がり、歴史に学び、知ることの大切さを強く思いました。

 

・今日はありがとうございました。また機会を計画してくださいますようにお願いします。 

 

・吉川さんの話し方も とても分りやすく、ききやすかったです。知らないことばかりでした……。 今、人権とはなにか。深いところの勉強を、もっとしっかりして、自分のものとしてまわりにも訴えていき、よりよい社会になる様に頑張りたいです。

 知らせていくことが大切!!

 

・慰安婦問題は、完全に女性差別 女性の人権を守るべく学習有り

 

・私の町にも「慰安婦」にさせられた方がいるかも知れない。先の戦争の加害部分の知らない、かくされた部分を、全国的に調査し、今後に活かすべきと思いました。

 

10・慰安婦問題を日本人として、より多くの人が真相を知り、学ぶ必要があると感じました。これは女性だけでなく、男性をも理解して、共に運動していくことだと思います。

何よりも関ったのは男性ですから、男性自身も知る必要があると思います。

 

11・今日は夫と2人で参加しました。何も力になれず歯がゆいですが、「知らなかった」では済まさぬよう努力したいと思っています。ありがとうございました。

吉川先生のお話も伺えてよかったです!!

 

12・とてもショッキングなお話しでした「慰安婦問題」は正に、たち一人一人の問題です。日々の生活の中でも、人権意識 大切にしたいと思います。

 

13・戦後生まれで、父親も戦争に(体調悪くて)行かなかったため、詳しい事を今日、勉強させていただきました。日本の人たちの中に 日本の慰安婦は、金欲しさに、自ら喜んで行ったと行った人がいて、疑問に思っていた。

 歴史の勉強で、子ども達に過去の戦争の誤り、事実をしっかり教える必要が、何としてもあると思う。分りやすい話しで、大変良かったです。

 

14・慰安婦問題 戦争中の事だったのに、事実が明らかになって、いろいろな動きになったのはここ30年くらいのこと。まだまだ完全な解決には時間がかかる新しい問題なんだと思いました。日本人慰安婦の事も分っていない事が多く、何の補償も決まっていないのだし。夕食会の時にお聞きした中国人慰安婦の事も、中国が国として何も言わないからいろいろな数字など出てこないそれでいいのかしら?と疑問が残りました。自分でも調べてみたいと思います。先生、遠くまで ありがとうございました!!

 

15・慰安婦問題についてこれほど詳しく聞いたのは初めてでした。日本人の方の中にも方用な方がいたことも初めて知り、勉強になりました。 過去を反省せずにまた、同じ様な方向にどんどん向かっている今の政権のやり方。今日の話をきいて、もっともっと一人ひとりが賢くならなければとつくづく思いました。

 

16・家族制度がどれほど女性を苦しめてきたのかが判りました。自民党の24条改悪について、より深く判ったように思いました。

 

17・「慰安婦」内容は日本の方ということで、少し話がやさしい様な以前 阿智のコミュニティーホールで、講師「金 富子」先生の話は、講演の後 みなさん顔を上げる事ができなかった。吉川先生の話 大変参考になったんですが?

 

18・慰安婦問題を深く捉えることができた。憲法との関係まで踏み込んだ内容で、よくわかりました。人権を尊重する思想が社会的にうすれているように思います。人と人とのつながりを広げて話し合っていくことが大切だと思いました。

 開会行事の最中、プロジェクターで映る「六義園のつつじ」、私にとっては懐かしい思い出のある六義園のつつじです。思いがけず目にして嬉しかったです。

 

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上・東京都豊島区の住宅の塀にに咲くバラ

下・ラジオ体操の公園の入り口の小花

 

2017年5月28日 (日)

日本人「慰安婦」を探す旅①

 

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写真は南陽市赤池温泉近くの、白竜湖を見下ろすブドウ畑

 

522日(月)23日(火)の2日間、山形県出身の日本人「慰安婦」を訪ねて高畠町と南陽市(赤池)へ行く。メンバーは私(吉川)のほか、福岡市、羽曳野市、川崎市、東京都、青森県弘前市から6人のメンバーで行った。一人を除いて東京駅に集合し山形新幹線でまず高畠駅に向かう。2時間少しで目的地に着くのだから新幹線はありがたい。

