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2016年10月

2016年10月30日 (日)

遊郭と日本人「慰安婦」  

紙人形に秘められた悲話

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今年3月、日本人「慰安婦」の消息を訪ねて大分県日田市に行った。この地からはるばるビルマに「慰安婦」として送られていったその女性は、ビルマでイギリス軍の侵攻に伴い日本軍とともにジャングルの中を逃げまどってすでに「戦死」している。彼女の本籍と住所が日田にあり、戸主(父親か?)の名前が分かっているのでどんな所に住んでいたのか調査に行った。しかし住所に到達することはできなかった

(上の写真は日本人「慰安婦」調査の一行と案内の諫元正枝さん・中央)

 

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(写真上・諫元正枝さん作・遊女とお雛様、写真下は鶏の押絵)

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その時、案内をお願いした元日田市議の諫元正枝さんから素敵な紙人形が送られてきた。和服の立ち姿の美しい3人の女性は遊女であろうか。また、諫元さんは日田にはかつてあった豆田遊郭を案内してくれた。諫元さんは元家庭科教師である。51歳で共産党日田市議に当選した。市議を引退した後は紙人形作家として50人のお弟子さんと共に大名行列や保育所で生活する子どもたちなど次々とダイナミックな紙人形を制作して発表している。

  遊郭に作られた保育所(養育園)

ここで私は衝撃的な事実に遭遇した。遊郭に養育園(保育園)があり養育園で娼妓・芸妓の産んだ子どもを引き取って育てたというのだ。創設者は後に首相になる松方正義である。明治元年に、日田県知事として着任した松方正義は明治二年(1869年)この地に棄子・孤児・貧児収養所として養育館を創設し、孤児、貧児、360余名を養育した。すべて豆田、隅の豪商、医師、産婆などの拠出金と労務奉仕により運営されたが、その後大分県にひきつがれ明治六年(1873)まで存続した。松方は閉鎖(5年でつぶれる)の折に、全ての子の里親を見つけ出して里子の契約をしたという。この養育館跡は我が国の孤児院発祥の地ともいわれている(「日田市教育委員会」)

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写真上・養育院跡に建つ碑、写真下は、養育院内部を再現した紙人形

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この豆田町十字路の手前の公園。その隅に「日田養育館」の立て札と「日田養育館跡」の石碑が建っている。「遊郭で子を産んですぐ捨て子された。その赤子を拾い育てた孤児院は全国でも例は少ないだろう。しかし、町民が市に対し記録を日田市史に記載するよう働きかけているが市は恥の歴史は載せない…との態度を貫いている。」「町の恥部だから」との理由である。

      情欲の犠牲になった子どもたち 

 

 考えてみれば遊郭では当然子供は多数生まれるだろう。日本中の遊郭で生まれた子どもたちはどういう運命をたどったのか、と考えて慄然とした。

江戸から始まり明治、大正、昭和(1945年まで)の時代遊郭は日本全国港、炭鉱、船着き場、大学まで男性の集まる所に網の目のようにできた。

「登楼者数(売春宿の利用者・吉川・注)は日本史研究者の横田冬彦によれば京都市部では…日露戦争から20年ほどで23倍に急増し1928年ころに186万人とピークをなす。…市内在住の20歳~40歳代の男性の全てが年平均8回以上登楼したことになるという」(関口すみ子著『近代日本公娼制の政治過程』)。明治以降廃娼運動も活発化しキリスト教婦人矯風会や主要日刊紙も廃娼の論陣を張るがとどめることはできず、それが日本軍「慰安婦」へとつながってゆく。

      遊郭から「慰安婦」を送った政府と軍

 太平洋戦争中に、政府は遊郭に働く(いわゆる「醜業」に従事する)女性に身分証明書を発行し500円から1000円の支度金を支給して海外の「慰安所」へ送った。(私は1996年に警察から関連資料を入手―吉川春子著『従軍慰安婦―新資料による国会論戦』あゆみ出版、1997年)。私が大分県に調査に行ったビルマに送られた女性もその一人だった。

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       地域の運動で、性奴隷の歴史遺跡を掘り起こそう 

遊郭制度は性奴隷とされた女性の苦しみの歴史であり、子どももまた大人の情欲の悲惨な犠牲である。こうした子どもを育てた養育院が何故、市の歴史の恥なのか。市当局の感覚を疑う。当局にこんなことを言わせないために、全国的に見ても進んでいる養育院の郷土の歴史を掘り起こす草の根の取り組みが必要ではないか。

また例えば、敗戦直後、米軍進駐にそなえて政府は19459月から民間のRAAに協力させて北海道から九州に迄網の目のように「慰安所」を作った。残念ながら、これを発掘する地域運動を私は知らない。そうした歴史を掘り起こす地域の運動は「慰安婦」問題を解決する力になるのではないか。

 

写真は吉川春子著『従軍慰安婦―新資料による国会論戦』、警察庁提出の「慰安婦資料を掲載している

2016年10月15日 (土)

  平和と暮らしを守る北九州女性の会・学習会 

    
   沖縄~山口~北九州へ繋がって
 

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(若い弁護士さんによる開会あいさつ)

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(会場は熱気にあふれた、後ろ向きは吉川)

 

101日(土)北九州市立商工貿易会館で、「慰安婦」問題の早期解決を求める学習会が開かれ150名が参加しました。実は5年前にも私は北九州市で講演していますが、会場はこの時以上の熱気に包まれていました。

