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2013年10月

2013年10月30日 (水)

民族差別の極致『慰安婦』問題のルーツを探る旅②

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 (写真・小学校の敷地内に建つ東学農民軍慰霊碑と慰霊のセレモニー)

羅州小学校で慰霊祭~東学兵士の処刑場跡、今は小学生のサッカー場に 

 10月19日(土)朝、、羅州小学校で、「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」の一行による東学農民兵の慰霊祭が行われました。日本軍による東学農民兵士が多数虐殺された場所で私は言葉なく黙とうしました。

 私は学校の授業で「東学党の乱」という言葉を学びました。しかしそれ以上の事は教わりませんでした。そして、日本軍が残虐にも数万人以上の朝鮮の人々を殺害したという事実は、2013年6月、私達のゼミナールで中塚先生が講演し、また、先生の著書『東学農民戦争と日本もう一つの日清戦争』井上勝生、朴孟洙氏との共著・高文研)で初めて知りました。

 主催者から一言碑の前で述べるように言われ、この問題の初心者の私はたじろぎました。述べる資格があるのか?心に問いながら、ごあいさつしました。

 私にとって、東学農民戦争とはいかなるものであったかを知る為のフィールドワークが今回の旅というわけです。

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(写真左 .慰霊祭主催の韓国の方々―旅の同行者 右、慰霊祭で日本からの参加者として挨拶する吉川と通訳役の朴先生。後はサッカーグラウンド)

 中塚先生は著書の中で「東学農民軍を主力とする朝鮮人が日本軍の朝鮮侵略に反対して立ちあがった、その朝鮮人を相手に日本人が皆殺し作戦を繰り広げた」と述べています。

 羅州で日本軍はいかなる行動をとったのか。以下、井上勝生北海道大学名誉教授の書かれた文章を引用します(「東学農民戦争と日本」P101,103)

 一日本軍兵士の「陣中日誌」から (殲滅作戦の記録の一部)「羅州平野の南部海岸、長興の戦いは1985年1月8日から10日まで3日間でした。東学農民軍は山腹を登って、山上に陣取る日本軍に迫りました。山の上から見ると、『敵軍、あたかも積雪の如く、鯨波(げいは=ときの声)大地も振動す』」。

  「これに対し兵士が所属した第2分隊と第1分隊が合同して実施した殲滅作戦について次のように記しています。

 『我が隊は西南方に追敵し、打ち殺せし者四十八名、負傷の生捕(いけどり)拾(十)名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は拷問の上焼殺せり。』

 「また後備第19大隊の本部がおかれた羅州での処刑について次のように記しています。

 『当地(羅州)に到着するや、(羅州城の)南門より四丁計り去る所に小さき山有り、人骸類重、実に山を為せり…彼の民兵、或は我が隊兵に捕獲せられ、責問の上重罪人を殺し、日々拾二名以上百三名に登り、依ってこの所に屍捨てし者六百八十名に達せり、近方臭気強く土地は白銀の如く、人油結氷せり…』云々。」

 身の毛のよだつような日本兵士の手記ではありませんか。しかしこのような事はいたるところで行われました。従って東学農民軍の闘いの記念碑は韓国のこの地方の至る所にあります。つまり日本軍は各地で残虐な行為をしたという印でもあります。

 慰霊祭の会場となった立派な建物の小学校は土曜日なので生徒はいませんでした。学校の入口にはきれいな横書きのハングルの看板が掲げられていました。「夢をもって 未来へ 世界へ」という意味だそうです。裏手のグラウンドでは児童達がサッカーをしていました。

(写真左.小学校の入り口と看板、右.裏手にあるサッカー場では生徒たちが練習していた)

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2013年10月28日 (月)

徹底した民族差別の表れ「慰安婦」問題のルーツを探る旅 ①

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 (写真左・景福宮奥深くに国王の住居コンチョングン、この住まいに乱入し王妃を殺害した。右・景福宮には美しい建物と池が多数ある、その前で)

