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2013年11月

2013年11月26日 (火)

映画「ハンナ・アーレント」、アイヒマン、メフィストへレス、日本兵…

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(映画「ハンナ・アーレント」のジャケット)

「アンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督、2012年 ドイツ・ルクセンブルグ・フランス映画)を見た。岩波ホールでこれほど連日満員の映画は珍しい。この映画が日本人をかくもひきつける理由が私には未だわかりにくい。しかし、噛めば噛むほど味のある内容ではある。

 マルガレーテ・フォン・ロット監督は「ローザルクセンブルグ」(1986年制作)に続いて、今回も戦争、思想弾圧の下で自立した自分の生き方を貫いた稀有な女性を描いている。「思考する女性をいかに描くか、という課題に挑戦してみたかった」と監督は語る。思考する女性と、思考することを投げ捨てた男の対比が映画の見所かもしれない。

 ハンナ・アーレントは夫とともに1940年ドイツを逃れフランスを経てアメリカに奇跡的に亡命した。18年間無国籍という困難を経て今はアメリカで売れっ子の大学教授である。そうした経歴ゆえにハンナはアイヒマン裁判の傍聴を希望し、ニューヨーカー誌に裁判傍聴記を発表する。

 ナチスの戦争犯罪人・アイヒマンが1961年、長い逃亡生活の後ブラジルのブエノスアイレスでイスラエルのマサドに逮捕されイスラエルの法廷で裁かれる。

 当時アイヒマン逮捕のニュースは世界を駆け巡り、学生だった私(吉川春子)も大きな衝撃を受けた。何年かかろうと、世界の果て迄もナチスの手先を追いかけてゆくイスラエルの執念に圧倒され、またかくも多数のユダヤ人という理由だけでアウシュビッツに送ったアイヒマンの残虐性に恐れおののいた。ドイツでもナチスの犯罪は今日まで追及され続けている。

「悪の凡庸さ」

 

アイヒマンは「私は命令に従ったまでです」「殺害するか否かはすべて命令次第です。事務的に処理したんです。私は一端を担ったにすぎません」「私は思いました、上に逆らったって状況は変わらない。抵抗したところでどうせ成功しない、と」。

 ハンナ曰く「(アイヒマンにとって)移送先など関心ないのよ。人を死に送り込んだけど責任はないと考えている。貨車が(アウシュビッツに向かって・吉川注)発車したら任務完了」。法廷で彼女の見たものは「彼はどこにでもいる怖いほど凡人」であった。「自分の犯した罪の大きさを認識できないでいる平々凡々で陳腐な人間であった」(奥平康弘「ハンナ・アントレーを観て」)との評価に激しく抗議が寄せられる。

 世論はハンナの、アイヒマンは思考を停止させ権力の手足と化した男という分析を受け入れ難いのだ。ナチスから辛酸をなめたハンナがアイヒマンを極悪人と描くことを期待していたし、メフィストへレスのような並外れた極悪非道の「人格」であるからユダヤ人を大勢絶滅収容所に送ったのだと結論つけることをあくまで求める。

 私は、ユダヤ人大量虐殺の下手人が自分と同じ凡庸な人間だったということを受け入れたくないという大衆心理がわかる気がする。桁外れの悪人がこうした大犯罪を犯したのであって、彼が一般大衆とは全く別の種類の人間であったと区別することで心は安らぐ、のではなかろうか。しかし私はこの気持ちを支持できない。

 私はワイツゼッカードイツ大統領の次の言葉(1985年国会演説)、すなわちホロコーストについて国民にも責任がないとはいえない、との厳しい指摘に同感する。

 「目を閉じず耳を塞がずにいた人々、調べる気のあった人たちなら(ユダヤ人が強制的に)移送する列車に気付かないはずはありませんでした。・・・あまりにも多くの人たちが実際に起こっていることを知らないでおこうと勤めていた現実があります。良心を麻痺させそれは自分の権限外だと、目を背け沈黙するには多くの形がありました。戦いが終わり、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになった時、一切何も知らなかった、気配も感じなかったと言い張った人々はあまりにも多かったのであります」

 

 こうした多くの人民の故意の無関心、沈黙がアイヒマンらの犯罪を支えたのだということを映画は指摘している。

 いま日本軍「慰安婦」問題が20世紀最大の人身売買であって、ナチスのホロコーストと共に国際社会の批判を受けている。しかし犯罪者の訴追はおろか、強制連行や、性奴隷さえ否定する指導者が、政権党のトップにいるという深刻な事実がある。もし国民にもなるべく目を背けたいという意識が支配的になったら、日本の未来に暗雲を呼び寄せるようなものではないか。

 

  それにつけても、「ハンナ・アーレント」のような第2次大戦中の犯罪行為を考え、分析する映画が日本では皆無に等しい、文化・芸術面で日本のファシズムに目を向ける作品がないのはなぜなのか。