 

今回の講演会にはとても興味深い連鎖があります。元はと言えば、山口の松冨昭子さんが、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの沖縄フィールドワークに参加され、その際に、山口県での『慰安婦』問題学習会が計画されました。(「ジェンダーニュース第24号で紹介)。ここで吉川が講演し北九州市から3人の方が聞きに来ておられ、九州でも学習会をやりたいとのご希望がありすぐこの場で日程が決まった次第です。

それ以来満を持して準備をしてきたことが、この度の学習会の成功につながりました。ちなみにこの講演会には山口県から松冨さんと林さんの2人が駆けつけて、昼食懇談会にも参加しました。

 

北九州女性の草の根の運動

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(司会の前田さん、学習会準備を入念に進めた) 

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       (会場からは質問が多数出た)

 北九州女性の会ではこれまでに3度市議会へ「『慰安婦』問題の早期解決を求める意見書」を日本政府にあげるよう請願の団体書名、個人署名を提出してきましたがどれも継続審議にされています。そればかりか、20149月には自民党提案で、北九州女性の会と正反対の内容の「『慰安婦』問題に関する意見書」が市議会で賛成多数で可決されてしまいました。(これは「日本会議」などの策動が全国で行われてきた流れの一環)

これに対して「女性の会」はへこたれるばかりか、抗議文を提出し街頭宣伝も行いました。そして、「慰安婦」問題の解決なしには真の男女平等はないと、国への意見書が提出されるまで運動を続けることを確認しました。

今回の学習会もその一として行われ、主催団体の他でも北九州革新懇、憲法共同センターの協賛と弁護士事務所、労働組合への訪問、各団体の機関誌への宣伝氏の折り込みなどで参加を呼びかけました。会場からの熱気を私が感じた裏には、彼女たちのこうした取り組みがあったのです。

 

     草の根の運動とは何か

 私は約90分の講演で、日韓政府合意後の日本のNGOの活動についても話しました。その前提として「河野官房長官談話」、「アジア女性基金」の内容にも詳しく触れました。

日本のNGOの頑張りがこの問題への世論の関心を高め、女性の人権への意識は大きく広がり、高まったことは間違いありません。他方「日本会議」等の極右翼の跋扈等により、1990年代には自民支持者等の保守的な人も含めて「慰安婦」問題を何とかしなくては、という世論が一定ありましたが、今日支援の巾が狭くなって『慰安婦』問題が特定の団体のみによって担われているように感じます。(私は長く国会議員として問題を見てきたので、この感想は間違っているかもしれません)

 そうした中で、今最も必要なのは草の根運動であり、身近な人の意識を変えてゆくことではないかと私は述べました。 会場からも「草の根」とは何かと意見がでて「慰安婦」の碑の建立運動は可能か?等活発な議論になりました。九州全域には名だたる遊郭があり、ここからビルマに「慰安婦」として連れて行かれた女性の調査を行った話もしました。私は地元問題としても日本人「慰安婦」問題にも関心を示してほしいと考えています。

 参加者の感想文に「『日韓政府合意』で国が謝罪して『慰安婦』問題は終わったと思っていたが、この問題は解決していないのだと思いました」「参加してよかった。「慰安婦」問題は独自の問題だけではない事に気づかされた」など貴重な意見があったそうです。私たちは新たなスタートを切らねばならないのです。(吉川春子記)

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(閉会挨拶、終了後は中心メンバーと昼食し感想を語り合った)

2016年10月13日 (木)

戦争・加害と被害ジェンダーの視点で巡る信州の旅 ④  

➃平岡ダム「中国人犠牲者慰霊碑」914日訪問

旅の2日目、長野市から一挙に静岡県の境、天竜村まで南下しました。共産党の飯田下伊那地区委員長の紹介で同地区委員会の大坪勇さんと「平岡ダムの歴史を残す会」原英章代表と同事務局長・北沢健二さんにバスに同乗していただき説明資料で木曽川にある平岡ダムを案内していただきました。

大型バスで狭い曲がりくねった湖畔の道を走行するのはスリル満点で、工事車両とすれ違うたびにダムに転落しそうに思われ、ひやりとしました。

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(平岡ダム、現在の姿)

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(ダムのほとりに建つ中国人犠牲者の慰霊碑、千羽鶴も真新しい)

 

労働力不足を中国人、朝鮮人、連合軍捕虜の強制労働で補う

 

1942年(昭和17年)東条内閣は国内の労働力不足を補うため炭鉱・鉱山など重要産業拠点に中国人を強制連行することを閣議決定しました。平岡ダム建設工事は1940年熊谷組が請け負いました。中国人、朝鮮人、連合軍捕虜等の強制労働によって基礎工事が行われました。このうち中国人は884人が連行され着の身、着のまま、入浴もさせてもらえず食事は小麦粉の代用品・コヌカやふすま入りの粗悪なパン13個と汁のみ、病気や事故でわずか1年の間に62名の死者、不具廃疾者22名の犠牲者を出しました。

 

(「華人労務者就労事情調査報告(要旨)」)

「戦争の進展に伴う労務需給の逼迫により政府は昭和171127日の閣議決定で華人労働者を移入する方針を決定…昭和19年度国民動員計画に於いて3万名を計上愈々本格的移入を促進せしめることとなれり」、「3分の1は訓練生供出にして大部分は元俘虜、帰順兵、土匪、囚人を訓練したるもの…他の3分の2は…都市,郷村より半強制的に供出せしめたるもの…」