 10月16日(水)~10月21日(月)、中塚明・奈良女子大名誉教授、朴孟洙(パク・メンス)円光大学校教授とともに「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」が行われました。日本からは23名が参加し、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールからは具島順子さんと私・吉川の二人でした。 今回の旅のサブタイトルは「女性の目で見る東学農民革命と日清戦争」です。女性がどのようにこの戦いに加わったかという新しい視点も盛り込まれています。何回かに分けてブログに掲載します。

 (なお、成田を発つ日は関東地方は10年ぶりという大型台風の直撃で、成田への交通網は全面ストップという不運に見舞われ、成田発の旅行者は聞くも涙、語るも涙!の悪戦苦闘の末飛行場に到着。1便遅れてそれでも全員がソウルへ向かう事ができました)

 最終日、一行の最長老吉田博徳・日朝都連会長の案内で有志のみ早朝ホテルを出発して景福宮を視察しました。今回の旅の日程にはない番外編です。、ソウル市中心部にある広大な王宮で、日清戦争直後、日本の外交官の手引きで事もあろうに、王宮の奥深くに侵入し、王妃を殺害すると言う血生臭い大事件のあった場所です。日本がいかに朝鮮半島を植民地化し、乱暴に朝鮮人民を統治したか、象徴的な場所でもあります。

 私達は広大な王宮内部を駆け足で巡り、王妃殺害現場まで足をのばしました。景福宮を訪れる日本の観光客も、ここまではなかなか足を延ばさないそうですが、日本の朝鮮侵略の荒っぽい手法、そして朝鮮人民の今に続く日本軍国主義への怒りを思わないではいられない場所だと思います。

 

<旅の日程>

 10月17日(木) ソウル~大邱(てぐ)~金泉

 ー「内即、内修道文」頒布地見学、大邱の近代文化遺産の見学。夜は中塚先生の講演と現地の方々と交流会(100人参加)

 10月18日(金) 金泉~南原~羅州

ー金開南農民軍本拠地見学(南原)、羅州市の東学遺跡見学、夜、伝統音楽  を交えた交流会、宿泊、伝統的な朝鮮建築物・元県知事の邸宅

 10月19日(土) 羅州~全州

 -羅州小学校で慰霊祭、東学農民革命戦績地見学(戦績歩兵第19大隊駐屯地、茂長起包地、白山城)、午後、全州近郊東学農民軍の戦跡見学(黄土峙戦跡地{ファンド・ヒョソ}、東学農民革命記念館、全琫準(チョン・ボンジュン)古宅、万石条{マンセキボウ}、白山城)

 10月20日(日) 全州~ソウル

 参礼の東学農民広場、大屯(デイトン)山戦闘地~(昼食後、中塚先生と朴先生は一行と別れ南部へ)

 10月21日(月) ソウル~東京

朝、景福宮へ。朝鮮王妃殺害現場等視察

(写真左・中塚先生(中央)と、具島順子さん右、吉川・左。  写真右・日韓の参加者全員で、ブドウ農園前で)

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2013年10月14日 (月)

埼玉県北本市とさいたま市母親大会分科会で「慰安婦」問題の学習

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(写真左・北本市新婦人学習会会場風景、右講演する吉川、パワーポイント使用なので会場は暗い)

 10月6日、埼玉県中部の田園都市、北本で新婦人支部主催の「慰安婦」問題の学習会が80人の参加者で開かれた。また翌週9月14日(月・祝)にはさいたま市の母親大会の1分科会で「慰安婦」問題が取り上げられて、吉川春子が助言者をつとめた。参加者は30人だった。

 北本の隣が日本一暑い事で知られる熊谷市で、ここは日本敗戦の前日8月14日に大空襲があり多くの人がなくなっている。平和に対する取り組みも活発な地域だ。吉川は、「ナヌムの家」のハルモニを京都で韓国への帰国直前の集会で「ナヌムの家」一行と別れてから1週間も経たない時なので、いまだハルモニの訴えの熱冷めやらぬという心情であった。

