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2012年9月

2012年9月27日 (木)

大阪・木津川南地区委員会の「慰安婦」問題学習会

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(写真左はパワーポイントで講演する吉川、右は韓国訪問の報告をするわたなべ結3区候補)

 9月26日(水)西成区民センターで午後7時から「旧日本軍『慰安婦』問題と日本共産党の役割」について、元参議院議員吉川春子が講演しました。参加者は74名で、男性の数が女性を上回りました。『慰安婦』問題の講演会としてはとても珍しいことで、男性が多く参加されることは歓迎すべきことです。 能勢みどり地区委員長が9月11日~9月13日にナヌムノ家に行ってきた、この問題をこれ以上解決を遅らせられないと切々と訴えました。続いて「ナヌムノ家」からのメッセージが読み上げられました。

 「6月にもハルモニ(元「慰安婦」のおばあさんのことをこう呼ぶ)の一人が亡くなった。この方は身寄りがないのでナヌムノ家から母として送り出した。静かなお葬式だった。ナヌムノ家には年間訪問客が3000人~5000人訪れるがハルモニたちはすべての訪問者に証言してきた。 毎日のニュースにくぎ付けになって注目しているが解決は見えない。「今日は日本からの客に会いたくない」とある日とうとう、ハルモニは言った・・・。日本の国会議員と首相、都知事、大阪市長にナヌムノ家から招待状を送った。ぜひ訪問して、資料館をみてほしいと。毎日郵便配達が来るたびに返事を待っているが、まだ誰からも返事は来ない・・・。韓国の「慰安婦」の生存者は60名、平均年齢は88歳になった」・・・

 私は聞いていて、ハルモニ達の「訪問する日本人に正直に証言してきたのにまだ解決しない…」という焦りといらだちを感じ、一日も早く謝罪、補償を行わなければと強く思いました。つづいて吉川元議員が1時間程度「慰安婦」問題と今日の政治状況やドイツ旅行で感じた歴史に向き合うという姿勢の日本との大きな違い、今何をなすべきか等について講演しました。

 最後に、大阪3区候補のわたなべ結さんが韓国訪問について詳しく報告しました。水曜デモ、「ナヌムノ家」でハルモニとの交流、3.1独立運動発祥のパゴダ公園、日本が独立運動を弾圧し朝鮮の愛国者を処刑した西大門刑務所跡の博物館等。そしてハルモニ達が大声で日本大使館に向かって謝罪、補償を求める声を聞いて申し訳なくて涙が出たとも。渡辺候補は1981年うまれだそうで、若いしなやかな感受性に感動しました。

 橋下「維新の会」が第3局として脚光を浴びる中、日本の反動化をゆるさないために大阪は全国1の重要選挙区です。ドイツでヒトラーが国民の不満を集めて政権に近づいたように、民主党にも自民党にも失望している国民の期待が橋本グループこそ第3局であるかのように映じ、支持が集まる恐れがあります。かつてファシズムの荒れ狂った日本、この恐ろしい歴史の轍を踏まないために、死に物狂いで頑張らねばならない、そんな決意が伝わってくる集会でした。

2012年9月24日 (月)

大阪寝屋川市で「慰安婦」問題講演会に140人が参加

 9月22日(土)日本共産党北河内南地区委員会で「慰安婦問題で今考えるべき事」と題して私・吉川春子元参議院議員が講演しました。会場にあふれる人が集まり「慰安婦」問題の関心の強さが感じられました。2つの理由が考えられます。

 第1.昨年8月30日の韓国憲法裁判所「決定」以後の韓国政府の日本への「慰安婦」問題解決の要請に対して、野田総理は応えていません。その結果韓国大統領は竹島上陸という強硬手段に出て、韓国の反日世論も盛り上がっています。マスコミ報道は連日されています。私達はこれは「反日教育のためだ」という受け止め方では韓国の人々の気持ちは理解できないでしょう。韓国に行くと日本の植民地支配に関する博物館の展示やメモリアルの多さに驚きます。日本は朝鮮半島の植民地支配について反省していないとの思いがひしひしと伝わってきます。その事を日本人は感じ取る必要があるのではないでしょうか。