 

  BC級裁判で死刑6名!の衝撃

 

また、平岡発電所の対岸の満島俘虜収容所には連合軍俘虜が常時200300人が収容され死者が47人でました。そのため戦後BC級戦犯裁判所(横浜裁判所)で6名が死刑、4名が無期懲役となりました。多くの死刑者の中にはこの村出身者もおりました。

このように連合軍捕虜収容所の職員は厳しく捕虜虐待の罪を追及されたにもかかわらず、同様に多くの死者を出した中国人関係の職員は戦後追及が何もなかった事が、長い間村民感情に影を落としました。この地方では平岡ダムについてはタブー視される一因ともなりました。資料:『平岡ダム建設における強制連行、強制労働』(20169月「平岡ダムの歴史を残す会」)

  草の根でおこなう平和運動・日中友好交流

 

戦後、日中友好協会の呼びかけで散在していた遺骨を収集し、1964年慰霊実行委員会が結成され5万数千円のカンパにより平岡ダムの一角に4Mの慰霊碑が建立されました。中国紅十字社の李徳全女史の揮毫によって「在日殉難中国烈士永垂不朽」と刻まれました。日中国交回復より8年も前の事でした。

 2010年12月2日、「平岡ダムの歴史を残す会」はカンパを募り、強制連行され厳しい労働を体験した趙宗仁さんを日本に招いて中国人強制連行・強制労働の実態を語ってもらう会を開きました。趙さんはお孫さんを同行して来日し、天竜で趙さんとお孫さんを囲む会を開き副村長、教育長も挨拶。天竜村中学では生徒と村人が、そして飯田市と松本市では「趙宗仁さんの証言を聞く会を開き多くの市民が強制労働の実態を聞きました。

趙さんは当時を思い出し絶句する場面もあり、お孫さんの初めて祖父の戦争体験を聞いたとの証言も胸を打ちます。

日中関係は尖閣諸島をめぐって複雑な政治情勢の下にありますが、村民、市民たちは加害の歴史をしっかり胸に刻んだことでしょう。

資料:65年目の平岡ダム』(「平岡ダムの歴史を残す会」編201142日)

 

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(「平岡ダムの歴史を残す会」がかつて強制労働させられた趙さんを招いた証言会の記録)

 

〇「満蒙開拓平和記念館」(下伊那郡阿智村) 915日訪問

 旅の最終日に「満蒙開拓平和記念館」を訪問しました。アジア太平洋戦争中、中国東北地方を事実上支配していた日本は満州に開拓団として、農民を多数派遣しました。それまで中国人の耕していた農地を奪い生活してきた日本人は敗戦とともに中国人の土地を手放し、命からがら日本に引き揚げてきました。その過程で多くの犠牲者を出しました。中国残留子児として中国人に育てられ、80年代以降に親探しの旅に多くの「残留孤児」が日本にやってきたユースはまだ記憶に新しいと思います。

 

 天竜川のダム工事に中国人を強制労働させ、また、下伊那地方のみならず長野県は多くの農民を中国東北地方(旧満州)に送り込みました。山深い信州で、戦争の傷跡が今日まで十分には癒えないのです。

 この地方で、加害と被害両方が悲劇として村民を襲ったことを、戦後も長い期間戦争の深い傷跡が残ったことを、私たちは認識しました。

Photo_2 (満蒙開拓記念館の前で、福岡から参加者)Photo_4 

(日中友好の懸け橋となった山本慈昭住職の像の前で岩下さん)

 

中国侵略の手先とされた県民、子どもたち

世界恐慌に苦しむ農山村民に対して「王道楽土」「五族協和」(大和、朝鮮、中国、モンゴル…)の美名によって「20町歩の地主になれる」との宣伝で全国から約27万の農業移民が中国東北地方へ渡ってゆきました。長野間は全国で第1位の33千人が送り出し、半数の県民は再び祖国の地を踏むことができませんでした。

 

信州は耕地面積少なく、コメの収穫は少ない。海はないので魚も取れない食糧難の件でした。とりわけ農家の23男は「満州に行けば20町歩の土地を与える」との宣伝文句につられて大陸に渡ったのです。1980年代残留孤児の親探しの旅は日本のTVで何回も放映されたので、記憶に新しいところです。満州からの引き上げ、中国残留孤児の悲劇は『大地の子』(山崎豊子著)にえがかれテレビドラマ化されています。

 

移民送出数が全国1の理由

同記念館は次の理由を上げています。

     〇 海外移民の土壌があったがそれまでの南米から満州に方針転換し

    た

   〇 養蚕県長野は1929年の恐慌で大打撃を受けた

  〇左翼思想も右翼思想も盛んな長野県、左右両派の活動が激しさを増

   した 

   〇 長野県は農村経済改善策の一つとして満州移民を促進(耕地面積が

   少ない県)

   〇 教員赤化事件(「三.四事件」で検挙者6百人中二百三十人は教員

    関係者だったので汚名返上と県内は右傾化した(信濃教育会が児

    童生徒を積極的に送り出した) 

  〇 地域の有力者の言動が移民実現の決定打となった

 

