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2016年5月

2016年5月28日 (土)

ひと味違う、長野県の旅、如何ですか

戦争・加害と被害&ジェンダーの視点で巡る信濃の旅

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(中央高速から望む残雪のアルプス2016.4.29)

 

あなたも1度は長野県の観光地にいらしたことがおありでしょう。首都圏から交通の便はいいし、観光スポットは多いし、山も川も美しいし。

今年9月に私たちがフィールドワークとして計画しているのは、あまり知られていない長野県です。どんな所へ行くのか、事前の勉強会を開きます。旅への参加にかかわらず、ご興味ある方はぜひ、ご参加ください。

 

   ~~~~~~~  ☆  ~~~~~~

事前の勉強会のご案内

 

日時:201663日(金)14時~16

 

場所:文京区民センター2B

東京メトロ 丸ノ内線 後楽園駅4b又は5番出口【徒歩6分】南北線 後楽園駅5番 出口【徒歩6分】

都営地下鉄三田線/大江戸線春日駅A2出口【徒歩2分】 JR中央・総武線 水道橋駅 【徒歩10分】

 

お話しする人:吉川春子(当ゼミナール代表、長野県出身)

 

  訪問先(旅行日程、2016.9.13~15)

① 大本営地下壕・天皇御座所跡(長野市松代町)

NHKの大河ドラマ「真田丸」が佳境に入っています。弱小大名の真田家の生き残りの方策として、長男・信行が家康方、次男・幸村が秀吉方と敵味方に分かれ、大阪夏の陣で真田幸村が討ち死にした後も長男信之は徳川から10万石を下され明治維新まで真田家の血筋を守り通した。その居城が松代城(海津城改め)。

この由緒ある城下町に、第2次世界大戦末期に天皇、大本営、霞が関の行政機能を映す大計画があり巨大な地下壕(大本営地下壕、あるいは象山壕等と呼ばれる)が建設されました

★地上戦をにらみ194411月より大本営、霞が関の行政機能、天皇の御座所を東京から長野県に疎開させるために西松組、鹿島組が朝鮮人労働者を使って象山地下壕を掘った。過酷な労働で多数の犠牲者が出た。戦後慰霊碑を建立。

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(写真・天皇御座所の日本間が外からのぞける)

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(地震観測所となっていて、天皇御座所の壕には入れない)

 

② 大本営地下壕建設現場にあった「慰安所」

 

現在、慰安所の建物の建材を一部使用したミニ・ミュージアム「もうひとつの歴史館 松代」が開設されて、「慰安婦」の今日に伝えています。

 

★地下壕入口付近に「慰安所」を設け朝鮮人一家5人と用心棒、「慰安婦」4人(3人だったという証言もある)がいた。元製糸工場六公社の工女娯楽場の建物を強制的に借上げた。地元住民はこの歴史館に反対している。

 

「富岡日記」=信州松代出身の和田英(旧姓横田英)がまとめた製糸工女時代の回想記。…1873年(明治6年)・74年の官営富岡製糸場の伝習工女時代と、退場後、郷里の六工社(ろっこうしゃ)製糸場の創設にかかわった経験について50代に入ってから筆を執り1913年(大正2)に書き上げた。…六公社編では富岡から呼び戻された英達が伝習の成果を発揮して洋式製糸場作りに貢献する姿がえがかれている。…製糸技術史、明治女性史として貴重な資料(「日本女性史大辞典」2007.1.81刷)

 

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(韓国人「慰安婦」カンドッキョンさんの描いた「松代の慰安所」1996年)

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世界遺産に登録された富岡製糸場(群馬県)を見学

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写真・富岡製糸場で糸繰技術を学び、松代の製糸場開設に貢献した和田英

 日本の中国侵略の手先とされた県民、子どもたち

 

 

③満蒙開拓団

長野県は耕地面積少なく、コメの収穫は少ない。海はないので魚も取れない食糧難。とりわけ農家の23男に「満州に行けば20町歩の土地を与える」との宣伝文句につられて多くの県民が大陸に渡った。その数3万人で47都道府県中ダントツであった。夢を求めて海を渡った県民は多かったのだ。

 私の父曰く「満州に行けば金が地面に落ちているような言葉を自分は信じなかった」(父は警視庁の警察官になった)

満州からの引き上げ、中国残留孤児の悲劇は例えば『大地の子』(山崎豊子著)にえがかれている。

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(写真・満蒙開拓記念館前で)

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(写真・満蒙開拓団の引き上げ時犠牲となった人々の墓、中国ハルビン市方正県で)

 

「満蒙開拓平和記念館」下伊那郡阿智村

 

