
写真左 写真右植村・名誉棄損裁判提訴報告集会
1991年夏、「慰安婦」被害者として勇気をもって
名乗り出たキムハクソンさん。元朝日新聞記者
植村氏がインタビュー記事を最初に日本に報じ
た事で、今日不当なバッシングを受けている。
(1994年埼玉教育会館で証言するキムさん)
捏造記者のレッテルが「言論テロ」を誘発
1月9日(金)「元朝日新聞記者 植村隆氏名誉棄損訴訟提起報告集会―「慰安婦」問題は捏造ではない」が参議院会館の講堂で行われた。300人の会場はほぼ満員だった。提訴した相手は、同記者が24年前に書いた韓国の「慰安婦」に関する記事について「週刊文春」(「文春」と略)の記者がねつ造と決めつけた。同誌の発行元の文藝春秋社と、植村氏に対し「捏造記者」とレッテル貼りをし「文藝春秋」誌上等でフレームアップし攻撃を強めた東京基督教大学の西岡力氏。
植村記者は第2の人生として朝日新聞社を辞めて、神戸松蔭女子学院大へ転職が決まっていたが文春の中傷記事が原因で同大学に抗議の電話やメールが殺到し大学から事実上の就任辞退要求があり、退職を余儀なくされた。文春記者は「さまざまな研究者やメディアによって重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されている。貴大学は採用に当たりこのような事情を考慮したのか」との質問状を松蔭に送りつけていたことも判明した。
朝日を退職した植村氏は2012年から続けている北星学園大学非常勤講師として、週1回二コマの授業のみとなったが、この大学にも、5月の連休明けから抗議の電話・メールそして脅迫状まで多数寄せられ「この学校から出ていけ、日本から出ていけ、売国奴」との葉書が本人に送られてきた。17歳の娘にまで「自殺に追い込むしかない」などと書き込まれた。件の文春記者が北星学園にも取材し再び同氏を中傷する記事を載せた。こうした記事が言論テロである大学への脅迫を誘発した、と植村氏は訴えた。
「負けるな!北星学園の会」発足させた市民
10月31日北星大学学長は「来年度の契約更新しない」方向を明らかにした。これに対してまず弁護士、大学教授、一般市民らが立ち上がり10月「負けるな!北星学園の会」が発足し、札幌市内でシンポジューム「今、民主主義が危ない、守ろう、北星学園」を開いた。ここで北大教授らが「言論の自由や大学の自治に対する卑劣な攻撃で市民の力で抑止すべきだ」と訴えた。こうした中、北星学園学長は12月に来年度も植村氏の雇用を継続するとの勇気ある決定を下した。
弁護士、大学教授、メディア関係者、国会議員も激励
この日の参議院会館講堂の集会では、植村隆氏の報告と決意表明に続き、田島康彦上智大学教授が報告し続いて多くの人が激励のリレートークを行った。有田、福島両参議院議員、上原公子元国立市長、チエ・ソンエ(ピアニスト)、伊田浩之週刊金曜日副編集長、北海道新聞の女性記者、小森陽一東大教授、出版労連、朝日新聞労組など労組代表、元読売記者、ジャーナリストの青木理氏、山口二郎氏、池田理恵子WAM館長、梁澄子さん等々。日本の言論の自由の危機に警鐘を鳴らし、これに対して立ち上がろうとの訴えと植村氏への激励が続いた。
本質は「慰安婦」問題を世界に知らしめたキムハクソンさんへの攻撃
植村氏への攻撃は表現の自由への攻撃であるという発言が相次いだ。そのとおりだが、私は一連の権力と右翼の攻撃の的はキムハクソンさんに当てられているのではないかと思う。それはキムさんが日本の戦争犯罪者、権力が忘れ去りたい日本の恥部、「慰安婦」問題について、被害者としてカミングアウトし、動かしがたい事実を世界に向かって発信したことにある。その結果世界中に日本は性奴隷の国との事実が知れ渡ってしまったからであろう。
1994年に埼玉AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)がキムハクスンさんを日本に招き、彼女が埼玉教育会館で自らの苦しい体験を証言した。そのDVDの記録がある。
彼女の父親は日本の官憲の拷問で彼女が生後100日にも経たない時に死んだ。いつか自分も日本に拉致されると思い北京に逃げたがそこで捕まった。それから彼女の苦しい人生が始まる。夫も我が子も亡くなり自分が「慰安婦」だったことを明らかにしても誰にも迷惑をかけない天涯孤独の身になって名乗りを上げた。
これに触発されて多くの「慰安婦」達も名乗り出た。「慰安婦」問題が国際的に広まるきっかけを作った勇気ある女性がキムハクスンなのだ。(キムハクスンさんの証言要旨を最後に添付する)
よもや敗戦後46年も経って、被害者が名乗り出ようとは誰も予想しなかった。「慰安婦」問題は被害者が名乗り出なければ永遠のかなたに葬り去られただろう。その証拠に日本人の「慰安婦」被害者が名乗り出ない事で、日本人「慰安婦」はいなかったと多くの国民は思い込んでいる。歴史修正主義者にとってカミングアウトはあってはならない事なのだ。彼らは日本人「慰安婦」のカミングアウトを恐れているだろう。
なぜ、植村記者が右翼の標的になったのか
