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2016年12月

2016年12月25日 (日)

陸自のPKO「日報」廃棄と、「従軍慰安婦」

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(ガラス越に見る見事な六義園の銀杏の紅葉~現在は枯れ枝のみ)

PKO活動の「日報」が廃棄されたニュースは2つの重大問題を孕む。一つは「慰安婦」問題に見るように戦争関係の公文書をすべて廃棄してきた旧日本軍以来の体質、もう一つは海外の戦闘地域に自衛隊を送る事の隠ぺいである。

 

 報道によるとアフリカの南スーダン国連平和維持部隊(PKO)に派遣されている陸上自衛隊は、首都ジュバで7月に大規模な武力衝突が発生した際の状況を記録した日報を廃棄していた(東京新聞20161224日)。陸上自衛隊の文書管理規則が定める3年の保存期限に満たないうちに!

ジャーナリストの布施雄二氏が情報公開法に基づき77日~12日の日報を9月末に防衛省に開示請求したところ今月2日付で「すでに廃棄しており、保有していなかった」との通知を受けたことで判明した。廃棄の理由は「上官に報告した時点で使用目的を終えたから」であるという。

     毎晩夜中の12時に!本会議開会のベルは鳴った 

そもそも自衛隊をPKOとして派遣すること自体が憲法9条に違反する。1992年、自衛隊の海外派兵を可能とする「国連平和維持活動協力法(PKO法)」は数国会の攻防を経て、成立した。最終盤、参議院では野党が違憲の立法を阻むために56日(199265日~10日迄)の徹夜の牛歩戦術で抵抗した。死闘とも呼ぶべき肉体的にも過酷な抵抗だった。

私はこの法案審議の特別委員会理事として戦った。審議の中で政府は「自衛隊を戦闘地域には送らない」、「武器の使用は刑法の正当防衛の要件に当たる場合のみしか認めない(刑法の正当防衛要件に当たる場合のみ)」との答弁を繰り返した。この答弁を安倍内閣は反故にした。

昨年、安倍内閣は集団的自衛権の従来の解釈を変え、安保法制の成立で武器の使用の要件を緩和し「駆けつけ警護も可能」とあっさり変えた。そして自衛隊を戦闘地域には送らないとの要件も変えようとしている。

     戦闘地域への自衛隊派遣を可能に

1990年代は盛り上がっていた「自衛隊のPKO活動が憲法9条違反」という議論は今や影を潜め世論(メディアも)も寛大になったと、安倍内閣はタカをくくっている。

南スーダンは武力衝突もあり従来の政府見解でも自衛隊派遣はいまや、不可能な地域である。それをかくすために「日報」を廃棄したと私は疑い持つ。

国連の南スーダン制裁決議にアメリカの非難も顧みず!非常任理事国・日本はロシアなどと共に棄権し廃案にしたのお、「戦闘地」への自衛隊派遣に固執する背景があるからであろう。

重要公文書を「上官に報告した時点で使用目的を終えた」と、一部署の判断で廃棄が決められること自体大問題である。公文書の廃棄か保存かは慎重に、客観的に判断すべきである。

日本は先の侵略戦争における加害責任の証拠の公文書をほとんど廃棄している。この事を反省材料にするどころか、不都合な事実は消し去ろうとする1945年以前の日本軍の体質を政府は今も持ち続けている事に慄然とする。

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(国会図書館に移管された内務省資料、地下書庫で、吉川1996年12月)

     文明国の要件に欠ける国

図書館、博物館、文書館は文明国の3大施設といわれる。特に公文書保管の公文書館制度の整備が日本ではかなり遅れている。図書館は司書、博物館には学芸員という専門職がいるが、文書館に文書士の制度が日本にはない。私も国会で繰り返し専門職(文書士)の制度の設置を求めてきたが制度をつくらず、従事する職員の数も極端に少ない。アメリカのナショナルアーカイブズを視察した時、彼我の差に私は愕然とした。公文書の保管・廃棄・公開は政府の意のままにされている現状は変わらない。