 ドイツ等ヨーロッパではナチスについて批判的映画が、私の目に触れるだけでも年に数本は制作されているのに、日本でフアシズムについて自ら分析する映画に何年もお目にかかっていない。いったいどういう国なのか。戦争責任について真面目に考察するということに関して、ますます彼我の差は開いてゆくのか。

 

 

 

 

2013年11月21日 (木)

開示された「慰安婦」問題資料と、「秘密保護法」

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写真左・収穫寸前の庭のゆず 右・フィリッピンの元「慰安婦」達と懇談(2011年) 

機密文書公開で、「慰安婦」問題を日韓にとどめる政府方針明らかに

朝日新聞は2031013日紙面1面トップ4段抜きで、「慰安婦問題拡大を阻止 政府東南アで調査せず」と、情報公開で入手した外交文書に基づいて報道した。

曰く「日本軍慰安婦問題が日韓間で政治問題になり始めた199293年、日本政府が他国への拡大を防ぐため、韓国で実施した聞き取り調査を東南アジアでは回避していた」、「『河野談話』が出る直前の93730日の極秘公電によると、武藤嘉文外相(当時)は日本政府が韓国で実施した被害者からの聞き取り調査に関連し、フィリッピン、インドネシア、マレーシアにある日本大使館に『関心を徒に煽る結果となることを回避するとの観点からもできるだけ避けたい』として3カ国では実施しない方針を伝えた」と言う。

私がこの報道に注目した理由は、20002月に他の野党女性議員とインドネシアへ「戦時性的強制問題(=「慰安婦」)解決促進法案」を携えて調査に行ったからである。私・吉川春子と一緒に行ったのは、岡崎トミコ、円よりこ(以上民主党)、田嶋陽子(社民党)参議院議員である。これが私の「慰安婦」問題海外調査の最初であった。

なぜ、インドネシアに行ったのか

当時政府は『アジア女性基金』の償い金支払い事業を行っていたが、私はインドネシアへの支払方法に疑問を持ったからである。インドネシア政府の方針で『誰が「慰安婦」だったのか認定はしておらず、したがって被害者本人に「償い金」を渡す事はできないので、日本としては50か所の女性老人ホーム建設資金として補助金を出す事としていた。これは個人に償い金を支払うとの「アジア女性基金」の「寄付行為」(株式会社の「定款」にあたる)に反している。

私達はアジア女性基金で建てたと言う女性老人ホームに案内された。ここには「慰安婦」だった女性は一人も入所していなかった。視察者向け施設?らしい瀟洒な部屋でよそ行きと思われる服装で入所女性達が日本からの来客を迎えてくれた。インテリア雑誌のグラビアに出てくるような部屋で生活の場という雰囲気は伝わって来なかった。

当時の大使以下の不自然な態度を思い出すに付けても、今回の朝日新聞の記事を見ると、在インドネシア日本大使館が私達野党議員が「寝た子」を起こすのではないかと極度に恐れていたのではないかと推測する。(詳しくは吉川春子著「翔びたて女性達」20031130日第1刷)

アジアで孤立の日本、日韓関係最悪に

日本の民主主義にとっての不幸は、太平洋戦争敗戦時はアジア諸国が植民地支配や独裁政権支配から脱しきっておらず、日本の侵略に対して抗議の声を上げられる状況になかったことだ。日本はアジアでいち早く戦後復興を遂げて経済大国にのし上がり、かつての占領諸国へのODAはさらに日本「経済」成長にプラスした。

この点はドイツのように敗戦直後から周辺国の厳しい批判にさらされて戦後を生きてきた事との違いであろう。

 90年代になって韓国の人民から過去の植民地政策への抗議が公然とおこり、「慰安婦」被害者からも日本への損害賠償を突き付けられた。しかしこの動きに対して、日本政府は侵略戦争に反省するのではなく、「慰安婦」問題を日韓関係にとどめて、多数の「慰安婦」が存在する東南アジア諸国への波及する事を阻止する「秘密文書」を各大使に送った事実が明らかになったのだ。

こうした日本政府の対応が今日の日韓関係をにっちもさっちもいかない所に追い込んでいる元凶である。

さらに、「秘密文書」が未来永劫に開示されない「秘密保護法」が、一部野党との名ばかりの「修正協議」なるものを経て、正に衆議院で可決されようとしている。歴史を繰り返させてはならないのである。(終)

古利根川の水鳥の群れと、鷺(春日部)

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2013年11月20日 (水)

「元慰安婦資料」の真偽と産経新聞報道

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(11月初めには赤く色ついた庭のせんりょう)

 

1016日(水)の産経新聞は一面トップで、「15日慰安婦募集の強制性を認めた平成58月の「河野官房長官談話」の根拠となった、韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査報告書を入手した」としてそれを根拠に、「元慰安婦報告書ずさん調査」「河野談話 根拠崩れる」と結論づけて報道した。