 第2。橋下大阪市長の「強制連行はなかった」発言です。しかし、これは何人ものタカ派政治家が繰り返し行っています。騙したり強制してりして「慰安婦」にした事、「慰安所」は国連では「強姦所」と呼ばれていますが自由のない悲惨なものだったことは世界中に知れ渡っています。国連諸機関、ILO,そして世界各国から謝罪、補償、犯罪者の訴追の勧告が突き付けられているのです。

 また、橋下市長は、宮沢内閣の時の河野官房長官談話は、閣議決定ではないから強制連行の根拠になり得ない等といっています。しかし政府は当時2年もかけて、各省庁から資料も大量に出させて談話をまとめているのです。国会議員への文書質問の答弁書が閣議決定だからといいますが、たかだか1週間でまとめる事が義務つけられている閣議決定の方が信用できるなどとどうして言えるのでしょうか。

 極めつけは「慰安婦」被害者の発言は信用できない、というとんでもない市長の発言です。私は数十人の「慰安婦」から直接話を聞いていますが涙なしに聞けない悲惨な話ばかりです。そもそも性暴力について告白するほどつらいことはありません。キムハクスンさんが被害者だったと告白したのは戦後46年経ってからです。日本人「慰安婦」は誰ひとり名乗り出ていないのです。ソウルの日本大使館前では20年以上も毎週水曜日に日本政府に謝罪と補償を求めた集会を「慰安婦」達はしていますが、事実でもない事をこんなに長く訴え続ける事ができるでしょうか

 「慰安婦」は高齢化し数年を経ずして生存者はいなくなるかもしれません。日本は性奴隷とした女性達に謝罪も補償もしなかった国として永久に汚名をそそぐ機会を失うのです。そんなことにならないように「1日も早く謝罪補償を実現するために頑張りましょう」と訴えました。

2012年9月17日 (月)

ドレスデン 古典巨匠絵画館~しばし芸術に浸る

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<ドレスデン絵画館>                               <18世紀のようなエルベ川風景>

ポーランド・ドイツの旅もう一度

9月7日(金)、強制収容所の視察で人間の醜さ、残虐性にこれでもかというくらい触れた私達は、旧東ドイツの都市ドレスデンで空襲から復旧した美しい建物と、絵画館で人間の美しさをとどめる芸術作品を鑑賞し、心を満たした。以下、ガイドさんの解説と「ドレスデン絵画館」(日本語版)により私達の見た絵をご紹介する。

①マドレーヌのビーナス チチアーノ 初めての裸体、結婚指輪右手 ヨーロッパ 明暗、大事な人は光の中

②システィナのマドンナ ラファエロ作 フランシスコの生母 聖マリアの目、初めてわれわれ(一般の人)の方を見る。幕は天国は近くない事を現す。背景は天使の顔、宮殿より高い絵

③ボッチチェリーの絵 第2次大戦中ばらばらに疎開させた。ドレスデン爆撃の3年前に避難。ソ連、1950年代に8割返還。プーチン大統領3枚返す

④ラファエロ 東ドイツは返してほしいと要求したがロシアは返さず。バッカス、赤ちゃん、酒

⑤フローラの王国 ニコラプッサン画 古代ローマの詩人、オビディウス作「変身物語」を画題にしている。死ぬと花に変わる。ナルシス(スイセンに生まれ変わった)、アイアス(白いカーネーション)等

⑥バベルの塔 マルティン・ファン・ファルケンボッホ 旧約聖書「創世記Ⅱ」のバベルの塔を題材にした絵

⑦酔っ払いのヘラクレス ルーベンス ギリシャ神話の英雄のひとりヘラクレスが酔っ払ってニンフとサトゥロスに支えられて立っている絵。フランドルのバロックを代表する画家ルーベンスの絵が何点か飾ってあり堪能する。ドイツ人もルーベンスが大好きの由。