       「望郷の鐘」

「満蒙開拓平和記念館」のある阿智村の開拓団250名は19455月に村を出発し7月に満州着、間もなくソ連軍侵攻、日本敗戦で、祖国に帰った人は10名!とか。村民に多くの犠牲者を出した自治体としてこの満蒙開拓平和記念館がつくられました。同館の上映するビデオでは「県民は加害者であり被害者であった」と明確に指摘しています。

 当事、開拓団・児童生徒を引率して渡満した阿智村の教師が住職を務めていた長岳寺を見学しました。バスの中では彼の物語「望郷の鐘」の映画(原康長さん提供)を上映し改めて満蒙開拓団とは難だったのか考えました。

 

 

 

2016年10月10日 (月)

戦争・加害と被害&ジェンダーの視点で巡る “信濃の旅”③

〇 もう一つの歴史館・松代 2016.9.14 

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「慰安所」跡(中央)と大本営地下壕(右上)の位置関係 

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 資料館内で説明を聞く一行)

 

  
   地下壕建設労働者の親方が使用した?「慰安所」

「もう一つの歴史館・松代」は、千葉市中央区に本拠地のあるNGOが、1991年解体された「慰安所」建物の木材を保管して2013年にリニューアルオープンし、運営しています。

かつてこの施設を建築するとき地元説明会を開きましたが、同じ日時に地区住民は同施設建設反対の決起集会を開きました。今は地域住民との関係は昔のように険悪ではないと伺いましたが、当初は招かれざる客であったのかもしれません。

 

 戦争末期、大本営地下壕の入り口近くに「慰安所」があり朝鮮人一家5人と用心棒、「慰安婦」4人がいました。発見したのは飯場で生まれ育った在日朝鮮人・山根昌子さん(故人)。全国紙で報道されカンパも集まったとのこと。ここの「慰安所」の利用者は、おもに地下壕労働者の朝鮮人親方と思われています。朝鮮人労働者も過酷な労働の中で慰安所に行くのは不可能と考えるのが妥当だろう。…朝鮮人の中でも現場の頭をしているような上層部の人が来ていたと考えられる(同「ガイドブック」)。一方、金沢、富山には大きな部隊もあったし「慰安所」に出入りする日本の軍人の目撃情報もあります。



  もとは女工の娯楽室が「慰安所」に

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(写真上・「慰安所」の建材で増築された資料館の天井、 写真下・「慰安所」の跡に建つアパート)

1871年群馬に官営富岡製糸場ができると、長野・松代において、大里忠一郎はいち早くこれに学び、工女50人繰リの「六工社」を設立して1873年操業を開始。富岡製糸場を模し国内初の蒸気を動力とした民間製糸場でした。

1893年松代町殿町の工場を分離独立して「六公社」とし、元からの工場を元六公社としました。地域の主力産業として栄えたが、大正期に入ると停滞し、1930年代は世界恐慌による生糸の価格暴落、「満州事変」による工業の軍儒化などで衰退の一途をたどります。児沢家の敷地で本六工社(もとろくこうしゃ)という製糸工場の一角に女工たちが講話を聴いたり、レクリエーションをしたりする娯楽室がありました。

1944年児沢聡さん(1908-1997が警察からこの建物を「『慰安所』として使うから貸してほしい」との依頼を断ったところ、「国策に協力しないとは国賊だ」と言われ、しぶしぶ貸したと話していました。

 

私、吉川は1991年、共産党市議の案内で今は壊されてしまった松代「慰安所」の建物に入り、持ち主の児沢さん(今は故人)にお話を聞いたことがあります。建物自体は古びたバラックのような印象でした。最近製糸工場の女工の娯楽室だったと知って驚きました。

 

証言「1か月ほどで大工が帰ったあと、『慰安所』に貸してくれと警察が言う。よく聞くとそろそろ朝鮮の労務者が入って来るから付近の婦女子に悪戯をしないように慰安婦を連れてきて料理屋を兼ねてやるから貸してくれないか、と言われ、断ると『国策に従えないのか』というのでしぶしぶ貸した。あの当事国策に協力しないのは国賊。」(児沢聡さん)「松代ガイドブック新版2006





   松代の「慰安所」にいた韓国人「慰安婦」の姜徳景(かんどくきょん)さん

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(姜徳景の描いた絵「松代の慰安所」)

 

「慰安婦」として連れてこられた朝鮮の女性のひとりに、姜徳景(19291997)さんがいました。

1944、教師の勧めで国民学校高等科1年で富山市不二越鋼材株式会社へ挺身隊として入所、日本へ。不二越で働き始めて2か月、空腹と重労働に耐え切れず宿舎から脱走。つかまってある部隊に連行され強姦されました。車で北陸地方から長野県へ。「ここは天皇陛下がいらっしゃる」と言われました。地下壕建設のために集まって来た軍関係者、工事関係者達を対象に松代だけでも7軒の「慰安所」があった。

19928月姜徳景は「慰安婦」体験証言のために47年ぶりに来日し826日、元「慰安婦」の李容沫(イ・ヨンス)さんとともに松代を訪問しています。市民団体主催の100人の集会で48年前に自分の身に起こったことを語り「日本政府が早く事実を認めて謝罪して償いをすることをお願いします」と結んでいます(『“記憶”と生きる―元「慰安婦」姜徳景の生涯』土井敏邦著・大月書店)。

 