 これまで政府が隠し続けてきた「慰安婦報告書」が本当に産経新聞に開示されたとしたら大ニュースだ。どういう経過で開示されたのか疑問に思った私は、赤嶺政賢衆議院事務所を通じて照会してもらったところ、内閣官房の担当者は「『慰安婦報告書』については、現在まで開示していない。産経の報道についてその真偽も含めてコメントしない」という事であった。 

 つまり、産経は「入手した」というが、政府は「開示していない」という。政府が開示を否定している以上この「資料」の証拠能力は疑わしい。(刑事裁判なら違法に収集された証拠には証拠能力がない)。政府が開示していない、真偽もコメントしないとしているものを根拠に、このような大見出しで報道する価値があるのかは疑問だ。これが本物の政府資料であるというなら、その事を立証する責任が産経新聞側にはあるのではないか。

 ついでながら、従来から産経は「軍や官憲による強制連行をしめす政府資料は一切見つかっていない」などとして「慰安婦の強制連行を否定してきた。これは安倍首相やタカ派勢力の主張と同一だ。

 しかし、日本軍の「慰安婦」の強制連行は日本の裁判所でも何件も認定しているし(「司法が認定した日本軍『慰安婦』かもがわブックレット」)、またオランダの女性を「慰安婦」にした事件で、日本将校が死刑と懲役刑に処せられたオランダ軍法会議資料 バタビア臨時軍法会議判決文と証拠資料(『慰安婦』強制連行」梶村太一郎他著)も公表されている。

 「政府資料」にこだわる産経新聞であるが、強制連行を示す公文書即ち裁判記録オランダの裁判記録については無視するのだろうか。

 外国の裁判記録や、司法の認定ではなくあくまで肝心の政府が開示していないとしているのである。

 仮に、産経報道の「慰安婦報告書」を読んでみてもここには軍や警察に強制的に連行された被害女性の証言が生々しく語られている。

 「慰安婦」とされた女性が初めて名乗り出たのは1991年、キムハクスンさんで、日本敗戦、朝鮮解放後46年も経っていた。

 性暴力の犠牲となり、当時女性の価値とされた『貞操』『純潔』を失った女性が生きて帰れても故郷に帰れず、自殺を図った被害者も少なくない。「ナヌムの家」で共同生活しているイ・オクソンさんは12歳から15歳の少女が「慰安所」に強制連行されたと証言した。 

 やっとの思いで名乗り出た女性達が22年間も訴え続けているが、産経新聞は「慰安婦」本人の証言は信用できないと切り捨てている。ある日突然連れ去られた年端も行かない少女の証言が食い違っている事を以て『証言はでたらめ」等と切り捨てる事ができるだろうか。

石原信雄元官房副長官

「これ(16人の慰安婦証言・吉川注)は作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦とされたことは間違いない」 

「河野官房長官談話」に深くかかわった当時の官房副長官の石原信雄は次のように語っている。「各省から何人か出かけて元慰安婦の人たち16人にお会いした」結果、「その報告の内容から明らかに本人の意に反して連れて行かれた人、騙された人、普通の女子労働者として募集があって言った所が慰安婦に連れて行かれたと言う人、それから嫌だったんだが朝鮮総督府の巡査が来てどうしても何人かがしてくれと割り当てがあったのでそういう脅かしというか、圧力があって、断れなかったというような人がいた。何人かそういう人がいたので、総合判断として、これは明らかにいることは間違いありませんという報告を調査団の諸君からから受けたわけです。総理も官房長官も一緒にその話を聞いたんです」

「結局私どもは通達とか指令とかいう文書的なもの、強制性を立証できるような物的証拠は見つけられなかったのですが、実際に慰安婦とされた人たち16人のヒヤリングの結果はどう考えても、これは作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦とされたことは間違いないと言う事になりましたので、そいうことを念頭において、あの「河野談話」になったわけです。その調査団の報告をベースにして政府として強制性があったと認定したわけです」(「オーラルヒストリー アジア女性基金」 2007320日)

今回の産経新聞の報道は、この当事者の証言を覆す何の根拠にもならない。

2013年11月17日 (日)

「第8回東学農民軍の歴史を訪ねる旅 続編」

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(写真左・えんじゅの木 右・金聖淳翁)

えんじゅの木の下で     金聖淳翁の涙    10月17日  具島順子

大邱(テグ)の小学校の校庭にその木は立っていた。
樹齢400年。記念樹として囲いがしてある。みんなでその木の下に立つ。金聖淳翁は「このえんじゅの木はすべてを見つめてきました。みんなみんな知っているのです」と。翁は自作の詩を朗読し、時折声を詰まらせ涙された。
校庭の右側に、かつて「牢獄」があり、今は警察署と消防署になっている。

東学党を拓いた初代 崔済愚(チェチェウ)はこの牢獄に閉じ込められ「惑世侮民罪」つまり、「正しくない道を説いて人を惑わせた」の罪で処刑された。崔済愚、40歳、1864年のことです。処刑場は「牢獄」からほど近い、今は大きなデパートがある所で、来年、ここに祈念碑が建つとのこと。みんなで黙祷を捧げた。