⑧噴水のそばで手紙を受け取るバテシバ ルーベンス 旧約聖書の話しを画材に。バテシバのモデルはルーベンス2度目の妻エレーヌ フールマン、最初の妻と死別し53歳で16歳の女性と再婚

⑨レンブラントの妻 4人目の子どもを妊娠中。3人の子はすでに死亡。妻はこの子の出産後に死亡、不幸なレンブラント。

⑩「窓辺で手紙を読む少女」「取り持ち女」 フェルメール 東京上野で「真珠の首飾りの女(青いターバンの女)」を見たばかり、ここでフェルメールに会えるとは思わなかった。「取り持ち女」は酔っ払った売春婦を描いた若いころの作品。私の知るフェルメールとは印象が違う派手な絵

⑪チョコレートの少女 リオタール 水彩 この絵はドイツ国民に絶大な人気を誇っているだけあって気品あふれ美しい。この絵は一見の価値あるが希望者だけで見た。なぜなら階段をさらに何十段か上って歩かなければならないから。こんな素晴らしい絵を誰もがすぐ見えるところではなく絵画館の一番遠い場所に展示するのもドイツ人らしい。 

2012年9月13日 (木)

戦争と暴力支配犠牲者のための ドイツ連邦共和国中央慰霊所

”ポーランド・ドイツの旅 もう一度”

<写真左・ノイエ・ヴァツヘ、右ケーテ・コルベッツのピエタ像と>

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9月10日(日)に私達は美しいギリシャ・コリント風の柱の建物、ノイエ・ヴァツェ(ドイツ中央慰霊所)を訪問した。建物よりもっと美しい、心打つ碑文、そしてケーテ・コルビッツのピエタ(亡くなった息子を抱く母の像)も心にしみる。以下に碑文を紹介する

 ノイエ ヴァッヘは 戦争と暴力支配の犠牲者に対する 記憶と追悼の場である。 

 我々は 戦争で苦しんだ各民族に思いをいたす。我々は そうした民族の一員で

 迫害され 命を失った人々に思いをいたす。 

 我々は世界大戦の戦没者たちに思いをいたす。我々は戦争と闘争の結果により

 故郷で 捕らわれの身で また追放の身で

 それぞれ命を落とした罪なき人々に思いをいたす。

 我々は殺害された何百万ものユダヤの人々に思いをいたす。

 我々はシンティ・ロマの人々に思いをいたす。

 我々はその出自,その同性愛その病や弱さゆえに それぞれ殺されていった全ての人に

 思いをいたす。

 我々は宗教や政治的信条のゆえに生きる権利を否定され命を落とさねばならなかった

 人々に思いをいたす。

 我々は暴力支配に抵抗し命を犠牲にした 女性たちや男性たちに思いをいたす。

 我々は自らの良心を曲げるより死を受け入れた全ての人々の栄誉をたたえる。

 我々は1945年以降の全体主義や独裁主義に逆らったために

 迫害された女性たちや男性たちの思いをいたす。

 日本の戦没者慰霊のやり方との違いを見せ付けられた。ゲーテやシラーを持ち出さなくともいいが碑文の格調の高さ、首都ベルリンの目抜きどうりにあり、慰霊の対象は、戦争と暴力犠牲者。そして全ての民族の犠牲者と範囲が広い。ユダヤ人というだけで、あるいはまた政治信条ゆえに、信仰ゆえに、良心を守るために命を落とした人々、同性愛者、ロマといわれる人々の慰霊所である。

 翻って、我が国の靖国神社は天皇に命をささげた人のみを慰霊の対象にし、加えて第2次大戦のA級戦犯まで神として祭っている。同じく都心の一等地にこうした施設(神社)がある事に改めて驚く。(千鳥が淵はすべての戦没者が対象であるが)

2012年9月11日 (火)

ダハウ強制収容所、白バラ記念館視察

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<ゾヒ―・ショルの石膏像>

9月10日(月)