<𠮷川メモ>

松代「慰安所」保存の草の根の運動===

1991.5.11道路拡張工事のために夏にも取り壊すことが明らかになり、「『朝鮮人慰安婦の家』の保存・移築についての緊急呼びかけ」松代・朝鮮人慰安婦の家を残そう実行委員結成。移築・保存活動と資金カンパ訴える。実行委員:山根昌子さんら14名の女性、

賛同人:川田文子、北沢杏子、鈴木裕子、千田夏光、高橋喜久江、辻   元清美、福島瑞穂氏ら19

賛同団体:松代大本営を考える会 他15団体

「一味違う信州の旅」 2016.9.13~9.15②

 2日目は小諸市から北上し長野市に行きました。

〇上野誠・ひとミュージアム(長野市川中島町 館長・田島隆)

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(「ひとミュージアム」のパンフレット)

田島氏が、この地に生まれた版画家上野誠の作品を譲り受けて私財を投じて開設したミュージアムには、私たちの目当てのケーテ・コルビッツの版画が20点所蔵されています。

当ゼミナールで20129月にポーランドとドイツの旅行をした時に、ベルリンの“ノイエ・ヴァッヘ”(ドイツ連邦共和国中央慰霊所)で、ケーテ製作のピエタのレプリカを見て感激したことが、今回このミュージアムを訪問する理由です。

ミュージアムにつくとさっそく1階のグランドピアノのある広い部屋で、田島館長の説明を受けました。



 
上野誠の足跡

上野誠(19091980・享年81)の4代前は医者。東京美術学校(現・芸大)の学内民主化運動に参加し退学処分となる。2年目メーデー、共青で勉強会に参加。美校、東大、津田塾へビラ届ける。1932(昭和7)年、東京・上野署で拷問。千田是也、河上肇も同じ刑務所に…。きれいな女性がいた、沢村貞子だった。(警察の取り調べに)最後に白状して、「今後(活動)をやらない」と誓って出所。学校を首に、フリーターになる。長野県須坂で平塚に師事、版画を学ぶ。教員資格取り鹿児島指宿へ行く。結婚して上野姓になり、姓が変わったので以後警察から追われなくなった。

1945年日本敗戦。新潟県六日町に転居。丸木位里、俊「原爆の図」の新  潟県内移動展を企画。

1959年ライプチヒ国際展で金賞受賞。

1967年ケーテ・コルビッツ生誕100年版画67展で優秀賞を受賞

上野はケーテ・コルビッツに心酔していた、という。

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(ケーテ・コルビッツのピエタ。ベルリン国立慰霊所で)


 ケーテ・コルビッツの事

ドイツの女性プロレタリア版画家。ドイツの北部で生まれる。今はロシア。父親が娘の絵の才能見出し、勉強させた。子息が、第1次世界大戦開始20日目で戦死(義勇軍)。母親が死んだ息子を膝に抱えるピエタ像製作。魯迅が彼女(ケーテ・コルビッツ)の版画集出版~満州で虐殺の版画。


 ケーテ・コルビッツ略歴

1867年、左官屋の親方を父に、東部プロイセン、ケーニヒベルグで生まれる

父親は17歳でベルリンに、続いてミュンヘンに絵の勉強にやる

23歳で医者と結婚後も絵を描き続け「ヴィラ・ロマナ賞」受賞。貧困、失業、働く妻、母子を描いた時代はドイツ社会民主党の台頭期と重なる

1914年、第1時欧州大戦始まりケーテは次男を戦争で失う

1927年、ケーテ60歳の誕生日を盛大に祝う。ウイルヘルム2世から「どぶ石芸術の画家」と呼ばれた

1933年、ナチス独裁政権樹立。「婦人は同僚でもなければ、愛人でも  なく、ただ母たるのみ」(侵略軍人生産者としてのみ母性を認めた――宮本百合子)

1935年、ケーテはナチスへの入党を拒み、ヒットラーはケーテが製作することを禁じた

1945年、ナチス崩壊した2か月後の7月、生涯を閉じる

 


〇松代象山壕(大本営跡)  
2016.9.14

今NHK・TVで最終章に入った大河ドラマ「真田丸」の真田信之の居城のあった松代町に、第2次大戦末期、皇居地下の大本営を移動するための巨大地下壕建設がすすめられました。

 昭和197月、サイパン陥落、グアム陥落→日本全土が爆撃可能になり東京空襲が迫り、さらに地上戦も想定される中、天皇制維持のために最後まで戦う態勢をとって大本営、国家行政組織(霞が関)、NHK、電信・電話等を疎開させる巨大地下壕建設が極秘裏に進められました。そして、地域住民109戸、124世帯の住民が強制的に立ち退きさせられ平穏な生活が奪われました。

 

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大本営地下壕・鳥瞰図

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(ガイドの塚田氏、見事な説明だった)



<注・大本営について>

戦争のときに天皇の下に陸軍参謀総長(陸軍の作戦と指揮を執る最高指導者)、海軍軍令部長(海軍の作戦と戦争を指揮する)が最高の作戦を練り指揮する機関。日清戦争が始まる1893年設置。

その後、1904年(日露戦争)、1942年~45年(アジア太平洋戦争)の3カ所のみ

 なぜ、長野県へ移転、その理由

 地理的条件 長野県は東京から離れ、飛行場があった(今ない)。

 地盤が固く山が沢山あった。

 都会から疎開している人多く、労働力が豊かと思われていた。しかし満蒙開拓団に23千人も送り出していたので高齢者、女性子どもが多かった。他の県より労働人口は少なかったのが実態で、計画に誤算を生じた。その結果、朝鮮人労働者を6,500名集める。

  ④ 信州は神州に通じるー皆神山の地名がある。

そのうち②が最大の理由である。



地下壕の規模

 陸軍東部軍が西松建設、鹿島建設とその下請けで工事行う。幅4.3M、高さ2.7M。

 昭和1910月工事命令(小磯内閣) 縁起を担いで、111111時に初めの発破かける。

 昭和20816日工事中止命令(天皇の戦争終結宣言の翌日!)

