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2014年3月

2014年3月22日 (土)

オランダ人「慰安婦」の相談役、ハーマーさんから頼まれた事

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(写真左・著者のハーマーさんと2002年アムステルダムにて。写真右・「折られた花 日本軍「慰安婦」とされたオランダ女性たちの声」ジャケット マルゲリート・ハーマー著 村岡崇光・訳 

 

私の事を秘密にしておく必要はない。日本人が私にしでかしたことを世界中の人が知ってもかまわない

 

昨年11月、マルゲリート・ハーマー著『折られた花 日本軍「慰安婦」とされたオランダ人女性たちの声』(新教出版社2013.11.151版)が出版された。ハーマーさんは1990年代の終わりにPICN(財団・アジア女性基金オランダ事業実施委員会)を立ち上げ、責任者として日本政府資金による「医療・福祉支援事業」を実施、79人の「慰安婦」被害者が受け入れました。(ジャン・ラフ・オハーンさんとエレン・ヴァン・デア・プルーフさんは日本の公的補償をもとめて受け取りを拒否した)。また、ハーマーさんは日本軍による強制売春のオランダ人被害者の極秘相談役を兼務した。

 

ハーマーさんはこの本を書いた動機をこう語る。「被害者の一人からははっきりとこう頼まれた。自分の死後、その過去を公にしてもらいたい。日本軍強制売春が自分の人生をどれほどめちゃくちゃにしたかを世界中の人に読んで知ってもらいたい、と。こうした女性たちがまだ若かった頃どんな仕打ちを受けたかが明らかになり特に若い人にそのことを知ってもらいたい。そのことが彼女の願いだった…私は彼女の願いを叶えるためにこの本を出すことにした」

 

「たとえ仮名を使ってでも彼女たちの過去の体験を書き留めねばそれは私と共に墓に葬られることになるのだ」と。 

 

 

ハマーさんから、オランダ女性の強制連行の報告を受けていた日本政府

 

今回の著書はオランダ人8人の女性たちの「慰安婦」としての壮絶な体験と、戦後の彼女たちの辿った人生について書かれている。

 

「日本軍上陸後に抑留所に入れられて、そこから力ずくでスマランの「慰安所」に連れて行かれた」、

 

「抑留所から日本兵用の売春宿に連行され毎晩日本兵に犯された」「町中で突然憲兵2人に車に押し込まれフロレス島の「慰安所」に」、

 

「日本兵数人に車に押し込まれ誘拐され、ある建物の部屋に押し込まれ、服を全部脱がされ十字の板に縛り付けられて兵士たちは順番の彼女を犯した」

 

オランダは日本が敗戦後、インドネシア独立の間、BC級戦犯として強制売春の罪を問い日本の将校を死刑、懲役刑に処している(1947年判決)

 

 

ハーマーさんはアジア女性基金の事業実施のオランダの責任者であり、「医療支援事業」受け入れのためオランダ人女性の強制売春事実は報告しており日本は熟知したはずで、

 

安倍総理、日本政府は先刻承知している。「狭義の強制連行ではない」とか、「証拠の公文書は発見されていない」等とよくも言えたものだ。 

 

ハーマーさんの両親は日本を激しく憎んだ

 

ハーマーさんは1941年インドネシアのスラバヤに生まれ、2歳で強制収容所に入れられ4歳の時戦争が終わり解放された。「両親から日本に対する深い憎しみを教えられた。彼らは日本人に関係あるものや日本で製造されたものは一切買おうとしなかった。彼女はPICNの仕事で日本に行かなければならなかったとき躊躇した。「第2次世界大戦中に私の両親や私自身を含めた多くの同胞をひどく傷みつけた人々が、日本にはまだ生きているはずだった。日本へ行くと聞いて母親は「いったい何を始めようというの?日本人はね、信用できないのよ」と。

 

それでも彼女は日本に来た。主たる目的の他に、日本軍「慰安婦」だったリアの、2人の息子の捜索があった。「外務省上層部の職員たちに伝え、できる範囲で捜索支援もとめることができる」「彼らはできる限りの助力を約束してくれた」。「アジア女性基金」理事にも行方不明のリアの二人の子たちの話を詳しく伝えた日本赤十字社による捜査も行われたが、「私たちが切望した結果には至らなかった」 