 午前中はミュンヘン大学構内にある白バラ記念館で、ナチスの抵抗するビラをまいただけで逮捕され裁判で死刑の判決を受け、即日即ち、1943年2月22日に処刑されたハンスショル、妹のゾフィーショル、友人のクリストフらの反ナチ運動を検証している白バラ記念館を見た。当時の情勢はドイツ軍がソ連軍との戦いに敗れ敗戦は確実な情勢になっていた。しかし多くの国民には情報は知らされず、ナチスの学生たちへの弾圧も一層厳しいものとなっていった。

 22歳のゾフィーは「あなたは兄にそそのかされただけではないか」と言われるなど、権力側も死刑を免れさせたいとの思いから誘いもあったが、彼女は毅然として裁判で自説を述べた。自分が処刑されることで学友たちが自分に続いて決起する、と信じていたからである。ミュンヘン大学のキャンパスには敷石のタイルに印刷された「白バラのビラ」が埋め込まれていた。ゾフィーショルたちの何物をも恐れない情熱が伝わってくる。ナチスに対するレジスタンスはいくつもあったが青少年のレジスタンとしては唯一のものであったという。

 午後は、ミュンヘンの北80キロ地点にあるダハウ強制収容所に行く。ここはヒトラーが政権を獲得してすぐに建設された強制収容所第1号である。30カ国20万人がここに入れられ、3万5千99人が病気、飢餓、処刑で命を落とした。ガス室は使われなかったものの1945年に米軍が解放した時は死体の山が築かれていたという。

 戦後、米軍はナチスの収容所における蛮行の写真を展示したが、その悲惨さ、あるいは野蛮行為が明らかにされると「街の印象が悪くなる」といって、地元住民はこれの展示を中止させた。しかしダハウ収容所の生き残りの人々が、せめて追悼施設を造ってほしいとの要求を掲げて市長や住民との対立がつづいた。結局ここにとらわれていた宗教者の橋渡しもあって妥協案が成立、1960年に追悼施設ができた。

 ドイツにとってもナチスの時代はできれば忘れ去りたいものという世論が強かったが、それを克服し、加害の施設を造ったところが日本とは大きく違う。施設内に骨と皮になって骸骨を思わせる人体と、電流の流れる有刺鉄線をイメージしたモニュメントが飾られている。

<写真左はダハウ強制収容所入口、右はダハウ強制施設の生き残りの人々のモニュメントの前で>

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2012年9月10日 (月)

ベルリンにて、壁崩壊後の変貌を実感

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<写真左・ベルリンの壁の裏側に設けられた「テロルの地勢誌」建物前 右ナチス時代の死刑執行場>

9月9日(日)

  午前中いっぱい、旧東西ベルリンの街をバスで回り、その後列車で6時間半かけて、ドイツ南部のミュンヘンに到着。途中の田園風景や赤いレンガの家並みが続く景色を堪能した。

 ベルリン市内で最初に案内された場所はナチス時代の死刑執行場の建物。1933-1945ヒトラーに処刑された人の追悼の壁があり、その奥は死刑執行の場所と、資料館になっている。4月20日有名な、国防軍将校によるヒトラー暗殺計画が失敗に終わり、その首謀者もここで処刑された。処刑された人々については家族に対する死刑執行のお知らせだけではなくその費用の請求書を送りつけていた由。

 日曜日なので人出が多い市内、ブランデンブルグ門から東ベルリンに入る門・チェックポイントを通過、18世紀に建設されたドイツ大聖堂、フランス大聖堂、コンサートホール、シラーの銅像、そして大きなフリードリッヒ大王の銅像を見学。

 中央追悼所はすべての人を追悼するという世界でも珍しい施設の中にはがらんとしているがケーとコルビッツの像が中央に置かれていた。「良心を曲げることよりも死を選んだ人々に思いを致す」等の心に染みる言葉が記されている。