総工費:2億円弱(研究費、調査費含め)~今に換算すると4000億円。

人 員:延べ300万人(11万人)*女性は入れない、山の神が怒る(嫉   妬する) 

 工事は初めは、8時間3交代制でスタートしたが途中から12時間2交替制に変更。

 

 地下壕群、3個所合計で1万米、

 大本営~天皇の御座所予定地 舞鶴山 1600M 今年3月まで地震計設置、いまは無人。

 象山 5900M(5.19には公開)、国家公務員、NHK、NTT-1万人~公開中。

 みなかみ 1900M 皇族居住棟予定。しかし地盤が弱いので食糧庫に。

さんかん機 56センチ穴にダイナマイト仕掛ける。

 56cmにダイナマイト、穴が小さいので危険

ズリ(岩を砕いたかけら)を運ぶトロッコの線路敷設の跡(レールをはがした跡)

 


 
 朝鮮人労働者

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(固い岩盤にのみで穴をあけダイナマイトを仕掛ける危険な作業)

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(ガイド氏の説明を聞く)

養蚕業が盛んで製糸工場労働者も多いと考えられた長野県であるが、1938年ころから満蒙開拓団を全国トップの33千人送り出し、残されたのは、高齢者と女性、子どもであった。大本営設営の労働力を補うために6,500人の朝鮮人労働者を使役した。


 【集め方】

 4,000名は徴用令に基づき朝鮮半島から5回に分けて強制的に連行。初めは会社の「募集」方式、1942年朝鮮総督府が管理する「韓斡旋」方式、1944年国民徴用令を適用。徴用令で集めて脱走を防ぐ。

 在日していた朝鮮の人に松代に働き口あると誘う。

日 当――日本人4円、朝鮮人(親方)135銭。

食 事――高粱のおかゆ、塩味。自分で来た人は金を持っているので近所    の人から食料を買って食べたが、強制連行の人々は金を持っていない。

宿 舎――きよのの飯場に3800人いた。三角兵舎~冬寒く夏は暑い。長野県は寒冷地のため、冬は宿舎の中も-3℃~4℃になった。

犠牲者数――200名以下と思われるが不明。名前は4人だけわかるのみ。

      崔小岩(チエ・ソアン)  自主的に来た人

 朝鮮人労働者は日本敗戦後は暴動も起こさず「万歳」と各地に散っていった。実態については、証拠の書類を全て燃やしたので何もわからない。

 少し経ってから、チエ・ソアンさん(日本名を催本小岩)が生き証人として徐々に重い口を開き、いろいろわかった。残念ながら1991年死去(71歳)、死因はじん肺。

 

地下壕12番-トロッコレール敷設し外した後あり。11番地下壕→技術力あった。

ある個所に絵が彫ってある。お祭りの時の絵? 文字―“大邱府”煤を使って書いたか?

 沖縄地上戦との関連

 戦争末期米軍を沖縄にくぎ付けにしておいたため、沖縄住民に被害を増大させた。

 1945.5.30首里陥落、それでも降伏せず。その最大の理由は、大本営地下壕工事推進の時間かせぎのため

 616日、阿南陸軍大臣が松代を視察、621日阿南大臣が沖縄の牛島中将に打電「本土決戦の準備が完成」。623日牛島中将自決、沖縄戦の組織戦が終結した。

「米軍上陸から3か月、10数万人の住民と10万人の将兵が死んだが司令官は、これを『軍の任務を遺憾なく遂行できた』と言って、『同慶の至り』とし、この事態にいたっても、生き残った将兵に対し、降伏させず、最後まで戦って死ねと命令した。将兵らは、住民の保護について米軍と交渉することもせず、砲煙弾雨の中に放置したまま自決した」(「ひめゆり平和記念館資料館ガイドブック」P50

 726日連合軍、ポツダム宣言、815日日本ポツダム宣言受諾を表明(この間に広島長崎に原爆投下)。日本政府の情報収集能力の完全なる欠如。この間に国体護持(天皇の地位まもる)の可能性を探る。ソ連に戦争終結の仲介依頼(ヤルタ協定で、ソ連はドイツ敗戦後3日後に対日宣戦布告することを知らなかった!)