崔済愚が説いた「東学」とは何だったのでしょうか。
キリスト教を中心にした「西学」に対して、儒教、仏教、道教、そしてキリスト教の優れたところを取り入れて「韓国独自」のものとして纏め上げられた、宗教の形をとった思想団体といえるものです。
当時の封建政府の暴圧的収奪と地主達の強圧的搾取から農民・民衆を救済するために創設されたものです。
ちなみに、1862年朝鮮半島全土で60の農民一揆がおこっています。

二代目 崔時亨(チェシヒョン)の時代は半ば非合法化された苦しい状況の中での活動でしたが、その思想は農民たちに広まっていきました。

東学農民軍の『行動四原則』とは
1 人をむやみに殺さない、家畜を捕らまえて食べるな。
2
忠孝を尽くして、世間を助けて民を平安に。
3
日本人を追い出し国の政治を正しく立て直す
4
兵士を集めてソウルに攻め込み、権力者や貴族をすべてなくそう・・というものでした。
更に『12か条の規律』には 降伏するものは暖かく迎える・生活に困っている人は助ける・貪欲でむごいことをした者は追放するなどなど。

こうして国を正すための農民軍の長い闘い、腐敗した政府との全面対決の闘いがはじまったのでした。

現在、大邱市の人口は240万人。当時は3万2千人。そのうち日本人は1万2千人と聞いて驚きました。東学の大きなスローガンに「斥倭洋」があります。
日本や西洋諸国の侵略を退けると言う意味です。1万2千人もの日本人はいったい何をしていたのでしょうか。「えんじゅの木の小学校」も当時、日本人の小学校だったそうです。
この小学校は出入りが自由ですが守衛室があり、子どもたちは守られていました。
校舎の入り口には「独創的な考えをもって、夢を実現しよう!」と書かれていました。 


「慰安婦」問題の語りべとして「大発見」がありました
小学校からほど近い所に 「大邱慰安婦博物館準備会」の建物を見つけたのです。ガラス戸にはベニヤがはまっていて「建設準備」が大変なことが伺われました。団体行動なので「連絡」もままならず、少しでも「カンパ」を送りたいと思っています。この地からも多くの少女・女性が連れ去られ「性奴隷」(国連用語)として、兵士の性の相手を強要されたのでしようか。

東学農民戦争は日清戦争と並行して戦われ、1894年の初めから前期・第一次蜂起・第二次蜂起に大別されています。


農民の反乱を鎮めるという口実で清国と日本は兵を派遣しました。


第二次東学農民軍の蜂起
日本軍による朝鮮王朝占領、王を虜にしたことに怒り、東学農民軍は(チョンボンジュン)を将軍として第二次蜂起に立ち上がります。
日本軍は最高司令部・大本営を広島に置き、四国四県からの混成部隊「後備第19大隊」が派遣されます。南小四郎を大隊長とし、二中隊を要請しますが、三中隊が派遣されます。その訳は北から南へ三本の道を南下させ「東学農民軍」を南に追い詰める作戦です。

大邱街道・清州街道・公州街道で、今も韓国の幹線道路です。
その三本の道を日本軍と、その支配下にある朝鮮政府軍が南下し南へ南へと殺戮を重ねながら追い詰めていったのです。

日本の最高司令部の命令は「東学党に対する処置はことごとく殺戮すべし」

でした。この命令は何度も発せられています。

日本軍はスナイドル銃というライフル銃を使用しました。この銃は、世界の歩兵部隊に革命を起したと言われる殺傷力の高いもの。一方、農民軍は軍隊の訓練も受けていない農民たちで、竹槍に火縄銃。農具の鋤や鎌、女たちはスカートに小石をいっぱいにして立ち向かいました。農民たちは地の利を得、人の利を得て、神出鬼没。日本軍もてこずりますが、武器の違いは圧倒的で珍島まで追い詰められます。


「殺戮」の地獄は

多くの資料から明らかになっています。
「南部兵站監部陣中日誌」には、ことごとく殺戮すべし・・とあります。中塚明先生は現場の指揮官・南小四郎大隊長の墓を突き止め、何年も通い続けて子孫の方にお会いし、南大隊長の「軍用行李」(トランク)を見せてもらい、貴重な討伐日本軍の資料を発見されました。

今は山口県文書館に保管され、韓国の東学革命記念館にも貸しだされました。南大隊長が日誌として残した「東学党征討報告書」など貴重な資料が残されていました。

資料の発見は、歴史の事実を明らかにするものです。

その他、兵士の手紙。四国の当時の新聞、徳島県「徳島日日新聞」、香川県「香川新聞」、愛媛県「愛媛海南新聞・宇和島新聞」などに予想外に多くの記事が残されていたそうです。
兵士の陣中日誌には、「生捕りは拷問の上焼殺せり」「七名を捕らえたり。畑に一列に並べ銃に剣を付け、号令にていっせいに突けり」「獲え縛してこれを銃殺」「大いに拷問」「悉く銃殺」「民家悉く焼き討ち」「焼殺せり」「「拷問の上、銃殺し、死体は焼き払えり」

