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2013年9月

2013年9月27日 (金)

「ナヌムの家」のハルモニを迎えて「院内集会」開く

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 9月24日(火)午後、「ナヌムの家」のハルモニを迎えて「政府は今こそ日本軍「慰安婦」問題の解決を」と題して、院内集会(参議院議員会館講堂)が行われました。国会議員に「慰安婦」問題解決を託したい、多くの議員の参加を求めたいというハルモニの切なる思いがあふれる集会となりました。

 集まったのは会場いっぱいの300人。ハルモニの発言を初めて聞き『慰安婦問題への理解を深めたいという人から、「慰安婦」問題に長く取り組んできたその道のプロ、専門家といえるNGOのそうそうたるメンバー迄、幅広い人々で埋まりました。

 証言をされた元「慰安婦」は先日の日本青年館の若者集会と同じく、イ・オクソン、カン・イルチュル、パク・オクソンの三人です。

 ミニ学習会として①林博史・関東学院大学教授による『日本の戦争責任と日本軍『慰安婦』問題、②渡辺美奈・アクティブミュージアム(wam )事務局長による「国際社会の動きと日本が問われている事」が行われました。

 集会に参加してハルモニ達の訴えを聞いた国会議員は井上さとし、上野通子、紙智子、田村智子、たつみコータロー、仁比聡平、吉良よし子(以上参議院議員)、高橋千鶴子衆議院議員、と議員秘書の皆さんも多数参加されました。

 開会挨拶は堀江ゆり(婦団連会長)、経過報告は笠井貴美代(新婦人会長)、閉会挨拶は大森典子弁護士(「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール)でした。

 9月23日の日本青年館の若者の集会もそうでしたが、この集会は警察と国会の衛視の警備に守られる中開かれました。右翼が会場周辺に集結して「慰安婦」にされてご苦労された方々を口汚くののしる光景を見て初参加の、しばらくぶりで日本に帰って来た若い大学教員は驚きを隠しませんでした。「日本はいったいいつからこんな国になってしまったのだろう」と。ものが自由に言えない、民主主義が危機に陥れられるような社会にしてはならないと強く思いました。

 

2013年9月26日 (木)

ハルモニから若い世代へ―「慰安婦」問題を考えるつどい

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(写真左・日本青年館の控室で、左からイ・オクソン、パク・オクソン、カン・イルチュルの各ハルモニと吉川、右300人で満員の会場)

 9月23日(月・祝日)、東京千駄ヶ谷の日本青年館中ホールで、来日中の「ナヌムの家」のハルモニを迎えて、日本軍「慰安婦問題を考える集いが開かれました。会場は立ち見も出る程の満員で前から中ほどまでは生徒、学生、若者が埋めました

 「ナヌムの家」の安信権所長が、今回の日本訪問は時間がない、と言う焦燥感から来た、と壇上で述べましたが、来日したハルモニは、李玉善(イ・オクソン87歳)、姜日出(カン・イルチュル86歳)、朴玉善(パク・オクソン90歳)です。高齢をおして、あるいは最後かもと言う思いで、日本政府に謝罪と補償を求めて来たのです。

 プログラムは次の通りです。

 まず、民主青年同盟の田中悠委員長が若者を代表して歓迎のあいさつ。これに続いて1991年に初めて「慰安婦」被害者として名乗り出た金学順(キム・ハクスン)さんのかつて埼玉県浦和市での証言ビデオが上映されました。この発言が今日の「慰安婦」問題のスタートです。金さんに続いて237人の韓国人「慰安婦」が名乗り出てこの運動も発展しました。もし被害者が名乗り出なかったとしたら、「慰安婦」問題が日韓の中心課題になることなく、女性達はひっそりと惨めな一生を終えるほかはなかったのです。

 しかし金さんにとっては「慰安婦」としての自分の過去について語りたくない。自分がとてもみじめになるから」という気持ちです。それを押して、主催者の要請で、日本兵からどんな目にあったかを述べている貴重な映像です。1994年に「慰安婦」問題の埼玉署名推進委員会が撮っていたものを今回要点のみを短く編集し直したものです。

 続いて私(吉川春子)が、ミニ学習会の講師として50分「慰安婦」問題の基本点をお話ししました。初めて参加する若い方が多いのでわかり易くと努めましたが、はて… 

 そして、2年前に「ナヌムの家」で撮影したDVD「15のときは戻らない」(宮崎敏恵監督)のダイジェスト版(11分30秒)の上映。そしてそこに映っているご本人達がご登場、というわけです。