 

日本人将校が連れ去った二人の子どもの捜索を依頼されて

 

2002年9月、私は参議院憲法調査会委員派遣のヨーロッパ調査終了後にパリで他の議員と別れて一人でオランダに行き(アムステルダムで次男と待ち合わせた)、ハマーさんに会った。対日同義請求在団の橋渡しでホテルのレストランで昼食を共にした。彼女は夫君と旧婚旅行中だったが日程を繰り上げてパリから戻ってきてくれた。このおとなしく、やさしい、美しい人が、「アジア女性基金」の「医療・福祉支援事業」をオランダで実施するために奮闘した方なのか、と私は思った。そして、彼女の方にも私に用事があったことを知った。

 

 私はハーマーさんにリアの連れ去られた二人の息子を探してほしいと依頼された。このことは自分の著書にも既に書いたが(『翔びたて女性たち―美しい性のレボリューション』200311P90)、今回の『折られた花』の出版で当時は伏せていたこともここで記せるようになった。

 

 リアはバタビア航空隊兵営で「慰安婦」にさせられ、妊娠、出産したが直後に目の前で我が子は殺害されたという過酷な体験を13歳の時に!している。その後将校(吉田と名乗った)「専用」となり15歳と16歳で吉田の子を2人産んだ。日本敗戦で吉田は検挙されリアは自宅に戻り、子を連れて再婚した。突然、吉田が現れリアを騙して2人の子を日本に連れて帰ってしまった(「折られた花」より)。この子ども達をハーマーさんはずーっと探し続けている。

 

美智子皇后にも、オランダのマルグリート王女にも依頼

 

私に会った時ハーマーさんは次のように言った「美智子皇后にもお願いして探していただいた。でもわからず皇后からは『ごめんなさい』ととても親切なお手紙が来た。吉川春子さんにぜひ探してほしい」と。美智子皇后に探し出せなかった人物を私(参議院議員ではあったが)が探し出せるだろうか。年齢はおそらく60歳近くになっているのではと思ったが真剣に頼まれともかく引き受けた。

 

帰国して私は厚生省などの役所に依頼して探してもらった。数か月後2人は東京都下の孤児院にいたことまではわかったが、そこを出てからは行方をつかめなかった。『折られた花』には美智子妃とのやり取りや、四方八方手を尽くして2人を探し出す努力についてハマーさんは記している。リアという女性の過酷な運命に同情し、そうさせたものへの憤りが伝わって来る。

 

ハーマーさんには私のつたない英語で探せなかったことのお詫びの手紙を出した。自らのふめいを恥じるばかりである。

 

私はオランダ訪問の縁で、オランダの在日大使館(大使)から何回か招待を受けた。ある秋の事、対日同義請求在団の方々が来日されレセプションがあった。大使は「みなさんようこそ来日された。皆さんにとっては訪問したくもない国かもしれないが、ここにも几帳面に暮らしている国民がいる。日本の秋を楽しんでください」とあいさつされた。オランダの人々にとって日本は来たくもない国なのだ…と私は思い知った。

 

「私はもはや日本人を憎んではいないという事ができます。それは私にとっても喜ばしい事です」(『オーラツヒストリー アジア女性基金』財団法人平和のためのアジア女性国民基金編2007.3)というハーマーさんの言葉が救いだ。(終わり)写真・やっと咲いた クリスマスローズ)

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2014年3月15日 (土)

共産党の日本軍「慰安婦」問題に関する「慰安婦」政策発表と,志位委員長のQ&A

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(名古屋市・徳川庭園のボタン2014.3.1)   (庭の梅2014.3.11 )

 

 

2014314日、日本共産党の参議院会館特別会議室で「歴史の偽造は許されない―『河野談話』と日本軍慰安婦問題の真実」と題して日本共産党・志位委員長の記者会見が行われました。外国通信社を含むメディア関係者、「慰安婦」問題のNGOや研究者、法律家等多数が出席しました。

 

 

<主な内容>A4版で17ページ

 

○はじめに

 

○「河野談話が認めた事実、それへの攻撃の特徴は何か

 

○「河野談話」に至る経過を無視した「談話」攻撃

 

