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2019年1月24日 (木)

2018年度の第4回運営委員会(泊まり込み合宿)開く

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(写真・国立女性会館本館)

 男女共同参画推進の拠点、国立女性会館(ヌエック)に集う

 

2019119日(土)と20()に場所は埼玉県西部にある国立女性会館で私達の「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の運営委員会を開き、2019年度の活動計画、行事日程等暑い議論を戦わせました。

 

  <雑木林の中の国立女性会館>

 

ここ国立女性会館NWECヌエック国立女性教育会館の英語表記「National Women's Education Center」の頭文字を取って「NWEC」です))は、男女共同参画を推進する唯一のナショナルセンターです。NWECは、女性教育の振興を図り、もって男女共同参画社会の形成の促進に資することを目的としています。昭和52年に文部省の附属機関として設置されて以来、男女共同参画の推進機関としての役割を果たしてきました。

 

国立女性会館の建物は雑木林に囲まれた広い敷地にあり、90年代の女性運動の高揚期に建設されました。一時期政府は行革の対象にして廃止を打ち出しましたが、女性の各界リーダーが必死で存続のための運動を行い、廃止を免れ今は民会の会社が運営を委託しています。女性のためのいろんな行事に使われています。

 

泊り込み合宿は今年で3回目です。当ゼミナールは常任運営委員会が中心に活動し、運営委員会は年4回開きます。ゼミナールに合わせて午前中の23時間という短時間で報告し、議論するので年に一度は時間をかけて様々なテーマを議論することにしています。

 

出席は青森、群馬、首都圏、名古屋、山口、福岡等広い範囲から15名、運営委員の約7割が参加しました。欠席者は一斉地方選挙の事前行事、或は怪我、インフルエンザ等様々です。

 

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(写真・合宿風景)



<初めての試み、ミニ講演>

 

その1 韓国大法院判決と、日韓戦後補償問題 大森典子・副代表

アジア太平洋戦争処理に当たりサンフランシスコ条約、日韓条約で請求権は放棄されている。しかし日本政府は、これは外交保護権のみの放棄で個人請求権は消滅しないという立場をとって来た。日本の最高裁も企業が任意に支払うことは違法でないとの立場である。

徴用工判決に対する日本政府の態度は個別企業が判決によって支払うことを抑えておりこれは日韓の感情的対立をあおるものである。解決の方向としては何よりも日本政府が強制連行・強制労働の事実を認め謝罪する立場に立つことが必要である

 

そのⅡ 日本人「慰安婦」問題に取り組む理由 吉川春子・代表

 「慰安婦」の運動は日本女性の解放に繋がらなかった?との指摘がある。韓国人「慰安婦」より20年前に既に日本人「慰安婦」城田すず子は名乗り出ていた。しかし今日まで日本政府の責任追及の運動に繋がっていないのは、日本の戦争責任と歴史認識の問題とのみ捉え女性の人権侵害の追及が弱かったのではないか。日本人「慰安婦」は殆どが遊郭の娼妓・芸妓である。戦前の日本が家父長制の下少女が売買され遊郭が列島にくまなく存在する「とんでもない人権侵害の横行する階級抑圧社会」(藤目ゆき先生)だった点に運動の視点を向けるべきである

 


  <2019年度の計画について>

 

〇会費会員

年会費2000円で運営されているので会員数と会費納入が重要事項である。会員約550名で新規加入者の拡大と会費をきちんと納入してもらうための取り組みについて提案と議論を行った。

〇活動方針

「慰安婦」被害者が自然年齢の限界に達し姿を消し証言は困難に。かつ、日本の世論は「慰安婦」問題は終わったと認識している。当ゼミナールの運動をどう続けてゆくかについて大森副代表のたたき台に基づき伯仲した議論を行った。331日の総会に提案される。

まお、これまでの運動と今後の方針について詳しい冊子を作成し会員の皆様に検討していただくため、4人のチームをつくった。

〇総会

日時:331日(日)午後330分~5

場所:東京文京区民センター3A会議室

に先立つ講演は、山田明治大学教授に日本の加害責任と「慰安婦」問題(仮題)を予定している。

〇フィールドワーク候補地、

 明治大学登戸研究所(川崎市)

 中帰連平和記念館(埼玉県川越市)

 大久野島(瀬戸内海)と呉の戦艦大和資料館(広島)、

海外

 インドネシア

 

来年もまた1月国立女性会館で泊り込み合宿を行う事を決めて散会した

2019年1月 4日 (金)

2019年の念頭御あいさつ                吉川春子

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写真・六義園の門松 2019年1月3日撮影

あけましておめでとうございます。皆様にはどのような新年をお迎えになりましたでしょうか。

 


     政治決戦の時


今年は一斉地方選挙と参議院通常選挙があります。政治変革の年です。女性の政治参加を進めて国際的に女性国会議員が最低との汚名を返上する機会にしましょう。それが民主主義の一歩です。

安倍総理は衆参同時選挙に打って出るかもしれない、との憶測が飛び交っていますが、行えばこれこそ二院制の否定です。通常国会、臨時国会を通じて昨年は二院制を無にするような自民党の国会運営が目にあまりました。自らを「立法府の長」だと度々口走った!安倍総理(基礎学力の不足かも…)ですから、可能性は否定できないでしょう。だとすれば、自分の野望を遂げるためにはすべてをその手段にしてしまうというとんでもない人物に、選挙を通じてお引き取りを願うチャンスに変えましょう。


加えて象徴天皇が退位されるという日本国憲法制定当初は予想だにされなかった事態が起きます。激動が予想される2019年が国民にとって“吉”と出るか“凶”と出るか予測はつきませんが、成り行き任せではなく私たち自身の手で好ましい結果を勝ち取らねばならない事は当然です。お互い心して臨みたいものですね。



 

     私たちの活動の成果と課題


私達の「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールは、今年の5月で会を立ち上げて10年目という記念すべき年です。『慰安婦』問題の取り組みを行っている団体は1990年代に多く設立されました。私達の会はほぼ20年遅れで立ち上げたのは、私吉川が参議院議員を引退後という事情がありました。


しかし、にもかかわらす、私達は「慰安婦」問題の解決とジェンダー平等社会実現という会の目的にそっていろいろな取り組みを熱心に行いました。講演会は23回開き34人の講師が講演しました。パネルディスカッション&シンポジュームが4回、ワークショップを2回行いました。またフィールドワークは8回でこの中2回は海外に行きました。振り返ってよくぞここまで活動ができたという感慨を持ちます。


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写真・上海師範大学構内の少女像前で~2017年当ゼミナールフィールドワーク


     新しい会員を増やすお願い


現在約560名の会員の皆様によってこの会が支えられています。赤字も出さず健全財政です。会員の皆様には心より感謝申し上げます。この会は年会費2000円とカンパで賄われています。

一方で、高齢による脱会などやむを得ない事情による会員の減少が年数十人は発生します。新しい入会者なしには会の発展・継続はおぼつきません。

このブログをお読みくださる皆様、ぜひ会員になって下さいますようにお願い致します。


  

結成当初私は各地の講演で「慰安婦」問題ってなに?というテーマで講演し、これに関する質問を多く受けましたが最近は少なくなりました。この間の取り組みの結果、「慰安婦」問題の本質については国民の皆さんの間で深めることができたと思います。一方、マスコミの世論調査で国民の多くは「『慰安婦問題』は解決済み」として関心度は低くなっています。日本政府の対応と運動が少なくなっていることが原因です。しかしこの問題は解決されたのでしょうか。断じてそうではありません。


    「慰安婦」問題は解決済み、ではない

 

韓国の「慰安婦」が納得していないだけでなく、肝心な日本人「慰安婦」がほとんど名乗り出ていません。彼女たちは性奴隷とされ尊厳を踏みにじられても謝罪、補償はおろかその存在すら知られることなく歴史から姿を消されようとされています。政府も国会も戦時中の女性への暴力について反省が決定的に足りません。私たち日本国民(女性)がそこまで彼らを追い込んでいないという面もあります。

 

