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2016年3月

2016年3月31日 (木)

日本人の「慰安婦」の本籍地を訪ねる旅

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阿蘇の外輪山が近くに見える、ここから更に調査で奥に入る

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大きな河の船着き場には遊郭があった・八代市

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共産党事務所前で

 

   ビルマ従軍の軍医から託された「慰安婦」の名簿

昨年末の「慰安婦」問題に関する日韓合意で直後はマスコミもこの話題で席巻された感があった。韓国の「慰安婦」問題も重要であるが、多数いた日本人の「慰安婦」についてマスコミ報道されることはまずない。これでいいのか、との思いが常に私にはある。こうした思いが通じたのか、私の所に日本人「慰安婦」の名簿が届いたのである。

 

私はビルマ(現・ミャンマー)従軍の元軍人のK氏(故人)から日本人「慰安婦」の名簿を入手した。名簿には9人の日本人「慰安婦」の名前が載っており、うち4人の方は「戦死」、「落伍」、「戦傷」、「病死」と書かれていた。日本人「慰安婦」は、21歳以上、つまり成人に達した女性である。(当時批准していた条約で未成年者の人身売買を禁じていた)。しかし名簿上は無事帰国したことになっていても、戦後既に70年を経過しており、生存の期待は持ちにくい。それでもどんな場所に住んでいたのか知りたいと思った。

 

    遊郭の女性がお国のために「慰安婦」として

37日から11日まで、熊本県、大分県、福岡県、佐賀県の4県の出身7人の本籍地と現住所を訪ねた。同行者は、棚橋昌代さん、具島順子さんら3人で、日本共産党の県委員会と地区委員会に大変お世話になった。組織の力なしにこの調査は不可能である。「慰安婦」を訪ねて、県都から車で3時間以上離れた場所にも行った。また港町、河の船着き場、遊郭の町の跡にも足を運んだ。

 

名簿には本人の名前と戸主の名前が記されていた。戦前の家族制度では醜業(売春)に従事する場合も戸主の承諾が必要だった。戸主の承諾があれば売春婦となることが許されていた、というより親が親権を行使して娘を前借金のかたに遊郭に売ったのだ。「慰安婦」の名簿に戸主の名前が載っている所以である。今回私たちの調査で本籍地を突き止められたのも戸主の名前があったからである。

 

 

    女性の戸主の本籍地を訪ね当てて

山奥、あるいは大都会からかなり離れた場所に戦前(1943年~44年頃)の現住所と本籍地の方(複数)の住所を訪ね当てる事ができた。戦後に建てられたものではあろうが、家もあった。そこには親戚(戸主の長男、あるいは甥)が住んでいた。一人の方の親戚の方とは言葉を交わすことができた。もう一人の方は留守だったが近所の方の証言で、この住所所で間違いない事が判明した。生存の可能性のあると私は推測する。

 

「現住所」が遊郭の中にあった方は、遊郭が売春防止法の成立、赤線禁止で昭和33年ころ廃止されているので、遊郭の建物は跡形もなくなっている所が多く新しい街並みになっていた。住人もその後引っ越してきた人々なので、手掛かりをつかむことはなかった。やはり戸主の名前がある本籍地が手掛かりはつかみやすい。しかし本籍地に行っては見たが全く手掛かりがつかめない人もいた。

 

 

福岡のような大都会では、遊郭の跡さえ名残をとどめず、大企業の大きなビルが林立していた。何の手がかりもつかめず呆然とする思いである。もっと早く調査に着手すれば少しはわかった事があったのではないか、と悔やまれる。

 

   男性の集まる所に遊郭あり

今回の調査で認識を新たにしたのはわが国では遊郭がなんと多い事か、である。(遊郭については別に書く)。遊郭の女性達(芸妓、遊女等売春婦)が熊本から、長崎から、各港から南方(アセアン諸国)に「慰安婦」として送られた。その数は数百を下らないと、ある郷土史家は証言した。なのに、自分は「慰安婦」だったとカムアウトする日本人女性はいない。

 

     遊郭の女性なら「慰安婦」にしていいのか?