この日山形は東京よりも暑い摂氏31度。ここは盆地なので気温は高くなる。学生時代に遊説で山形市に泊まった時は、8月だったが、37度あったことを覚えている。従って果物がおいしい。山のかなり高いところまでブドウ畑のビニールハウスが遠目にもかなり見える。

 

   ビルマ従軍軍医作成の日本人「慰安婦」名簿に山形県出身の女性

 

私たちはビルマ従軍軍医・笠置慧眼氏の著書『ああ 策はやて隊』(1970720日初版発行 西部読売開発出版社)末尾の表3「第二八軍傭人隊一覧表」(傭人隊々長 東京都葛飾区新小岩 五十嵐信一作成)に掲載されている「本籍地 山形県 芸名セツ子、本名 島● 淑子」の調査である。

赤旗記者の片桐春一氏が事前に地番を突き止めておいたのですぐに行きつくことができた。しかし建物はなく、その地番は隣地の地主に売却されていて別人の所有になっていた。空き地には芍薬が一株、沢山の蕾を付けて今にも花が咲きそうな姿をしていた。それがあるだけだった。

高畠町には「女郎屋」が2軒あった。1軒は現在旅館を営業しており、もう1軒は元医者の所有だそうで、河のすぐそばに民家が建っていた。この土地は大きな製糸工場があり女工が500人も働いていた。その製糸工場は1997年まで続いた。

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写真・訪れた元「慰安婦」の女性の本籍地。建物はなく芍薬の花が咲きそうな株があった。

 

   不況と凶作、女子の人身売買、「女郎屋」

 

1929(昭和4)年の世界大恐慌の影響と、昭和9年の東北地方の凶作で農家経済の破たんの結果、小作争議の頻発、婦女子の身売り、小学児童の欠食…社会的な惨事が続出した。婦女子の身売りの状況は警視庁で昭和7年末と同9年6月末に調査した次の「警視庁管下の芸娼妓雇女出生府県別調」によると、本件は合計一四六六人で、全国総計一九三五七人に対し、七・六%の割合を占め、この割合は、東北六県では第1位になっている(「山形県警察史」P654655)。

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写真・元「女郎屋」は現在旅館

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写真・もう一軒の「女郎屋」は個人の住宅。その前は川が流れて、交易で賑った。男性の集まるところ女郎屋、遊郭があった

 

「娘身売りの場合は当相談所へ御出で下さい 伊佐澤相談所」

 

教科書にこの写真が載っていたことを記憶されている方がいるかもしれない。この看板を掛けた村役場は、今回私たちの調査の自治体の戦前(町村合併以前)の姿である。娘の身売りについて役場があっせんした、という驚くべき事実、戦前の日本はここまで女性を踏みつけにしたのか、と唖然とする。

また、山形県は農家次三男の就労対策のため、1位の長野県に次いで多くの満蒙開拓団を中国大陸に送り出しているので、女性達も一旗揚げようとの雰囲気で「慰安婦」としても大陸に渡ったのではないか、という推測もした。

いずれにしても女性が「慰安婦」にされる条件がある、その具体例を掴みたい、と想像して、私は当地を訪れたのであった。

    農村の少女が「慰安婦」にさせられた経緯とは?

私は一つの仮説を立てた。即ち、山形に本籍地があり、現住所が満州国奉天となっている元日本人「慰安婦」Yさんは、貧しい小作人の娘で冷害の年、父親にこの地方に多数ある遊郭(あるいは「女郎屋」)に売られ芸娼妓として働かされていた。

当時、軍隊が醜業に就く女性を「慰安婦」にするについては5百円~1千円の遊郭から足抜け金を支払う(警保局通牒)ので、Yさんは遊郭を抜けて満州にわたった。本人の意思か親の意向か。後者とみることが順当か。

当時山形県民の満蒙開拓団派遣人数は長野県に次ぐ第2位であった。少年義勇軍も全国第2位であった。また、敗戦時に満州にいた日本人は満蒙開拓団とは別に、150万人と言われている。彼女の知人、親戚も満州に行っていたはずであり、満州の土地への何らかの縁があっても不思議はない。

満州の遊郭で働いているうちに、今度は太平洋戦争となり「慰安婦」の需要が高まった。満州の売春宿の主の誘いに乗って、はるばるビルマに行くことになった。

日本人「慰安婦」の供給源は遊郭である。背景は農村の凶作、世界恐慌による貧困と、法律上も女の子の人身売買を禁止せず、社会的にはこれを当然視する人権思想の欠如、女性への差別意識であった。