日本国民の意識を変えずしてこの問題の解決はありません。そのために今後どのような活動を行うべきか、日本のNGO に課せられた仕事です。



   金学順さんのカミングアウトを日本女性の人権と結び付けて

 

昨年ノーベル平和賞が「イスラム国」の性奴隷とされた女性が自らの体験の語り部となって世界で活動している事に与えられたことは素晴らしい出来事でした。すでに、1991年に金学順がカミングアウトして自らの性奴隷としての体験を語りその結果「慰安婦」の運動が国際的に高まりました。翻ってこれらは日本女性の人権の向上とどう結びついたのか。日本でも性暴力にあって泣き寝入りしている多くの女性がいます。それなのになぜ日本では#Me Too(私も被害者)運動が広がらないのでしょうか。この問題の解決こそが日本人である私達の課題です。

 

課題が大きければ大きい程やりがいがありますしエネルギーが出ます。これまで築いてきた当ゼミナールの活動の基盤の上に立って、更に大きく羽ばたく年にしましょう。今年もよろしくお願いします。


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写真・午後の日に輝く新宿御苑のポプラ並木 2019年1月4日撮影


2018年12月31日 (月)

伊勢参りの“精進落とし”に遊郭に通う文化

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写真・伊勢市古市参宮街道資料館リーフより

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写真・年末・夫の友人が届けてくれた水仙

 

古市遊郭を歩く


 私は1226日、瀬古由起子さん(元衆議院議員)の案内で三重県伊勢市の(天照大神を祭ってある)伊勢神宮内宮と外宮の中間にある古市遊郭跡を訪ねた。今も昔も伊勢神宮の内宮への参拝は国民的人気だが、そこにもかつて大きな遊郭があった事に私は驚いた。

 

今より娯楽は少なく旅をすることも自由でなかった江戸時代、伊勢参りは庶民の強いあこがれであっただろう。日常の生活から解き放たれ伊勢参りという正当な目的の旅に出るそれは大きな喜びであったと思う。

伊勢神宮の参道にある古市遊郭は、最盛期の天明期(江戸中期)には1千名の遊女と妓楼が70軒あった。江戸の吉原遊郭、京都の島原遊郭とともに日本3大遊郭と言われた、という。現在は大型バスが通う通りは車を避けることも大変なほど狭い道幅で両側の家が接近している。

遊郭とは読んで字の如く周囲を塀か、水路、運河等で囲んで出入り口には見張り番が立つ。前借金を負った遊女が勝手に逃げられないようにするためである。しかし、この古市遊郭は伊勢参りの街道にあり囲いはない。では遊女たちは自由に外出できたのか?それの点は聞きそびれた。

古市遊郭は先の戦争の時の空襲で大きな被害を受けたという。唯一残る「麻吉旅館」は当時の面影を残す。威容を誇る木造建てで当時の遊郭の繁栄が偲ばれる。


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写真・伊勢市の古市参宮街道資料集


 

大林寺の遊女の墓の由来

 

 遊女の墓があると聞いて大林寺を訪ねた。街道沿いの郵便局から狭い道を少し入った場所にあり車で通り過ぎてしまいそうな所である。古市の妓楼・油屋で起きた殺偽事件「油屋騒動」は歌舞伎の題材となり、今も上演さている有名な演目である。中心人物の遊女お紺の墓である。

翌日もう一度調べてくれた瀬古さんによると、お墓は油屋お紺と恋人の27歳の町医者孫福斎(まごふくいつき)の墓だった。油屋騒動はお紺が孫福斎の探していた名刀の鑑定書を手に入れるために心変わりを装い、それに孫福斎が誤解して刃傷沙汰になった。それを芝居にしたら大ヒットしたもの。その後油屋はお紺を見ようと多くの客がきて大繁盛し、お紺は49才(事件当時16才)孫福斎は事件で自害したため27才で亡くなっている。お墓の年齢差に初めて納得した。お紺の49才、孫福斎27才。どう考えても親子の差である。多くの歌舞伎俳優などが墓参している。

 

ところで肝心の遊郭にいた女性たちの墓については、大林寺の奥さんの話しでは「全くありません」ということだった。和尚さんがいなかったこともあるが。古市に瀬古さんの知人がいて、遊郭旅館を経営していた女将さんの書いた手書きの文書があるということが判明した。入手したら連絡くれる由。今後も調査を続ける。


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写真・遊女のお紺と孫福斎の墓、真ん中はお地蔵様



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写真・「麻吉旅館」の立派な建物と説明板


 

「伊勢市古市街道資料館」で遊郭の歴史伝える

 

街道の中ほどにあるこじんまりとした資料館だが1階の展示室は常設展示について市職員が丁寧に説明してくれる。遊郭の歴史を伺える写真や資料が公開されて興味深い。

それとは別に意欲的なテーマ別特別展が何度か開かれている。入館は無料。

町の歴史で遊郭に関するものをかくす自治体もあるが市が責任をもって常設展示館を設けて公開し資料を発掘する姿勢を評価したい。2階は研究室で料金が半日600円~800円と低料金で貸し出されている

*かつて私が訪ねた日田市では後の首相の松方正義県知事時代に遊郭で生まれた子どもを養育する児童養育施設があった。遊郭では多くの子どもが生まれるであろう。彼らを大切に面倒を見たという保育所である。これを記念して公園には大きな碑が建っていた。しかしこの事実を市の歴史に掲載してほしいとの市民の要求を拒否している、と聞いた

 

なぜ、神社と遊郭が近所にあるのか?

 

この古市遊郭は伊勢神宮参拝の「精進落とし」の場として栄えたのだという。

「精進」の期間は「ひたすら仏道修行に励みその間肉食は避けるが、「精進明け(落とし)」とは「精進の期間が終わって肉食をする事」とされている(「広辞苑」)。

伊勢神宮に身を正して参拝し、御役目が済んで緊張感から解かれて“娼妓を買う”ことが許される。これを精進落としというのだろうか。

そういえば私が2016年に日本人「慰安婦」の本籍地を訪ねた時、神社の傍に遊郭があった。山形の赤湯温泉の熊野神社、佐賀市の元遊郭の近く等…。今回「精進落とし」のため古市遊郭が発展したと聞いて、神社の近くに遊郭?の疑問が解かれた思いがする。

神社のみならず、港、河の船着き場、工場、商業都市、鉱山…等々男性の集まる場所に必ず遊郭があった。日本は遊郭列島であった。男性にとっては「精進落とし」、遊山であっても芸妓、娼妓とされた女性達の苦しみは顧みられたのか。

貧乏故に少女の時に遊郭に売られ借金は膨らみ、その後の人生はいかばかりだったか。モノ言えず歴史の中に消えていった女性達の事を思わざるを得ない。

 

   太平洋争中に遊女たちはどこに行ったのか

 

古市遊郭は、「明治5年(1872年)貸座敷33軒、娼妓640人。昭和初期(1930年)では22軒、135人に減少した(「ウィキペディア」)」

古市遊郭の近くの新古町三遊郭(宇治山田市の等三ケ町)は古市より交通の便が良く昭和十一年頃貸座敷二四軒、娼妓が2百人もいた。(吉田昌志編「遊郭と買春」)等々…三重県にも沢山の遊郭があり大勢の女性が娼妓、芸妓として働いていた。

古市遊郭、新古町三遊郭の双方とも太平洋戦争中空襲にあい商売はおぼつかなくなる。ここで働いていた娼妓、芸妓その他の人々は働き先をなくして何処へ行ったのか。

 

ところで、中国で南京事件後の昭和十三年頃から貸座敷の経営者や女衒が高知、和歌山、群馬、山形まで西から東へと跋扈して遊郭の女性をリクルートして上海の「慰安所」へ送った。和歌山県警がこの様子を内務省警保局長に報告している公文書が1996年に警察庁から吉川宛てに提出された。(「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールニュース」№3234に解説記事を掲載)。

また私は別のルートから和歌山県に本籍地のある女性がビルマ(現・ミャンマー)の「慰安所」にいたとの名簿を入手した。彼女の墓地を私達のゼミナールの会員が突き止めている。