「このところに屍を捨てし者680名に達せり。近方臭気強く土地は白銀の如く、人油氷結せり」


この場所は旅の一行が慰霊祭をした小学校で、サッカー場の向う側です。 朴孟洙(パクメンス)先生は「来年には遺骸を発掘したいと思っています」と。先生の目には涙が光っていました。


「百発百中、実に愉快と覚えたり」「二人の将校の自害」
「実に愉快」と書いたのは兄に宛てた兵士の手紙で新聞に載ったものです。「400メートルまでおびき寄せ、鍬や鎌や小石で迫ってくる農民を銃で撃ち、実に愉快と覚えたり」と書いています。

朝鮮人蔑視の極みであり、さながら、人間の皮を被った鬼畜です。
 帰国直前になって二人の将校が自害しています。二人とも軍の規律違反はなく、「殲滅作戦」で指揮をした軍人で妻も子もあり名前も分かっています。罪もない農民を殺し尽くしたことに耐えられなかったのでしょうか。

「東学農民軍を殲滅せよ」犠牲者は。

何度もこの命令は出されています

第二次蜂起で殺害された東学農民は3万人。負傷してその後、死んだと思われる者を入れると5万人はくだらないと言われています。

私はこのことの意味を考えました。
まるでもぐら叩きのように「執拗に蜂起する」東学農民軍を生かしておいては、日本が朝鮮を占領し続けることが困難だとの判断からではないでしょうか。
1910年 日韓併合で朝鮮を植民地にしました。そのためには「抵抗勢力の殲滅」が必要だったのじゃないかと私は思うのですが。

「東学農民戦争は歴史の闇に」」「戦死した日を改竄してまでも」

東学農民戦争での日本軍の戦死者は一人。「兵士 杉野寅吉」です。

連山の戦いで1894年12月10日に戦死しています。ところが、靖国神社には「日清戦争で7月29日に戦死」として祀られています。この日は日清戦争が始まった日であり、杉野寅吉は招集されたものの、まだ朝鮮に渡っていないのです。

「戦死日」を改竄してまで「東学農民戦争をなかったこと」にしているのです。

 日本は国家として日清戦争中の朝鮮人民の抗日闘争を、当時から今日に至るまで認めていません。家永教科書裁判の第三次訴訟で、原告の家永三郎先生は「日清戦争時の朝鮮人民の反日抵抗」の記述削除を命じた文部省の措置を取り消すよう求めましたが、それは最高裁の判決で文部省・日本政府の勝訴に終わっています。1997年のことです。

中塚 明先生は「まだまだ発掘し解明しなければならないことは多い。やっと、あぜ道が出来たくらいです」とおっしゃいますが、「事実」がこれほどまでに明らかになったことを、家永先生が生きて居られたら何とお思いでしょうか。

「東学農民革命参加者の名誉回復法」2004年成立

金大中大統領のもと、長く伏せられていた事実が「民族の独立を守る崇高な闘いとして顕彰」され、名誉回復法が国会で成立されました。特筆すべきことです。

朴孟洙先生は、その夜、一睡も出来なかったと書いて居られます。

金聖準翁のこと

風貌はホーおじさんと親しまれたベトナムのホーチミン大統領のような方です。

ソウルに着いた翌朝、金泉のぶどう園に向かいました。無農薬40年のぶどう農家の好好爺が迎えてくださいました。とりたてのぶどうの美味しかった事。つきたての餡子の入ったお餅の差し入れもありました。食事時にはぶどう酒の差し入れも。宿の夜食にと息子さん夫婦がうどんの差し入れをしてくださいました。

風貌からして80代後半の方でしょうか。植民地時代「創氏改名で日本名を名乗らされ」」「朝鮮語を使うこたは許されず」朝鮮人蔑視の中でどんなにご苦労されたことか。

えんじゅの木の下で東学党の創設者の処刑の話をなさったときは涙されました。祖先の時代から植民地の時代まで、そして今日も「正しい歴史認識に立たない日本政府」強制連行も慰安婦問題も詫びず・・・怒りはたくさんあるはずです。どれほどに日本の悪政に辛酸をなめてこられたことか。

それなのに、なぜ、こんなに「客人」として迎えてくださるのでしょうか。
中塚明先生の長きにわたる「東学農民戦争」の解明、毎年、こうして真面目に「東学農民戦争を学ぶ旅」を続けられ、83歳の中塚先生は「死ぬまでこの旅を続けます」と。その姿勢に打たれてくださればこそなのでしょうか。

朴孟洙先生は

移動するバスの中、ほとんど後ろを向いて立ちっ放しで「日本語」「韓国語」で行く先々の歴史・蜂起のことを話してくださいました。学者、女性小説家、研究者、天道教教徒などなどの同乗する12名の韓国の方々の涙も何度も目にしました。

