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2015年12月

2015年12月16日 (水)

「黄金のアデーレ 名画の帰還」と、「ジョンラーベ―南京のシンドラー」そして「母と暮らせば」

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12月の六義園、部屋の窓からガラス越しに見る

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南京大虐殺のユネスコ登録の正当性を主張する中国政府

 

最近、第2次大戦時の戦争犯罪を問う2本の映画を見た。ナチス・ドイツに略奪された美術品を取り戻す物語の英米合作の映画と、旧日本軍の南京大虐殺から中国人を救った、ナチス党員で企業人の物語。いずれも力作である。

 

「黄金のアデーレ 名画の帰還」

 

名画「黄金のアデーレ」(グスタフ・クリムト画)は、ナチスに没収された自分の持ち物なので返してほしい」と、オーストラリア政府を相手に1998年に裁判を起こした82歳の女性とその弁護士の勝訴(2006年)までの実話の映画化である。

 

豊かなユダヤ人実業家の家庭で恵まれて育ったマリア・アルトマンに、突然の不幸が襲ったのは、ヒトラーによるオーストリア侵略による。ユダヤ人に対する辱めと弾圧は人間否定の極みである。しかもオーストリア国民は熱狂してナチス・ドイツの軍隊を向かい入れる。

 

日本軍もあのようにして南京で大虐殺を行った。しかし日本国民は熱狂して「南京入場」をちょうちん行列で祝った。南京、オーストリアの2つの光景がだぶる。

偉大な画家や芸術家、フロイト博士も出入りした豪華なマリアの家のサロンもヒトラーの軍隊に占拠される。そんな中マリアは監視の目をくぐって両親を残して新婚の夫と共に、危機一髪アメリカに脱出する。

 

以来50年も故郷オーストリアに帰っていないし2度と再び行きたくないとの思いで生活してきた。しかし、姉の死と共に幼い時から目に焼き付いていた、美人の叔母をモデルに描かれた名画を取り戻す決心をする。この名画が「黄金のアデーレ」である。

 

新進気鋭の弁護士を雇い、オーストリアに乗り込む。名画の時価が13500万ドルと知って、お金のために代理人を引き受ける若い弁護士であるが、歴史を知るにつけてついには本気で絵画を取り戻すために頑張りだす。

 

オーストリア政府は、当時の国民だったユダヤ人女性=マリアの心情を理解しない。「黄金のアデーレ」(正式名称「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」)はあくまでオーストリア政府のものであると引き渡しを拒む。

 

ナチスの総統・ヒトラーは若い時、画家にあこがれウイーンの名門、造形美術アカデミーを2度受験するが失敗。夢が実現しなかったことが彼のコンプレックスの1つになったといわれている。その影響か、第2次大戦中にナチス・ドイツが略奪した欧州の名画、彫刻、タペストリーは約60万点に及ぶ。そして今もその中10万点が所有者の手元に戻っていないという(「黄金のアデーレ」ジャケットより)

 

マリアがナチスの弾圧でうけた深い心の傷は癒えない。50年間も祖国オーストリアの地を踏まない、し、今後も絶対に行かないと誓ったマリア。しかし勇気を振り絞ってオーストリアに乗り込む。父母の無念さ、自分の過去を取り戻すために。アメリカの裁判所も利用して名画を取り戻すことに成功したマリアの勇気、強靭な意思に感動する。

 

「ジョンラーベ―南京のシンドラー」

 

122日(水)、町田市で市民の力で上映されたこの映画は、かつて見た映画「シンドラーのリスト」を髣髴させる。ナチスの党員シンドラーは実業家でユダヤ人を使って彼の会社は儲けをあげている。一方、シンドラーの工場で働いているユダヤ人達は強制収容所行きを免れる。ユダヤ人たちは命が助かるためにシンドラーの工場の従業員のリストにることを熱望する。

 

1937年12月、日中戦争の最中、中国の首都南京に日本軍が迫る。南京在住の欧米人たちが南京市内に安全地帯を作り無辜の市民を守ろうと立ち上がる。国際安全区委員会委員長に選ばれたのは、南京のシーメンスの支社の責任者・ナチスの党員であるラーベである。

 

ドイツとの同盟国・日本はラーベのいる南京に侵攻して残虐の限りを尽くす。空襲で南京を破壊するだけでなく、女性と見れば強姦し、女性を差し出せと公然と要求する。中国人捕虜を銃で何十人もそれ以上も平気で殺害する。日本軍の残虐行為をのがれて中国人が20万人も安全地帯に逃げ込む。

安全地帯にも空襲を行う日本軍、しかしナチスのカギ十字旗をいっぱいに建物の屋根に掲げることで日本軍の空襲は止む。しかし日本軍の嫌がらせは尽きない。やがて二十万人を養う食料も尽きかけた時に、マスコミ記者多数とともにヨーロッパからの調査団が南京に到着して日本軍の嫌がらせも止む。ラーベ達は二十万人の命を守り切った。