三重県の遊郭から「慰安婦」が派遣されたとの公文書は残っていない。「慰安婦」募集の業者が三重県には行かなかったとは断定できない。政府は日本の戦争責任の証拠となる公文書は可能な限り焼却したからである。どちらも可能性は否定できないと考えると、今回の三重県の遊郭跡訪問は私の中で大きな意味をもつ。昭和10年代初め頃まで各地にあった遊郭で働いていた女性達の運命は戦争中どうなったのか。そのことを掴みたいと私は思っている。情報提供等のご協力をお願いします。(吉川春子記)


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クリスマスに送られたシクラメン、背景は六義園


 

2018年12月 4日 (火)

議場に赤ちゃん、日本とニュージーランドの違い

その2

ニュージーランドVS 日本

 

~乳児連れ議場に…熊本市議会議員の行動に議場騒然

 

 

 

ところで、日本において議場に子連れで行こうとするとどうなるか?2017年一つの事件が起きた。

 

熊本市議会で緒方夕佳市議が生後7か月の長男を抱いて市議会に出席しようとしたところ、周りの議員らに批判され、赤ん坊の同伴を断念したのだ。

 

事前に緒方市議は、「長男を連れての議会出席を許可するか、託児所を設置してほしいと議会事務局に何度も訴えた」という。しかし前向きの回答を得られず、子連れで入場に踏み切った。

 

これに対して議会事務局は、緒方議員からは「子どもと長時間離れるのは不安」としか聞いておらず、議会に子どもを連れてゆきたいとの要望は聞いていないという。

 

同市議会では乳児を連れての議会入場に明確な規定はないが、議会傍聴規則では、会議中に同伴者や傍聴人が議場に入ることを禁じている。緒方市議はこの規則に違反したという。本会議場の緒方議員の議席近くに何人かの議員が集まり相談している写真が報道された。

 

長い議論の末、緒方市議は息子を友人に預けて、会議は予定より40分遅れて開会した。

 

 

 

緒方熊本市議の行為は無茶なのか、勇敢なのかの議論はあるだろうが、ここに如実に日本の女性・母親の政治参加の現状が現れている。125年前に女性参政権を獲得し、また女性首相を何人も排出している彼の国と、我が国との女性の政治参加についての実態が象徴的に表れた事件であろう。


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(緒方市議・手前の人、と協議する男性議員ら―ニュース報道より)


 

 

 

女性議員誕生の条件~家事分担、選挙制度

 


 

ニュージーランドで女性の政治参加を可能にしている一つの条件は、家庭で夫と妻の育児と家事の分担が当たり前」だから、であろう。

 

1990年代半ばに参議院調査団がニュージーランドに超党派で視察に行った時の事、私たち一行の乗るバスで夜7時頃、首都・ウエリントン中心部を走っていて、町がひっそりして車の渋滞もないし、人も歩いていない事に驚いた。東京とはあまりにも違う。

 

私は「どうしてこの時間道路がこんなに空いているのか?」と質問した。案内役の日本大使館員が「男性は今頃みんな家で奥さんの皿洗いの手伝いをしていますよ」と答えた。

 

これには私はびっくりした。日本男性は長時間労働で、女性は家事育児に縛り付けられているから。

 

もう一つの女性が国会議員になる決定的条件は選挙制度である。ニュージランドでも小選挙区制から比例代表制を加味する制度に代わり、女性と先住民族のマウリの議員の当選が可能となった、と聞いた。

 

日本では女性の当選を阻む壁は衆議院での小選挙区制、参議院でも多くは1人区で事実上小選挙区制である。

 

1995年に日本では国民の多くの反対を押し切って中選挙区制が廃止されて、小選挙区比例代表制が導入された。それまではいくつかの少数政党も一定の議席を占めることが可能であったが、小選挙区では比較第1党の議席しか得られない。49パーセントの得票が死票になる。

 

その結果、現在の“安倍一強政治”を可能にした。保守革新を問わず多くの心ある議員、は小選挙区制の弊害を正すべきと考えている。しかし一度導入された悪政はなかなか元に戻せない。

 

この事は私の著書『女性の自立と政治参加―ある女性参議院議員の歩みとたたかい』に書いた(20157月、かもがわ出版)。

 

 

 

  女性議員を増やすため、小選挙制廃止を運動の目標に掲げよう

 

 

 

日本で女性議員を増やすことは急務である。今年の通常国会では「政治分野における男女共同参画推進する法律」が議員立法で制定された。内容は選挙名簿への女性候補の登録を平等に行う努力義務を各政党に課するもので、画期的である。女性の政治参加を促す政治塾・講座も多数開かれている。

 

 

 

しかし、候補者名簿に女性の名前が男性と並んで掲載されても、小選挙区制の下では一人当選となるとまず男性が推薦される。長年の日本の政治・社会風土から言って、女性が先に推薦されることは少ないからだ。一つの選挙区から複数議員の当選可能な比例代表制が望ましい。

 

私は、女性の政治参加を進める活動をしているNGOに訴える。女性の議員を増やすために、小選挙区制を廃止し国民の声が正確に議席に反映する選挙制度=比例代表制度を実現する世論を高めよう。またそれが少数会派の当選を可能にし結果、多くの民意をくみ上げ民主主義を確かなものにする事にもなるのだから。(吉川春子記)

 

 

議場に赤ちゃん、日本とニュージーランドの違い

 
ニュージーランドの女性参政権-ちゃんを国会の議場に連れて入るニュージーランド、日本は?その1

 

    女性の首相が女子を出産、育児休暇をとる国

 

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相(38才)は2018621日、出産予定日から4日後に女の子を出産し6週間の産休後に職務に復帰した。

また9月のニューヨークの国連総会に生後3か月の娘ニーブちゃんを連れて出席…このニュースに私は大変注目した。

そこで…というわけではないが、1114日(水)「参議院協会」勉強会の、ニュージーランド大使館のリディア・バーラッド2等書記官(女性)の講演会に参加し、同国の女性政治参加について話しを聞いた。(通訳は宮崎智世さん)。なお、リディア氏の話によると、首相とパートナー、ゲイフォード氏とは事実婚である。

以下勉強会で知った、ニュージーランドの女性参政権について記す。

 

    世界で最も早く女性参政権を獲得、その道のりは困難だった

 

ニュージーランドは1893年、今から125年前に世界で最も早く女性参政権を獲得した国である。イギリスは今年が女性参政権獲得百年だから宗主国より四半世紀早く女性の政治参加が実現した。その陰には先進的なサフラジェスト(女権拡張論者)の活躍があった。

パワーポイントで示された写真を見ると彼女たちは上流階級の女性達で、ロングドレス&ペチコートスタイルである。この点はイギリスといっしょである。

しかし女性参政権はいち早く獲得したものの、実際に女性が国会議員(ニュージーランドは一院制)に当選したのはそれから40年後の1933年である。

現在のニュージーランドの女性議員は世界第15位、38.30パーセントである。(ちなみに日本の女性国会議員は10.1パーセントで193カ国中158位。中国71位、韓国116位より低いー20183月「列国議会同盟・一院制又は下院の女性議員数比較」)

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20181905ニュージーランド議会の同じ部屋で撮影された写真2枚。右は男性議員134人と、左は26名の女性議員の華やかな写真、赤ちゃんを抱っこしている議員もいる~写真はニュージーランド大使館提供-以下の写真も同様)

 

   女性誕生と選挙制度

 

ニュージーランドで女性議員の当選を可能にした理由は選挙制度の変更で、それまでの小選挙区制から比例代表制に変更された事にあった、という。

ニュージーランドの選挙制度は、①好きな政党へ投票する(各党の議席数)、②自分の地域で好きな候補者に投票する。比例代表区プラス小選挙区制を採用している。

 

女性議員の議場での居心地

 

女性議員が誕生した後は議員の呼称を“ジェントルマン”から“メンバー”に変えた。しかし、国会内のバーは女性議員は立ち入り禁止であった等、国会は女性にとって居心地のいいものではなかった、という。

現在は議場の隣が授乳室になっている。議場で授乳した議員もいたが他の議員が眉をひそめた事はない、という。だだし、育児休暇は取れるが有給ではない。育児休暇をとった首相も無給である。