私は何をして報いたらいいのでしょうか

何万もの「東学農民軍」の蜂起が殲滅された歴史の真実を語っていくこと。

「慰安婦」問題の解決に力を尽くしていくことだろうと思っています。

「頭への一撃」「心への一撃」

の旅でした。幾度も幾度も一撃を受けました。

地名も人名もなかなか覚えられず、その上力不足で、理解も不足していて誤解もあることと思います。お気付きの方はご指摘くださいませ。

二冊の本をご紹介させてください。

東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争 高文研 1400円

中塚 明  奈良女子大名誉教授

井上勝生  北海道大学名誉教授
朴孟洙   韓国・円光大学教授

明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ 井上勝生

 一体の遺骨の謎から、ジェノサイドの真実へ迫る  岩波書店 2100円

図書館に『蔵書依頼」をお願いすれば置いてくれます。多くの方に読んでいただきたいです。宜しくお願いします。

(下・エンジュノ木の下で記念撮影)

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2013年11月14日 (木)

シンポジューム・「橋下、安倍発言の危険性と日本の加害責任を問う

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(写真左・グループディスカッション,右・講師の話に聞き入る{第5回ゼミナール}

 私達の今年(2013年)最後の企画は安倍総理の、「侵略の定義は定まっていない」発言や、橋下大阪市長の「慰安婦制度が必要だったのは誰でもわかっている」等の発言のような戦争責任否定の言動が大手を振って日本社会を闊歩している現状について考え、会員相互の意見交換をするものです。

 問題提起は当会々員が行います。「男性の人権と『慰安婦』問題」という角度から研究をされている渡辺憲正さん、山科三郎さんと吉見義明中大教授が「維新の会」代議士を提訴した事件の主任弁護人の大森典子さんの三人です。

 私達の会は研究団体と、運動団体の中間あるいは両方の性格を持って活動してきました。これまでもグループディスカッションを行ってきました。今回はこの問題について参加者の皆さま全員で意見交換を行いたいと考えています。「慰安婦」問題と日本の加害責任について踏み込んだ議論をいたしましょう。 

 この問題の解決のためにまじめに取り込もうとされる方の参加を歓迎します。

 どうぞご参加ください。

<シンポジュームの要領>

 第12回「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール・シンポジューム

「橋本、安倍発言の危険性と日本の加害責任を問う」

 日 時:20131124日(日) 13001430

 場 所:全国教育文化会館 エデュカス東京・地下ホール

(東京都千代田区二番長12-1)

 交 通:JR・四ツ谷駅、市ヶ谷駅徒歩七分 地下鉄千代田線・麹町駅徒歩一分

 問題提起

  渡辺憲正 {関東学院大学教授}

  大森典子 {弁護士}

  山科三郎 {東京唯物論研究会会員}

 コーディネーター

  吉川春子 {慰安婦問題とジェンダー平等ゼミナール・代世話人}

2013年11月 5日 (火)

徹底した民族差別の表れ「慰安婦」問題のルーツを探る旅④

女性の目で見る東学農民革命と日清戦争

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(写真左・東学農民党の指導者・全琫準 チョン・ボンジュン古宅―後方部ー見学を終えて 写真右・大屯山戦闘地に建つ慰霊碑。道は広いが急坂なので大事をとって麓に残留した人々もいた)

 

今回の旅は「女性の目で見る…とめいうっている。日本の侵略との戦いに、女性が大勢参加していたという事実をもっと顕彰しようという事である。

 当時の家族制度からいって一家の主が東学の運動にくわわると妻も子どもも一家そろってそこに加わると言う形になるし、後方支援、例えば食事その他は女性が受け持った、という説明があった。

 日韓の参加者は日本側が23名中で女性は17人と男性6人をはるかに超えていた。

 韓国側の参加者(9月17日~9月20日)は、3歳児を連れた母親と女性の小説家が加わっていた。この女の子は、終日バスに乗る旅にもかかわらず泣いたり駄々をこねたりすることは一度もなく、可愛らしいマスコット的存在であった。3歳児と日頃一緒に生活している私にはとりわけ驚きであった。子どもの面倒を見ながらも母親たる人も真剣にフィールドワークに参加し学ぶ姿勢には打たれた。別れるときにはお世話になりましたと、親子ともども頭を下げられて感激した。