     「河野官房長官談話」発表時、警察資料はなかった

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(警察庁が公開した旧内務省資料。コピーするには膨大なので目録を差し上げますと目録を持ってきた)

1993年宮沢内閣が「河野官房長官談話」発表時に政府の保存していた「慰安婦」関係の公文書を初めて公表した。しかし警察資料は皆無であった。「慰安婦」を「狩り集めた」のは警察であるから資料がないなどとは到底考えられない事だ。

警察資料は199612月に警察庁が私(当時は共産党参議院議員)に提出した物が最初である。この時、「旧内務省資料は受け継いでいない」としてきた警察庁から802点もの旧内務省警保局関係の資料が発見され19978月、国立公文書館に移管された。

この資料を以って1999123日、私は参議院行政改革・税制等に関する特別委員会で追及した結果ようやく警察庁は「特高月報」の存在を認めた。国民弾圧機関の記録を否定し続けた政府の卑劣さに腹が立ってならない。「特高月報」問題を数十年間追及してきた先輩の吉岡吉典参議院議員から「膨大な特高資料が国立公文書館で公開された事は何と痛快ではありませんか」と評価されて私は嬉しかった(吉川春子「国会からの手紙P142・吉川春子国会レポートNo31」)。

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(吉川に届けられた、内務資料一覧目録の背表紙)

 

歴史をきちんと受け継ぐためにも、事実の隠ぺいを許さないために公文書をきちんと保管、公表させることは非常に重大である。博物館、歴史資料館の展示内容に常に目を配ることも、地味ではあるが私たち国民の大切な仕事である。(吉川記)

 

 

 

2016年12月 4日 (日)

 遊女…遊郭…女性の自立 

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(遊女・美幾の墓)

 

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  (東京文京区・念速寺)    

  

遊女・美幾の墓

 

東大付属の小石川植物園近くの念速寺(東京文京区白山)に遊女・美幾(~1869)の墓がある。私の自宅から歩いても340分の場所である。寺のコンクリートの塀越しに黄色い銀杏が彩を添える。千川通りの拡幅で寺の敷地も縮小したらしく墓地は狭しく墓石が何列にもびっしり並ぶ。いかにも都心の墓地らしい。「美幾女の墓」と彫られた墓石は透明のプラスティックのケースに覆われている。特志解剖第1号として文京区指定史跡に指定されている。

私がかつて見たシンガポールの日本人墓地のからゆきさんの墓はただに30センチほどの杭が建っているのみで、周囲の日本人の墓石に比べて貧相なものだった。美幾の墓は両脇の一般の墓石と比べても見劣りしない。

 

 美幾は江戸時代末期に駒込追分町の彦四郎の娘として生まれ10歳のころから子守奉公に出されていたが、父親が怪我で働けなくなり14歳頃遊郭に売られた。10年以上遊郭で多くの客をとるうちに梅毒に罹患した。その治療のために東大医学部の前身である附属病院に入院して治療をうけた。

 

文京区教育委員会によると、「病重く死後の屍体解剖の勧めに応じ1869812日、34歳で没した。死後ただちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから自ら屍体を提供することの難しい時代にあって美幾女の志は特志解剖第1号として我が国の医学気級の進展に大きな貢献をした」。 

 
 

 (養生所として解剖するにあたって家族の同意書)

   

「病人美幾儀、厚きご治療を蒙り有難き仕合せ奉り存候。最早重体相成り全快も覚束なく、右に付いて、死後解剖仰せつけられて御経験相成り候は、有難く候仕り候段、申し上げ候に付否や之儀私共へ御尋ねを蒙り奉り畏まり候。当人望之通被仰せ付け候儀、私共於いて而毛頭異存無茣蓙候、依って而後日如く件

 

駒込追分町 組合持店

 

みき兄 和助㊞

 

みき父 彦四郎㊞

 

みき母 ぬし

 

