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2015年11月

2015年11月28日 (土)

「慰安婦」問題の視点で巡る、沖縄と宮古の旅・第2日目

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(平和よいつまでもあれ、と「アリランの碑」の前で話す与那覇さん)

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(アリランの碑の隣の高沢義人の歌碑(「朝日歌壇」入賞作)

補充兵我も飢えつつ 飢餓兵の骸骨焼きし宮古(島)よ 8月は地獄

 11月28日(日)晴れ

 那覇空港からJTA557 10:35発宮古島へ。40分のフライトで宮古島到着。エメラルドの海

鉢植えのブーゲンビリアが我々を迎えてくれた。

 昼食後、13:00、今日から3日間案内役をの引きうけてくれた上里清美さんと合流してまづアリランの碑に向かう。そこにはこの碑の建立者の与那覇博敏さんが待っていてくれた。

    特攻隊員の相手をしていた「慰安婦」達

 

 彼は朝鮮の「慰安婦」の美しい姉さんたちと少年のころ洗濯のために地下水のたまるツガガーと呼ばれる井戸にまいにちかよう女性たちに会った。そして、女性たちがほしがる唐辛子を、何度も与えていた。自宅の近くにあった「慰安所」に女性はおそらく10名程度いた、という。あの姉さんたちは無事に故国に帰ったのだろうかと、ずっと今も気にかけている。

 特攻隊の整備不能機が置いてあった。また、赤瓦の大きな家は家人が疎開して留守だった。そこを軍が接収した。特攻隊の兵士の宿泊施設もあった。彼らは「慰安婦」と一夜を過ごした。「慰安婦」は特攻隊の兵士の相手をいつもしていたので、それを考えると10名以上、20名以上はいたと思う。

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〈宮古島のガイドを3日間引き受けた、上里清美さんと〉

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(米軍の上陸に備えて島民が逃げ込んだ壕)

     財産をなげうってアリランの碑を建立

 自分は何故財産をなげうって”アリランの碑”の建立をしたのか。それは自分も戦争被害者であるから。当時は学校はすべて軍に接収されて、授業は寺子屋のような公民館で行われていたので学校に通わなかった。家も軍に取られて家畜以下の生活を強いられた。家の周辺は全部兵舎であり、弾薬庫であった。今、青々と緑の広がる景色を見て、平和よいつまでもあれ、と祈るのみだ。

 右翼が与那覇さんに嫌がらせ・脅迫の電話をかけてきた。「性奴隷」などというべきではない」と。右翼には「現場に来て疑問を直接に質問せよ」と言ってやった。最近は脅迫電話はなくなった。

 そして、与那覇さんは私に、こんなに大勢で来てもらってうれしい。これまでは2,3人か数人で研究者たちが来たが、30人もできてくれて、この問題が広がったと思うととてもうれしい、と語ってくれた。

 1日の視察を終えて、5時からは宮古郷土史研究会の仲宗根将二氏の講演を聞いた。

 

夜は、宮古島の元教師の芸達者な余興に一同大満足であった。

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夜の懇親会で芭蕉布を踊る、宮古の元教師

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宮古の海に触れたい、と立ち寄った浜辺で、波と戯れ、サンゴの片を拾う

 

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2015年11月27日 (金)

「慰安婦」の視点で巡る、沖縄本島と宮古島の旅第1日目

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国道沿いの辺野古基地反対テント

 

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(テント前の男性を激励する大森さん)

   2015年11月27日(金)

「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールでは、今日から4日間にわたり沖縄でフィールドワークをスタートさせました。

 11時37分、羽田飛行場から19名と添乗員・小野寺氏の20名が那覇に到着。

   座り込みテントで、「辺野古基地建設反対」の檄を届ける

 すでに名古屋と福岡から到着していたメンバーと合流し総勢33名でまず、バスで名護市の国道沿いの辺野古団結小屋へ行きました。水野磯子さんが用意してきた布の激励の大きな激(布地)にみんなで寄せ書きをして届けました。

 午前中に会議だったという日教組の約100人の教師たちが「子どもたちを再び戦場に送らない」と、地域別に激励あいさつした。日教組の役員らが次々あいさつする間、右翼が口汚く罵るように妨害して騒然の雰囲気につつまれました。

 その後、代表・吉川春子もテント内でハンドマイクを使って、団結小屋の皆さんに挨拶しました。久しぶりにハンドマイクを手に大きな声を張り上げ、辺野古基地建設反対の思いを伝えました。

      基地周辺をデモ行進

 その後、100人以上の参加者が、「辺野古基地を許さない」等の画用紙大の看板を手に持って米軍基地に向かってシュプレシコールを行い、また、「がんばろー」の歌を皆で歌いました。 基地の中からはマイクの声が放送されていました。

    悲惨な戦争の跡を訪ねて

 その後高速を南下し沖縄地上戦のあった南部戦跡、アブチラノガマ(糸数の壕)へ向かいました。

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(「慰安所」のあったアブチラガマの看板)