★阿智村の開拓団は19455月に満州着、間もなく敗戦で多くの犠牲者を出した

 

 

 木曽川のダム工事に中国人を強制労働に

 

➃平岡ダム「中国人犠牲者慰霊碑」(下伊那郡天竜村

(「飯田下伊那の戦争遺跡」平和のための信州戦争展飯・伊地区実行委員会編P7

「当時の政府はエネルギー確保の一環として水力発電所の建設に力を入れた…すでに泰阜ダムは完成していたが。

「戦争の進展に伴う労務需給の逼迫により政府は昭和171127日の閣議決定で華人労働者を移入する方針を決定…昭和19年度国民動員計画に於いて3万名を計上愈々本格的移入を促進せしめることとなれり」「3分の1は訓練生供出にして大部分は元俘虜、帰順兵、土匪、囚人を訓練したるもの…他の3分の2は…都市,郷村より半強制的に供出せしめたるもの…」(「華人労務者就労事情調査報告(要旨)」)

19446月平岡ダム建設工事のために強制連行された1241人の中国人、過酷な労働でわずかの間に85人が犠牲に。戦後散在していた遺骨を収集し日中友好協会の呼びかけで慰霊碑建立。

⑤ 無言館(上田市)

★戦死した東京芸大の画学生達が出征直前まで絵筆を握り描き上げた絵画と遺品を展示

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(写真・無言館の前庭の林)

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(写真・前庭の石に刻まれた、画学生の名前)

 

 

⑥ 山宣碑(バース・コントロールの理論と運動の先駆者)上田市別所温泉

 

★労農党代議士・山本宣治が東京神田で暗殺される。その4日前、上小農民組合で演説会。彼を悼んで碑を建立。

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(警察の目をくぐって保存された山宣の碑)

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(「山宣の碑」を警察の目から隠した旅館)

 

⑦「ひとミュージアム」長野市川中島町

★ドイツの女性プロレタリア版画家・ケーテコルビッツの版画17点所蔵。ベルリンの国立『慰霊所』で彼女のピエタのレプリカを見た。ナチスに製作を止められ1945.4、ドイツ敗戦、ナチス崩壊を目前にして死去

 

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2016年5月17日 (火)

信州・松代の「慰安所」と、上州・富岡製糸工場の物語  

 
日本の産業革命を担った製糸工業 
 
去る4月27日、私は参議院協会の国内研修で富岡製糸工場へ行った。2014年のユネスコ世界遺産一覧表に掲載された後は見学者が激増している。

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(富岡製糸工場で説明を受ける)

 明治政府は伊藤博文の肝いりで渋沢栄一(当時30歳、埼玉深谷出身)に富国目的で養蚕振興という国家事業を任せた。政府は絹糸つむぎ技術習得のためフランス人ブリュナーを時の宰相(総理大臣)に匹敵する高給で抱えた。長野、群馬、静岡そして遠くは明治維新の担い手だった山口等全国から556人の士族、民間(資産家)の子弟(「技術伝習工女」)を富岡工場に集めてフランスの糸繰の技術を習得させた(パンフレット「世界遺産富岡製糸場」、和田英著『富岡日記』)。
 製糸工場の女工と言えば「あゝ野麦峠」等の「女工哀史」を連想する人が多いと思うが、それは少し時代が下ってからのことである。当時の富岡の工女たちは「良家の子女」であり、進取の気性に富み郷土の期待を担って世界最先端の技術習得に努めた。待遇(労働時間、工場の環境、報酬)もそれなりのものであった。 長野県、群馬県、埼玉県では養蚕、製糸、織物が盛んで、私の両親の実家も夜を徹してお蚕を飼っていた光景を思い出す。
   松代と富岡をつなぐ物語
 
1872(明治5)年、富岡製糸場完成(尾高惇忠・製糸場長、渋沢栄一の従兄)で工女を全国から募集するが指導者のフランス人がワインを飲むのを見て「血を吸われる」等のうわさが立ち工女が集まらない。尾高も自分の娘・勇(ゆう)を率先垂範で入場させた。
 
 長野県当局から工女募集の命があり、旧松代藩真田家家臣で松代区長であった横田数馬は自分の娘・英(えい)を出すことにした。
 富岡製糸場の当時の最新鋭の糸繰機械の前には松代の横田英の大きな写真が展示されている。彼女は賃金が最も高い、1等工女に認定された。1874年、故郷に製糸工場・六公社が開業。松代に帰着し、製糸工場の女工の指導者となり長野県の製糸産業発展の礎となった。横田英はこの間の出来事『富岡日記』として書き留めた。

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(松代から富岡製糸場へ技術取得のために派遣された和田英)

 和田英は1929(昭和4)年73歳で死去している。 六公社は1938(昭和13)年倒産し廃業した。そして六公社の工女の娯楽場として利用されていた建物が、太平洋戦争末期に強制的に借り上げられ「慰安所」となった。松代の工女たちの福利厚生施設として活用された建物が「慰安所」とされることは所有者も納得できるものではない。
 