(写真は議場の議席で赤ちゃんを抱っこする女性議員。写真下は議長席で議長が赤ちゃんを抱っこしている。女性議員の子どもを預けられた格好)

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2018年11月10日 (土)

朝鮮人労働者慰霊碑のある、「群馬の森公園」を歩く

  日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶ
    群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉の旅
 
2日目も天気は快晴。朝9時に旅館発、近くの長野原町の防空監視硝へ。

周囲は一面が畑ののどかな風景が広がる小高い丘の上にプラスティックの波板の屋根が見える(戦争中は藁葺屋根だった)。丘に登り屋根から中をのぞき込むと井戸よりはかなり浅い、二十人程が入れる風呂のような円形のコンクリートがあった。ここが戦争の際に敵機襲来の情報をキャッチして伝えた防空監視硝(聴音豪)である。 


   <敵機襲来の監視は、高等小学校生徒達にやらせた!>

 

太平洋戦争末期に日本は制空権も完全に奪われ東京を初め大中の都市は悉く空襲で破壊され人も建物も大きな被害が出た。

一九三〇年代から全国各地に敵機の襲来を監視する監視硝が設置された。そして群馬県には防空監視隊総本部の下、前橋、高崎、渋川に監視隊本部があり拠点の監視硝は40カ所もあったという。24時間体制で空の監視に当たったのは、多くは高等小学校の生徒だったという。肉眼や双眼鏡で、夜は爆音を頼りに機種、機数、進行方向を判断して本部に電話報告を行ったという。今の中学生の年齢である。

子どもが24時時間体制で敵機の襲来を監視させられるとは!空襲から国民を守るうえでは頼りなくもあり、子どもにこのような労働を課すとは、悲惨でもある。

米国の高度の技術と物量の戦争に、子どもたち中心の防空監視体制で都市の空襲が防げるはずがない。

二〇〇四年から長野原町の重要文化財として保存されている。こうした戦争遺跡を残すことは、いかに愚かな戦争だったか知る上で貴重である。


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(写真上・防空監視硝跡の全景、写真下・上から防空監視硝を覗き込む)

(写真は防空監視硝の跡) 

 <無残な吾妻渓谷、八ッ場ダム建設現場へ>

 

♪ 夕日は赤く 身は悲し 涙は熱く頬つたう…

さらば、故郷よ わが村よ 幼き夢のゆりかごよ…♪

この歌は父がよく歌っていた、ダムの湖底に沈む故郷への哀惜をテーマにした映画の主題歌である。

 

長年に渡りダム建設反対で結束してきた住民が結局ダム建設を受け入れ、歴史ある川原湯温泉を移転させ故郷をダムの湖底に沈めなければならなかった。人々の胸中や如何に・・・

八ッ場ダム計画は1952(昭和27)年にさかのぼる。そして群馬県が八ッ場ダム水源地域対策事務所を設置するのは1993(平成5)年、水源地域整備計画の閣議決定は1995(平成7)年である。参議院議員時代私は、八ッ場ダムの調査に何度かここを訪れている。

初めて訪問した時私たち一行は川原湯温泉に宿泊し、地元住民や旅館経営者の方々も含めたダム建設を阻止する大会に出席した。岩佐恵美・共産党議員ら超党派の衆参国会議員は定期的にここを訪れ運動を激励していた。

そして民主党が政権を奪還した時には一時ダム建設中止の方針を出した。しかしすでにかなり移転事業は進み、道路も鉄道も高い位置に移転された後であった。しかも民主党政権はすぐ変わり、自民党公明党は予定通り工事を再開させた。

ダムの本体工事が始まったのは2014(平成26)年でごく最近であるがしかし、それまで国は既成事実を着々と積み上げてきた。水需要はなくとも、住民の反対が多かろうと何が何でも工事を進めてきた。誰のために?

Photo_7 (写真・吾妻渓谷、川原湯温泉を湖底に沈めて進むダム本体工事、展望台で吉川)


 

  始めたことは、やめられない日本-戦争、無駄な公共事業、etc

 

八ッ場ダムは当初、首都圏の水需要に対応するとして計画されたが、既に首都圏の水の需要は減少して、八ッ場からの取水はなくてもたいして困らないことも数字が示している。

むしろ各自治体は八ッ場ダムの負担金が財政を圧迫する要因となっている所もある。

加えて、このダムは水害対策に有効なのか。温泉の継続営業の保障、地元の人々の暮らしは守られるのか…等々問題山積である。

しかも九州の耶馬渓にも匹敵する、絶景の吾妻渓谷の風景を台無しにし、移転先も地すべり地帯である。膨大な費用をつぎ込んで地滑り対策がされたと聞くが、効果はあるのか?

膨大な国の予算をつぎ込んで、反対運動が強い中でも強引に工事は進められ、完成は目前に迫っている。

「完成したらまたいらっしゃってくださいね」との声に送られて、私たちは八ッ場ダムを後にした。私は水没した河原湯温泉や、姿を変えた秋の吾妻渓谷を見るのはつらい。

 

無駄な公共事業に膨大な国家予算を費やす一方で、多くの「慰安婦」には支払われるべき賠償金を支払わない日本政府。国民の税金の使い方がおかしいのではないかと、私は思わざるを得ない。


 

<群馬の森・美しい公園の戦争の爪痕~>

 

旅の終わりに、内藤真治先生の解説で私たちは「群馬の森公園」を散策しながら、広大な敷地にある戦争遺跡をたどった。この公園は明治百年事業として一九七四年に高崎市に開園したが、東京都心にほこる新宿御苑の数倍の広さがあるのではないか。樹木の多さ、高さ、太さも引けを取らない。

 

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写真・「群馬の森公園の「ダイナマイト発祥の地」の碑

    火薬製造工場と強制労働の犠牲者

 

この県民憩いの場に生まれ変わる前は、一八七九(明治一二)年に設立された陸軍の火薬製造所(東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所)があった。日露戦争後の一九〇六年にはダイナマイト製造が始まる。公園内には「我が国ダイナマイト発祥の地」の大きな碑が建つ。

日中戦争開始とともに火薬の大増産の戦時体制に入り不慣れな労働者が長時間労働で劣悪な食事、労働環境の下で働かされた。一九三八年だけでも四回の爆発事故が起き、二四人もの死者を出している。

 

「群馬の森」公園に整備されるときに百棟も危険な火薬製造所が全て取り壊され痕跡は何も残っていない。敷地が隣接する日本原電や日本化薬の敷地にはまだいろいろ戦争遺跡が残っているが「群馬の森」から柵を隔てて覗き込むほかない、とは残念である。

1995年に国の文化財指定基準が変わりこの岩鼻火薬製造所も「軍事に関する遺跡」(戦争遺跡)の詳細調査対象五〇件の中にはいっているという(内藤真治氏)。

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(写真・「群馬の森公園」と民間の火薬工場の間に積まれたコンクリートの厚い壁に空いた明かりの漏れる“窓”~ポーランド映画『地下水道』(アンジェワイダ監督)のラストシーンを髣髴とさせる)


 

     ドイツのように戦争遺跡を残したい

 

戦争遺跡を残す点はドイツは徹底している。例えば各地にあったナチスの強制収容所が建物が残っているものもそうでないところも、全部ミュージアムとして保存され、公開されている。何故ナチスが猛威を振るったのかという研究が行われている機関でもある

私には負の歴史を繰り返さない、というドイツ国民の決意が伝わって来た。日本でもこうした措置が必要だが政府の酔っては殆ど行われていないということを痛感する。戦争遺跡を保存し残すという文化庁の試みに期待したい。

 

群馬の森・朝鮮人追悼碑

 

「群馬の森」の散策の終わりに、「朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」に行った。ここが今日のメインともいえる見学場所である。碑文には以下のように記されている。

 

◆碑文 

 20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。

 21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。

 過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。

 この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。(写真下は朝鮮人強制連行追悼碑)