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  事務所にあった糸数城址の写真

 アブチラガマの洞窟奥深く入り、沖縄戦争当時、負傷兵と住民たち600人が8月22日まで潜んでいたという壕を体験しました。一同ヘルメットと懐中電灯、手袋という重装備でそれでも、足元はごろごろと石があり、足元はおぼつかなく、壁もごつごつする岩肌で、ヘルメットの頭を岩にぶつけながら、50分間女性のガイドの案内で懐中電灯の光だけを頼りに歩きました。ガマの外に出た時は日が暮れて、それでも木々の間から空を見たときホッとしました

   負傷兵の看病ベットと、「慰安所」が壕の中に

 大きな壕(ガマ)はサンゴ礁からなっている沖縄の特徴である。戦争で米軍に追い詰められ負傷兵の看護も困難を極める中、民間業者に連れられた「慰安婦」がこの洞穴の中におり、「慰安所」が経営されていたことは驚きだ。いったい日本軍は何を考えて戦争をしていたのか。「ここまで追い詰められていても「慰安婦」が必要?あきれるほかはない

 壕はとても広く、排せつ物は米軍の攻撃の合間をぬって外に捨てに行った。負傷兵は十分な看病を受けられる環境ではない。悲惨な光景が浮かぶ。

壕の外にもこの集落にもう1か所「慰安所」があった。

     夜はホテルで交流会

 夜はホテルの食堂で棚橋さんの小気味の良い司会でまず、大森典子副代表のあいさつ。その後、沖縄料理の入った和食で、交流会を開きました。東京、千葉、横浜、埼玉、名古屋、広島、山口、福岡と各地からの参加者ですがすっかりうちとけました。

 今日は朝早く自宅を出発し疲れ気味の参加者が多いので、8時半ころ終了しました。

 

2015年11月26日 (木)

「慰安婦」問題の解決とは何か~日韓首脳会談と2つの集会

  1120日(金)午後2時「日韓首脳会談と慰安婦問題の解決」討論会が、衆議院第2議員会館会議室で行われた。和田春樹・東大名誉教授、チョンデジョン(鄭在貞)・ソウル市立大学教授、花房俊雄・元關釜裁判支援の会事務局長が発題者として発言した。

 

これに対して坪川宏子・「慰安婦」問題解決オール連帯ネットワーク事務局長と、中村宏子・緊急声明「慰安婦問題」解決の会呼びかけ人が発言した。

 

 和田氏は11月2日、日韓首脳会談で安部首相が「早期の妥結を目指して交渉を加速させる」ことで合意したとの発言を「待ち望んでいた転換」であるとした。

 

 これについて和田氏は、4月28日安部首相が訪米し首脳会談後の記者会見で慰安婦問題について発言し、「非常に心が痛む」、「河野談話は継承」、被害者の現実的救済の観点から努力」「戦時性暴力」のための国連への拠出2年間で3400万ドル(34億円)に注目する。それ以後の日本政府と韓国政府の動きを細かくチェックし米の圧力、朴槿恵大統領と習近平中国主席の圧力の中で安部首相が追い込められ各大統領の要求を受け入れたと指摘する。

 

 解決の条件として和田氏は次のように分析する。

 

共通の条件、①河野官房長官談話、②アジア女性基金の事業13年間の評価を上げる。

 

韓国政府の条件、①慰安婦被害者が受け入れ、韓国国民が支持するレベル。②年内解決、日本政府の条件,①日韓条約で「解決済み」=法的責任なし、②「強制連行」をします文書はない、③少女像撤去、最終解決とする。

 

 日本政府が解決を考えるときの基礎として、「謝罪」は総理のお詫びの手紙であり、謝罪のしるしとしての「賠償」はアジア女性基金の際の300万円の医療福祉支援である。ちなみに2007年以降「アジア女性基金」解散後も事業は続き13億円のうち11億円を使い、1億7800万円政府に返納しているという。

 

和田氏は、安部首相が政府部内、党内、メディアの中に慰安婦問題解決に反対する動きがあるのを恐れていると指摘する。日本国民は被害者意識強く加害者意識弱ことも批判した。

 

 

 

鄭在貞・ソウル市立大学教授はまず、次のように述べた

 

「今日集まった人々に尊敬と感謝を表するために来た。当初は「慰安婦」問題に携わった人の中にも「慰安婦」問題は懲り懲りだ、という人もいると聞く。今日集まった人々は25年近くこの問題に携わり研究と運動を続けている人々だ」、「日韓間には『慰安婦』だけでなく『被爆者』、『サハリン』その他いろいろあるが「慰安婦」問題を解決すれば連動してこれらも解決できる。解放70年、国交正常化50年の今年11.2日韓首脳会談は意味がある」と具体的解決策に言及した。

 

 

 

