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2016年5月17日 (火)

信州・松代の「慰安所」と、上州・富岡製糸工場の物語  

 
日本の産業革命を担った製糸工業 
 
去る4月27日、私は参議院協会の国内研修で富岡製糸工場へ行った。2014年のユネスコ世界遺産一覧表に掲載された後は見学者が激増している。

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(富岡製糸工場で説明を受ける)

 明治政府は伊藤博文の肝いりで渋沢栄一(当時30歳、埼玉深谷出身)に富国目的で養蚕振興という国家事業を任せた。政府は絹糸つむぎ技術習得のためフランス人ブリュナーを時の宰相(総理大臣)に匹敵する高給で抱えた。長野、群馬、静岡そして遠くは明治維新の担い手だった山口等全国から556人の士族、民間(資産家)の子弟(「技術伝習工女」)を富岡工場に集めてフランスの糸繰の技術を習得させた(パンフレット「世界遺産富岡製糸場」、和田英著『富岡日記』)。
 製糸工場の女工と言えば「あゝ野麦峠」等の「女工哀史」を連想する人が多いと思うが、それは少し時代が下ってからのことである。当時の富岡の工女たちは「良家の子女」であり、進取の気性に富み郷土の期待を担って世界最先端の技術習得に努めた。待遇(労働時間、工場の環境、報酬)もそれなりのものであった。 長野県、群馬県、埼玉県では養蚕、製糸、織物が盛んで、私の両親の実家も夜を徹してお蚕を飼っていた光景を思い出す。
   松代と富岡をつなぐ物語
 
1872(明治5)年、富岡製糸場完成(尾高惇忠・製糸場長、渋沢栄一の従兄)で工女を全国から募集するが指導者のフランス人がワインを飲むのを見て「血を吸われる」等のうわさが立ち工女が集まらない。尾高も自分の娘・勇(ゆう)を率先垂範で入場させた。
 
 長野県当局から工女募集の命があり、旧松代藩真田家家臣で松代区長であった横田数馬は自分の娘・英(えい)を出すことにした。
 富岡製糸場の当時の最新鋭の糸繰機械の前には松代の横田英の大きな写真が展示されている。彼女は賃金が最も高い、1等工女に認定された。1874年、故郷に製糸工場・六公社が開業。松代に帰着し、製糸工場の女工の指導者となり長野県の製糸産業発展の礎となった。横田英はこの間の出来事『富岡日記』として書き留めた。

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(松代から富岡製糸場へ技術取得のために派遣された和田英)

 和田英は1929(昭和4)年73歳で死去している。 六公社は1938(昭和13)年倒産し廃業した。そして六公社の工女の娯楽場として利用されていた建物が、太平洋戦争末期に強制的に借り上げられ「慰安所」となった。松代の工女たちの福利厚生施設として活用された建物が「慰安所」とされることは所有者も納得できるものではない。
 
    松代の「慰安所」
 戦争中に「慰安所」とされた建物は1990年に解体され、千葉県に本部のある団体が古材を再利用する目的で買い受けて保存してきた。私は地域の党員の案内で壊される前の建物に入ったことがある。所有者の男性から「断ったけれども警察が何度も訪ねてきて、国策に協力できないのか、国賊だと脅かされて不承不承貸した」という話を聞いている。 その子息も語っている。「労働者の連中が近所の女,子どもに悪戯をしないように慰安所にしたいといったので、とんでもない絶対にダメだといった。3日後に又来た。児沢さん、国策に沿わない奴は国賊になる。それでも協力しないのか、と脅迫されたので止むをえず返事をした」(所有者の子息、児沢聡氏「松代で何があったか!」西条地区を考える会・編2005.12.8龍鳳書房)

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(天皇の御座所前で。大本営の地下壕建設のため朝鮮人は強制労働にかりたてられ、地域住民は強制的に引っ越しさせられた)

 松代の住民は、松代大本営地下壕建設のため自宅から強制退去をさせられ辛酸をなめている。こうした事情もあって、当初、地域住民は「慰安所」の建物の復活や歴史資料館の建設に強く反対してきた。
 この千葉市にある「もう一つの歴史館・松代」運営委員会は時間をかけて「慰安所」の事実を伝えるべく運動を続けて、2年前「もう一つの歴史館・松代」の増築を実現。「慰安婦」に関する展示も一段と充実した。
 建築にあたった宣卓氏は語る。「古材は、建築当時とは違っていても土台、柱、梁として建築を支える基本の構造体として命が吹き込まれ力強く自立し、自らの存在を明示することが良いと考えたのだ。そして増築棟は、残された古材がほぼすべて余すところなく適所に配置され、組み上げられ、一つの自立した建築として新たな歴史遺産として力強く立ち上がった」(「寄稿・歴史館建築後記」宣拓・建築家 「もう一つの歴史館・松代運営委員会ニュース2016.3.19)
  カン・ドッキョンさんの事 
 
 最近私は、この松代の「慰安所」に韓国の元「慰安婦」の姜徳景(カン・ドッキョン)さんが居たことを、五十嵐吉美さん(当ゼミナール運営委員)から聞いた。そしてナヌムの家の「慰安婦」の画集から「松代の「慰安所」という絵を見つけた。

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(カン・ドッキョン画「松代の慰安所」1996年画)

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(松代「慰安所」跡にある松の木)

 1992年8月、彼女が証言のために日本訪問した時に李容沫(イ・ヨンス)さんと共に松代を訪ねた。金学順(キム・ハクスン)さんが名乗り出て1年後だ。初めて2人の「慰安婦」を迎えた松代では市民団体主催の「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会・松代」が開かれた。姜徳景(カン・ドッキョン)さんは100人近い聴衆を前に48年前に日本で自分の身に起こったことを語った、という。
 彼女は富山の不二越産業に女子挺身隊として連れてこられたが、過酷な労働から逃げ出して捉まえられ「慰安婦」にさせられた話は「慰安婦」の運動をしている人々にはよく知られている。
 
フィールドワークでさらに学ぶ
 私たちのゼミナールでは9月にフィールドワークで松代を訪れ「もう一つの歴史館・松代」や大本営地下壕を見学する。
明治の富国強兵の一翼を担った製糸工場で松代はおそらくは沸き立った時期があっただろう。その経済力を以て、国は海外侵略と植民地支配に乗り出した。
戦争遂行の過程で工女の娯楽室が「慰安所」に転用され、女性の尊厳が踏みにじられる場と化した。負け戦をにらんで住民たちは強制疎開で、生活を根底から脅かされる。
 戦後、取り壊された後は古材が、「歴史資料館」の一部に・・・。
 姜徳景さんの苦しみの人生をたどり、日本の近代史をたどり、過去に目を塞がず、現在に盲目とならぬために、この町の歴史を見据える旅にしたいと準備を進めている。(吉川春子記)

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