売春に身を落としている女性なら「慰安婦」とされていい、と右翼は言わんばかりだがとんでもない事だ。前借金を抱え、それを軍隊が肩代わりして、今度は「お国のために」と身を犠牲にした女性たち。日本人「慰安婦」に光を当てることなくして、日本女性の人権問題は前進しない、と私は声を大にして叫びたい。

2016年3月24日 (木)

「慰安婦」と呼ばれた中国女性達の人生の記録

 

     中国女性の被った日本軍による性被害を告発

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(班忠義・著『太陽がほしい』2016年3月10日 1000円 合同出版) 

 

 当ゼミナールのニュースでも第22号と第23号で紹介しましたが、班忠義監督の映画「太陽がほしい」の自主上映が各地で行われています。これは日本の侵略戦争により性的被害にあった中国の「女性達の過酷な実態のドキュメント」です。映画は長編で2時間45分です。

 

 

中国政府は加害の日本人兵士に対し撫順戦犯管理所などでの教育や人間的扱いの結果、反省した兵士を起訴せず或は刑期半ばで日本に帰国させ、また日本に対し戦争の損害賠償をすべて放棄しています。

 

こうした良く知られている事実に対し、性的被害にあった大勢の中国人女性達がどんな状態で戦後を過ごしたかは知られていません。韓国やフィリッピンのような政府の支援は皆無で、また「慰安婦」を支援する活動・団体もない中で貧困と病気、PTSD、そして同胞からも性的被害者なるが故に阻害されて孤立し、悲惨な生涯を終えています。

 

 

当ゼミナール副代表の大森典子弁護士は中国「慰安婦」問題の裁判弁護団長として活躍してきました。映画の第2部では大森さんがこれらの女性達に寄り添う活動も映し出されています。

 

 

 

この映画の感想が、当ゼミナールの運営委員の原康長さんより寄せられましたのでご紹介します。(吉川)

 

 

 

 

  映画の感想~原康長さんより

 

 

具島順子様よりご案内いただいた「太陽がほしい」の初日(21日)の上映会に行ってきました。機器の調整が不良で開始時間に上映ができなくなり、先にゲストの嶽本新奈さん(立教大「ジェンダーフォーラム」研究員)という若い研究者がスピーチをおこなうという、ハプニングもありました。

 

 

 

 映画は、中国の「慰安婦」に関するドキュメント中心の第一部と、かつての”兵士”による戦争の実際の告発や、それと対照的に「『慰安婦』はいなかった」と街頭で叫ぶ右翼集団の姿などをとらえた、日本の現状を伝える第二部とで構成されていました。中国の「慰安婦」による日本での裁判闘争を弁護した大森典子弁護士の活躍も紹介されていました。

 

 

 

 このドキュメントで取り上げられた「慰安婦」の方がたの共通の叫びは、中国政府が日本政府への賠償要求を実質的に放棄してきたことへの怒りです。

 

 この訴えを見て感じたことは、今回の「日韓合意」に関しての日本政府の対応についてです。この合意については、背後でアメリカが動いた政治的「合意」であるとの指摘もあるように、韓国政府にとっては、苦渋の選択という側面があったとも推定されます。

 

 

 

 そのように考えるならば、日本の政府が被害者に対する心からの謝罪をおこなうことは言うまでもないことであり、日本政府は、韓国政府に対しても同様に向き合うべきでしょう。それが国と国との仁義というものではないでしょうか。

 

 

   万愛花さんの心からの叫びと私たちの課題

 

 

ドキュメントに登場する被害者の一人、万愛花さんが死の床でふりしぼるような声で訴える、「心からの謝罪がほしい」という叫びに対し、私たちがどのように応えていくかが、私たちに課せられたこれからの重要な課題ではないでしょうか。

 

 

 

誤った行為を被った側が、過ちを犯した側の謝罪について、それを心からの謝罪として受入れられるかどうかは、わたくしたちの日常生活でも難しい問題です。誤りを犯した側が判断するべきことがらではないでしょう。長い歴史を通じて、誤りを犯した側の責任において、受け入れられる努力を続けることしか、道はありません。日本の教科書をめぐるとりくみが、ますます重要になってきています。

 

 

    当ゼミナールでの上映を!