 東西を隔てた壁が残され壁に沿った裏側は、野外の歴史博物館で写真、記録等が展示され多くの人が見入っていた。そのすぐ隣に市民の強い要望で立派な「テロルの地勢誌」(ナチ時代の加害の歴史研究所ー梶村太一郎氏)が比較的最近建設された。ここにもナチスのホロコーストに関する写真がふんだんに展示されている。こんなにも日常的に、こんなにも首都の中心地にナチスへの告発、がたくさん展示されて市民も日常的に見学できる条件があることに驚く。

  戦争やファシズムへの反省の公的博物館、メモリアルの全くない日本との差の大きさに驚く。日本はと言えば首都の真ん中に戦争犯罪人を神として祭る靖国神社があり、付属の博物館は侵略戦争は正しかったと宣伝する日本。いったい日本をどこに導こうというのか。  このことについて批判もさして起らないし、宗教法人として莫大な国費の援助がある。これでいいのだろうか、強い疑問を禁じ得ない。このままではその付けを日本は払わなければならない日がきっと来るのではないか。(写真は「テロルの地勢誌」内部の展示)

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2012年9月 9日 (日)

女性専用強制収容所の特殊任務とは?

  

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<ローザ・ルクセンブルグが投げ込まれた運河に建つ顕証碑の前で、ベルリン>


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2012.9.8.(土)

ベルリンから車で1時間半、私たちがラーフエンスブリュック強制収容所に着くと「日本の女性がやってくることはうれしい」と歓迎してくれた。常設展示館は閉鎖中だったが、研究員の説明を同行のガイドの通訳で2時間聞いた。日本の青少年との交流を定期的に行っているという。

ここラーフェンスブリュックはナチスの整備した最初の女性収容所は旧東ドイツ、メクレンブル地方のフェルステンベルク市に近いベルリンの北80キロ地点にある。私たちの行ったのは初秋のよく晴れた気持ちのよい日ではあったが、ここは、1年を通じて冷たい風が吹きすさび「メクレンブルクのシベリア」と呼ばれる気候の厳しいところにある。

1939年に設置され16の収容棟が、ドイツ軍の侵略拡大につれて捕まる女性が増えて1945年には32の収容棟に増えた。ドイツ女性だけでなく、ジプシー、エホバの証人、ナチスの政治的敵対者、反社会的人物(売春婦等)、非ユダヤ人と結婚したユダヤ人女性などが収容された。妊娠中の女性も逮捕したためこの収容所で生まれた子どもは600人もいた。名前を付けるまではしたが多くは生きられなかった。それは女性看守は平気で子どもを放置したから。女性には母性本能がある等は疑問であると、研究員は語った。

末期にはガス室もできて死体処理施設からは毎日のように煙が上がるのが、湖を隔てた町の人々も見ていた。

<売春宿>

ここは基本的には女性の器用さが求められシーメンスなど大企業の工場に派遣され強制労働をさせられたが、他方、他の強制収容所の売春宿に送られ性暴力の犠牲になった女性も少なくなかった。きれいで健康な女性を見つける事を収容棟の班長に命じられた。「特殊任務として6カ月働けば自由にする」と言って募ったという。

収容所の男性模範囚にはご褒美として売春宿のチケットが与えられた。マウントハウゼン強制収容所に送られた女性達は、はじめは8時間労働、食料も十分与えられ衣服も支給されたが、生存者の証言によると売春宿を訪れる男性の性暴力はすさまじかったという、自分のストレスをより弱い立場の女性達にぶつけたのだろう。

日本軍「慰安婦」の運動の中でレ―フェンスブリュックでの強制売春の女性の実態が分かってきた。

「女性の体をこういう形で利用するという点で共通性のある、日本とドイツの強制売春の記録を一緒に出版されたらいいなと思う」と研究員は語った。ドイツの強制売春も日本軍「慰安婦」の運動の結果実情をつかみ研究が始まったのだという。Photo
<やせ衰えた女性の銅像の前で>

2012年9月 8日 (土)

ジャーナリストとの懇談

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<写真上・ドレスデンのオペラハウス前で、下・ホテルのロビーで、左・梶村氏、その右妻道子さん>