 何と言ってもハイライトはハルモニの証言です。

◎イ・オクソンさん~日本のした事を思うと血がたぎるような思いがする

 自分は「慰安婦」と言う言葉は嫌いだ。15のときに日本人2人に腕をつかまれて連れ去られたのにどうして「慰安婦」と呼ばれなければならないのか。

 日本人が朝鮮半島に入り込んで(韓国と言う)国が失われた。自分は鈴木と言う名前になった。どれだけ怖い思いをしたと思われますか。36年間、日本は植民地支配をしてどれだけ踏みつけたか分かるか。

 「慰安所」がどんな所で、(私達が)どんな目にあったか皆さんに分かるか。そこは人間の屠殺場と表現できる。それが「慰安婦」と言う意味だ。私はその言葉を聞きたくない。15のとき無理やりに連れて行かれたのです。年のゆかない少女たちを銃で殺した。

 日本は何万人、何千人を連れていったと思いますか。強制的に連れて行ったから、解放された時(戦争が終わった時)連れて帰らなければならない。(しかし、置き去りにした)帰ってきた人は連れて行かれた人に比べて少なかった。

 (祖国に帰る術もなく)自分は中国でずっと暮らした。韓国政府が自分を見つけてくれて韓国に帰れたのです。

 自分は87歳になった。日本政府は補償も謝罪もしない。死ぬ前に解決してほしい。皆さんを信じている。死ぬ前に受け取りたい。謝罪してほしい。そのために日本に来た。

 ◎パク・オクソンさん―皆さんに真実を話すのに時間が足りない

 家が貧しく、父母も自分も働かなければならなかった。飲み水は川に汲みに行かねばならなかった。父母が忙しいので自分が水を汲みに行かねばならなかった。朝一番に友達と二人で陽の出るのを待って川に出かけた。

 日本軍人に「おい、待て!」と声をかけられた。騒いで逃げようとした。水に入ろうとしたが、男達二人が自分たちを担いだ。「家に帰してほしい」と頼んだのに、つれて行かれてしまった。泣きながら引きずられていった。外はまだ暗い中、車が用意されていた。

 軍隊の大きな車、これまで見た事のない大きな車に乗せられた。また自分は泣き叫んだ。投げ込まれるように車に乗ったら、すでに20人位の女性が乗っていた。暗い中、車にず―と乗せられてどこかに連れて行かれた。

 遠い所に連れて行かれた。この会場のように広い所。今思うと軍隊(の建物?)だった。

 15歳の幼い子どもの時連れて行かれた。そこでアキコと言う名前をつけられて、5年間「慰安所」にいた。

 戦争が終わり、今自分はここにいる。皆さんに真実を話すのに時間が足りない。

 解放後(終戦後)、家もなく、父母もいなくなった。

 ◎カン・イルチュルさん

 日本軍が私たちを強制的に連れて行ったのは事実です。

 当時女性を日本が女性を連れて行くので兄弟がみな心配していた。自分は12人兄弟の末っ子で皆から可愛がられて育った。父や母も末の自分をとても可愛がってくれた。

 姉達は自分が日本軍に連れて行かれるのを心配し、学校へ行かなければならないので兄が自転車で連れて行ってくれた。親兄弟から可愛がられて、おぶって連れて行ってもらった事もある。学校の事は忘れられない。

 当時日本人が怖かった。一人の兄は北海道へ連れて行かれた。

 (それだけ注意していたのに)私は「慰安所」の連れて行かれた。学校に行っていた時に岡田と言う人に連れて行かれた。なにをするかも知らず、ひどい事をされた。父母、兄弟とはそれっきり会う事ができなかった。本当に悔しい。

「慰安所」ではトイレに行って少し遅れて帰ってくると軍人に殴られた。

(頭のてっぺんにある傷を示す。「この傷は今でもいたい」と、夕食のとき隣に座った私に話してくれた)。トイレでも血便が出た。

会のフィナーレは、ハルモニが歌う 日本の童謡の ゆうやけ こやけ       

 3人のハルモニがかわるがわるマイクを取り、語り、心から絞り出す言葉が会場に伝わり、熱気が高まった。

 突然、カン・イルチュルさんが、”夕焼け小焼けで陽が暮れて…♪”と日本語で歌いだし、会場と合唱になった。韓国のハルモニが日本語で童謡をうたう…これはハプニングに違いなかった。

 後刻、私が、なぜ夕焼けこ焼けを歌ったの?聞くと、カンさんはいう。

 「最後は"カラスと一緒に帰りましょ”となっているので歌いたかった」と。

 日本兵に教わったの、と聞くと「学校で習った」と言う。ゆうやけこやけ、という童謡をハルモニが知っているという事もまた、日本植民地支配の名残であるのだ。

(写真は「ナヌムの家」ハルモニ一行、後列真ん中は安信権・所長、参議院協会談話室で)

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2013年9月21日 (土)