 新婦人の皆さんは9月23日の日本青年館の集会にも駆け付け、その後のわずかな期間の取り組みで会場いっぱいの参加者が集まった。男性の参加者も目立った。

 質問タイムでは、イ・オクソンさんの「慰安婦」という言葉は嫌い、という証言に心動かされたと言う感想や、日韓請求権協定、「慰安婦」の強制連行はなかったと言う、安倍総理、橋本大阪市長の発言、花岡事件に見る強制連行に対する企業責任等幅広く出された。

 中でも「戦後に生まれ育った人にも加害責任はあるのか」という質問に私はたじろいだ。その点に対してはこれまでの講演会でも、あまり丁寧に話してこなかったという反省があった。

 同じような質問がさいたま市の母親大会でも出た。「ドイツの生徒達は歴史をどのように学んでいるのか。ナチスの行為について子ども達はどう考えているのか」との質問だった。私の読んだ高校の分厚い歴史教科書にはヒトラーの行った事等歴史的事実が十分書き込まれており、巻末には生徒に考えさせ議論させる設問が多くのっている事も話した。

 埼玉では最近教科書の採択に県議会が介入するような決議が行われて県民から批判が上がっている。教科書採択の問題点が意見として出された。日本の加害の事実が子どもたちに教えられていない現実にも私は触れた

 戦後生まれた世代が歴史と向き合いどう考えるかは日本の将来にとっても大切なことである。自分達の父や祖父の世代が行った近隣諸国への加害について、真剣に考え、受け止める子どもたちを育てるためにどうすればいいか。私にはすぐに回答できない。今後も考え続ける

(写真は埼玉母親大会分科会会場のドアに貼りだされた案内)

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 (16日より、中塚明先生の韓国の東学農民戦争のフィールドワークに参加します

2013年10月13日 (日)

9.28京都集会 細録 その2

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(写真左、パク・オクソンハルモニと会場の交流 右証言に聞き入る参加者、撮影=宮崎敏恵)

 9月22日に日本に来て以来、何度も証言して、この日はイ・オクソンさんの声は枯れれていた。他の二人のハルモニもお疲れの様子が見えた。そのせいかどうか、3人がひととおり話したあと、時間が25分余っているとのメモが来た。(安信権所長が会の進行に気を使われて、ハルモニの話し時間を厳密に調整もされた) 

そこで私(吉川)はハルモニに、話したくないかもしれない事だとは思ったが、「慰安所」の実態を多くの日本人に知ってほしいと思ったのであえて質問した。

吉川

「イ・オクソンさんは東京の集会で「慰安所」は人間の屠殺場だ、と言われたが「慰安所」でどんな目にあったのか話してほしい」

イ・オクソンさん

11歳、12歳、13歳、14歳の何も知らない少女を(日本は)連れて行った。「慰安所は屠殺場だ」と言った真意だが、私は生きてきたという事が証明している。階級のあるものと上級の者が喧嘩をする。避妊道具を使わない人がいて、使わないと言う事で喧嘩になる。殴る蹴るの兵隊の喧嘩で少女も巻き込まれる。

 これを見て下さい。これが切られた跡です。日本兵が刀を振り上げた、逃げようとしてもどっちへ逃げたらいいかわからない。その時、日本兵の刀で右足が切られた。

(イ・オクソンさんは、ソックスを脱いだ足を会場の人に見えるように机の上に上げた。私は壇上にいたのでハルモニに近づいて白い長さ10センチほどの切り傷の跡がまだ残っているのを見た)

皆さん考えて下さい10代の少女がこのようにされるのを喜ぶ親があるでしょうか。「慰安所」の狭い中で沢山の少女が亡くなった事を私は屠殺場と表現している。

カンイルチュルさん

「慰安所」でトイレに行って、帰ってくるのが遅いと言っては殴られた。その傷は今も残っている、(と言って頭の髪の毛を手で分けて傷跡を、会場に向かって見せた)