 

   日本映画と、ドイツ、英米の映画

 

この映画は、ジョン・ラーベの書き残した日記の映画化で、新人・フローリアン・ガレンバルガー監督の作品である。2009年公開であるが、日本で普通の映画館では一般上映されていない。日本の上映に当たって監督がスクリーンの中で冒頭あいさつを述べている。「この映画は日本を批判することを意図したものではない。しかし日本の皆さんが不愉快な思いをしたのであればお詫びする」と。ドイツ人監督は日本軍の戦争犯罪を追及する一方で、ナチスの責任についても鋭い矢を放っている。

2015年、中国の申請で南京大虐殺がユネスコの歴史遺産に登録されたことで日本政府は激怒し、分担金支払いの中止をちらつかせている。当時南京事件は日本人が知らされないうちに連合国側の国々では特派員の報道で公知の事実で国際的に大問題になった。いまなお歴史の事実から目をそむけ加害責任を認識しない日本政府は恥を知るべきである。

 

最近山田洋次監督の映画「母と暮らせば」が話題をさらっている。戦争の悲惨さと幸せを国民から奪い去る残酷さを如何なく描いている。

 

こうした日本映画がもう一歩、原爆投下のアメリカの犯罪性を、背景的にだけではなくまた文学的表現にとどまらずに、厳しく追及するためには何が必要か。

 

まず、日本が太平洋戦争で行った略奪、捕虜虐待、女性強姦、無辜の市民の虐殺の事実を歴史教科書に載せ、歴史博物館で展示し、国民自身が日本の戦争加害責任を認識する事、その結果として、加害責任を問う映画が公然と監督が制作できる環境ができる。米国の犯罪を追及する前に「自分の瞼の上の針を取り除く」、そのような社会のバックグラウンドの形成を待つほかない、のかも…

(写真は「黄金のアデーレ」の表紙絵の「ビッグイッシュ―」日本語版)

  

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2015年12月 3日 (木)

「慰安婦」問題の視点で巡る沖縄本島と・宮古島の旅その4 

 

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(写真上、3日間案内してくれた上里清美・那覇自治労連事務局長、写真下、宮古空港で見送りの与那覇さん)

 沖縄の終らない戦争、今日に続く苦悩

 

「慰安婦」はどこへ消えたのか?

 

今回の旅で私たちは、「慰安所」跡をたくさん訪ねた。宮古ではサトウキビ畑になっている所も何カ所もあった。沖縄本島のアブチラガマでは巨大な壕(ガマ)の中で、重症の負傷兵と同居して「慰安所」があった。   

 

何十人もいた「慰安婦」=朝鮮の女性達は814日の夜突如として一斉に姿を消した。米軍の上陸はなく日本軍が港も含めて8月下旬まで支配していた宮古島で、いったいどこに行ってしまったのか、今も分からないと上里清美さんはいぶかしげに語った。

 

 日本軍が来て、家を接収され家畜以下の生活に

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(写真の左の建物は宮古南静園の火葬場の跡)

 

人口5万人の島に3万人の日本兵が来て島民の食糧を奪った。

 

与那覇さんの一家は、自分の家が日本軍に接収されて家畜以下の生活に追いやられた。学校も兵舎とされて勉強もままならなかった。兵舎だらけの島でなく、緑に覆われた島が続くように…平和を願って「アリランの碑」を私財を投じて建立した

 

ひもじい思いをしている日本兵が島民の家にひんぱんに盗みに入った。畑の食物も日本兵に盗まれた。またサツマイモをふかしていたら、日本兵が来て与えるまで立ち去らなかったという。

 

島民は米軍の上陸に備え、また爆撃から身を守るために多数あるサンゴ礁でできた天然の壕(ガマ)に身を潜めていた。中は真っ暗闇で、水汲みと排泄物の処理は米軍が攻撃を中止しているわずかな合間に、危険を冒して壕の外に出て行った。        

 

ハンセン病療養所では職員が職場放棄していなくなり、日本軍に施設から追い出され、海岸にある壕に不自由な身体で逃げた。食料はなかった。差別され隔離され更に戦争の悲惨さが患者たちを襲った。

 

艦砲射撃、空襲、そしてマラリアが住民の命を多数奪った。私達は戦争遺跡を巡り、沖縄県の古老を含め県民の話を聞き、太平洋戦争末期に沖縄がどんなに悲惨な目にあったか胸がつぶれる思いを何度もした。

 

  戦後も去らぬ苦しみと、辺野古の闘い

 

122日、米軍普天間飛行場の移転先名護市の埋め立て承認を翁長雄志知事が取り消したのは違法として、国が撤回を求めた「代執行」訴訟の第1回口頭弁論で、翁長知事はこう述べた。

 

1952年サンフランシスコ講和条約による日本独立と引き換えに、沖縄は米軍の施政下に置かれ日本国民でもアメリカ国民でもない無国籍人となり、日本国憲法の適用もなく、県民を代表する国会議員を一人も国会に送ったことはなかった」。

