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南京事件、「慰安婦」村瀬守康写真展

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(写真左・写真展ポスター、写真右・村瀬さんが転戦した中国地図)

『平和を願う文京・戦争展 文京真砂生れの村瀬守康写真展』が、文京シビック(文京市役所)アートサロンで8月8日~8月10日迄開かれる。主催は日中友好協会文京支部(小竹弘子支部長)である。都心の便利な場所なので多くの参加者が見込まれる。

 村瀬さんは1937年7月に召集され中国大陸を2年半にわたった転戦した。上海~南京~徐州~漢口~山西省~ノモンハンと従軍し戦場での貴重な写真を3000枚撮影しそのうちの50点を今回展示する。揚子江の岸におびただしい死体が積み上げられている南京事件やトラックで運ばれる『慰安婦』の写真なども含まれている。逃げ遅れた子どもと老婆の恐怖におののく姿、この80才の老婆は2人の日本兵に犯された、と。便衣隊のスパイとして捉えられ縄をかけられた不敵な少年の姿に村瀬さんは「おそらくこの若者が生きて還ることはなかったでありましょう」とキャプションを記している。

村瀬さんは、「当時、私は戦争反対の意見を持っておりましたが、そのことを他人に漏らすことはできませんでした」と記している(初めに)。その思想は写真に表れている。写真はとてもクリアーでみんな心に沁みる傑作である。

 

     不可解な、文京区教育委員会の写真展の後援拒否

 

私も写真展実行委員会の一員(文京革新懇のメンバー)であるが実行委員会では文京区教育委員会に会場使用と共催、後援を申し入れていた。しかし8月2日付東京新聞の報道によると6月14日、7月11日の区教委の定例会で審議の結果、委員4人が承認しないとの意見を表明した結果後援しない事となった。

反対意見の一は「公平中立な立場の教育委員会が(写真展の後援を)承認するのは如何か」というもの。「公平中立」なら戦場の写真の展示を後援できないという理由が全く分からない。南京事件や「慰安所」の写真が、教育委員会の中立公平の立場にそぐわないという事なのか?

また、「反対の立場の申請があれば後援しないといけなくなる」という事も反対理由だという。反対の立場とは何を指すのか不明である。

2015年埼玉県川越市での写真展は川越市が後援している事を見ても文京区の対応は不可解、不当である。

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(写真・村瀬さんが出版した『写真集』の表紙)

      村瀬さんと私

 

 村瀬さんは1987年12月『村瀬守康写真集~一兵士が写した戦場の記録 私の従軍中国戦線』(日本機関誌出版センター)を出版した。私は国政選挙に何度か出馬し、村瀬さんは商工団体の役員で選挙のたびに応援していただいていたのでお宅に何度かご挨拶にお邪魔し奥様とも親しくして頂いていた。

その縁で写真集をいただいた。ご自宅には写真集に載らない写真が段ボールにぎっしり詰まって保存されていたのにはびっくりした。機密保護法があり写真などめったに取れなかった戦中に、自由に戦地で撮影できたのは、村瀬さんの写真の腕を軍が信用し、戦友たちからも家族への写真の便りで重宝されていたからであろう。

 

    『慰安婦』、『慰安所』、『列をなす兵士たち』

 

私がこの『写真集』が大変貴重なものだと気が付いたのは、「慰安婦」問題が白日の下に晒された出版5年後である。私は1992年4月に参議院内閣委員会で加藤官房長官に「慰安婦」問題の初質問の準備の過程で、村瀬さんの『写真集』を思い出し、「慰安婦」関係の写真を抜き出して2枚をパネルにして使用した。軍隊と政府が「慰安所」を設置していたという動かぬ証拠が残されているのだ。

その後村瀬さんの写真は今日まで私のみならず、「慰安婦」問題に取り組む人々によって数多く(回数、人々とも)使われている。それを見た国民も多い事だろう。(1992年の)この時、私が使用したのが最初であると思う。