 女性作家は自己紹介で、このテーマで小説を書きたいと話した。韓国の今なお残る家父長制についての発言も数字を上げて分析的で参考になった

 日本の公文書が記す韓国大屯山の戦い…懐胎女性、1歳児と母親

 韓国女性達の東学農民戦争での戦いのすさまじさが公的記録に残されている。

 明治28年2月28日特務曹長 武内真太郎が記す、[駐韓日本公使関記録」(5)大屯山付近戦闘詳報は農民軍をせん滅した報告書である。

 「我が兵3分隊と韓兵三十名より成る」支隊は大屯山に籠城した賊魁(敵の首領)を討滅の命令を受けて砲を山上に引き上げて賊窟をめがけ砲撃する。

 鍬と鋤、鎌など農器具しかない農民軍は近代兵器を装備した日本軍の敵ではない。必死に抵抗するが最後は「千尋の谷に飛び込み、或いは正者は悉く補縛」された。

 賊窟に二八,九歳の懐胎せし婦人あり、弾丸に当たりて死す…また(母親が)一歳の女児を抱き千尋の谷に飛び込み共に岩石に粉殲となり即死せり。その惨状言う可からず」

 日本軍の侵略によって、女性・子ども、胎児までも含めて悲惨な最期を遂げた様子を日本の公文書が記録している。

 参礼東学農民広場に農民群像に女性が2人

 

 東学農民戦争の研究において、これまで女性の役割について触れられなかった反省を込めて、この広場に建つ群像に、男性に交じって2人のスカート(チマ?)をはいた女性の姿があった。2001年に女性の観点が欠けているとの批判を受けてそれに応えたものだと言う。

(写真左・東学農民軍は農機具で戦い、日本軍は近代兵器と組織された軍隊で侵略した、写真右・近年の農民軍慰霊碑には女性の姿も刻まれるようになったー参礼公園の農民群像)

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2013年11月 2日 (土)

山宣碑前祭(碑建立83周年)、そして『慰安婦』問題講演

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(写真左・山宣の碑 右、信州のドウダンつつじの紅葉は美しい)

10月27日(日)午後、上田市別所温泉、安楽寺境内にある山宣の碑前祭が地元の上田市、長野県下そして、東京首都圏、岡山、静岡から150人を集めて行われました。狭い山の斜面の急な坂道で足元は安定しない場所に、椅子を持ち出し腰かけたり、杖の支えで立ったりしながら、太陽が降り注ぎ、台風一過の青い空、信州特有の色濃い紅葉、さわやかな風がふきわたります。

 山宣こと山本宣治は1928年(昭和3年)、第1回普通選挙に京都府第2区から立候補し当選。第56回帝国議会で3・15事件等官憲の拷問について取り上げて政府を追及しました。

 1929年(昭和4年)、治安維持法改正令(勅令)の事後承認案反対のため原稿を準備して議会に臨みましたが妨害にあって発言できず、その夜、神田の宿舎で右翼の凶刃に倒れました。39歳の若さでした。

 上小(=長野県上田市と小県郡)農民組合と山宣の関係

 山宣は招かれて上田の農民組合連合会で講演し、千名余の聴衆を熱狂させました。この山村の町に農民が千人も集うとは!さぞかし盛大な集会だった事でしょう。警察の弾圧に抗して闘う当時の農民の姿に感動を覚えます。警察は逆に脅威を覚えた事でしょう。

 山宣はこの年、東京で右翼に暗殺されたのでした。以下、「昭和4年4月30日の上小農民組合連合会情報第7号」より一部引用します。

 「…次に代わって代議士山本宣治氏「無産党代議士の議会観」と題して約2時間に亘ってブルジョア議会の欺瞞を暴露し、満場を熱狂せしめたるも、これ亦中止降壇を命ぜられ5時半頃大盛会裡に閉ざせられたり。因みに当日の一般聴衆は千有余名に達しいつも乍ら当局の大弾圧は常規を逸し、早朝開会まぎはに全農青木支部の山本氏以下四名を検束し去りたる故、大会終了後青柳会長以下数名の委員を挙げて上田警察署に検束者奪還の詰抗を試みたり。

 <碑前祭>

 平林堂社長あいさつで式は始まりました。この碑の再建についての苦労話も披露されました。山宣の碑は第二次大戦中当局から撤去を命じられ、関係者の別荘の庭に埋められて戦争中は保管されました。戦後この碑が再建されたのは関係者の努力の結果12年も経てからでした。

 当時の激しい言論弾圧に思いをはせながら、「日本を取り戻す」という安倍首相という危険な人物が日本に君臨している今を思わざるをえません。日本国憲法を改定し、国民の自由を奪う道を進んではなりません。この時期の山宣碑前祭で私は身の引き締まるのを感じました。

 なお、私の両親は別所の隣り丸子町に疎開して、私は戦後、丸子小学校を卒業しています。

 碑前祭の終了後、近くの別所温泉「あいぞめの湯ホール」で約200名の参加者の前で私は、「日本軍『慰安婦』問題-加害責任を問うー」と題して講演しました。加害責任について国民共通の認識にする事は、戦争への道を阻止する一つの要因ではないでしょうか。

 <長和町で女性の懇談会>

 山宣碑前祭の前夜、上田市に隣接する長和町で女性の懇談会が開かれて、11月の町議選を控えた、栗原さとし、こうの啓治の両町議も参加。介護子育て、男女共同参画について活発な質問や意見が出ました(写真下)

 長和町は定数14名中、共産党の議席は2です。元は長門町でしたが隣の和田村と合併し議員定数は大幅に減る中、共産党は二議席を確保し続けています。

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2013年11月 1日 (金)

