日本人の「慰安婦」の本籍地を訪ねる旅
阿蘇の外輪山が近くに見える、ここから更に調査で奥に入る
大きな河の船着き場には遊郭があった・八代市
共産党事務所前で
ビルマ従軍の軍医から託された「慰安婦」の名簿
昨年末の「慰安婦」問題に関する日韓合意で直後はマスコミもこの話題で席巻された感があった。韓国の「慰安婦」問題も重要であるが、多数いた日本人の「慰安婦」についてマスコミ報道されることはまずない。これでいいのか、との思いが常に私にはある。こうした思いが通じたのか、私の所に日本人「慰安婦」の名簿が届いたのである。
私はビルマ(現・ミャンマー)従軍の元軍人のK氏(故人)から日本人「慰安婦」の名簿を入手した。名簿には9人の日本人「慰安婦」の名前が載っており、うち4人の方は「戦死」、「落伍」、「戦傷」、「病死」と書かれていた。日本人「慰安婦」は、21歳以上、つまり成人に達した女性である。(当時批准していた条約で未成年者の人身売買を禁じていた)。しかし名簿上は無事帰国したことになっていても、戦後既に70年を経過しており、生存の期待は持ちにくい。それでもどんな場所に住んでいたのか知りたいと思った。
遊郭の女性がお国のために「慰安婦」として
3月7日から11日まで、熊本県、大分県、福岡県、佐賀県の4県の出身7人の本籍地と現住所を訪ねた。同行者は、棚橋昌代さん、具島順子さんら3人で、日本共産党の県委員会と地区委員会に大変お世話になった。組織の力なしにこの調査は不可能である。「慰安婦」を訪ねて、県都から車で3時間以上離れた場所にも行った。また港町、河の船着き場、遊郭の町の跡にも足を運んだ。
名簿には本人の名前と戸主の名前が記されていた。戦前の家族制度では醜業(売春)に従事する場合も戸主の承諾が必要だった。戸主の承諾があれば売春婦となることが許されていた、というより親が親権を行使して娘を前借金のかたに遊郭に売ったのだ。「慰安婦」の名簿に戸主の名前が載っている所以である。今回私たちの調査で本籍地を突き止められたのも戸主の名前があったからである。
女性の戸主の本籍地を訪ね当てて
山奥、あるいは大都会からかなり離れた場所に戦前(1943年~44年頃)の現住所と本籍地の方(複数)の住所を訪ね当てる事ができた。戦後に建てられたものではあろうが、家もあった。そこには親戚(戸主の長男、あるいは甥)が住んでいた。一人の方の親戚の方とは言葉を交わすことができた。もう一人の方は留守だったが近所の方の証言で、この住所所で間違いない事が判明した。生存の可能性のあると私は推測する。
「現住所」が遊郭の中にあった方は、遊郭が売春防止法の成立、赤線禁止で昭和33年ころ廃止されているので、遊郭の建物は跡形もなくなっている所が多く新しい街並みになっていた。住人もその後引っ越してきた人々なので、手掛かりをつかむことはなかった。やはり戸主の名前がある本籍地が手掛かりはつかみやすい。しかし本籍地に行っては見たが全く手掛かりがつかめない人もいた。
福岡のような大都会では、遊郭の跡さえ名残をとどめず、大企業の大きなビルが林立していた。何の手がかりもつかめず呆然とする思いである。もっと早く調査に着手すれば少しはわかった事があったのではないか、と悔やまれる。
男性の集まる所に遊郭あり
今回の調査で認識を新たにしたのはわが国では遊郭がなんと多い事か、である。(遊郭については別に書く)。遊郭の女性達(芸妓、遊女等売春婦)が熊本から、長崎から、各港から南方(アセアン諸国)に「慰安婦」として送られた。その数は数百を下らないと、ある郷土史家は証言した。なのに、自分は「慰安婦」だったとカムアウトする日本人女性はいない。
遊郭の女性なら「慰安婦」にしていいのか?
売春に身を落としている女性なら「慰安婦」とされていい、と右翼は言わんばかりだがとんでもない事だ。前借金を抱え、それを軍隊が肩代わりして、今度は「お国のために」と身を犠牲にした女性たち。日本人「慰安婦」に光を当てることなくして、日本女性の人権問題は前進しない、と私は声を大にして叫びたい。
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