<吉川コメント>

 

私は423日「全国行動シンポジューム『慰安婦』問題解決は可能だ」で、梁澄子、伊美香・挺対協常任代表と、和田春樹の諸氏がアジア連帯会議提案を論じるシンポジュームで同席し、同方向!で議論したことは驚きだった。何故なら和田春樹氏は人も知るアジア女性基金に長年中心的にかかわって来た人物であり、韓国挺隊協は「アジア女性基金」を拒否して対立関係にあったからである。双方が、アジア連帯会議の方向で解決を求めることで一致したことは画期的であった。

 

 

 

さて、和田氏らの会合の2日後、1122日(日)、「挺対協は何をしてきたのか!?」で、韓国挺対協常任代表・尹美香氏が講演した。25年の会の活動と歴史を2時間半かけてじっくり語った。講演では日韓首脳会談や「慰安婦」問題の解決について具体的な言及はなかった。

 

しかしこの集会で配布された「日韓首脳会談に対する挺対協論評」(2015112日)は、日韓首脳会談にたいして手厳しい。

 

「安倍政権のふてぶてしい歴史歪曲と責任回避についてこれという対応さえできなかった朴政府」は、「光復(解放)後70年を待ち続けた日本軍「慰安婦」被害者と国民の前に差し出されたこの結果は恥ずかしく貧相である」、「36か月ぶりに開催されたにもかかわらず、日本軍「慰安婦」問題に対する進展をなすことができなかった韓国政府の無能ぶりと日本政府の厚顔無恥さが嘆かわしい」と日韓首脳会談を全く評価していない。

 

そして、「問題解決の原則は日本軍「慰安婦」被害者の気持ちを込めたアジア連帯会議で共同採択された提言の内容、即ち日本政府の国家的・法的記責任認定と履行でなければならない」、「早期妥結だけでなく正しい解決をなすことを両国政府に強く求める」としている。

 

 

 

  <「慰安婦」問題の解決とは何か、見解の違い?>

 

「アジア連帯会議の提言」に沿った解決を求めながら、2つの集会の結論は相反するかの如き(私にはそう思えた)方向である。米などの圧力で安倍総理が、(アジア女性基金活用で)何らかの補償を行う「決断」をしても、仮に朴政権は受け入れても、韓国挺対協と被害者は拒否するであろう。

 

おそらく和田春樹氏らは安倍総理の訪米後の「変化」に着目し、112日の日韓首脳会談の方向で早期「解決」すればこれをきっかけにして「慰安婦」問題のみならず歴史認識やその他両国に存在する問題解決にも期待できる、これは日韓改善の第1歩とうけとめようとしている。

 

しかし、挺対協は(犯罪人訴追、国会謝罪議決を云々しなくも)、解決は日本政府の法的責任を求める立場を変えていない。日韓首脳会談も評価せず、朴槿恵大統領の安倍総理への対応を厳しく批判している。妥協してまで早期解決を望まない。「慰安婦」の尊厳回復という点では安倍首相の歴史修正主義と妥協しない。

 

 

 

<解決のカギは日本の世論の動向が握る>

 

日韓首脳会談の内容はマスコミで大きく報道された。2つの集会にもマスコミ関係者は多く参加していたしかし、日本の世論に「慰安婦」問題を解決せよと沸き立つような動きはない。一般の人の参加はほとんどなく、この問題に詳しい学者、研究者、運動家に留まる。この事を私は懸念する。

 

和田氏は、安倍首相が日韓首脳会談に最右翼の荻生田官房副長官を同道し、党内・政府内右翼を抑えようとしたと指摘した。安倍首相を被害者の納得ゆく解決策を決断させるものは、日本国民世論だ。

 

女性の尊厳を踏みにじった「慰安婦」問題を解決せよ!との世論をもっと起こしたい。直近で言えば、戦争法制のように、貧困問題や脱原発、あるいは女性差別の民法改正問題、GTBT問題のように一般の人々の関心事にしなくてはならない。

 

「慰安婦」問題の世論は何度も一時的には燃え上っても、権力の策略等で何度も沈静化してしまった。しかし、あきらめない。私達は、米政府の圧力よりも日本の世論で安倍首相を「慰安婦」問題解決に追い込まねばならない。(吉川記)

 

 

 

 

 

 

 

2015年11月12日 (木)

参議院協会・沖縄・石垣島への旅 その③

 

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(入口の、住民が強制退去させられた移動経路)

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(平和祈念館の看板に年輪を感じる)

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(総理大臣あて、個人補償を求める要望書)

戦争の傷跡が生々しい石垣島

 

「米軍の上陸はなく、地上戦はなかったにもかかわらず、何故犠牲者の数がかくも多いのか」、八重山平和記念館の女性の説明員は、私たちにこう切り出した。

 

石垣島の3大悲劇とは①空襲による180人の犠牲、②大津波、③戦争マラリアである。

 