右之趣相尋候処無相違(そういなく)遠御座候以上

 

                              右町年寄り 三五郎㊞

 

小石川養生所

 

御役所

 

       (渡辺淳一『白い旅立ち』より引用*若干表現変更・吉川) 

 

  

 

医学生にとって医者となるための知識収得に欠かせない解剖、しかし罪人以外の解剖は明治になって初めて制度化された。その第1号は遊女だったという実話は衝撃的である。

渡辺淳一『白き旅立ち』(新潮文庫 昭和545月)には美幾の生涯が医者でもある作家の創作も織り交ぜて描かれている。

 

樋口一葉の「たけくらべ」には遊女となる運命の少女“みどり”が登場する。青春の甘酸っぱい余韻を残して物語は終わるが、“みどり”は遊郭に入った後にどんな悲惨な体験を味わうのか。吉原遊郭へ入って後こそみどりの人生が始まるというのに、家族制度の下で女性の悲しさを存分に描いた一葉もここでは触れていない。

 

  夫から性病に感染、離婚、女医への道

 

遊郭の犠牲者は親に売られた貧しい家庭の女性(遊女)だけではない。埼玉県妻沼(現熊谷市)出身の日本の女医第1号の荻野吟子も犠牲者の一人と言える。

当時の女性としては幼い時から豊かな学問を身に付け、北埼玉きっての豪農稲村家の長男・寛一郎と18歳で結婚した彼女は幸せな生活が保障されるはずであった。しかし、夫から性病をうつされ20歳で離婚する。

当時廃娼県の埼玉には遊郭(官許の売春宿)は2カ所しかなかったが熊谷地方には私娼の町が散在していた(「木村総『色町百景』渓流社」20146月)。一般に遊郭に出入りすることは男性にとって日常的なことだった(『近代日本 公娼制の政治過程』P75~)。この地方でも同じようにひどい目にあった女性が荻野吟子一人だったとは言えない。

性病治療のために東京の病院に2年間入院し苦しい闘病生活を送る。診察する医師が全て男性だったことから、「忌まわしい病気にかかり診察時に味わった羞恥、屈辱感から女医の必要を痛感したこと、…将来は医師となり自分と同じような病にかかり男子の医師に診てもらうことを恥じて取り返しのつかない重症に陥る同性の患者を救いたい」(奈良原俊作『荻原吟子』国書刊行会19842月)と医師になる決意をする。女性が医師になる道が全くなかった時代に苦労を重ねて、日本で女医第1号となる。夫からの性病感染を不幸に終わらせず、自らの自立に繋げた荻野吟子の生き方には明治という新しい時代の息吹を感じる。

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(東京・雑司ヶ谷墓地の荻野吟子の墓・吉川撮影2016.11.20) 

 身近にある女性の歴史発掘を!

遊郭は公(政府、都道府県知事)の公認の売春宿であるが、第2次大戦時その最も残酷な形態として「慰安所」制度ができて、日本の占領・支配していた海外に広く拡散された。当然政府は海外の「慰安所」へ遊郭の女性達を送ることに何の抵抗も感じない。

「慰安婦」「慰安所」制度創設は、長く日本の“文化”だった遊郭から端を発している。遊女としての過酷な実態、女性の人権を踏みにじる事によって商売を成り立たせる女衒(ぜげん)や、娘の前借金で潤う親たち。それが世間から不思議がられもせず、「廃娼」運動の声もかき消して、昭和20年の敗戦まで続いた。

 

いま、こうした女性の残酷・悲惨の歴史にピリオドが打たれているのか。謝罪、補償という事ではそれは終わらない。心の中から女を買う文化の追放がなされなければならない。

美幾の墓からの帰途、初冬の暖かい日を浴びながら私はしきりに考えた。こうした文化は日本に沁みついているから各地に遺跡があるはずである。全国で女性達が、かつての悲しい女性の歴史を発掘する運動を開始したらかなりのことが分かるのではないか、と

 

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