    松代の「慰安所」
 戦争中に「慰安所」とされた建物は1990年に解体され、千葉県に本部のある団体が古材を再利用する目的で買い受けて保存してきた。私は地域の党員の案内で壊される前の建物に入ったことがある。所有者の男性から「断ったけれども警察が何度も訪ねてきて、国策に協力できないのか、国賊だと脅かされて不承不承貸した」という話を聞いている。 その子息も語っている。「労働者の連中が近所の女,子どもに悪戯をしないように慰安所にしたいといったので、とんでもない絶対にダメだといった。3日後に又来た。児沢さん、国策に沿わない奴は国賊になる。それでも協力しないのか、と脅迫されたので止むをえず返事をした」(所有者の子息、児沢聡氏「松代で何があったか!」西条地区を考える会・編2005.12.8龍鳳書房)

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(天皇の御座所前で。大本営の地下壕建設のため朝鮮人は強制労働にかりたてられ、地域住民は強制的に引っ越しさせられた)

 松代の住民は、松代大本営地下壕建設のため自宅から強制退去をさせられ辛酸をなめている。こうした事情もあって、当初、地域住民は「慰安所」の建物の復活や歴史資料館の建設に強く反対してきた。
 この千葉市にある「もう一つの歴史館・松代」運営委員会は時間をかけて「慰安所」の事実を伝えるべく運動を続けて、2年前「もう一つの歴史館・松代」の増築を実現。「慰安婦」に関する展示も一段と充実した。
 建築にあたった宣卓氏は語る。「古材は、建築当時とは違っていても土台、柱、梁として建築を支える基本の構造体として命が吹き込まれ力強く自立し、自らの存在を明示することが良いと考えたのだ。そして増築棟は、残された古材がほぼすべて余すところなく適所に配置され、組み上げられ、一つの自立した建築として新たな歴史遺産として力強く立ち上がった」(「寄稿・歴史館建築後記」宣拓・建築家 「もう一つの歴史館・松代運営委員会ニュース2016.3.19)
  カン・ドッキョンさんの事 
 
 最近私は、この松代の「慰安所」に韓国の元「慰安婦」の姜徳景(カン・ドッキョン)さんが居たことを、五十嵐吉美さん(当ゼミナール運営委員)から聞いた。そしてナヌムの家の「慰安婦」の画集から「松代の「慰安所」という絵を見つけた。

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(カン・ドッキョン画「松代の慰安所」1996年画)

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(松代「慰安所」跡にある松の木)

 1992年8月、彼女が証言のために日本訪問した時に李容沫(イ・ヨンス)さんと共に松代を訪ねた。金学順(キム・ハクスン)さんが名乗り出て1年後だ。初めて2人の「慰安婦」を迎えた松代では市民団体主催の「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会・松代」が開かれた。姜徳景(カン・ドッキョン)さんは100人近い聴衆を前に48年前に日本で自分の身に起こったことを語った、という。
 彼女は富山の不二越産業に女子挺身隊として連れてこられたが、過酷な労働から逃げ出して捉まえられ「慰安婦」にさせられた話は「慰安婦」の運動をしている人々にはよく知られている。
 
フィールドワークでさらに学ぶ
 私たちのゼミナールでは9月にフィールドワークで松代を訪れ「もう一つの歴史館・松代」や大本営地下壕を見学する。
明治の富国強兵の一翼を担った製糸工場で松代はおそらくは沸き立った時期があっただろう。その経済力を以て、国は海外侵略と植民地支配に乗り出した。
戦争遂行の過程で工女の娯楽室が「慰安所」に転用され、女性の尊厳が踏みにじられる場と化した。負け戦をにらんで住民たちは強制疎開で、生活を根底から脅かされる。
 戦後、取り壊された後は古材が、「歴史資料館」の一部に・・・。
 姜徳景さんの苦しみの人生をたどり、日本の近代史をたどり、過去に目を塞がず、現在に盲目とならぬために、この町の歴史を見据える旅にしたいと準備を進めている。(吉川春子記)

2016年5月10日 (火)

「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールゼミナールニュース23号

ニュース23号をお届けします.。ニュースの割り付け担当者・方法、印刷業者が変わりましたので、発行からブログアップまでが遅くなりましたが、次号からは早目にアップできる見込みです。

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「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールニュース22号

ニュースを22号を掲載します。この号からは割り付けの担当者が変わりました。紙面割り付けを一変させ、また印刷業者を変えました。その結果、ブログへの掲載に時間を要しましたが、24号からは、ニュース発行後できるだけ早くブログに掲載します。引き続きご愛読くださいますようにお願いします。
 

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