徹底した民族差別の表れ『慰安婦』問題のルーツを探る旅③

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(写真右・最後はすっかり生徒達と打ちとけた 右・生徒に話す具島順子さん、正面左)
「子どもたちに『慰安婦』の話をしてくださいませんか」10月18日 具島順子
それは唐突な申し出だった。
その夜の羅州交流会は盛大だった。パンソリや琴、民族楽器の演奏、五十皿を越える韓国料理のバイキング。交流会の吉川・具島の席の前にその青年は座った。
「お願いがあります。バスで聞いた『慰安婦』の話を子どもたちに話してくださいませんか。私は学校に行けない子どもたちの学校の校長をしています」
「日本では『学校に行けない子どもたちを登校拒否児といい、その子たちの学校をフリースクール』といいます。なぜ、その子たちに『慰安婦』の話を聞かせたいとお思いなのですか」
もの静かな青年校長は「日本の方々が『慰安婦』問題の解決に、懸命に頑張っておられることを子どもたち知ってほしいのです」
吉川さんと具島は生徒達が待つ隣の部屋へ移った。中学生・高校生たち十余人が待っていた。日本商社のマグロ船に乗っていた大柄で陽気な朴さんが通訳してくれた。吉川さんの話に真剣な目がそそがれ、じっと聞き入ってくれた。
「日本は戦争中、日本軍が駐屯するところに『慰安所』をつくり、多くの少女や女性を連れ出し、兵士の性の相手を強要しました。国際的には『慰安婦』は『性奴隷』(国連用語)とよばれています。戦後、『慰安婦』の方たちは、国に帰してもらえず、その地に遺棄されました」中略。
「ナヌムの家を知っていますか?」みんなうなづく。「この九月『ナヌムの家』から三人のハルモニが日本に証言のため来られました。
 私たち四団体で「ハルモニから若い世代へ」「参議院会館で議員も招いて証言集会」「京都・大阪での近畿証言集会」を持ちました。どの集会も超満員でした。
戦後、『慰安婦』被害者は国に帰えされず、その地に遺棄されました。『ナヌムの家』から来られた三人のハルモニは、韓国政府が探し出し2000年にやっと母国に帰国でき、『ナヌムの家』で今、生活なさっておられます」
途中から中学の歴史の先生、Kさんが参加して発言。
「私は中学で歴史を教えています。校長から『慰安婦問題は教えていないだろうね』『はい、教えて居りません』と答えました。日本の教科書から「慰安婦」問題は消されたのです。でも、私は大切な問題で、生徒は知っていなくちゃいけないので教えています。生徒達は真剣に聞いてくれます」日本の教育現場の話をしてくださった。
 「日本政府は『慰安婦』被害者に、謝罪も賠償もしていません。ハルモニたちを始め多くの『慰安婦』被害者は高齢で次々に亡くなっておられます。一日も早く『心からの謝罪と賠償が実現する』よう私たちは頑張っています。皆さん、聞いてくださって有難う」
 中学生の男の子が日本語で「ありがとうございました」と言った。青年校長は「この子は親の転勤で東京に住んでいました」と。きっと、父親はエリートなんだろう。
 別れるとき、中学生の女の子が吉川さんの胸に顔を埋めた。吉川さんは少女をしっかりハグ。何かが少女の心に届いたに違いない。「不登校児」などと聞くまでは全くそうは思えない、みんな明るい表情の子どもたちだった。
 10月20日、別れの日の昼食時、フリースクールの青年校長は「来年、日本を子どもたちと自転車で巡る計画を立てています」と。日本でいい出会い・いいた旅が出来ますように。
 青年校長がなぜ30人の不登校児を預かるようになったのか、言葉が交わせたら、それを私は尋ねたかった。
「激しい競争社会」と言われる韓国社会。何かの事で躓き、学校に行けなくなった子どもたち。青年校長のもとで大切なものを学び、人として成長するに違いない・・・と私は思った。
 追記(吉川)
 全期間を通じて韓国の方々と日本人と一緒のバスで旅行しました。バスの中で前日に続いて今度は日本の参加者一人ひとの自己紹介をしました。それを通訳を通じて韓国の方々も聞かれたのです。
 具島さんは「慰安婦」問題について熱弁をふるいました。2000年に日本で開かれた世界女性戦犯法廷の事、今年9月に来日した「ナヌムの家」のハルモニの事。それは内容も時間も!自己紹介の域を超えるものでした。
 そして、その話がバスに乗って共に旅をしていた韓国のフリースクールの責任者の心を打ち、わざわざ生徒を集めて夜の交流会の会場に連れてくると言う行動になったのでした。この時私は「東学農民軍」と、「慰安婦」がテーマとして一つに溶け合うのを感じました。
(写真左・旅の最終日、別れの挨拶をするフリースクールの校長・右、と朴先生 写真右・ 牛禁峠東学革命慰霊塔前で具島、校長、吉川が記念撮影)
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