Y女に対して以上の推測をして、私は当地の調査に出かけたのであった。(以下続く)

 

2017年5月14日 (日)

第62回埼玉県母親大会分科会

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「女性の人権から考える「慰安婦」問題」講演

 

 2017年5月7日、第62回埼玉母親大会が越谷サンシティで開催された。午前中は「青い空は青いままで 子どもらに伝えたい」と題して詩人小森香子さんの記念講演があった。

     アットホームな雰囲気

午後からは10の分科会が開かれ、第1分科会は「女性の人権から考える『慰安婦』問題」で、私は助言者を務めた。司会は大貫法子(埼玉アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会=AALA)、川村勝子(年金者組合)、記録・柴田広子(AALA)でパワーポイントのセットは佐藤龍雄(AALA)の皆さんでスタッフは知り合いばかり。

会場は定員が36人の狭い場所に46人が参加した中に知っている顔が十数人はいた。アットホームな雰囲気で進められたが内容は充実したものだった。

 

まず50分間講演…大学生の性暴力、日本人慰安婦」、各地にあった遊郭、博物館・・・

私は新聞記事を見るとDV犯罪、有名大学学生の性暴力事件が頻発している。ジェンダー平等を妨げているものは「女性への暴力」で、代表的な的なものが日本軍「慰安婦」である。「女性への暴力」撤廃が国連を中心にジェンダー平等を目指す世界的なテーマである事、また、「慰安婦」問題とは何?というそもそも論を丁寧に話した。

加えて多数存在した日本人「慰安婦」の調査をして、ほとんどが遊郭から送られていった事がわかった。日本各地に遊郭があり、男性はここで「遊ぶ」ことが戦前の日本の国の「文化」であったことを知って衝撃を受けた。その延長として戦場の「慰安所」に発展した事についても言及した。

 

意見交流の中で出た、衝撃的事実

講演の後、会場の皆さんから、以下のような活発な意見が寄せられた。

 

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(写真・母親大会終了後は南越谷駅まで参加者が行進した)

「姪が、中国に留学した時、相手の国の学生から「ジャパニーズは戦争の反省をしていないからダメ」と言われた。学校で日本の戦争中の事を教えられていないので彼女はとまどった」

 

「地域おこしで花魁道中をやり吉原を売り出そうとしている。しかし、女性が遊女にならざるを得なかったことに心が痛む」

 

「『慰安婦』問題の署名を集める活動をしているが、ある女性から「テレビを見ているとこの問題は解決している。韓国の中でお金が届いていないことが問題だ」と署名を拒否された」

 

「日韓合意後2か月の時韓国で水曜デモに参加した。「日本が戦争にきっちり反省しないと許せない」と言われた。草の根から声を上げてゆかないとならないと日本のNGOは頑張っている。マスメディアの責任が重い」

 

「南京の大虐殺記念館、万人抗を見て日本はなんてひどい事をしたのかと思った。中国人が大勢家族と一緒に見学に来ていた。吉川の話に「日本には戦争博物館がない」と言われたが日本人のやったことは忘れることはできない。未来に向かって知らせてゆかねば」

 

「家族制度が勉強になった。からゆきさん等、底辺の女性達のことが心にあった。頭の中が整理された。叔母は従軍「慰安婦」だった。体を売っていたが更に売られて「慰安婦」として働かされた。結婚しても子どもは産れなかった。貧乏で子どもを売らねばならなかった。今後もこういうことは起こりうる」

 

「中国に従軍していた父から戦争体験を聞いた。「慰安婦」については、「休みの日にズラリと兵隊がズボンを下げて待っていたよ」と話してくれた。吉川のスライドの写真と同じ景色だ」

 

「美容院で「韓国問題は解決済み」と言われ、また、ヨガの先生は「女性達はお金を稼ぐために慰安婦になった」と言われたがきちんと話せない自分がいた。今日の話ですっきりした」

 

 

 

最後に参加者で申し合わせ事項をまとめた。

「『埼玉ピースミュージアム』(平和資料館)に加害の事実を展示させよう」

「憲法24条の問題をに学ぼう」、「地域に『慰安婦』問題の学習の場を広げよう」

 

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