9月7日(金)

 第2次大戦でドレスデンはイギリス軍の空襲によりオペラハウスも、教会も、美術館も徹底的に破壊された。それを国民は根ばり強く戦後建物の再建を成し遂げた。木っ端みじんにされたオペラハウスだが空襲で焦げたかけらと、まったく失われた壁は新規に、モザイク模様のように再建された。建物の下の部分は黒焦げのまま、そして高くなると黒焦げ部分は減って新しい建材で仕上がっている。日本ならすべて新しくするところだが…

 聖母教会は最後に復旧した。社会主義だったという体制が原因だという。絵画館では、ラファエロ、ルーベンス、レンブラント、フェルメールの本物の絵を堪能した。一昨日、アウシュビッツという人間の最も残酷な、醜い面を見て衝撃を受けた私たちは、絵画でとても癒やされた。人間の崇高な、美しい面に触れたひと時であった。

 近くにエルベ川が流れ川岸の風景は18世紀かと思うような古典的な建築物が建っている。チェコからマイセン、ハンブルグと1100キロの距離をゆったりと流れる。ドレスデンは、東西統一ドイツとなり人口が西ドイツに流入し減少したが、今は50万人と往時の水準を回復しつつある。資本主義化されて失業問題と外国人移民問題を抱えることになったという。

  午後はバスでベルリンに移動した。夜はベルリン在住の梶村太一郎氏と妻の美智子さんにドイツと日本の政治状況について食事を共にしながら話を聞いた。梶村氏は日本のマスコミにも記事を寄稿している。ドイツと日本の戦争に対する姿勢の違いを指摘されて興味深い。

 最近では福島原発問題と、チェルノブイリで被害を受けたドイツの脱原発に至る過程について鋭い分析をされている。福島原発は日本崩壊の始まりではないか、との警告を発せられ私は恐れていることをはっきりと指摘された気がした。そうはさせないぞ、という気持ちが燃え上がった。 また妻の道子さんは「ナチズムと強制売春」クリスタ・パウル著を翻訳されていて女性の性暴力の研究者でもある。レストランで懇談の後ホテルに場所を移し熱心に参加者の質問に答えられていた。ドイツ在住の女性たちが性暴力について研究していると聞いて頼もしく感じた。

2012年9月 6日 (木)

アウシュビッツ・ビルケナウの衝撃

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<写真・ビルケナウで池谷氏(左中央)の説明を聞く>

9月5日(水)快晴

 ポーランド第2の都市、クラクフ市(人口80万)のホテルを8時出発、9時半から14時まで、ナチスの設置した絶滅収容所・アウシュビッツの見学。ガイドとして名高い中谷剛氏の案内でホロコーストの最大の舞台となったアウシュビッツをじっくり見学した。私(吉川春子)は、終始日本の歴史と向き合う姿勢と比較しながら考えた。今回はほぼ10年ぶりに聞く中谷氏の解説はいよいよ冴え、今後の私たちの生きてゆく上での多くの考える材料を提供してくれた。16時ホテル帰着後、クラクフのヤギウエオ大学の建物を視察後中央広場で買い物をした。

  アウシュビッツは1000人収容できる建物が20棟もあった。収容所入り口の「働けば自由になれる」は看板に偽りあり。当初は大企業に労働力を提供する強制収容所としてスタートしたが、1942年のワンゼー会議でユダヤ人の処分方法が確定してからは殺人工場と化し、この門をくぐった人々は10人に一人しか生き残れなかった。アンネフランク1家もここに送られた。生き残ったのは父のオットーフランク氏1人だけだった。

 収容所入口近くには「囚人」たちによるオーケストラが演奏された。またその向かい側の煉瓦建物2階は「売春宿」で女性の「囚人」が収容所の労働効率を上げるために、売春宿行きのティケットを手にしたほんの一部の男性たちに売春を強要され、女性は2重に被害者となった。この女性の中にはユダヤ人とジプシーは除外されていた。ナチスはユダヤ人との性交を禁止していたから。