八重山の島々に於いて、戦時中に軍の命令によってマラリア有病地への退去(強制疎開)が発せられた。鳩間島、小浜島、竹富島、黒島、新城島、波照間島の住民はジャングルのある西表島へ、石垣島では森林地帯へつまりマラリア無病地帯から、マラリア有病地帯へと疎開を強制された。「なぜわざわざ蚊の多数生息する地帯へ退避させられるのか」との疑問が住民からも当然あったが強制疎開は行われた。

 

理由は3つあるのだとのことである。

 

 米軍が上陸してくる

 飛行場の建設に伴い住民がスパイにならないように

 住民を避難させて家畜を(兵隊の)食料にしてしまう

 

その結果、八重山地域の戦争マラリア犠牲者は次のとおりである

 

全人口:31,701人,罹患者数:16,884人,死亡者数:3,647

 

マラリアにはキニーネが効く。キニーネはなかったのか?と私たち一行の中の医者が質問した。「キニーネはあったがすべて兵士のために利用されて住民には全く来なかった」との回答であった。

 

軍事機密を守るために、兵隊の食料を確保するために住民たちをわざわざマラリア蚊の生息する地帯に追いやり、マラリアの特効薬は住民には使わせない。戦争遂行のためにこんなにも非情なことが行われたのだ。

 

私は参議院議員時代にこの戦争マラリアに対する個人補償を政府に求める陳情を受けたことを思い出した。県民上げて行われたこの補償要求は結局支払われなかった。政府は戦争マラリア犠牲者の慰霊碑を建てただけ、という説明に私は怒りを新たにした。沖縄はこんな犠牲も払わされていたのだ。

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(石垣島に咲く花)

<八重山諸島の慰安所>

私は、今回の旅行に加えて、1128日から再び沖縄に行くので、書籍で沖縄の「慰安所」について若干調べてみた。「戦争と女性『慰安所マップ』が語るもの 沖縄」によると石垣島に8カ所、西表(いりおもて)島に2か所、小浜島に2か所の計12か所(19928月現在)である。

 

また、大田静男著『八重山の戦争 復刻版』にもいくつかの「慰安所」について素描がのっている。以下紹介する。

 

〇祖納「慰安所」

 

 護郷隊本部近く、現在の西表診療所近くに建てられていた。「慰安婦」は34人で、朝鮮や日本の女性だった。兵隊が使用したサックを児童たちが拾い風船と間違えるなどしたため教師が児童に注意したことがある。

 

〇白浜の「慰安所」

 

 1944(昭和19)年ころ「慰安所」があった。「慰安婦」は10人くらいで朝鮮、台湾、沖縄の方から来ていた。中でも朝鮮人が多かった。美貌の者は憲兵や上官が我が物にした。空襲が始まるまでいたが彼女たちがどうなったかは知らない(「沖縄県史 沖縄戦2 P99

 沖縄本島の尾類(じゅり=娼婦)を連れて来た。炭鉱の納屋を改造して「慰安所」とし軍が彼女らに食料を与えた

 

〇サンニ(山根)の「慰安所」

 

朝鮮や本土、地元の女性達がいた。「慰安所」への用材は海軍が調達。八重山高等女学校の校舎の柱や瓦を使用した。八重山郡民悲願の八重山高等女学校の校舎は1945年完成した。しかし、新築したばかりの校舎は3月、軍事用資材として海軍がロープをかけて倒壊させ、その資材の一部で慰安所や兵舎を建築した)

 

〇その他石垣島海軍警備隊本部近くにも「慰安所」があった

  <沖縄地上戦の悲惨さを余すところなく展示する資料館>

 

 沢山の子どもたちが軍の命令で対馬丸に乗せられて、魚雷敷設の危険極まる海を疎開させられ撃沈されて多くの幼い命が海に消えた。この無謀な計画を強行したのは、(沖縄に駐留する兵士の)食料確保のためと言われている。

 また、八重山諸島では軍が住民をマラリア有病地へ強制的に疎開させたのはやはり(兵士の)食料確保のためだった。日本軍は戦争遂行のためには住民犠牲をかえりみなかった。

 そして、そんなに切羽詰まった情勢にもかかわらず、「慰安所」は次々と設けられた。「慰安婦」がいないと戦争ができないとばかり、島民悲願の女学校校舎まで倒壊させて「慰安所」を建設した。

 日本軍隊にはモラルとか女性の人権という言葉は死語である。また、将来を担う子どもたちの学校まで兵舎にさせられ、未来のことは全く考えない。このうな戦争を遂行し、結果、日本軍は敗北したのだ。

  <本土の博物館・資料館にない迫力>

 今回の旅で見学した博物館や資料館は沖縄戦争の悲惨さと沢山の日本軍の戦争犯罪についてもはっきりと展示している。その点で日本本土の資料館博物館にはない迫力があった。あまりにも悲惨な事態に息をのむことも屡であった。一緒に行った人々(超党派)の口からも戦争は絶対だめだという共通の思いが強く語られた。