 

 

 

上映会で配られた案内の中に、このドキュメント(DVD)の貸出をおこなうとの記載がありました。一人300円、最低料金3万円。私たちの会で、このドキュメントを見る会を企画することについて、検討したらいかがでしょうか。「日韓合意」問題を考え、日本政府に対し誠意をもって合意の履行を求めてゆく取組みをすすめるうえでも、このドキュメントは、ぜひ、観ておきたいものです。

 

(3月21日 当会事務局次長・原康長氏記)

 

 

 

2016年3月19日 (土)

小平市で講演会 ~「『慰安婦』問題は日韓外相会談で解決したのでしょうか」

    3月13日(日)、日朝協会小平支部と小平平和委員会主催、新婦人小平支部協賛で勉強会が開かれ、吉川が講演した。
 
  会場の小平市中央公民館は折しも地元のミュージシャンが中心の、3.11を記念する市民によるコンサートが開催されており、隣接の広いホールは長蛇の列の観客がならんでいて、そのとなりの会場でおこなわれた学習会
  今回の 学習会を企画したのは男性で、参加者も男性が多く、この問題が『女性問題』の枠を外れつつあることを実感させた。

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(講演会の主催者の皆さんと)

 日朝協会の吉田会長の挨拶があった。吉田さんは最近(3月)韓国挺身隊対策協議会とナヌムの家を訪れ、「日韓合意」をうけてどうすれば「慰安婦」問題解決に繋げるかの提案をして解決の方途を探って来た、という。

 私の講演内容は、「慰安婦」問題とは何か、という基本問題と、昨年末の「日韓合意」の意味と日本のNGOとして今後の活動の方向について、の2つである。
 「慰安婦」問題は長年取り組んできたので、知り尽くしているとの自負もあり従来は講演の内容を準備するために余り苦しむことはないが、今年は例外である。今も「日韓合意」についていろんな考えが沸騰しているからである。
 私は今年1月以降いつもより多い数の原稿も書いているが、これほど書きにくい経験は初めてである。
 「日韓合意は、無効、白紙撤回を求める」との、「慰安婦」被害者や挺対協の反応は当然だと思う。しかし日本の「慰安婦」問題に取り組んできたNGOや活動家の中にも、反発、白紙撤回に近い考えは多い。安倍総理の様々な危険な施策、立憲主義無視の姿勢に対する不信感が「慰安婦」問題にも影響していることが原因であろう。

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(今回もパワーポイントで講演する)

 25年間「慰安婦」問題に取り組んできた私からは安倍氏が、本音を曲げて従来の方針も多少反省し、妥協している面があると思う。
 それをどう評価するか。蹴飛ばすのか、それとも、ともかく日本の政府のトップの彼をして解決に持ってゆくよう促すべく圧力をかけるべきか。私の考えは後者である。
 また、私にはもう一つの思いがある。仮に韓国の「慰安婦」問題が解決したとしても、日本人の「慰安婦」が誰も名乗り出ないうちはこの問題は解決しないのではないか。日本人の「慰安婦」が居たことに対して無関心でいいのか、との強い疑問を持つ。
 総理が同胞でもある日本人「慰安婦」に対しても、おわびと反省を表明して、「基金」を設ける日は来るのか。
 この様な論点を含めて小平市で講演をした。私の試行錯誤が反映してか話が複雑になり、わかりにくかったのでは、と反省している。

