沖縄の戦争と人民の犠牲を知る、参議院協会国内研修旅行
(対馬丸記念館の看板) (ひめゆり平和祈念資料館・右横の壕に建つ記念碑)
戦後70年の今年、改めてアジア太平洋戦争について学ぶ
2015年11月4日(水)~11月7日(土)
参議院協会は一般社団法人で参議院議員OBの会。正会員は168人、特別会員約160人(現役の参議院議員)で組織する。会の目的は参議院議員を引退した後も日本国憲法の議会制民主主義、二院制を学び深める活動を続ける。そのため年9回の月例会、4回の講師を招いて研究会と機関誌の4回発行、国内研修旅行(日帰りと1泊)と海外研修旅行を行っている。
アジア太平洋戦争終結の今年、9月の研究会は原爆投下で今日までに及ぶ放射能の被害の実態について日赤長崎原爆病院名誉委員長と、田浦直元参議院議員(被爆者)の講演を聞いた。11月の宿泊研究の地を沖縄戦集結70周年である、沖縄に決定して沖縄地上戦の実態について学ぶこととした。
第1日目
今回の旅行は海外旅行に代わるもので総勢20名(7組が夫人同伴)、その内10名が8時50分羽田発のJAL907便で那覇へ飛んだ。
折しも修学旅行の高校生が数百人乗り合わせ満席。機体が滑走路を離れ窓の外の景色がななめになる瞬間や、揺れる時は歓声とも悲鳴ともつかないどよめきが起きる。那覇空港で他の飛行場から到着した参加者と合流し、13:45分、研修先に向かう。観光バスは沖東交通グループ、運転手は米須、ガイドは伊波さんであった。
<対馬丸記念館>2004(平成16)年8月オープン
戦争中はもちろん、30年間も語ることができなかったこの事件。資料収集の困難を乗り越えて疎開船の悲劇を展示し後世に伝える。
1944年老、幼、婦女子は県外に疎開するように指示が出され、対馬丸は学童集団疎開の子どもたちを乗せて8月21日那覇港を出港した。
翌22日夜、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて船は沈没した。生存者は疎開者177名を含む280名(「対馬記念館」リーフより)でしかなく、1788名のうち約8割の人々が海底へと消えた。(「対馬丸記念館」リーフより)。軍当局によって、この事件については「決して語ってはいけない」と箝口令が敷かれ、国民、県民にこの悲劇は知られることがほとんどなかった。
敗戦後も対馬丸の悲劇は語られることなかった
「この悲劇を単なる歴史の1ページとして水に流すことはできない。立派な会館を建設して戦争の悲惨さを語り、平和な社会つくりに貢献する学びの場にしたい」(財団法人対馬丸記念会・会長 高良政勝)として、2003年5月17日、「対馬丸記念館」計画報告集会を開き準備をスタートさせた。2001(平成13)年、全額国庫補助で建設が決まる。
1954年5.5 対馬丸犠牲者慰霊碑「小桜の塔建立
1966年10.17 学童犠牲者が靖国神社に合祀された
1975年8.22 初めて撃沈現場における海上慰霊祭を挙行
2004年8.22 対馬丸記念館がオープン
(年表は大城立裕著「対馬丸」等)
*沖縄に大量の日本軍が駐留し、制海権、制空権を米国に握られて食糧補給もままならず、県民の他県への疎開が推進されていた。
「同時に学童疎開に関しては資質優秀な児童を安全地帯に移しておけば,たとえ沖縄県民全体が玉砕することになっても子孫を後世に残すことができる。従って優秀な教師・児童を今疎開させることは将来に対処する重要な意味を有するからと他の一般婦女子よりも優先すべきであるとの理念により推奨に熱意をもってあたった」(大城立裕著「対馬丸」)
様々な悲劇を生んだ学童疎開であるが、「対馬丸」事件はその極みである。一説によると小さな島沖縄に日本軍が大量に投入されて食糧難をきたし、飢餓の島ともいわれる中、食糧確保のための人減らし策が沖縄の疎開であったとの指摘がある。
<ひめゆり平和祈念資料館>1989.6.23開館
県内きっての女子エリート校の生徒を動員した悲劇
米軍の上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第1高等女学校生徒 222人、教師18人は陸軍病院に配属された。
米軍は4月1日、沖縄本島中部に上陸。日本軍死傷者が激増し女学生たちは寝る間もなく介護に当たる。5月下旬米軍が迫る中、沖縄最南端に日本軍と共に退却。
6月18日「解散命令」が出される。か弱い女生徒たちは「解散命令」に絶望し米軍が包囲する戦場を逃げまどった。陸軍病院に動員された生徒・教師240人中136人が死亡。またその他でも91人が死亡した。
小学4年生の時私は学校から引率されていった街の映画館で「ひめゆりの塔」という映画を見て、泣きじゃくって映画館を出てきた。先生に慰められたが涙が止まらなかった。
その後国会議員になって以降何度もこの地を訪れ、ひめゆりの生き残りの女性の方からも直接話を聞いたが今回は直接話を聞けなかった。高齢化で語り部を続けられなくなっているが、この事実はいろんな形で永久に語りつがねばならない。
<沖縄平和祈祈念資料館>1975年設立
沖縄本島の最南端、日本軍終焉の地、摩文仁の海軍壕公園、旧海軍司令部壕の傍らにある「沖縄平和祈念資料館」は、なかなか見ごたえのある資料館であった。
朝鮮半島の植民地支配の展示、日本軍による住民への虐待ともとれる迫害も展示されている。沖縄のあゆみ(年表)には女性のレイプ事件が再三登場する.
設立理念~沖縄の歴史的教訓を次世代に伝える…
「(略)沖縄戦では軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っていることにありその数は10数万人に及んだ。この戦争体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が米軍の軍事支配の重圧に抗しつつ培ってきた沖縄の心の原点でああります。
“沖縄のこころ”とは人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは戦争の犠牲になった多くの人々の霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次世代に伝え、全世界の人々に私たちの心を訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するためにここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立します」
この歴史博物館は政府の補助金はゼロ、沖縄県単事業として設立された。
沖縄戦や戦争平和を考える場として、「悲惨な沖縄戦の実相を直感的に感じ取ってもらえる構成になっており、学校では味わえない学習ができる場として」(「資料館学習の手引き」)、いろんな工夫がされている。
次世代に戦争の悲惨さを伝えるための「子どもプロセス展示室」もあり、ここを活用した小学校教師の教育実践も行われている」(「資料館学習の手引き」P46)
学校教育での平和教育はもちろん重要であるが、相まって社会教育の場を利用した、教師たちの取り組みの必要を感じた。そうした場を提供する県の施設は沖縄県ならでは、という気がした。
悲惨な戦争を2度と起こしてはならないという、過酷な地上戦を体験した沖縄県民のメーセージを強く感じる場となっている。
「平和祈念資料館」の展示・経済恐慌で娘の身売り相談の看板と子ども
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沖縄の戦争と人民の犠牲を知る、参議院協会国内研修旅行に行ったようだが、日本の戦争と国民の犠牲を知る事も大切じゃないかと。また、旅行に行かなければ研修は出来ない訳ではないはず。戦争を語るなら、なぜ日本が戦争に参加したのかを偏らずに詳しく知る必要がある。どうもこのブログはその点では偏向し過ぎと思うが如何?
投稿: | 2016年1月28日 (木) 08時53分