朝日新聞はかなり「慰安婦」問題を報道してきた。正直なところ朝日新聞の社説も、報道もいかがか、と思う内容のものも少なくなかったが、他のマスメディアが及び腰の中で「先駆的」に報道したことも事実だ。その事への憎しみが安倍総理のメディアと一体になった「朝日バッシング」の本質である。中でも植村記者(当時)がキムハクスンさんのカミングアウト前に匿名のインタビューを先駆的に報道した。ピューリッツアー賞が日本にあれば対象になるかもしれない報道だったと、(素人の)私は思うのだが…。
そして、この日の集会は後世の人々に2015.1.9 は、「朝日バッシング」をスタートとし日本の民主主義が危機に瀕している情勢を、転換するきっかけになったと、回顧される意義あるものとなったのではないか。
(吉川 記)
<添付>
金学順(キム・ハクスン)さんの証言
――1994年10月1日 於・埼玉教育会館 埼玉AALA他が招待
<生い立ち>
私自身あの忌まわしい過去について触れたくありませんのでこの問題(裁判)がどうなっているかについて話したい。今韓国政府は私達に一時金と月々の生活費を支給してくれています。贅沢をしなければ生活してゆけます。私達は金額の問題ではなく日本政府の誠意がほしいのです。(主催者から話しにくいだろうが当時のお話をしてほしいと頼まれて、かいつまんで話しましょうと、話した)
この話をすると私自身とてもたまらなくなるしみじめになるので、できるだけ避けてきました。
<父は独立運動に参加>
父は抗日運動に参加。1919年国内(朝鮮)にいては捕まるので満州に行った。私はそこで1923年に生まれた。生まれて100日も経たないうちに父は死亡。日本の警察に、仲間がどこにいるか吐けと言われ拷問を受け死亡した。母は大変苦労した。コメは全部日本に供出させられ食べるものもない生活だった。
<日本人将校に捕まる>
16歳の時韓国から日本の挺身隊に若い女性がたくさん連れ去られた。自分もそれを避けるために満州から逃げようとしたが結果として日本将校に北京で捕まった。…どんなに抵抗しても男の力にはかなわない。将校によってトラックに押し上げられてゆく先も分からず連れて行かれた。
姉さんと二人で鍵のかかっている部屋に閉じ込められた。将校が来て「おまえはこっちに来い」とつれて行き「おれの言う事を聞けばおまえは楽になるのだ」と、お姉さんと引き離した。
そこはカーテンで間仕切りがしてあり、将校は強姦しようとした。「脱げ」と言われ、「ここではこんなものは来ていられないんだ」と言われたが母からもらった黄色いセーターを着たまま抵抗した。できるだけの抵抗をした。将校は軍刀を引き抜き脅かした。肩に二つの星がついていたのでたぶん中尉だろう。その後の事については、これ以上話すことはできません…。
将校はそういう事をした後部屋を出てゆきながら「明日の朝になればここがどういうところかわかるだろう」と捨て台詞を吐いた。
外に出て見るとお姉さん達がいた。「逃げようにも逃げられないし、しょうがないから殺されないように我慢するしかないね」といった。お姉さんもその夜、私と同じことをされたことを知った。それ以後は最初の夜にあった事が繰り返された。
これが「慰安婦」と呼ばれた者たちの受けた仕打ちです。そして「討伐」に行った日など、言葉にできないほどの苦しみを受けた。(「討伐」から)帰ってきた軍人たちはそれこそ数をなし、列を作ってという、状態だった。逃げ出そうとしたが夜道を連れてこられたので道がわからなかった。このような生活を続けて行くなら死んだ方がいい。後ろから銃で撃たれて死んでもいいと思った。
考えて見て下さい。このような生活が人間として我慢できるでしょうか。私は犬畜生にも劣る生活を強いられました。中国の中を転々とした。
<韓国人の男性と逃げる>
私は彼(朝鮮の人)に、「どうぞ連れて逃げて下さい。ここには居たくない。にげる途中で私が邪魔になったら捨てていい。どうしてもここからだけは逃げたいので連れて行ってほしい。あなたは私と同じ民族でしょう」と頼んだ。中国服を着て各地を逃げ回り、上海に落ち着き1945年8月15日の朝鮮解放の日をむかえた。抗日運動をしていた光復軍(軍2000人、民間人2000人)と一緒に韓国に帰った。
自分を連れて逃げた男性と結婚しソウルに住んだが朝鮮戦争が始まり逃げまどう日々だった。
<その後の人生>
自分の人生は日中戦争にはじまり様々な戦争を体験したが「戦争をやってはいけないということ」を申し上げたい。結婚した男性は当時40歳、自分は17歳だったので男性が先に死んだ。男の子も10歳で海で溺れて死んだ。10歳だった。息子が死んだ後も「慰安婦」だった事が知られるのが嫌で人目につかないような暮らし方をしてきた。経済大国の日本が、あまり豊かでない国民から寄付を集めて補償に充てるという構想(村山内閣の「アジア女性基金」の事・吉川注)は理解に苦しむ。最後に申し上げたいことは「戦争は二度としないでください」お願いします。
(本文は、「戦後補償問題を考える集い報告集」(1994年「従軍慰安婦」問題署名推進委員会、埼玉アジアアフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会発行)のパンフレットから、吉川が要約した)
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