イ・オクソンさん

 (日本敗戦で)解放された後も苦労した。自分たちが解放されている事も知らなかった。ある軍人が来て家があるのか、ないのかと(きいた?)。外へ出そうとした。日本人として家から出ると殺されると。

日本の政府が(女性達を)朝鮮へ帰国させなければならないのではないか。(しかし放置されたので)自分で生きて行かねばならなかった。病気を持っていたが直す事も出来なかった。血を流して山の中で倒れた。誰かが見つけて病院まで連れて行ってくれた。奥さんがいない、子どもが2人いる人だった。その家で子どもを2人育てた。今は息子と孫がいて交流している。

(ここで主催者が、この会場は180人定員の所300人が入場していると報告した)

300人?自分はアメリカで2300人の前で話をしてきた。(このイ・オクソンさんのコメントに会場が笑いで沸いた)

<交流>

「慰安婦」問題に取り組んでいる参加者から報告があった。短時間で①大阪新婦人、②日本史の高校教師、③堺市の元教師、④大阪AALA, 京都府で意見書採択運動すすめる人、⑥大阪民医連等の発言があり、この報告はハルモニのみならず随行の「ナヌムの家」安所長や他のメンバーを勇気付けた、と思われる。

最後に

 アリランをみんなで歌った時、パクオクソンさんがマイクを手に立ちあがり90歳とは思えないいい声で、韓国語で長い(何番も続く)「アリラン」を歌った。また、続いてカン・いるチュルさんが「ゆうやけこやけ」を歌い参加者全員の大合唱になった。ハルモにと会場が一体になったフィナーレだった。

2013年10月12日 (土)

「ナヌムの家」ハルモニを迎えて京都集会の細録

9月28日・京都工科大学校で、「ナヌムの家」のハルモニを迎えて証言を聞く会が開かれました(既報)。詳細についてお知らせします。

 ○コーディネーターの吉川春子・挨拶

関西のみなさま、私達は「ナヌムの家」のハルモニを迎えて、9月23日は東京の日本青年館で若い世代を中心とした集会を、24日は参議院議員会館で国会議員に訴える集会を開き両会場とも定数いっぱいの300人の方々が参加しました。

さて、先程のビデオにあったようにいまから22年前にキム・ハクソンさんが元「慰安婦」であったと名乗りを上げて、それに多くの女性達が続いて名乗り出ました。韓国(吉川注・237人)、中国、フィリッピン、インドネシア、オランダ…等の、戦争が終わっても46年も沈黙していなければならなかった女性達です。しかも日本人は一人も名乗りを上げていません。

 性暴力被害者に対して社会の目は冷たい、女性達も思い出しても苦しい、名乗り出る事はとても勇気のいる事です。しかし、このように名乗り出るという行為があったからこそ女性の人権思想が発展しました。

皆さん、今日私達はこの勇気ある3人をお迎えしています。ご紹介します。イ・オクソンさん、パク・オクソンさん、カン・イルチュルさんです。今回日本政府の心からの謝罪・補償を求めて来日されました。

現在の安倍総理は、日本政府が「慰安婦」問題の責任を認め、歴史教科書への掲載を表明した「河野官房長官談話」の取り消しをず―と求めてきたタカ派グループのリーダーです。最近国連で彼は「憤激すべきは、武力紛争の下女性に対する性暴力がやまない現実だ」と強調し女性の権利重視を打ち出した演説をしたと報じられています。何という破廉恥でしょうか。

今日は3人のハルモニ(韓国での「お婆さん」の愛称)から「性奴隷」としての苦しい体験を伺える又とない機会です。そして私達の運動を強め謝罪・補償を1日も早く実現するエネルギーにしましょう。

なお、通訳の工藤千秋さんは北海道出身で韓国で結婚し韓国の学校で日本語を教えています。「ナヌムの家」のボランティアをしています。夏休みも終わっていますが休暇を取って日本へ来ています