○日本司法による事実認定

            ―「河野談話」の真実性は歴史によって検証された

 

○「軍や官憲による強制連行を直接示す記述はなかった」

 

とする政府答弁書の撤回を

 

○歴史に正面から向き合い、誠実かつ真摯に誤りを認め、

 

未来への教訓とする態度を

 

 

 

<志位委員長と参加者のQ&A(要旨・文責は吉川春子)

 

質問

 

 今日(314日)の参議院予算委員会で安倍総理は「河野談話を見直さないと答弁した。菅官房長官は「河野談話」の検証委員会を作ると言っている。矛盾するのではないか

 

 

 「見直しはしない」としつつ検証することは矛盾する。見直さないなら検証する必要はない

 

質問

 

 「慰安婦」に民間業者が高い賃金を払ったり将兵とピクニックに行ったり帰国もできたという資料がある。日本軍の性奴隷とは極端なイメージではないか

 

 

日本軍「慰安婦」はまぎれもなく性奴隷であった。居住地、外出の自由はなく廃業の自由も相手を選ぶ自由もなかった。軍直営もあり民間利用規則もあるが軍の統制支配下でやられ、国際社会で使われているまさに性奴隷だった。

 

(対価が)支払われた場合も軍票は無価値だった。(裁判所で強制の事実認定された)35人の中で金銭受けた人はいなかった。

 

質問

 

自分は「慰安婦」裁判支援をしていた。志位委員長が裁判所の事実認定を言ってくれてうれしい。政治の中で言っていただいたと。ただ共産党を支持する人も侵略戦争を批判するが「慰安婦」を認めたくないという人がいる。記事を読むと気持ち悪くなるという人もいる。

 

 

あなたの裁判の支援活動に心から敬意を払う。「慰安婦」問題で「ほこりが傷つく」という(人がいる)が、都合の悪い歴史を認めるのが本当の勇気だ。「慰安婦」問題は国民の間でまだよく知られていない。今日の政策で「日本軍慰安婦」問題の全体像を示したわけではない。被害国は韓国だけでなく、北朝鮮、中国、アジア…。今後も党の責任者としてこの問題をやってゆきたい

 

質問

 

 一部メディアによって報道された(「河野談話」の根拠となった)16人の「慰安婦」の証言の検証を秘密裏にやると政府は言っている。公表されない文書がなぜ一部のマスコミに漏れたのか内閣に質すか

 

 

政府は一部メディアの入手した「(元「慰安婦」16人からの聞き取り)文書」を真正なものと認めていない。真偽を明らかにしない文書を根拠に政府に反論はできない(しない)。相手を特定できない。

 

質問

 

 「河野談話」で「歴史の真実を回避することなく、歴史の教訓として直視して行きたい…」と決意を表明しているがこれを国民共通認識にする努力が不十分だったと思っている。高校にはまだ載っているが中学歴史教科書には「慰安婦記述が全部削除されてしまった。

 

 

 2006年の「教育基本法」の改悪も悪い役割を果たしている。教科書への「慰安婦」問題掲載にも共産党は力を尽くす 

 

 

  <政策を聞いて~吉川>

 

今や「慰安婦」は国政、外交の基本問題で米オバマ大統領まで乗り出して日

 

韓関係を取持とうとしているさ中の志位委員長の記者会見でした。国内だけでなく韓国はじめ中、米、仏、独のメディアも聞き入りユウチューブでも何万人がこの会見を見て、国際的に報道され注目されました。

 

志位さんは少女や若い女性を強制連行して「慰安婦」にしたことをたくさんの公文書で立証しました。そして、「日本軍『慰安婦』は性奴隷である、これは紛れもない事実である」ときっぱりと述べました。「日本共産党は歴史と向き合いこの問題は避けて通れない、全党を挙げて取り組む」と決意を何度も述べました。私には、こんな恥ずべきことに頬かぶりするのではなく、勇気をもって事実を認めよう、と国民への呼びかけであると受け取りました。

2014年3月 3日 (月)

「名護屋城博物館」が伝える秀吉の朝鮮侵略~日韓関係これまでとこれから

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写真左・立派な「名護屋城博物館」の建物、右の木の後ろは立派なホールも、写真右・名護屋城天守閣のあった場所で

 