  <「慰安婦」問題と、朝鮮人労働者の強制労働の視点を>

 一方、あちこちに掘られている壕は、朝鮮人労働者によるものも多いはずだが、彼らの事についての資料の展示はあまりなかった。もし加害の視点は少なく、戦争被害の展示のみに留まるなら痛切な沖縄地上戦を繰り返さない、という思いを実現するためには不十分である。二度とこの悲劇を繰り返さないために、加害の実態も次世代に伝える努力をする必要がある。

 また、私が事前に調べていった「慰安婦」に関する展示は皆無だった。日本人慰安婦が沖縄には多数いたはずだがその展示にはお目にかからなかった。性暴力被害者の問題についての語りにくさは日本全国共通なのかもしれない。残念だ。沖縄には147か所も「慰安所」があり、島民も身近に「慰安所」と「慰安婦」を見ている。本土にはない経験である。沖縄のNGOが努力して発掘してきた「慰安所」の展示が今後、各資料館でもっと取り上げられることを期待する(吉川春子)

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(石垣島海岸から遥かに八重山諸島を望む)

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(竹冨島、西表島が見えるホテル)

 

 

2015年11月10日 (火)

参議院協会・国内研修旅行・沖縄その2

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(宜野湾市役所屋上から見る普天間飛行場滑走路)

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(参議院協会一行にあいさつする宜野湾市長)

第2日目

<オスプレイ飛び交う宜野湾市>

 

(オスプレイは沖縄のどこからもその姿を確認できた)。屋上から普天間基地視察、市職員から説明受ける。

 

市長は「普天間基地は町のど真ん中にあり4分の1を占める。97000名余の市民、又基地の中に7300人が勤務。人口密度は東京23区より高い。街を基地で分断されて街造りができない、隣り同士が遠く離されて70年経つ。19年前に橋本首相・クリントン米大統領が57年で基地返還を約束の時の喜びは計り知れない。国際大学にヘリ墜落等危険と隣り合わせ。オスプレイが強行配備された。早く普天間基地の返還を」と訴えた。

 

<名護市>

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(車道の脇にずらりと並ぶ辺野古基地反対のテント)

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サミット会場となった万国津梁館で食事の後辺野古の基地建設反対のテント、横断幕の立ち並ぶ前をバスで通過。また、国内研修旅行で慣例の県知事との懇談は今回はなし。申し込んだが多忙を理由に断られたとの事。政府と極度の緊張状態にある沖縄県知事が超党派の参議院議員OBと懇談する余裕はいろんな意味で、ない。ということであろう。

 

〇ガイドの説明から、米軍基地の島を実感

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(部瀬名岬の波に削られた岩)

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(サミットの会場となった万梁館の庭で・吉川他、元参議院議員)

 

19794月サッカー場建設予定地から枯れ葉剤入りのドラム缶が出てきて、サッカー場には不適切となった

 

高速道路側の米軍住宅は広々と芝生が広がる。芝生は民間業者が定期的に刈り取る。米軍住宅のクーラーは留守でもつけっ放し、帰宅した時に熱くないようにと。嘉手納には60億円かけた米軍子弟用の中学校が建設されて(日本の学校の)先生たちは皆怒っている。

 

以上全ての費用は多くは思いやり予算で日本の負担。

 

(わずかに、日本の学校給食のみはタダ)。

 

 

 

嘉手納の滑走路は1800Mが1本だったが今は2000Mの滑走路4本に。コンクリートも4Mの厚さ。83%が米軍基地で明けても暮れても騒音。

 

普天間にある主な軍用機

 

 15イーグル戦闘機―15機

 

   空中早期警戒管制機(飛行しながら管制可能)―2機

 

   KC135空中給油機

 

   P3Cオライオン哨戒機

 

   FA18ホーネット

 

   F16ファイティングフアルコン

 

…これ以上は私の知らない機種で筆記が追い付かなかった…

 

 <旧海軍司令部壕>

 

太平洋戦争において最後の戦場となった沖縄戦で、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所。

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(地下壕は人間一人がやっと通れる幅)

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(最後はここで立錐の余地のないほどの兵士で満員状態になった)

 

 

旧海軍司令部壕資料室をみてから壕の内部に入った。ここは日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で1945613日、司令官大田少将はじめ多くの将兵や軍に招集された住民がこの地で最期を遂げた。太田司令官は66日(在京の)海軍次官に県知事に代わって県民の実情を次のように打電している。

 

「…陸海軍が沖縄にやってきて以来県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、…ついに報われることなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。沖縄の実情は言葉では形容しようもありません。1本の木、1本の草さえが全て焼けてしまい、食べ物も6月いっぱいを支えるだけ…です。沖縄県民はこのようにたたかいました。県民に対して後世特別のご配慮をしてくださいますように」。