○続いて、3人のハルモニが自らの過酷な体験を語りました。

前日には京都市長と会見し、新婦人の皆さんと親しく懇談を行いました。そこでも自らの思いを語りましたが、そうしたハードな日程にもかかわらず、この集会でも思いを熱く語りました。

まず、パク・オクソンさん(90歳)です。

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紹介―「ナヌムの家」ではいつも散歩をしている。足が速い。15歳の時に手伝いで早朝、友達と二人で川の向こうにある井戸の水を汲みに行った。そのとき日本兵に強制的に車に乗せられ「慰安所」に連れて行かれた。中国で終戦を迎えその後もずっと中国にとどまり生活せざるを得なかった。2000年韓国に帰国した。

<本人の訴え(要旨)>

90歳です。家が貧しかった。兄と弟が各2人いた。父はたくあん工場で働き、電気も水道もなく不便なところだった。友達と二人でご飯を炊く準備のため水がないので大きな川を渡って大きな桶を持って水汲みに行った。

男が来て「ちょっと待て」といった。一人が兵隊でもう一人は軍属だった(腕に白い腕章を巻いていた)。大きな男が自分を引っ張ろうとしたので騒いだら「静かにしろ!」といった。「すみません家に帰ってご飯の支度をしなければならない」と言ったが、「ついてこい」と言われた。ともかく大声で騒いだ。兵隊は「(もし逃げたら)おまえも捕まるし、おれも捕まる」といった。学校のような大きなところに連れて行かれた。トラックの中に上げられた。中で人の足に触った。自分達2人だけかと思ったら他にも人がいた。車に乗せられて暗い道をどんどん走った。泣いている人もいた。お腹が減って、兵隊が自分の食べた(食べかけの?)羊羹を出してきた。

3~4日車に乗せられて中国に連れて行かれた。そこは広い所で頭や足を怪我した人もいた。負傷した兵隊を治療する所だった。ソ連が日本を攻めようとしている時だった。1945年初めだった。ソ連が入ってきた。兵隊がばらばらになって自分は中国に取り残された。

DVD(宮崎敏恵・監督)「15のときは戻らない」で、パク・オクソンさんはどのようにして逃げたかを詳しく語っている

次は、イ・オクソンさん(87歳)

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紹介―自分は「慰安婦」という言葉が嫌いだと言う。15歳の時日本人2人に腕を掴まれて連れ去られた。中国で終戦を迎えたが韓国へ帰る術もなくすっと中国で暮らした。韓国政府が見つけてくれてやっと2000年に韓国に帰れた。自分の連れ去られた年月日を忘れずに覚えている

DVD15のときは戻らない」で語る)

<本人の訴え>

1927年生まれ。皆さんと喧嘩をするために来たのではない(会場・笑)。日本政府と話しをしなければならなかった。本当は安倍首相に会いに来たのだが、取って食われてしまうと思ってか安倍首相は逃げた。自分は15のときに大きな道を歩いている時日本人に連れて行かれたある日突然自分がいなくなり、父・母は探しただろう。何日も帰って来ないので死亡届を出していた。そして今は「ナヌムの家」に住んでいる。被害者のハルモニに「御免なさい」という言葉があればいいのに(日本政府は)言わない。15歳の時に連れて行かれ(「慰安所」では)なぐられ、刺された。そういう目にあわされたのに謝罪の言葉もない。不自由な足で日本に来た。自分で(謝罪・補償を)求めなければと思って。

謝罪と補償があれば15のときは戻ってくる。しかし(首相に?)会えなかった。心が痛い。娘や息子を日本は連れて行った。「慰安婦」はいない、娘を連れて行かない、と言っているではありませんか。中国に「慰安所」をつくっていないと言う。「金儲けに言った」というがお金はありませんよ。中国のお金を捨てて行った。ハルモニ達が死んでゆくのを待っている。この問題を解決しなければならない。(「慰安婦」が)一人残らず死んだとしても後世のために解決しなければならない。日本の学生達はかわいそうだ。日本の歴史を教えていないから。教科書に載っていないからだ。今後若い人は歴史を知らないでどうやって生きて行くのか。私は名誉と人権を奪われたので返してほしいのです。「慰安所」をつくった、「慰安婦」いる、いない、失ってしまった人権を回復してほしい。説明するのはいくら時間があってもしきれない。