 

  ~~~~~~~   ☆  ~~~~~~Photo_5

民間団体が群馬県と協定を結びこの日が設置された。管理は民間団体が行っている。

この碑の前で毎年行っている追悼式などで、設置条件に反する政治的発言があったとして県議会で意見が出て、群馬県が設置期間の延長を拒否した。これに対して民間団体側が、延長拒否の処分取り消しを求めて、裁判が続いている。裁判の争点は主として以下の2点である。

 「政治的行事」は行わないとする設置条件は表現に自由を侵さないか

 不許可処分は合憲といえるか

 

一審判決では

 について、「強制連行」という言葉を使用した集会は「政治的行事」に当たると判断し、

県の主張を認めた。しかし、②について「処分は取り消す」と判断し、原告の主張を認め碑は撤去されないとした。現在、控訴審に継続中である。

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(写真・森「群馬の森公園」の朝鮮人強制連行追悼碑の前で)

 

   強制連行の痕跡を確認した旅

 

また、戦争中多くの公共事業に、多くの朝鮮半島や中国の労働者が強制動員され、過酷な労働を強いられていたことをあらためて知った。

群馬県でダム建設の強制労働に従事させられた中国の李万忠さんの証言は、戦争中に日本に送還されて言語に絶する奴隷の扱いを受けた様子が語られている(「群馬フィールドワーク資料2」)

「昼夜分かたず武装警察官が私たちがトンネルを掘るのを見張っていた」「3日に上げず逃亡者が出たが捉えられて後ろ手に針金で縛りあげられ、この傷痕は心の傷痕とともに残っている」「風呂には一度も入らず、タオルの支給もなかった」「寒い冬も綿の服もなくセメントの空き袋を服代わりにして着ていた」等々。

今年1031日、私たちの旅の終わった直後に韓国の元徴用工への損害賠償を日本企業に命じる判決が韓国最高裁で言い渡された。「日韓請求権協定で最終決着済み」などとは到底言えない、と私は思う。


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(写真・内藤先生の説明に聞き入る参加者・朝鮮人強制連行追悼碑前)


 

今年の私達のフィールドワークは、外国人への強制労働もハンセン病に対するぬぐえない差別感情もともに今日の問題でもある。人権という問題を深く突き付けられた旅であった。(吉川春子)

 

2018年11月 4日 (日)

草津楽泉園「重監房資料館」他を見学

 

第8回フィールドワーク・群馬県の旅  第1日目

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(写真・中国人殉難者慰霊の碑)


みなかみ町 如意寺(にょいじ)、草津のハンセン病患者施設へ

 

二〇一八年十月二八日(土)から二九日(月)にかけて、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール主催で、「日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶー群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉への旅」を行った。首都圏はじめ遠く福岡、山口、名古屋からも総勢二六名の参加者があった。

群馬県在住の吉村れい子さん(団長)を中心に企画し、ぐんま教育文化フォーラム運営委員、元群馬県高校教師、内藤真治先生の詳細な説明があり、群馬県の戦争遺跡、ハンセン病患者への人権蹂躙の歴史、また政府によるダム工事への中国人、朝鮮人強制労働の実態と、反面、それを償い慰霊する県民の良心にも触れた旅だった。

 

バスは東京駅を8時半に出発し1時間後には高崎駅前に到着。ここで吉村さん、内藤先生の2人が乗り込んだ。車中で高崎名物“だるま弁当”で昼食をとる。最初の訪問地、みなかみ町(合併前は月夜野町)の如意寺の「中国人殉難者慰霊の碑」へと向かう。(寺の本堂は住職親族の葬儀で使用中のため中に入れなかった)。ここは太平洋戦争中に東京都板橋区志村第三国民学校五,六年生一五五人の生活の場だった。濡れ縁には児童達の使用した木製の下足入れがずらりと残されていた。

 

如意寺に発電所導水路工事の「中国人犠牲者の慰霊碑」を訪ねる

 

一九四二年太平洋戦争開戦直後、岩本発電所建設のため利根川上流から取水する導水路敷設工事を開始、中国人労働者六〇六人と朝鮮人労働者約千人が動員された。

全長14.4キロメートルの大部分が地下を通るトンネルで、食糧はトウモロコシ、カボチャ、サツマイモが主食、一日一二時間労働という過酷な状況。日本人飯場頭の暴力・虐待…で1年足らずの間に四三人もの中国人が死亡し、近くの旧月夜野町の如意寺(曹洞宗)に葬られた。住職は「たとえ敵国の俘虜であってもしなば仏の前では一視同仁」と、手厚く葬り過去帳には出身地・年齢まで詳しく記載し遺骨は本堂に遺骨を安置した。

一九五三年に遺骨は返還されるが寺では「遺骨安置所」の看板を「取り去るべからず」と書き加えている。その後「慰霊碑を建立しよう」の声が上がり一九七〇年月夜野町(当時)の後援、自民党代議士・松村健三氏の揮毫で「中国人殉難者慰霊之碑」が建立された。

 

…そして朝鮮半島の強制労働犠牲者は?

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(写真・韓国人徴用工への賠償命じる韓国最高裁判決を報じる新聞10.31東京)

 

私たち一行は紅葉の木々に囲まれ秋空に青く高く聳えるように建つ碑を訪問し、強制労働の犠牲になった中国・朝鮮の労働者の労苦を忍んだ。

朝鮮人労働者については当時(植民地なので)日本人扱い(?)で、記録は全く残っていないという。くしくも韓国人徴用工に損害賠償支払いを命じる韓国最高裁判決が出たのはそれから3日後であった。この問題は日韓請求権協定では終わっていないのだ、ということを思い知らされた国民も多いのではなかろうか。

国と国とで条約による決着がついたとしても、個人の請求権は消滅しておらず、損害賠償請求について消滅させるものではない、ということは日本政府が明言してきた。日本政府は韓国併合、植民地支配について真摯に反省し問題解決に当たるべきである。

 

ハンセン病患者の強制収容施設・栗生楽泉園へ


私達はフィールドワークの訪問地にハンセン病元患者が共同で生活する栗生楽泉園を選んだ。

長い間、ハンセン病は遺伝性の病とされ怖れられた。しかし1873(明治6)年にはハンセンによってらい菌が発見され遺伝性はない事がわかった、感染力もとても弱い事もわかっていた(中村紀雄『死の川を越えて』上毛新聞社、他)。

しかし恐ろしい伝染病であるから感染を防ぐために隔離することが必要であるとし、1度隔離したら2度と外に出さないという日本政府の方針が長いこととられてきた。また戦争の時期と重なったためハンセン病の特効薬が患者の手に届くことが遅れれ、苦しみが倍加された。

ハンセン病患者組織はいわれなき差別と果敢に戦い、国との裁判に勝利し今日に至っている。ハンセン病患者組織の戦いは当時参議院議員であった私の目に焼き付いている。

 

一九三一年、国は患者隔離撲滅のために「らい予防法」を施行しハンセン病患者の強制隔離政策に転じた。栗生楽泉園はそれまで草津町内のハンセン病の患者自由療養地「湯之沢」を解散して、ハンセン病の患者を強制的に隔離し送り込む目的で1932年開設された施設だ。

太平洋戦争が終わり日本国憲法が施行された後もハンセン病患者の隔離政策は続いた。政府が誤りを認めたのは二〇〇一年、熊本在住の患者たちの提訴により裁判所が人権侵害認める判決を出し、政府が控訴を断念した小泉内閣の時、私がまだ参議院議員在職中のほんの最近の事である。

 

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小学生でハンセン病への恐怖を、中学生で患者の苦しみを知った 

 

私は中学1年生の担任に北条民雄著『いのちの初夜』を紹介されて読んだ時の衝撃を忘れられない。ハンセン病(当時は[ライ病]といわれた)を宣告された著者が親兄弟社会から一切切り離されてハンセン病施設に強制的に隔離される苦しみが描かれていた。長野県の小学校時代、教師から「ライ病」がどんなに恐ろしい病気かを教え込まれていた(文部省の方針だった)から、この小説の主人公を襲った悲劇が強烈に私の心に突き刺さったのだった。

 