沖縄守備軍の牛島司令官最後の命令からは感じ取れない県民への思いが込められていることが「仁愛之碑」として海軍公園に残されている所以か。

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「県民に対して後世特別ご配慮を」の文字がバックに見える

 

2015年11月 8日 (日)

沖縄の戦争と人民の犠牲を知る、参議院協会国内研修旅行

 

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(対馬丸記念館の看板)   (ひめゆり平和祈念資料館・右横の壕に建つ記念碑)

    戦後70年の今年、改めてアジア太平洋戦争について学ぶ 

                  2015年11月4日(水)~11月7日(土)

参議院協会は一般社団法人で参議院議員OBの会。正会員は168人、特別会員約160人(現役の参議院議員)で組織する。会の目的は参議院議員を引退した後も日本国憲法の議会制民主主義、二院制を学び深める活動を続ける。そのため年9回の月例会、4回の講師を招いて研究会と機関誌の4回発行、国内研修旅行(日帰りと1泊)と海外研修旅行を行っている。

 

 アジア太平洋戦争終結の今年、9月の研究会は原爆投下で今日までに及ぶ放射能の被害の実態について日赤長崎原爆病院名誉委員長と、田浦直元参議院議員(被爆者)の講演を聞いた。11月の宿泊研究の地を沖縄戦集結70周年である、沖縄に決定して沖縄地上戦の実態について学ぶこととした。

1日目

今回の旅行は海外旅行に代わるもので総勢20名(7組が夫人同伴)、その内10名が850分羽田発のJAL907便で那覇へ飛んだ。

折しも修学旅行の高校生が数百人乗り合わせ満席。機体が滑走路を離れ窓の外の景色がななめになる瞬間や、揺れる時は歓声とも悲鳴ともつかないどよめきが起きる。那覇空港で他の飛行場から到着した参加者と合流し、1345分、研修先に向かう。観光バスは沖東交通グループ、運転手は米須、ガイドは伊波さんであった。

 

<対馬丸記念館>2004(平成16)年8月オープン

 戦争中はもちろん、30年間も語ることができなかったこの事件。資料収集の困難を乗り越えて疎開船の悲劇を展示し後世に伝える。

 1944年老、幼、婦女子は県外に疎開するように指示が出され、対馬丸は学童集団疎開の子どもたちを乗せて8月21日那覇港を出港した。

 翌22日夜、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて船は沈没した。生存者は疎開者177名を含む280名(「対馬記念館」リーフより)でしかなく、1788名のうち約8割の人々が海底へと消えた。(「対馬丸記念館」リーフより)。軍当局によって、この事件については「決して語ってはいけない」と箝口令が敷かれ、国民、県民にこの悲劇は知られることがほとんどなかった。

 敗戦後も対馬丸の悲劇は語られることなかった

「この悲劇を単なる歴史の1ページとして水に流すことはできない。立派な会館を建設して戦争の悲惨さを語り、平和な社会つくりに貢献する学びの場にしたい」(財団法人対馬丸記念会・会長 高良政勝)として、2003年5月17日、「対馬丸記念館」計画報告集会を開き準備をスタートさせた。2001(平成13)年、全額国庫補助で建設が決まる。

 1954年5.5  対馬丸犠牲者慰霊碑「小桜の塔建立

 1966年10.17 学童犠牲者が靖国神社に合祀された

 1975年8.22 初めて撃沈現場における海上慰霊祭を挙行

 2004年8.22 対馬丸記念館がオープン

                     (年表は大城立裕著「対馬丸」等)

 *沖縄に大量の日本軍が駐留し、制海権、制空権を米国に握られて食糧補給もままならず、県民の他県への疎開が推進されていた。

「同時に学童疎開に関しては資質優秀な児童を安全地帯に移しておけば,たとえ沖縄県民全体が玉砕することになっても子孫を後世に残すことができる。従って優秀な教師・児童を今疎開させることは将来に対処する重要な意味を有するからと他の一般婦女子よりも優先すべきであるとの理念により推奨に熱意をもってあたった」(大城立裕著「対馬丸」)

 様々な悲劇を生んだ学童疎開であるが、「対馬丸」事件はその極みである。一説によると小さな島沖縄に日本軍が大量に投入されて食糧難をきたし、飢餓の島ともいわれる中、食糧確保のための人減らし策が沖縄の疎開であったとの指摘がある。

 

<ひめゆり平和祈念資料館>1989.6.23開館

   県内きっての女子エリート校の生徒を動員した悲劇

 米軍の上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第1高等女学校生徒 222人、教師18人は陸軍病院に配属された。

 米軍は4月1日、沖縄本島中部に上陸。日本軍死傷者が激増し女学生たちは寝る間もなく介護に当たる。5月下旬米軍が迫る中、沖縄最南端に日本軍と共に退却。

 6月18日「解散命令」が出される。か弱い女生徒たちは「解散命令」に絶望し米軍が包囲する戦場を逃げまどった。陸軍病院に動員された生徒・教師240人中136人が死亡。またその他でも91人が死亡した。