  被害者である男性囚人が売春を強要された女性に対しては加害責任を負わせることとなるのでこのことはヨーロッパ社会ではタブーになっていた。彼らを加害者として糾弾できるか、という複雑な問題も生じる。事実の研究が始まったばかりであるが、女性の人権た戦争と性暴力というテーマは追求されなくてはならない。

  展示室には女性の髪の毛とそれで作った「製品」、義足、眼鏡のつる、開かれることのなかった旅行用スーツケースなど収容者たちの所持品等が山と詰まれて展示されている。所有者のたどった運命を思うと胸が絞めつけられる思いである。

 私たちは早く着いたのでまだ混雑はしていなかったが、ヨーロッパからと思われる人々が圧倒的に多く続々と詰め掛けていた。日本人は年間1万人が訪れるというがいかにも少ない。韓国人は4万5千人も訪れるという。この差は何が原因なのか。(アウシュビッツを子どもに見せることは残酷すぎるという人もいると聞く)。私がどんな遠い国に旅行しても「こんな処にまで!」と思うほどに、日本人があふれているのにアウシュビッツはそうではない。なぜか?

 日本人一般に加害意識が乏しいことと関係はないのだろうか。日本はドイツの同盟国で、ドイツの蛮行を間接的に支援したという事にもなのではないか。また日本自身がアジア諸国民に対して、ーナチス以上か、以下かは別としてー蛮行を行っていた。しかし、戦後のドイツと違って、日本には戦争の時に何をしていたのかを国民に知らせる博物館はほとんど皆無である。社会教育も学校教育も加害責任には目を閉じている。せめてアウシュビッツ等に足を延ばして、現実に触れる必要があるのではないか。

<写真は、アウシュビッツの「売春宿」のあった煉瓦建物>

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2012年9月 5日 (水)

ポ-ランドの首都・ワルシャワから第1報

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<左・ワルシャワ蜂起記念碑、右・王宮の前でガイドの説明を聞く一行>

9月4日(火)

 昨夜はホテル・ボローニア・パレスで1泊。窓の目の前にはスターリンの贈り物として1955年完成の「文化・科学宮殿」がそびえる。スターリン主義のソ連支配で苦しんだポーランド人民には不評な高層建物である。ワルシャワは、「文化宮殿から見る景色が最もいい。それはこの宮殿が見えないから」という有名なジョークはワルシャワ訪問の度に聞かされる。

 9時バスでホテル発。ワジェンスキ公園のショパンのモニュメント、パデレフスキの銅像をバスの中から見学し、無名戦士の墓の前で下車。ちょうど24時間たち番をしている衛兵の交代の時間帯に出くわす。その後は徒歩で聖十字架教会へ。1781年にはポーランド憲法を公布したが、ショパンの心臓が保存されていることで有名。

 ポーランドの国民的詩人・ミツケビッチの大きな銅像をの前を通り王宮へ。社会主義時代にこの建物の復旧は政府が乗り気ではなく市民のボランティアが活躍した。市場もナチスの空襲で破壊されたが見事に復旧を果たしている。この広場の一角の古いビルでは今でもワルシャワ空襲のすさまじさと戦前の美しい市街地のドキュメンタリー映画が上映されている。(私ー吉川ーが、1979年にワルシャワに立ち寄った時もドイツ軍に徹底的に破壊されたワルシャワ市の映画がここで上映されていた)

 1944年(10月2日敗北)のワルシャワ蜂起の記念碑の前ではみんなで写真を撮った。20万人の犠牲者を出したこの市民の戦いには胸が締め付けられる。時間が押せ押せで、ワルシャワゲットー跡と、ユダヤ人をトレブリンカに送る引き込み線の傍に立つ記念館は素通りせざるを得なかった。

 午後はクラクフに向かうはずが列車が来ない。3時35分発が5時少し前にずれこんだ。原因についてはついにわからない。やっと乗り込んだ列車はコンパートメントで6人ずつ1部屋に座り親交を深めた。途中美しい太陽が林の向こうに沈んだ。夜は簡単に交流会。私もあいさつした。