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(会場風景)

  講演後の、会場からの質問は以下の内容である。
  Q1 戦争する国つくり反対の運動に、女性の人権問題(とりわけ、レイプ等女性の望まない性交渉…)を加えることが必要である。
 Q2 韓国政府は何故イエスと言ったのか。急に話し合いが決着した経緯が唐突でわかりにくい
 Q3 「日韓合意」を国連事務総長(韓国人)が賛同している、韓国の人々は反発しているのに。国連の「慰安婦」問題についての立場を知りたい
 
 最後に吉田都連会長の発言があり、外務省との交渉の結果について、日本政府は韓国が「基金」をつくったら10億円を支払う。少女像の撤去は10億円の支払いとは絡めていないとの立場を表明した、という報告であった。参加者は約40名だった。    (吉川春子)

2016年3月 6日 (日)

国際女性デーin山口に105人集う

 

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(山口国際女性デーの会場風景)

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(講演する吉川春子元参議院議員)

 

 3月6日(日)、小郡ふれあいセンターで国際女性デーの集いが開かれ105人が参加した。「慰安婦」問題が突き付けたもの~今、私たちは何をなすべきか~と題して、吉川春子元参議院議員が講演した。

 昨年12月28日に「慰安婦」問題に関する日韓合意が行われ、関心が高まっていたことと、新婦人等実行委員会による宣伝も積極的に取り組まれた結果、準備した資料が足りなくなり、また男性の参加者も目立った。質問者が次々出て、時間が足りなくなるほど活発な議論が行われた。

    
  ◆被害者の心に届く謝罪と、次世代に伝えること

 吉川さんは、冒頭、日韓合意の誠実な実行のために政府と国会は次のことを行うように訴えた。

①謝罪と反省を「慰安婦」被害者に届く形で(安倍首相が訪韓して直接伝える等)行うこと

②「「慰安婦」の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷をいやすための日韓政府が協力して事業を行う」(日韓合意)ために、日本としてこのテーマに取り組む「対策チーム」を発足させ、そこにNGOを参加させる

③「慰安婦」問題を教科書に掲載する、歴史博物館への展示を行うことなどを通して、後世にこの問題を伝える

④国会は「慰安婦」謝罪決議を行う

⑤「慰安婦」問題を記憶に止めるために、「慰安婦」慰霊碑、記念碑を各地に建立する。これは国民の運動としても可能ではないか

   
  ◆フロアーからの質問に答えて

「『慰安婦』裁判下関判決の意味」、「ジェンダーフリーという言葉が使われなくなった理由」など、女性の人権に関する幅広い問題についての質問が出された。

また、『日韓合意』については、「この時期に何故、合意されたのか」、「強硬だった朴槿恵大統領が譲歩した理由について」、「少女像の撤去を求め、さらに不可逆的に解決などと、日本が言う事はとんでもない」、「強制連行と河野官房長官談話の関係」など、突っ込んだ質問も出され、問題点を深めることができた。

  
  ◆「慰安婦」だったと、名乗り出た人がいた⁈

  この日一番衝撃的だったことは、一人の女性からの「いろんな活動をしている中で、実は〝私は『慰安婦』だった″と打ち明けられた」という発言。

 山口県は大阪、京都、兵庫、福岡などとともに、当時内務省が県知事に対し、女性を集めるように指示した県のひとつであった。また件の「強制連行」問題での吉田清治氏も山口県にゆかりの深い人物である。海外に送られた女性が生還して、あるいはひっそりと生活していたとしても不思議はない。

 後で詳しく伺うと、その話を伝えた女性はその後死去されたとのことである。そうした女性がまだどこかで生存して、名乗り出られないでいるかもしれない、という思いをかきたてる話である。

 日韓合意が「慰安婦」問題に対する国民の関心を、再び強めているとの印象を受けた集会であった。

 

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