 

 小学4年生の時私は学校から引率されていった街の映画館で「ひめゆりの塔」という映画を見て、泣きじゃくって映画館を出てきた。先生に慰められたが涙が止まらなかった。

 その後国会議員になって以降何度もこの地を訪れ、ひめゆりの生き残りの女性の方からも直接話を聞いたが今回は直接話を聞けなかった。高齢化で語り部を続けられなくなっているが、この事実はいろんな形で永久に語りつがねばならない。

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(沖縄を代表するハイビスカスの花)

 

 

<沖縄平和祈祈念資料館>1975年設立

 沖縄本島の最南端、日本軍終焉の地、摩文仁の海軍壕公園、旧海軍司令部壕の傍らにある「沖縄平和祈念資料館」は、なかなか見ごたえのある資料館であった。

 朝鮮半島の植民地支配の展示、日本軍による住民への虐待ともとれる迫害も展示されている。沖縄のあゆみ(年表)には女性のレイプ事件が再三登場する.

 

 

 設立理念~沖縄の歴史的教訓を次世代に伝える…

 「(略)沖縄戦では軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っていることにありその数は10数万人に及んだ。この戦争体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が米軍の軍事支配の重圧に抗しつつ培ってきた沖縄の心の原点でああります。

“沖縄のこころ”とは人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。

 私たちは戦争の犠牲になった多くの人々の霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次世代に伝え、全世界の人々に私たちの心を訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するためにここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立します」

 この歴史博物館は政府の補助金はゼロ、沖縄県単事業として設立された。

 

 沖縄戦や戦争平和を考える場として、「悲惨な沖縄戦の実相を直感的に感じ取ってもらえる構成になっており、学校では味わえない学習ができる場として」(「資料館学習の手引き」)、いろんな工夫がされている

 次世代に戦争の悲惨さを伝えるための「子どもプロセス展示室」もあり、ここを活用した小学校教師の教育実践も行われている」(「資料館学習の手引き」P46)

学校教育での平和教育はもちろん重要であるが、相まって社会教育の場を利用した、教師たちの取り組みの必要を感じた。そうした場を提供する県の施設は沖縄県ならでは、という気がした

 悲惨な戦争を2度と起こしてはならないという、過酷な地上戦を体験した沖縄県民のメーセージを強く感じる場となってい

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「平和祈念資料館」の展示・経済恐慌で娘の身売り相談の看板と子ども 

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「平和祈念資料館」で吉川 (2015.11.4)

 

2015年11月 3日 (火)

子どもの歴史認識をゆがめる歴史教科書に警鐘

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講演する俵義文氏

 

2015年10月25日13時より、渋谷区女性センターアイリスで、講師に俵義文・子どもと教科書全国ネット21事務局長と、神奈川県の中学教師を迎えて講演会が行われました。

 テーマⅠは「歴史の事実をゆがめる教科書と「慰安婦」問題、テーマⅡは「作る会系教科書による歴史教育の実践です。

 横浜市で子どもたちが使っている育鵬社の教科書で歴史を教えるとどうなるのか、ゼミ参加者はS先生の上手な授業で育鵬社の教科書の内容がよくわかりました。しかし、その内容は驚くべきものです。一部を紹介します

 日露戦争については、「日本のロシアに対する勝利がどれほどアジアの諸国民を喜ばせたかを我々は見た。日本がロシアに勝った結果アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くことになった」とされています。

また、朝鮮に対する植民地支配については

 「日本は積極的に学校を建て、教育の普及に努めた」、「同化政策として日本語教育が行われた」、「日本の技術が導入されたことで、農業生産量が増えた」、「大規模な公共事業を興し社会の基盤が整った」等と記述されています。この内容は歴史の事実とは異なりとりわけ韓国の人々は違和感、抗議の気持ちを持つのではないかと私は思います。

 

 また、俵氏は文科省の進める道徳を教科にする方向について危険性を指摘しました。道徳教科には学問がない事、他の教科は学問に裏打ちされているという決定的違いがあると指摘しました。国家の価値観をストレートに子どもに教え込む危険な方向であること、戦前の教育では「天皇は神である」、「日本は良い国である」などと子どもに教えた道徳教育が戦争へと国民を駆り立てる原因になりました。文科省はその反省もなく、いまや全ての教科の道徳教育化を目指していると指摘されました。第1次安倍内閣は、昭和22年に制定された「憲法擁護は教育に力にある」との理念を持つ教育基本法を既に改悪しています。

 自民党・公明党の与党は9月には戦争法を強行可決し、戦争ができる国へと歩を進めようとしています。そのために政府は学校教育を全面的に利用しようと教育改革を進めています。