2012年9月 2日 (日)

ポ-ランドとドイツへの旅へ出発

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<恵みの雨>

9月2日(日)雨

 明日、9月3日から、「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」が企画した旅がスタートします。ワルシャワ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリン等に行き、第2次世界大戦のもたらした惨禍とそこからの人々の復興について視察してきます。

 

 一つはこの戦争がもたらした女性への暴力につい学ぶため、てラーフェンスブリュック強制収容所で近年明らかになった強制売春についての展示と、博物館側のレクチャーを受けまるす。アウシュビッツにも売春宿があったことを私は今回初めて知りました。アウシュビッツ訪問は3度目ですが、今回はこの「施設跡」も見てきたいと思います。

 二つ目は、凶暴なナチスに対するレジスタンスがいくつもあったことについて知りたいと思います。ミュンヘンの白バラ運動や、ベルリンのバラ通りのユダヤ人の夫を持つ妻たちの戦いなどです。同じくファシズムの荒れ狂った日本でもレジスタンスがあったのかなかったのか、帰国後の研究課題です。

 三つ目はドイツのいわゆる『戦後処理』についてです。侵略戦争の反省が全く不十分な日本と比べて雲泥の差があるドイツですが、日本は今その”つけ”をはらわざるをえないところに追い詰められています。責任ある人が責任を取らない日本、その結果、原発しかり、領土問題しかりで、世界から遅れ、孤立する日本の姿があります。『慰安婦』問題の責任がなぜ取れないのか、日本人としてみんなで考える課題だと思います。ドイツの例も見てきたいと思っています。

2012年9月 1日 (土)

竹島と「慰安婦」問題

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<写真は日本大使館前の水曜デモで「慰安婦」に対する謝罪・補償を要求する学生たち2012年2月>

慰安婦かみ合わぬ日韓 発端は韓国憲法裁判所の意見決定 大統領上陸の呼び水 歴代の内閣は河野談話を踏襲 日本も歩み寄り苦慮(2102.8.31朝日新聞)。日頃ほとんど黙殺する日本のマスコミも4段抜き見出しで報道するほどに「慰安婦」問題は日韓の大問題となりました

 しかし、野田政権は「慰安婦」問題を解決する何らの戦略を持たず、したがって領土問題も一層こじらせているかに見えます。その一例が最近に参議院予算委員会における総理と閣僚の答弁です。予参委のこのやり取りに対して、8月28日、韓国挺身隊問題対策協議会(=挺対協、「慰安婦」への謝罪、補償を要求する団体)は怒りをぶつけています。

即ち、「日本政府は即時、野田首相の妄言を撤回し、謝罪し河野談話に対する難癖を中断せよ」との声明を発表しました。野田首相は27日の参議院予算委員会で「強制連行した事実を文書では確認できないし、日本側の証言はなかったが、いわゆる従軍慰安婦への聞き取りを含めて談話ができた」とし、「歴代政権が踏襲しており我が政権としても基本的に踏襲する」とした。松原仁国家公安委員長は「閣僚間で(河野談話の修正を)議論すべきだと主張した」事に対し「何たる恥知らずな言動だろう」と。

「慰安婦」問題をなんとか曖昧にしようと腐心してきた自公政権時代、事ここにいたっては過去の自民党政府の見解を引き継ぐだけでは問題は解決しません。日本への「慰安婦」非難決議は、米下院、EU議会、オランダ、カナダ等アジアの枠を超えて広がりました。韓国政府は国連の場を利用してこの問題を世界に訴えようとしています。

第二次世界大戦について反省し歴史の愚を繰り返さない、と努めてきた国際社会にあって、侵略戦争の反省が全く不十分な日本、「慰安婦」問題については開き直りさえ感じさせる日本をこの問題について支持る国はほとんどないと思われます。日本政府はその事をどの程度認識しているのでしょうか? 

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