子や孫に伝えよ―ガイド氏

「今後、戦争に巻き込まれないために、この地下壕について、今日見学した皆さんがぜひ内容を伝えてください。」

 
 天皇と地下壕

天皇御座所-天井はコンクリート。(3月まで人がいた。今は無人地下壕) 終戦後の昭和2210月、天皇が長野県訪問の際、林虎雄知事に「このあたりに無駄な穴を掘ったというが、どこか?」と聞いたという。天皇が地下壕について知らないことは絶対ない――ガイドの塚田氏

<吉川コメント> “遷都”(天皇の信州への疎開)準備のために本土空襲、地上戦を1日でも遅らせるべく、沖縄の司令部(首里)陥落後も「頑張らせ」、県民の被害を拡大した政府。国民の犠牲をかえりみず、ひたすら天皇制維持を策した政府の眼中にあるのは国体護持のみ。地下壕建設の進捗状況を見ながら沖縄司令部にサインを送った陸軍大臣の非情さに、思わずおののいた。

                           (吉川春子)

2016年10月 5日 (水)

戦争・加害と被害&ジェンダーの視点で巡る “信濃の旅”その①

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(雨の無言館)

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(山宣碑、うしろ向きは説明する藤原超さん)

 

 「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの
フィールドワークは、参加者28名で2016913日(火)~915日(木)に行われました。長野県は首都圏から近いので何回か行っている人が多く、首都圏からの参加者は少ない分、青森(1人)、福岡(3人)、名古屋(3人)等4分の1は遠隔地の参加者でした。しかし蓋を開けてみると、「一味違う信州の旅」とのうたい文句どおり参加者から「こんなに充実した旅は初めて!」「長野県の草の根運動の素晴らしさを初めて知った」との声が多く聞こえました。ブログでその一部をご紹介します。

長野県の特徴

自然・産業――山が多く耕地面積少なく米の収穫量は人口に比べて少ない。公務員にはかつて寒冷地手当が支給されていて、寒い。

気候――海はなく魚は貴重。やせた土地でも育つ蕎麦を植えた。また明治・大正時代、富国強兵を産業面から支える養蚕が盛んだった。

社会・労働運動・女性――製糸工場多く女工哀史、各地で。小作争議等農民運動が盛ん。教員の侵略戦争反対の闘いさかん(教員赤化事件)、男性の発言権強く、女性の政治参加は遅い。戦後辰野事件等、権力のでっち上げ事件発生、最終的に無罪勝ち取る。ミュージアムはおそらく日本一の数と内容を誇る。

 ところで、往きのバス内でお国自慢満載の県歌「信濃の国の歌」を吉川が歌い、そのあと「信濃の国の歌」の由来等についてこれでもか!というほど詳しいDVD(原康長さん提供)をたっぷり見せられて、長野県人以外の参加者は食傷気味に陥り、最初の目的地・上田に到着したのです。


 〇戦没画学生慰霊美術館・無言館(上田市塩田平)

戦死した東京芸大の画学生達が出征直前まで絵筆を握り描き上げた絵画と遺品が展示されており、館長の窪島氏は作家水上勉のご子息です。無言館はすでに来たことがある参加者も多く、少し秋めいた木々に囲まれて立つ無言館で画学生らの若者の遺品に見入りました。絵を志し東京芸術学校に学んだ若者が、最後まで絵筆を握って妻や、恋人、妹、或は風景・静物をカンバスに収め、しかし絵を描きたい、生きたいとの思いから無理やり引き離されました。

私自身、高校が上野公園内の東京芸術学校(現・芸大)と塀を接しており、食堂に闖入してカレーライス等を食べて生徒時代を過ごしました(昭和30年代)。私はずっと後に、同じ場所でそれよりわずか十数年前、若者が味わった苦しみを知り、衝撃を受け、毎年のように無言館を訪れています。いつも時の経つのを忘れて彼らの絵に引き込まれるのです。



 〇山宣碑(別所温泉安楽寺境内)

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(山宣碑―2016年5月に旅行した時に撮影)


山宣こと山本宣治について上田の山宣会の事務局長、藤原超氏に現地とバスに乗り込んで詳しくガイドしていただきました。山宣の碑をフィールドワークに加えた理由は、山宣は「産めよ増やせよ」の時代に、バース・コントロール(出産制限)の理論と運動の先駆者で、今日のリプロダクティブ・ヘルスライツ実践の先駆者でもあるからです。

山本宣治は京都伏見生まれ。労農党代議士として治安維持法改悪(最高刑として死刑を導入)にただ一人反対し、投宿先の東京神田で右翼によって暗殺されます(39歳)。その4日前、1929年3月1、長野の上小農民組合連合会の講演会で自由と平和生活向上のための団結を訴えます。警察の命令で途中中止させられるが1千人を超す聴衆に深い感銘を与えました。暗殺直後、上小農民組合は彼の死を悼んで碑の建立を決議しました。

 1930年、上小農民組合は「生命は短く科学は長い」というラテン語を刻んだ碑を建立します(警察が日本語を許さない)。

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(山宣の碑の隠し場所の看板)

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(珍しい木造4階建ての柏谷別荘・現在の姿)

 

山宣碑」を命がけで守った人

 1933年「2・4事件」特高警察の弾圧事件発生。農民運動、青年運動、労働運動を弾圧した時、警察はこの碑を壊すように命令。上小農民診療所をつくる運動も2・4事件で潰されました。山宣の碑のカンパ活動をした人々は残らず逮捕されます。

 しかし「碑」は守られました。

 山宣が泊った旅館、柏屋別荘の主人の斎藤房雄が夜中に「碑」を自宅に運んだのです。馬車で運び、人夫が押した?らしいということです。そして、碑を自宅庭の地面に埋めて、守ったのです。

  斎藤房雄は、庭石にして保管(戦後の1971年迄)する一方、特高には「粉々に壊して片鱗をとどめず」と報告しました。もし見つかれば、どんな弾圧が下ったかもしれない、命がけのことです。