第11回ゼミナール・名古屋市で元朝日新聞記者が講師

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 9月21日(土)午後、名古屋市中心部にある”ウイルあいち”(愛知県女性総合センター)の大会議室にいっぱいの人を集めて、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールが開かれました。22日からの「ナヌムノ家」一行が来日するという時期なので東京からは棚橋事務局長と具島順子世話人と吉川の3人が参加しました

 まず、ドキュメンタリー映画「終わらない戦争」が上映されました。日本軍「慰安婦」として性暴力にさらされた韓国、中国、フィリッピン、オランダの女性たち。何度見ても涙がこみ上げてくる映画です。「日本の真の謝罪がない限り彼女たちの心の中の戦争は終わらない」というナレーションが心に沁みます。

 続いて「戦争の中の女性ー被害者の尊厳回復を願って」と題して、元朝日新聞記者の井川一久さんの講演が行われました。井川氏は元朝日新聞那覇支局長、サイゴン支局長。取材を通して武力行使のもとですさまじい女性への性暴力が行われたことが生々しく語られました。ベトナム戦争時の米兵、韓国兵による性暴力、ポルポトのホロコースト、朝鮮戦争、ソ連兵による日本女性強姦、敗戦直後日本に張り巡らされた「慰安所」等について語りました。

 そして日本人「慰安婦」の調査を大々的に行うのは今が最後のチャンスであると強調されました。島原等具体的な地へ行って、恐らくは90歳を超えていると思われる「慰安婦」の体験をじかに聞く必要を強調しました。

 最後に「むくげの花」(作詞・作曲中山淑子)を合唱して会を閉じました。なお開会あいさつは吉川春子代表世話人、閉会あいさつは水野磯子副代表世話人でした。(写真は「ムクゲの歌」を歌う主催者、講師の井川・元朝日新聞記者)

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2013年9月 1日 (日)

25年続いている さいたま市三室 平和のための戦争展

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 8月31日、暑さが逆戻りした土曜昼下がり、さいたま市の中でも緑豊かな緑区三室の大古里(おぶさと)公民館で記念講演・終わらない戦争ー慰安婦を知っていますかーと題して60分吉川が話し、その後30分質疑が行われました。戦争展展示は同公民館で1週間前から行われています。さいたま市が後援しています。

 全員合唱あり、紙芝居あり、そして朗読劇「この子たちの夏」小学生5人と主催者の櫻井和人弁護士を含む大人6人が麦わら帽子をかぶって出演しました。小学生達は今年初めての出演で会の始まる少し前にリハーサルをしただけとは思えない感情もこもった朗読劇でした。

 吉川の講演後質問に答えました。その中で、「テレビで池上彰さんが「『慰安婦』の女性には政府からお金が支払われていて、すでに解決している」と話していたが、どうなのか」と質問がでました。そんな事を言っているのかと私はびっくりしました。

 池上さんと言えば元NHK アナウンサーで今をときめく時事問題解説者として売り出している人物です。私自身も彼はいろんな事をよく勉強しているな、という漠然とした印象を持っていました。

 しかし、「慰安婦」問題に関して、アジア女性基金の「償(つぐない)い金」支払いで政府の責任を果たしているという主張は、国際社会はもちろん、被害女性からも受け入れられていません。池上さんは政府の代弁者になってしまっています。

 政府は「慰安婦」被害者にアジア女性基金から支払いましたが、その国別の人数は?と聞いても政府は答えません。韓国、台湾、フィリッピン3カ国ですがそれぞれ何人に支払ったかを国会で私が何度質問しても答えません。「人数を言うとお金を受け取った人に迷惑がかかる」と言う理由です。

 支払った人の名前ではなく、国別人数さえ明らかにできない「アジア女性基金」とは何なのか。もちろん、被害国政府も、被害女性も納得していません。韓国政府はこの制度をスタートさせた翌年には中止を求めています。知名度のある人物が「アジア女性基金」で解決済みと[解説」する事は世論を誤導しかねません。テレビを見る側も注意が必要と言うことでしょう。

 さて、この夏各地で[戦争展」が開かれ戦争の悲惨さを次世代に引き継ぐ催しが開かれました。この記憶を風化させてはなりません。同時に日本人は戦争被害者としてだけではなく、侵略戦争の加害者でもあるのです。アジア諸国の人民は日本の戦争中の残虐行為を決して忘れてはいません。「慰安婦」問題はその象徴的な問題です。

 「過去に目を塞ぐものは現在にも盲目となる」と、ドイツのワイツゼッカー大統領は1985年国会演説で警告を発しました。そして責任の有無、老幼を問わず、国民全体が過去を引き受ける責任がある、とも述べています。かみしめたい言葉ではありませんか。

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