朝鮮の歴史に詳しい元吉岡吉典参議院議員から聞いていた佐賀県の名護屋城址と「名護屋城博物館」に行ってきた。没後5年、最悪の関係になってしまった日韓関係について、吉岡さんが生きていらっしゃったらどんな感想をもらすだろうか。

唐津湾から玄界灘を望む山の上の名護屋城跡と陣跡、ここは豊臣秀吉の朝鮮半島侵略戦争=文禄・慶長の役の出兵基地でかつては天守閣、一の丸、二の丸、三の丸まであった立派な城だった。今は石垣が崩れているが城の土台の発掘調査が行われている。城址の横には「佐賀県立 名護屋城博物館」がある。

私がこの城に注目したいのは館の姿勢である。同館の展示の説明書「総合案内」に曰く「名護屋城博物館は、文禄・慶長の役(1592-1598)を侵略戦争と位置づけ、その反省の上に立って、日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史をたどり、今後の双方の交流・友好の推進拠点となることを目指して一九九三年、名護屋城跡に隣接する位置に開館しました」と。 

 

16世紀末、突如として寒村に数か月で巨大な城が築かれ、諸大名が呼び集められその家臣、家族、あるいは茶、能など桃山文化がこの地でも華やかに発達し、物流も活発な、人口10万人の巨大都市が形成された。すべて朝鮮侵略のためである。朝鮮に渡った秀吉の兵は暴虐の限りを尽くした。朝鮮の人民を多数殺戮したのみならず捕虜として日本に連行し(一説では5万人から7万人・『総合案内』)、伊万里、有田の陶芸の発展も背景にそうした歴史があった。

残虐な秀吉軍の行為示す図版67の鼻請取状(825日付早川長政等連署状)に驚く。日本の将兵が軍功の証として提出した切鼻の数は、敵の首級(しゅきゅう)をあげた数とみなされ鼻請け取状が下付された。秀吉は切り取られた鼻ガイド嬢によるとその数3000)を祭るため「耳塚」を京都に作らせたと言われるがその写真パネルも展示されている。

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 秀吉の死後間もなく日本軍は撤兵した。その後徳川家康と中世以来日朝貿易で利益を得ていた対馬藩は直ちに国交回復に取り組み、朝鮮通信使が1607年から1811年、つまり江戸時代末期に至るまで12回も続いた。この親善関係を打ち壊したのは明治政府で、日本は明治維新で権力を握った伊藤博文等により再び朝鮮侵略政策を行った。 

 

秀吉の侵略行為に対する朝鮮の人々の恨みは今日も消えない。ガイド氏によると「名護屋城址に観光客は韓国からかなり来るが、それは怒りの観光だ」と言う。私が韓国へ行っても近代日本の植民地支配のみではなく、秀吉の時代の恨みも消えていないことを思い知らされる。しかし、日本人のどれだけがこの事実を知っているだろうか。天皇崇拝、創氏改名を押し付け、言葉を奪った植民地支配や日本軍「慰安婦」問題だけではないという事実をも思いを致すべきではないだろうか。教科書でも教えない、侵略の歴史を展示する公的歴史博物館もないとすれば日本人は歴史を知らない民となり、国際社会で孤立する。その点でも名護屋博物館は貴重な存在である。

 

原発と博物館

  この博物館のある町は玄海原発と指呼の間、しかも風下にある。事故が起きれば放射線は降り注ぎ、福島県の轍を踏むことになる。それを恐れるが、地元経済(町の予算も)は半分以上が原発関連のお金によって成り立っているので住民は意見を言えない、という。「隣の人も前の人も原発労働者で、自分も再稼働反対ではない。でも将来はなくなってほしい」と博物館と玄海原発を循環するバスの停留所で、病気で故郷へ戻ったという60歳前後と思われる男性は語った。

 

 過疎の町に建つとはとても思えない豪華な「名護屋城博物館」。入場料も、イヤホーンガイドもただ、という謎も解けるというものだ。原発がここでも深く人々の生活をむしばんでいる実態に触れてやり切れない思いがした。(終わり)

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写真右・名護屋城址の説明パネル・屋外 右・朝鮮通信使の絵巻―300人~500人の朝鮮からの親善使節が江戸まで街道を通って…

 

 

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