 「山宣碑」は38年間土の中に眠っていました。戦争後もすぐにはこの事実は伏せられていました。

 そして、1971年になって事実が明らかにされ、記念碑は38年ぶりに現在地に再建されました。戦前から残っている碑はここだけだそうです。

   
  
 
夜は2日とも懇親会

 

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(出征兵士への寄せ書きを示す東海林さん)

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(菅間さんのウクレレ演奏)

夕食時、藤原超さんと金井忠一前上田市議、そして栗原長和町町議も歓迎に駆けつけ、各地からの参加者の交流会を開きました。

各地で様々な活動をしていらっしゃる皆さんの自己紹介はなかなか聞きごたえのある内容でした。

 宿泊した布引温泉のホテルの対岸は河岸段丘の地形で眼下はるか下には千曲川が流れ、外は雨でしたが、交流会は温かく友好的な雰囲気がみなぎって旅の第一夜は更けていったのでした。

 9月14日も、夕食後は二日続きの交流会になりました。

 以前当ゼミナールのフィールドワークの案内役をしていただいた歴史教育者協議会の東海林さんが出征時の珍しい寄せ書き(女性で言えば千人針に匹敵)を皆さんに示して挨拶(写真上)。

 また埼玉の飯能からウクレレを担いで参加した菅間徹さんは「何という胸の痛みだろうか」(ビオレータ・バラ作詞作曲)を独唱、(写真下)菅間さんの青春の歌でもあるのでしょう。愛知在住の、根っからの信州人中山淑子さんは自ら作詞・作曲した「むくげの花」の他に「われら愛す」を、「信濃の国の歌」より好きといわれて披露。 また、五十嵐吉見さんの歌唱リードで井上久氏の「ひょっこりひょうたん島」(うれしいこともあるだろさ、悲しいこともあるだろさ、泣くのはいやだ 笑っちゃえ♪)を皆で合唱しました。

最後は「長野県の歌」と言われている「夕焼け小焼け」を一同で大合唱。原さんがビデオに収めるために2回も歌ったのでした。

(吉川春子)

2016年10月 3日 (月)

福岡で「慰安婦」問題の講演会開く

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(写左・前に出て質問する男性、写真右、講演する吉川)


  9月30日(金)14時から1630分まで、福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)で、「戦争と人権を学ぶ―日本軍『慰安婦』問題の真の解決を!」講演会が開かれました。 

 

 共催講演会の成功に向けて頑張る!

 講演会は、新日本婦人の会福岡県本部と私たち「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの共催です。私たち「ゼミナール」が地方で、他団体と共催で講演会を行なうことは初めての試みでした。参加者は79席に89人の出席で、立見席もできる盛況でした。

共催なので、福岡市在住の運営委員、具島順子さんが会を代表して、この講演会の企画、宣伝に携わりました。また、ビラと一緒におさそいを一筆箋に手書きして封入し多数の方々に送りました。そうした努力の結果、福岡市の民主、各運動に携わる団体、個人の方々が多数参加くださいました。

講師は「ゼミナール」代表の吉川春子が務めました。A4判のレジュメ4ページを含めて16ページの資料を添付し、パワーポイントを使用しました。

 

 「慰安婦」解決の草の根運動

講演内容は、昨年12月28日の日韓合意に関心が強いこともあり私はこれまでの政府の施策、1995年のアジア女性基金についても一定の時間を割いて比較・説明し、問題解決の方向としては「河野官房長官談話」の趣旨に沿って行うべきことを強調しました。さらに憲法24条、9条の改悪をすすめる「日本会議」の草の根の極右の動きに対し警戒を呼び掛けるとともに、民主勢力のお家芸である草の根運動(地方議会への要請等)の活発化を訴えました。

この点について会場から「福岡ではインドネシアで活動されていた木村牧師が「慰安婦碑」の建立を呼びかけている」の意見がでました。「運動の力で碑を立てたい」との意見が講演後の懇親会でも活発に出ました。

私は東京・霞が関の厚生労働省の玄関敷地にある、裁判勝利後に建立された「ハンセンの碑」を例にあげて、毎年大臣も出席して集会が行われ、ハンセン病問題の今に続く差別をなくす運動が継続している事について紹介し、多くの人に見える碑の建立は非常に有意義ではないかとお話ししました。

 

 会場からの質問

最近の傾向でもありますが男性の講演会の参加者が目立ちました。フロワーからの質問も男性から活発に出ました。主な内容は以下の内容です。

 「安倍総理は卵を投げつけられる覚悟を以て、『慰安婦』に対して謝罪すべし」、「かつて歴史教科書について裁判があった。歴史学会は研究もしているのに南京大虐殺等について歴史学会の統一見解がないのか。出す力がないのか。(これについては吉川は状況を掴んでいない)」、「『慰安婦』の講演は何回も聞いたが、日本人『慰安婦』問題について聞いたのは初めてだった」、「  韓国に多くの『慰安婦』がいるという事は、北朝鮮にも『慰安婦』はいるのか」等々です。

  憲法は女性の人権規程

憲法「改正」が現実の日程に上ってきている危険な今日、戦争放棄と、家族制度の廃止を明文化している日本国憲法を守り抜くことが、「慰安婦」の悲劇を繰り返さない保証である事、草の根の力で憲法を守り抜くことの必要を訴えました。(吉川春子)

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(挨拶する、具島さん、)

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