 これに対して名古屋では育鵬社の教科書採択をさせなかったことを初め、全国で教師・父母・国民の闘いが行われている例を具体的に紹介しました。

 

 お二人の講演の概要は次号のニュースに掲載します。

2015年11月 1日 (日)

異論を抑え込み、あるいは忖度し規制する動きは危険ーテレビ番組が指摘

     風をよむ

 

 

TBSのサンデーモーニング“風を読む”のコーナーで、姜・東大名誉教授は「カウンターカルチャー(反対論を堂々と展開できる文化)のある米社会は強い」と発言し日本社会の現状を憂いた。

 

最近日本は違った意見を受け入れず、権力的に抑え込む風潮が強くなってきている。権力(国&地方政府)の意向を忖度し、住民の異論を封殺する動きが次々起きている。同番組では次の例が挙げられた。

 自民党の部会で国会議員が、辺野古への基地移転の政府の方針に批判的な報道をする沖縄の新聞2紙を潰せと、発言(吉川・これは権力むき出しの弾圧の脅し)

 憲法・安保法制等について学者・市民の集会を「政治的集会だから」といって会場の使用を拒否した立教大学の例。法政大学に場所を変更して集会開く(小林節教授が厳しく批判)

 文部科学省への檄を掲げたパネルの撤去を主催者が要求(作成の本人が拒否してパネルは展示された)

 安保法制反対の国会デモで演説し、参議院の公聴会でも発言したシールズのリーダーに殺人予告と家族へも危害を加えるとの脅迫状届く(本人が被害届を警察に提出)

 

<各コメンテーターの発言>

 

〇今でさえこんな状態なら、もし不幸にして何か事(テロの発生とか)が起きた時に、「安保法制に問題あった」等と発言しようものなら袋叩きにあってしまう恐れさえある。(今日の抑制・自粛の傾向は)マスメディアの責任が大きい(青木理氏)

 

〇我が国はかつてメディアの自粛から戦争が始まり国民が戦争に加担し、戦争反対が言えなくなった歴史がある。(異論を押さえつける)小さな動きを見逃してはならない。(政権の意向を)忖度する人々がおり、自民党に異論を許さない雰囲気がある。(岸井キャスター)

 

<さかのぼれば「慰安婦」問題の封殺からおかしな方向に…>

 

すでに何年も前から、「慰安婦」問題の講演やパネル展はあちこちで極右及び保守勢力の妨害にあい、自治体も同調してきた。「慰安婦」問題の運動を行ってきた私達はこの事を強く感じ、戦っている。

 

例えば「慰安婦」問題を知らせるパネル展を市役所・公民館等公共の施設では開催はできない。「政治的偏向」を理由として使用を拒否されるからである。

 

講演のテーマが「慰安婦」問題だと分かると会場の使用許可は取り消され、自治体(市・町)の後援も取り消される。

私自身いくつかの公共施設を使った、あるいは行政の後援の付いた勉強会に行ったが、「慰安婦」問題の勉強会を行う場合、主催者の気の使いようは大変なものだった。

 

 <しかし、もうその時はおそすぎた・・・とならないために>

 

私はナチスに弾圧された、ドイツの牧師・ニーメラーの詩を思い出した。

 

共産党員が迫害された

私は共産党員ではないからじっとしていた

社会党員が弾圧された

私は党員ではないからやはり沈黙していた。

学校が、図書館が、組合が弾圧された。

やはり私には直接な関係がなかった。

教会が迫害された。

私は牧師だから立ち上がった。

しかし、その時はもう遅すぎた。

 

*『過去を心に刻み 加害に向き合うー「慰安婦」の視点で巡るポーランド・ドイツの10日間 報告集』(「『慰安婦』問題とジェンダー平等委員会 発行)具島順子(マルチン・ニーメラーの回想録より P27

 

言論・表現の自由について、思えばこの数年、十数年で日本社会が大きく変化したと感じる。

最近1994年製作のNHK ETV特集『従軍慰安婦』を再度見た。看板アナウンサーを使って「慰安婦」問題に切り込む姿勢を示した番組である。こんないい番組をNHKは作っていたのかと感激した。今のNHKには片鱗すらない。

 

慰安婦」問題への右翼の飛び跳ねた攻撃を、韓国や中国の女性たちの問題で日本人には関係ない、と軽視する傾向はなかったか?

 

「慰安婦」問題の偏向、歴史認識否定が、今や友好関係を築くべき日韓・日中を険悪な関係にしてしまった。しかも戦争法案という恐ろしい立法が現実のものとなってしまった、と言えないだろうか。

 

 

 

私は「慰安婦」問題への態度は彼、彼女の、女性の人権問題の理解度のメルクマールと思ってきた。

今やこの問題の軽視が、異論の封殺、知る権利への妨害、しいては憲法・民主主義の否定につながりかねない政治の危険性をはらんでいると思うのは私だけだろうか(吉川春子)

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