一九八〇年参議院選挙全国区候補の私は、選挙区の群馬県栗生楽泉園を訪問し患者の皆さんと親しく懇談した。また、居住する患者さんの全戸に通じている有線放送を通じてマイクに向かって挨拶した。その時、マイクに耳を傾けているであろう数百人の患者の皆さんの一人一人たどった人生を思って、言葉が詰まった事を

(写真・栗生楽泉園の歴史、患者たちのくらしを語った入所者自治会副会長、左から4人目の男性)

 覚えている。

 

人権侵害の極致~重監房、証拠を残す意義

 

今度の栗生楽泉園見学の中心は、二〇一四年に完成した「重官房(正式名=特別病室)資料館」と遺構である。

 ハンセン病隔離政策により多くの患者が入所を強制された結果、患者の逃亡や反抗も頻繁に起きた。ハンセン施設所長には「懲戒検束権」が与えられ各施設にはこれに対する監禁所(監房)が置かれた。草津栗生園には、それよりも重い罰をあたえるための「重監房」と呼ばれる施設があった。全国の施設から「『監禁所』では対応できない」とされた患者が送られてきて草津の「重監房」に収容された。収監された患者の人権は完全に無視された。

 

 一九三八年設置の「重監房」は谷沿いの山を切り開いて108平米、高さ4メートルのコンクリートの塀で覆い厳重な仕切り8カ所内に木造平屋建ての監房があった。

 いくつもの南京錠を開けて入る房内は身をかがめてやっと入れ、広さは4畳ほど。床、壁は板張り天井に電灯の笠はあっても電球はなく外からの明かりは縦13センチ、横70センチの窓から辛うじて入る。食事は12回握り飯1つほどの箱ベンと梅干し、薄い味噌汁…運搬はおなじく患者だが看守が見張っていて言葉を交わせない。孤立地獄、闇地獄、飢餓地獄、冬季は零下20度の獄寒地獄だった。

こうした扱いを受けた結果、死亡者は89名に達している。(「国立ハンセン療養所 栗生楽泉園ガイドブック」栗生楽泉園入所者自治会)

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(写真・納骨堂前で全員集合)


 

栗生楽泉園敷地内には重監房の遺構が残されて碑も建つが、私たち一行は、秋の日がとっぷり暮れて暗闇となり、残念ながらその場所へ行くことはできなかった。

 

裁判に勝つ、という意味

 

日本国憲法の施行後も続いたハンセン病患者の隔離政策が終焉したのは2001年「らい予防法違憲国賠訴訟」で患者側が勝訴して国が控訴を断念した結果である。

国はそれまでのハンセン病患者への扱いについて誤りを認めた。以後ハンセン病に関わる歴史を悉く残す努力が国によっても行われるようになった。

 

同じように人権侵害の極致を体験した被害者達に賠償も行われず、人権侵害の記録を保管展示する資料館もない「慰安婦」問題とは格段の違いがある。裁判に負け続けている結果である。

しかし、長きにわたってハンセン病への偏見が国民に植え付けられた結果、社会がハンセン病患者を受け入れる壁は依然篤い。その結果、元患者は社会復帰もできず故郷へも帰れない。故郷に帰れない遺骨が栗生楽泉園でも多く保管されている。

日本国憲法は基本的人権の保障をうたう。その人権保障を実現するためには関係者・国民の血のにじむ戦いが必要ということを感じた旅でもあった。(吉川春子)

2018年10月18日 (木)

女性の人権問題にビッグな贈り物―ノーベル平和賞 紛争下性暴力との闘いに授与!

 

 

今年のノーベル平和賞は、戦時性暴力と戦う2人の人物に贈られた。

 

ナディア・ムラド・バセ・タハさん(25才)

 

 

受賞の理由

彼女は、「イスラム国」に6人の兄弟と母親が殺害され、拉致され性奴隷として3か月にわたり売買された。そして20169月脱出しその後は、性暴力の体験を語り人身売買の実行犯の責任を追及した。現在は人身売買の被害者の尊厳を訴える国連親善大使に就任して活動している。

 

デ二・ムクウェゲさん(63才)

 

授賞理由

コンゴ民主共和国(旧ザイール)で、内戦状態が続く同国東部で武装勢力の戦闘員らによるレイプ被害を受けた数万人の女性の合併症などの治療に努める産婦人科医である。自分の生命の危険を冒しながら紛争手段としての性暴力を止める努力をした。訪日したことがある。

 

  性暴力被害は恥、という概念から女性を解放

 

ノルウエー・ノーベル賞委員会アンデルセン委員長は2人の授賞の理由を、彼らの行動が「戦時下の性暴力を白日の下にさらし、犯罪者への責任追及を可能にした」、また「MeTooと戦争被害(との戦いとの)…共通点もある。それは虐待の実態と女性の苦しみに目を向け、性被害が恥だという概念から女性を解放し、声をあげることの重要性だ」と語っている。

「今年の平和賞は2016年に続いて過去2番目に多い計331候補(216人、115団体)の中から選ばれた。賞金は900万スエーデンクローナ(約11300万円)  Photo

(写真は自分の「慰安婦」としての苦しい体験を語る金学順さん1994年埼玉教育会館)

金学順さんのカミングアウトもノーベル賞に匹敵

 

私はノーベル平和賞が戦時性暴力と戦っている2人に授与されたニュースに、韓国人「慰安婦」の金学順さんの勇気ある行動を思った。性暴力の被害者として名乗りを上げることがどんなに困難なことか。金さんは1991年、今から27年も前に名乗り出て、「慰安婦」問題を白日の下にさらし、性暴力被害者が次々に名乗り出るきっかけを作った。

女性史が専門の藤目ゆき・大阪大学大学院教授は「千田夏光さんの本で『従軍慰安婦』を歴史的事実として知っていたが性暴力が恥辱とされている中で、被害を受けた女性がメディアに登場し怒りを全身全霊でアピールされる姿に感動と尊敬を感じた」と語っている(201878日「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの講演・東京)。

彼女の勇気ある行為は称賛しても称賛しきれない。彼女は1997年死亡しているので今回のノーベル賞の対象とならないが彼女の行為もこの平和賞に該当すると私は確信する。

 

金学順さんの受けた性暴力~同年12月日本政府を提訴の訴状(吉川要約)

〇1923年中国東北地方吉林省生まれ。父親は抗日運動をしていて金さんが生後100日になる前に拷問で殺された。貧しいので学校をやめ子守として働く。

〇金泰元の養子となり14歳からキーセン学校に3年間通う。養父に連れられカッカ県鉄壁鎮へ。ここで養父に売られ、将校から中国人の家で強姦された。

〇中国人の空き家が「慰安所」だった。「アイ子」と名付けられ、朝8時から30分おきに兵隊が来た。週または月1回軍医の検診を受け、結核にもかかった。 

〇趙という男性と「慰安所」から逃げた。彼と結婚して、娘と息子が生まれたが夫と2人の子供も幼く亡くなった

〇死のうと思ったが死にきれず韓国を点々と家政婦をして、今は生活保護で暮らしている。

〇日本政府は悪いと認め謝るべきだ。事実を日本と韓国の若者に伝え二度と繰り返さない事を望む

 

なお、金学順さんが「慰安婦」にされた経緯について強制連行なのか人身売買なのか(学者・運動団体の間でも)異論があると聞く。私も正確な事実確認の必要性を否定しないが、金額順さんが性奴隷とされた経緯の如何によって彼女の苦しみ、あるいは勇気ある行動が減じるものではない。また、日本人「慰安婦」は殆どが人身売買であるが「慰安婦」としての補償・謝罪を行わなくてよいとは思わない。

 

「慰安婦」問題を抱える日本の責任

 

河野太郎外相は106日、東京都内でコンゴ民主共和国オキトゥンドゥ外相と会談し、ムクウェゲ氏のノーベル平和賞受賞決定に祝意を伝え、さらに「コンゴ政府がこの問題に真剣に取り組み、成果を上げていることに敬意を表したい」と述べたという(「週刊金曜日」10.12号)。元祖性暴力の「慰安婦」問題の加害国である日本の外相としてまるで他人事ではないか。しかし「慰安婦」問題はいまだ国連・国際社会から責任を問われている日本にとっては他人事ではありえない。

ちなみに父親の河野洋平元官房長官は1993年の『河野官房長官談話』で日本の加害責任を認めて謝罪し再発防止を誓っている。親子は別人格であり、親が立派でも子供がそのように育たない事例は数多いが、あまりにも違い過ぎる。