ハルモニの最後は、カン・イルチュルさん

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紹介―12人兄弟の末っ子で皆から大変可愛がられて育った。当時日本が女性を連れて行くので兄弟はみんなカン・イルチュルさんの事を心配してくれた。学校へ行かねばならなかったのでおぶって連れて行ってもらったり兄の自転車に乗せてもらって学校へ連れて行ってもらっていた。ある日学校から帰ってくるとたまたま両親ん、兄弟の誰もいなかった。そこへ日本人の巡査が来て連れ出され、満州の「慰安所」に入れられた。終戦後も中国にずっととどまらねばならなかった。

<本人の訴え>

安倍首相が責任を取らねばならない。国民の皆さんに罪はない。今日もこの会場に子ども連れ出参加している方もいる。罪のない方がただ。いろんな話をして涙が流れて仕方がない。涙が枯れた。

中国の吉林省のチャンチュンという「慰安所」に連れて行かれ入れられた。兵隊に頭をたたかれていまも傷がある。痛みもする。2000年に韓国に帰って来た。

(写真はいずれも宮崎敏恵さん撮影)

2013年10月 9日 (水)

津軽で『慰安婦』学習会、熱く…

 

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(写真左・講演する安藤県議  右・会場風景)

津軽だより ー五十嵐吉美ー

稲の黄金色とりんごの赤い色が、鮮やかに津軽を染め上げています。

924日国会議員会館控室で、来日した韓国・ナヌムの家のハルモニ、カンさん、パクさん、イさんに、津軽のおいしいりんごを差し上げたら、喜んでうけとってくださいました。(写真)

昨年から1年、さまざまなところで「慰安婦」問題を語って、ジェンダー平等ゼミの会員が5倍に。その影響なのか、2013年度の総会を予定していた共産党・津軽女性後援会は、しっかり「慰安婦」問題を学習したいと、夏から計画。青森県議会議員の安藤はるみさんが8月に韓国・ナヌムの家をたずねた報告、宮崎さん監督のドキュメンタリーを見て、みんなで学ぼうという総会が企画されました。9月の23日、24日のハルモニの集会には、事務局長と役員の2人が上京して、直接ハルモニたちの話も聞きました。

106日土曜日。弘前市のアップルマラソンをはじめ、青森9条を守る講演会など各種行事が重なるなか、「日本共産党津軽女性後援会 2013年度総会と学習会」は73人が参加して開かれました。

工藤タミエ会長が「メディアは夏には戦争・平和の特集をするが、〈慰安婦〉問題だけは、取り上げたことがない。安倍首相の危険な暴走をくいとめるためにも、過去から学んでいきましょう」と挨拶されました。

安藤はるみ議員は「ナヌムの家を訪ねて」とまとめたビューポイントで、そもそも「慰安婦」問題とは、ナヌムの家の様子や、そこで考えたことなどを報告しました。最後に「これをひとつのきっかけにみんなで深めて、日本政府の謝罪と国家賠償をさせましょう」と結びました。

会場を少し暗くし「15のときは戻らない」DVDが上映されると、会場はぴたっと静まり真剣に見入る参加者。スクリーン上のハルモニの証言に、ハンケチを取り出して涙をぬぐう姿が、あちらこちらに見られました。

そのあと私は報告とDVDに関連して、今回来日したハルモニもふくめ、被害女性たちがふるさとから遠い地に置き去りにされたこと、ようやく韓国政府の捜査と呼びかけで2000年代になって帰国、多くの被害女性はPTSDに悩まされ生きてきたことなどを話しました。さらに23日、24日の集会の様子を報告。林博史教授が、当時の日本ではすでに公娼制を15県が廃止、1935年には内務省が廃止法案を提案するまでになっていたと指摘、戦前日本には公娼制度があったのだから問題ないという議論はなりたたないと批判、wam渡辺さんがシリア内戦でチュニジア女性が「イアンフ」という言葉そのまま、駆りだされていると報告したことなど、参加者に伝えました。