 

1127日、私達は辺野古に基地反対のテントに行って、沖縄の人たちの闘いにも触れた。

 

戦争の悲惨さを知り尽くしているから、27年間のアメリカ施政権の下で苦しんだから、そして今なお植民地のような生活を強いられているから、日本の真の独立を求め、また戦争準備の基地を許さない、沖縄県民の強じんな心にうら打ちされた闘いを目の当たりにした。

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(辺野古基地建設反対のデモの途中米軍基地フェンス前で)

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(米軍基地使用許可証)

 

 

      多発するレイプ事件と「慰安婦」問題~新たな研究課題

 

なぜ、沖縄にかくも多くの「慰安所」があったのか。また、日本人、朝鮮人、中国(台湾)人「慰安婦」がかくも多数いたのか。日本軍は、植民地や占領地に「慰安所」を多数つくったように、沖縄にも作った。

 

翻って、日本本土にもこれほど沢山の「慰安所」をつくれただろうか。そうではあるまい、という思いがある。しかし敗戦直後にアメリカ進駐軍のために日本全国に「慰安所」を作った事を思うと、「必要なら何処にでも作る」という日本政府・軍の体質があるのかとも思う。

 

そして、沖縄には日本人「慰安婦」が多数いたにもかかわらず、名乗り出た人はごくわずかである(1人だけ?)。いま、米軍基地、米海兵隊、そして繰り返し起きるレイプ犯罪。沖縄女性は性暴力の恐怖の下で暮らしていると言っても過言ではない。戦争・基地は女性の人権を蹂躙する最たるものとの思いを強くした旅であった(吉川春子記)

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(写真上・南静園のハイビスカス 写真下・園に咲くブーゲンビリア)

 

 

 

2015年12月 1日 (火)

「慰安婦」の視点で巡る 沖縄本島と宮古島の旅 ハンセン病療養所

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(写真上・病院棟 写真下・園の後ろに広がる海)

最終日、現在は元・ハンセン病患者の人々の生活の場であり、地域住民の交流の場でもある宮古南静園をたずねた。「慰安婦」と比較しても勝るとも劣らない人権蹂躙がかつてはまかり通り、人間の尊厳を打ち砕いた場所である。

 

ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古の共同代表・亀浜玲子さんがパワーポイントで宮古のハンセン病の歴史と、隔離政策の下で人々はどんな目にあったのか、1時間近く説明した。 

 

コバルト色の美しい海に抱かれる施設、しかし戦前戦後90年間に及ぶ国の差別・隔離政策、沖縄戦も加わり、国家権力の暴圧に呻吟した多くの人々の苦悩が刻まれた歴史舞台であった。基本的人権の尊重をうたう日本国憲法施行後もハンセン病患者の人々へ抑圧は続いた。

 

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1935年入所者に読書きを教える寺子屋式の学舎が開設された。空襲委より1944年休校、

1954年琉球政府立「稲沖小中学校」、義務教育として教科書を使って授業。1981年閉校。

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(入所者の結婚の条件として男性は断種。女性は妊娠中絶を強制された。胎児のホルマリン漬けの瓶が置かれていたとの証言もある。これは生まれなかった子どもの供養塔 2007年建立)

   生まれなかった子供の供養塔

 強制断種・堕胎が戦前から戦後昭和33年ころまで行われていた。碑文には次のように記されている。

 「長きにわたる隔離政策によって奪われた子どもたちは今どうしているだろうか。二度と繰り返してはいけない堕胎の事実を風化させないためにここに碑を建立して反省を込めて今は亡き子どもたちの心の平安と冥福を祈る」

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私達を案内してくれた知念さん。宮古南静園の歴史を語り継ぐ活動を行っている。

    沖縄の戦争の時

太平洋戦争の時は栄養失調とマラリアで死亡者が続出、ハンセン病への差別と偏見に加え戦争被害という二重の苦しみを受けた。

 1944年10月10日、宮古島の大空襲があり、1945年3月からは南静園も空襲に晒される。反戦施設には赤十字のマークが書かれていたが、連合軍のパイロットの目に入らなかったと説明があった

 職員は職場放棄、日本軍からも園を追われ、逃げ場のない入所者は海岸線の自然壕や雑木林で避難生活を送った。

     隔離政策を終わらせる闘い

患者自治会が裁判に立ち上がり、2001年熊本地裁判決は90年に及ぶ患者の人権を踏みにじった国の隔離政策を厳しく断罪した。小泉内閣に対する患者団体の必死の働きかけで世論と国会を動かし、ついに小泉内閣も控訴を断念した

 

私は大勢のデモが首相官邸門前に襲掛け、小泉総理に控訴断念を迫った光景を昨日のことのように思い出す。

 

 現在南静園は入所者の高齢化や減少に伴う園の課題を直視しながら「将来構想」に取り組んでいる。ハンセン病患者の過酷な歴史を語り継ぐための取り組みが行われている。

 

 

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