安倍総理が「慰安婦」問題の対応に不熱心な背景には、安倍内閣に40パーセントという高い支持率を与えている国民の存在がある。そして、国民が「慰安婦」問題に無関心な理由の一つに、日本人「慰安婦」問題を放置してきた(誰が?私を含めて…)つけでもあると私は自省している。

 

日本にとって未解決な戦時性暴力問題


日本では「慰安婦」問題のみならず、満州からの逃避行でソ連兵に差し出された女性たち、敗戦直後アメリカ進駐軍のために全国に「慰安所」を設置したとき駆り集められた女性たち等々戦時性暴力の犠牲になった日本女性は謝罪、補償はおろか顕彰もされていない。その結果現在起きている多くの性暴力加害者が責任を問われない結果多くの女性が泣き寝入りする風潮が続く。

改めて「慰安婦」問題にきちんと決着をつけることが女性の人権を守るためにいかに大切かを思う。わずかな希望は、#Me Tooの影響が日本にも少し及んで日本津々浦々で起きるセクハラ被害に女性が声を上げはじめて、責任を取って地位を去る男性のニュースが連日報道される事である。

ノーベル平和賞がこの動きを日本でも加速する力になることを期待したい。(吉川春子記)

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写真・20139月、京都で自らの体験を証言するナヌムの家の「慰安婦」3人と、司会をする吉川・左端


 

 

 

 

 

2018年10月15日 (月)

ご参加ください!旧日本軍が、南京、上海で行った行為を検証します

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虐殺の死体累々となった揚子江河岸

 


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南京市の「利済巷慰安婦資料館」前の北朝鮮籍の慰安婦朴永心さんの銅像

~「東京都文京区男女平等センター祭り」参加企画~

ワークショップ

  加害の歴史を見つめる南京・上海の旅から学んだこと

日時:2018年10月27日(土)13:30~16:30

場所:文京区男女平等センターC研修室

    (文京区本郷4-8-3  ☎03-3814-6159)

【お話しする人】

旅行団長・大森典子・弁護士

同参加者・小竹 弘子・元都議会議員

       笠井 恭子・当ゼミナール運営委員

       菅間  轍・同 常任運営委員

       後藤ひろみ・事務局次長

       吉川 春子・当ゼミナール代表(まとめ)

【司会】  棚橋 昌代・同 事務局長

 

達は昨年秋、第7回フィールドワークで日本人にとって忘れてはならない加害の象徴・南京事件の現場と、「慰安所」第1号を設置した上海を訪問しました。

 

南京大虐殺の被害者の御家族や中国人「慰安婦」の調査と資料館建設に努力された方々にもお会いし、歴史の事実を記録し、伝えていくことの大切さ、民間交流の意義の大きさを学びました。

 

私達はこの歴史の事実にどう向き合い、加害国の国民として何をなすべきか、みなさんと考えたいと思います。

 

【アクセス】

 

都営バス 真砂坂上下車徒歩3

 

都営地下鉄三田線 春日駅下車徒歩7分(A2

 

都営地下鉄大江戸線 本郷3丁目駅下車徒歩5

 

東京メトロ丸の内線 本郷3丁目駅下車徒歩5

 

東京メトロ南北線 後楽園駅下車徒歩10 

 

(春日町交差点から本郷3丁目交差点までの坂道の春日通りの途中、本郷4丁目交差点にあるハンバーガー店の所を、春日から来るとは左、本郷3丁目からは右に入るとすぐ、本郷小学校前にあります)

 

みなさま、ぜひご参加ください



28回「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール

連絡先:文京区本駒込6-14-8-602吉川気付 

 

当日連絡先 090-6505-3500(吉川)、 090-4227-7478(棚橋)

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「上海・南京の旅の報告集」500円で当日販売

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上海師範大学構内の少女像の前で、旅行参加者が記念撮影



   

 

     
 

 


  

 



 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

2018年10月 5日 (金)

大原富枝著『めぐりあい』 ~日本文学が描く遊郭の女と日本人「慰安婦」~

 

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これは、戦争に負け様変わりした日本社会を生きる二人の女性の物語である。

一人は、南方の島の「慰安所」の元日本人「慰安婦」の榊光子(節子)。もう一人はマッカーサー指令で廃止された遊郭の後続性産業“青線”で働く村中菊代である。

出身地も経歴も異なる2人だが、生きる支え“希望の星”は共に明石義人である。彼は南方でアメリカ軍のB29の搭乗員を殺しBC級戦犯を裁く軍事法廷で「30年の重労働」の判決を受けて現在巣鴨プリズンに服役中である。

 

米占領軍(GHQ)が放った、女性解放の嚆矢

 

<『めぐりあい』が描く、敗戦直後の日本>

 

1946(昭和21)年太平洋戦争敗戦の翌年、マッカーサーの「娼妓開放に関する覚書」が出されて日本の“伝統”であった遊郭が廃止され「人身売買」と「自由の拘束」が許されないことになった。それ以前は、娘たちは親から金で売り飛ばされて借金は膨らみ身体の自由は拘束され、いつ返せるか当てもない生活だった。

GHQの指令で女性たちを縛って居た借金がチャラにされた。女性史における大転換である。占領軍の政策として、農地開放あるいはそれ以上に意義は大きい。

これまで貧困な少女・若い女性達を金で買って売春をさせて大儲けをしていた男たち=性産業の業者たちは娼妓たちの借金を棒引きにされて打撃をこうむったが、GHQの指令なので敗戦国の男たちは抵抗できない。こうして革命的な女性解放事業が実施された。

 

   売淫は認めたGHQ

 

米占領軍によって「人身売買」「自由の拘束」は許されないことは明確に打ち出されたが同時に、「生計の資を得る目的をもって、個人が自発的に売いん行為に従事することを禁ずるものではない」との項目もあった。貧しい娼妓たちにとっては救いだった。娼妓たちは私娼として売春が認められた。遊郭地帯は赤線(指定地帯)として認められた。

GHQ(米占領軍)が嚆矢を放った性産業からの女性の解放への道は、七十数年後の今も継続中である。なんと長い道のりであることか!(吉川の嘆き)

 

『めぐりあい』のストーリー

 

<村中菊代VS.明石義人>

 

12歳で親に身売りされ苦界を泳いできた菊代は、GHQの指令で借金が棒引きされ自由になった。しかし、本当の食糧難と本当の空腹、ひもじさは戦後にやってきた。郷里の母親からは菊代の弟の学資の仕送りを求めてきている。売春稼業から足を洗うことはできなかった。収入の手段のない菊代は私娼の街に流れてきた。「2丁目の女」(新宿の赤線地帯)に戻ることは食い止めたが、「特飲街の女」「青線の女」とならざるを得なかった。

 

1952年、血のメーデー事件が起きる。明石義人は巣鴨プリズンの“同僚”とメーデーに参加して警察官の暴行を受け頭に怪我をした。警察はメーデー参加者を指名手配し、街角だけでなく家庭まで訪問して次々逮捕するという蒼然たる中、ケガ治療の包帯を巻いて帽子で頭を隠し、追手から逃れて特飲街の菊代の店の客となる。事情を知って菊代は二人の“客”を匿い件の客は無事逃げおおせる。この出来事を契機に菊代の心には明石義人への思いが深く刻まれる。

 

対日講和条約発効で「巣鴨プリズンの囚人たちの釈放相次ぐ」とのニュースが報じられて村中菊代はいてもたってもいられず、巣鴨プリズンに明石義人の面会に訪れる。突然の訪問に明石は、青線の女性が急に会いに来たので、「私はまたいつかの時に借金でもしてきたのかなと思って」と応対し、菊代は深く傷つく。