私は参議院議員を引退した後、「慰安婦」問題の講演を各地で行っている。その際パワーポイントに『村瀬守康写真集』の「慰安婦」の写真を使用し、また、参加者に本そのものをお見せしてので、本の綴じ目がすっかり痛み、セロテープで何度補修してもバラバラになってしまう。

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(写真左・トラックで運ばれる「慰安婦」、写真右、「慰安所」の看板)

    国会で使えなかった1枚の写真

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(写真左・「慰安所」の前で順番を待つ兵士、写真右・村瀬さんの写真を掲げて政府を追及する吉川、1992年4月、参議院予算委員会) 

 私が国会質問ではどうしてもパネルにして使えなかった写真がある。「慰安所」の前で列を作って順番待ちしている数人の兵士。腰に手ぬぐいや、短剣を下げている兵士の後ろ姿、その中で一人だけ振り向いてにやにやしている。「そろそろ俺の番が来るぞと、胸ときめかせて待ちあぐんでいる兵士たち」(村瀬)とキャプションがついている。

 醜いものから目を背けてはならないので現在はこの写真もパワーポイントに使用している。村瀬さんが上海~南京、~徐州~漢口~山西省~ノモンハンと従軍し貴重な写真を残してくださったことに感謝している。戦争反対の村瀬さん、本人亡き後も写真は貢献し続けている。(吉川春子)

2019年7月14日 (日)

映画『新聞記者』~官邸権力の闇を描く

      ディズニー映画と並ぶ人気!

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711日、東京・新宿の上映館へ私は3度目に足を運んで前から2列目の席を確保してやっと見た。それほどの人気映画である。この映画がかくも大勢の人に見られていることに、日本もまだ捨てたものではないかもしれない、と思った。

 

 

正義感溢れる女性記者と外務省から「内調」(内閣調査室=アメリカのCIAに比較される諜報機関)へ出向しているエリート官僚という2人の架空の人物が登場する。安倍内閣の下で起きた重大事件が映画を見る観客にはわかりやすく説明される。

松坂桃李が外務省から「内調」に出向しているエリート官僚を演じている。NHKの朝ドラ出演以後急激に売れ出した俳優が、恐らくは有形無形の圧力を排しての決断だったのではないか。この映画に出演する心意気を私は買う。また韓国人の女優・シム・ウンギョンが吉岡エリカという新聞記者も演じるが、日本語も達者。やぼったくもなく、洗練され過ぎてもいない女性新聞記者を演じている。 

 

    総理の”お友達”ならレイプ犯も逮捕されない国   

 

映画の冒頭は実際にあった事件で、被害者の伊藤詩織さんがTBSのワシントン支局長に強姦されたと告発する勇気ある記者会見の場面。加害者には裁判所から逮捕状が出ていたのにもかかわらず、警察は執行せずもみ消した。同記者が安倍総理の“お友達”だったからだと指摘されている。

 

映画の物語は「東都新聞」記者の吉岡エリカがこのニュースに対して自社の紙面がべた記事扱いなのに対して、「被害者本人が顔を出しているのに」と、このニュースの扱いの小さい事に強い疑問を呈するシーンから始まる。

 

実際伊藤詩織さんの事件は「東都新聞」に限らず各紙とも扱いは小さかった。(検察の不当な不起訴に対しては「起訴相当」を突きつける検察審査会まで“不起訴相当”の結論を出したのだ)。

 

当時、イギリスのBBCが彼女の特集を組んだことに比較して、日本のメディアの腰抜けぶりに私も怒りを感じていた。安倍内閣、とメディアの対応に伊藤さんは日本での生活は身の危険を感じる程だったと伝えられている。冒頭のこのような衝撃的シーンに、この映画への期待が高まる。

 

   映画「 スノーデン」さながら、日本も情報収集と活用

 

圧巻は日本のCIA(アメリカ中央情報局)とも言われる「内調」(=「内閣情報調査室」)の活動ぶりが暴かれてゆくところだ。

私は映画『スノーデン』(2013年)のいくつかのシーンを思い出した。若きCIA職員のスノーデンは正義感に駆られて、CIAの機密資料を持ち出した。そしてアメリカの諜報活動が市民のプライバシーを脅かしている事を世界に暴露した。権力に刃向う者には政府が収集している膨大な個人情報から彼のスキャンダルを白日の下に晒して反対者の声を押さえつけ、或は失脚させる。