中村副会長(新婦人弘前支部長)は「お話を聞いて、元〈慰安婦〉のみなさんに申し訳ない思いでいっぱい。私が謝りたい。みなさんと日本政府が早く謝るよう運動を強めたい」。涙をこらえ決意のこもった挨拶で閉会となりました。

(写真上・院内集会の出番を待つパク・オクソン、カン・イルチュル ハルモニと五十嵐吉美、下津軽リンゴを持つイ・オクソン ハルモニ)

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2013年10月 6日 (日)

アットホームな、ハルモニを迎えて近畿のつどい

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 9月28日、京都駅近くのYIC京都工科大学校のキャンパスで、「「ナヌムの家」のハルモニを迎えて日本軍「慰安婦」問題の早期解決をめざす近畿のつどい」が開かれた。会場のいす席はあふれ最前列の前に特大のブルールシートを敷いて座る人もでる等、300人でぎっしり満員となった。

 四谷光子・大阪アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会代表があいさつし、キム・ハクスンさんのビデオの放映に続いて、吉川春子のコーディネートで3人のハルモニが体験を語った。

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 イ・オクソンさん(87歳 写真上)は皆さんとけんかするために来たのではない。安倍首相に会いに来たのだが逃げて行った。日本の若者が歴史を知らないでどうやって生きて行くのか、とも語った。

吉川が、「あなたは日本青年館で『慰安所』は人の屠殺場と言われたが、もしよければ詳しく語ってほしい」との質問に答えて、そこで日本兵に刀で切りつけられて今なお残る足の傷を、机に足を上げてソックスを脱いで示した。私は近くで見たが70年以上経てなお白い刀傷が残っていた。多くの女性が殺され弔われることなく街路に投げ捨てられ犬に食われたという話もDVD「15のときは戻らない」で語っている。

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 パク・オクソンさん(90歳 写真上)は「父はたくあん工場で働き、電気も水道もない不便な生活でご飯を炊くための水を桶を持って遠い井戸までくみに行って兵隊と軍属に捕まって引きずられてトラックに乗せられた。なぜ軍属とわかったかというと腕に白い腕章をしていたからだ。[家に帰して]というと、(帰しても)[おまえも捕まるしおれも捕まる」と言われた。トラックの中で人の足に触った。他にも人がいた。泣いている人もいた。3~4日トラックで中国に連れて行かれた。

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カン・イルチュルさん(86歳 写真上)は、12人兄弟の末っ子としてみんなから可愛がられて育ったが16歳で家族の留守中に家の中に入ってきた警察官に拉致された。中国の吉林のチャンチュンという所に連れて行かれた。安倍首相が責任を取らねばならないが国民の皆さんに罪はない。(日本の皆さんは)子ども連れで参加している。罪ない方々にいろんな話をして涙も枯れた。

 そして「慰安所」で日本兵に暴力をふるわれた頭の傷を指で髪を分けて、会場の参加者に見せた。 

 

3人とも中国で終戦後に放置されて、韓国に帰国したのは2000年!である。日本政府の謝罪・補償を自分たちが生きている間にしてほしいと強く訴えた。 

 会場からは関西で「慰安婦」問題に取り組んでいる各団体、個人の6人の発言があった。中には若者もいた。ハルモニ達はこの発言を聞いてきっと励まされたに違いない。

 集会の最後に皆でアリランの歌を歌った。朴さんは立ち上がり、何番も熱唱し会場はそれに和した。つずいてカンさんが「ゆうやけ こやけ」を歌いこれまた会場との大合唱になった。感動的なシーンだった。

(写真左・平安神宮、右・工事中の清水寺~ハルモニ達は忙しい日程の中京都観光も若干した)

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