菊代はやがて明石義人には節子という恋人がいることを知る。しかし明石への思いを自らの「青線」脱出のエネルギーに変えて、知人夫婦の援助を得て、衣料品販売の商売に打ち込みたくましく戦後の日本を歩む。菊代は戦前の遊郭から戦後「青線」(私娼)を経て、経済的に自立してゆく女性の成功例として描かれる。

 

<榊光子(節子)VS.明石義人>

 

 騙されて「慰安婦」に

戦争中、明石義人は仏印から移っていった南の島で「慰安婦」節子に出会い、心を惹かれた。

彼女は「あたし、看護婦になるつもりだったのよ、南方に従軍したら早く資格が取れるって教えてくれた人があったの。騙されたのよ。大ウソよ、もう日本に帰れない、帰らないわ」と明石に訴えた。東北の生れで、雪国の娘らしく肌は白く豊かで輝くような身体をしていた。またたく間に流行りっ子になって、将校たちの間で彼女をはり合う騒ぎであった。少尉に任官したばかりの学徒出陣の彼は、士官学校の専任少尉や中尉の向こうを張って女を争う気にはなれなかったが、節子も明石義人に強い思いを寄せていた。

明石義人は「こんな南の島くんだりまで流れてくるについては、一人一人、それぞれの事情はあったのであろう。しかし、一歩踏みちがえるとずるずると奈落へ墜ちてゆく女の生涯というものが、彼にはもどかしい気がする。騙されてこんな生活に落ちたと嘆く節子だけは元の健全さに何とか立ち返らせてやれないものか」と思う。

…しかし(戦争中のこと故)彼の命には保証がなかった。「いい加減こんな生活からは足を洗うんだ。うかうかとこんなところで日を過ごしているべきじゃないよ。絶対に秘密だが、戦況はよくないんだ。君を内地に返しておきたいんだ」と告げるが、…しかし要員引き上げの船より先に赤石義人の(ニューギニアへの)転勤命令が来た。

 

巣鴨プリズンへ舞い込む1枚の葉書

 

差出人の名前を見ておっ!と明石は思った。「お久しぶりです…私は今、病気して療養所に入っています。ここであなたの帰られたことを知って心も体もふるえながらこの葉書を書いています」。結核療養所のある町は東京西部の郊外にあって楢や橡の木が散在して武蔵野の面影が残っている。節子はタオルの寝巻の上に銘仙の羽織を着て立っていた…

「どうしてわかった?おれがあそこにいることが」「偶然なの。事務所にいる人の兄さんが巣鴨に居るんですって。話しているうちにひょいとあなたの名前が出たの…」

「いつ病気になったの」「もう長いのよ、終戦の翌年からですもの」

「手術はどうなのだろう」「それができにくいところらしいの」

「家の方はどうなっているの。お母さんはあの頃いなかったんだなあ」「九つの時死んだの。いたらあんな南方へなんか流れて行かなかったわね」

「お父さんは」「一昨年死んだの。兄がいるけど子どもが沢山いるし…全然頼ってはいないわ」「泣くなよ、おれが帰って来たんだからもうそんな不自由はさせないよ。あんな所にいてもおれも何とか稼ぐことはできるようになったんだから」。 

 

若い医者は、明石は節子の病状について

「あなたにも見えるでしょう、空洞が3つもあるんです。この患者の場合…なおすてがかりがないのです。せめて5年前に栄養状態が手術に耐えうる程度だったら、僕なら切ったと思いますがね。僕は4年前にここへ来ました。すでに手遅れでした」

明石「彼女は希望は持てないのですね」

医者「本人がこうしたいということでしてやれることがあったらしてやってください。旨いものを食わせてやって、なるべく長持ちさせてください、それだけです」

 

<節子に結婚衣装を着せる菊代

~もう一人の自分がそこにいた…>

 

 なじみの喫茶店に偶然、菊代が現れる…明石義人は節子への見舞を頼む。「実はもうあんまり長くないとはっきり言われましてね。医者が会いたい人には合わせるように、と言うのです。」

 

菊代は明石の頼みを受けて自分の営む衣料品の商売の客でもある節子の入院する療養所へ見舞った。

節子は「打ち明け話ししましょうか。昔の恋人が生きて還って来たの。南方から…ねえ、よく生きて還って来たものでしょう。私元気になったら結婚式をあげるの」「今更結婚式なんか…とあの人は言うのよ。でも私はやっぱり結婚式をあげたいの、一度でいいから…わかってくれるでしょう、あなたは女だから」最後を節子は息切れしながらいった。

「そりゃあたしは、南方くんだりまで流れて行った女ですよ。騙されて…だからといって、どうしてまともな結婚がしてはいけないのでしょう?ねえ、そうでしょう?」

 

菊代は、なんとなく胸を引くような、ぎょっとした気持ちで相手を見た。まるで菊代自身の過去を知り抜いているような節子の愬(うったえ)であった。そうか、この人は南方で、そういう女として明石義人と知り合い、愛し合ったのかと初めて菊代は納得する。

 

節子の中に、菊代は自分を見ていた。もう一人の自分がそこにいた。もしも菊代が健康に恵まれていなかったらおそらく光子と同じ道をたどったに違いない。菊代は考え実行した。

彼女は商売の先輩に花嫁衣裳の調達を頼んだ。「せめて結婚式の着物をあの人に上げたいの。…あの人、考えてみると私自身みたいなんだもの。」「あの人にしてあげるというよりももう一人の自分にしてやるのと同じきもちなのよ」。

菊代の持って行った結婚式の留めそでを見て、節子が意識が朦朧としながらも、満足して喜ぶところでこの小説は終わっている。

 

吉川のコメント

~時代の制約の中の『めぐりあい』~

 

その1

戦争を挟んで日本女性の地位は大きく変わった。女性の人権のかけらもなかった戦前の時代から、敗戦後の憲法24条はじめ女性も人間らしく生きられる仕組みがつくられた。戦争、敗戦の傷痕を引きずりながら、困難な中でも女性は希望をもって生きられる。そうしたことをひたむきに求める女性の群像をこの小説は描こうとしているのではないか。

戦前の女性の中でもさげすまれ、みじめな境遇にあった売春によってしか生きられなかった女性がたくましく、或は病気に侵されながら人間らしく生きようとする姿を描くという点からして、昭和20年8月までは書けなかった新しい時代の小説であろう。

 

その2

ここに登場する明石義人はじめ男性陣が、性産業に働く女性への差別意識を持っていないないことについては、当時の一般男性の感覚とはかけ離れていると思うが、その理由は小説からは感じとれない。

 他方男性達は当時の世相でにわかに盛り上がっていた講和条約をめぐる論争、平和運動に一定の関心を持ち、運動にも参加していた進歩的な男性であったが、慰安婦、や遊郭、青線等性産業での自分たちの遊びに後ろめたさも違和感も持たない(らしい)。

この点は、民主主義、男女平等思想が嵐のように襲った時代であっても女性への固定観念=差別意識は戦前の男性のままである。性産業に働く女性に同情を寄せながらも、そのような制度の中に位置づけられている女性について違和感を持たないかのようである。女性を対等な人間として見ているのかとの疑問がわく。小説からはそれに対する女性作家の批判的な眼は感じられない。

 

その3

『めぐりあい』は女性への視点はあってもジェンダーの視点にやや欠ける、と言ったらこの時代の作品へのないものねだりになるのかもしれない。

これは金学順がカミングアウトし日本社会で「慰安婦」への認識が一挙に広がる1990年代の10年前に書かれた小説である。そのためか、遊郭、「慰安婦」の描き方に決定的な物足りなさを感じる。また既にメキシコ、ナイロビで国連世界女性会議が開催されてジェンダー思想も一定程度日本にも影響を与えていたが作品には反映されていない。結果、この小説については“時代の限界”を感じる。

むしろ逆に1991年以降の女性への暴力、人権思想の広がり、深まりについての日本社会の進歩を認識できる。それは日本の進歩勢力に対して金学順のカミングアウトが、日本の加害責任や女性を性奴隷にすること等の女性の人権問題への取り組みを促した結果といえる。

小説の甘さを云々するよりも、この間の日本の女性の人権をめぐる運動の発展、思想の進歩を評価すべきであろうと思う。今日も運動を継続する女性達の歴史を推進するエネルギーに喝さいを送るべきであろう。(以上)

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