この市民監視データのシステムは「日本にも渡されていて活用されている」とスノーデンは指摘する。彼はその結果アメリカ国家のお尋ね者となりロシアに亡命している。

この映画は、私たちの記憶に新しい加計学園問題をほうふつさせる。新聞社社会部に送られてきた、「医療系大学新設」に関する極秘公文書。内部リークか、誤報を誘発させる罠か?上司の命で真相を突き止めるべく吉岡は取材を開始する。

 

    生まれたわが子を抱きしめ号泣~信念を捨てないと守れない家族

 

これに、エリート官僚、松坂桃李の扮する杉原拓海がからむ。国民に尽くすという自分の信念とは裏腹に、現政権を維持する世論のコントロールという実際の任務に悩む。彼の妻は子どもを出産ししあわせの絶頂にあるはずだが、家庭を守らんとすれば国民に尽くすという信念を捨てなければならない。彼はかつての上司の自殺を機に自らの心の声に従う決意をするが、家庭を守れないという苦しさに、生まれたばかりの我が子を抱きしめて号泣する。

いわゆる「モリ・カケ事件」で保身のために「忖度する」官僚を多く見せつけられてきた観客は、杉原の姿に強い共感を抱くだろう。

「東都新聞」は真実を報道できるのか。そのため権力の妨害に対してどこまで戦えるのか、映画はサスペンスタッチで展開する。杉原の人生をかけての決断に新聞社(編集局)も秘密公文書の暴露に踏み切る(=読者に真実を知らせる)を選ぶ。

自分の良心に従うか、保身を選ぶか。杉原のようなエリート官僚が実際にも一人いた。前川前文部科学事務次官である。「あった事をなかったことにはできない」との名セリフで国民に真実を語る彼に、権力はスキャンダルをぶつけて彼の失脚を狙うが、その醜い企みは失敗に終わる。この映画にも登場する前川氏は今も全国で講演を続けている。 

日本のCIAともいわれる「内調」が日本で起きる様々な事件の背後にあることが映画でも描かれる。活動資金も潤沢である。国会でも領収証のいらない何億という金(国民の税金)が毎日金庫に補充される事が暴露された事がある。

こうして高度の情報収集能力と国家予算を駆使して集め、国民のために使われる情報が時の政権の維持に利用される事を暴いている映画である。安倍政権が国民に説明しなかった加計学園の背景をこの映画はフィクションとして語るが、かえって真実が浮かび上がる。

 

     メディアにも厳しい注文   

 

今年の通常国会では、予算委員会を衆議院は今年の3月の初めから、参議院は3月末から全く開かず国民への説明責任を果たすことなく、疑問に口を閉ざしている安倍内閣。また党首討論も1年ぶりに開催されたが討論にもならない短時間開いてお茶を濁した。政権にとって都合の悪い事は国民に説明すらせずだんまりを決め込んで、今の選挙に臨んでいる。

メディアも例外ではないのか。私の下に今朝届いた1通のメール。

「水島朝穂さんの「直言」から――参議院選挙の投票日までわずかになりました。しかし、この静けさは何でしょうか。選挙がスルーされています。713()夕方のTBS「報道特集」がお休みでした。この番組は、これまでの国政選挙ではずっと1週間前の状況を全国の注目選挙区などから伝えてきたように思いますが、今回は何とジャニーズ系の長時間番組にとってかわられています。報道のTBSも日テレ・フジ化してしまったのか」

確かに、今週日曜(714日)のTBSサンデイ・モーニングの「風を読む」コーナーはジャーニーズ喜夛川さんの死去についてだった。日ごろは政治・経済・世相を鋭くえぐるコーナーが国政選挙中、内外とも問題山積の中である。私は肩透かしを食った思いである。

他方、朝日新聞『日曜に想う』欄の「民主主義の靴磨きの時だ」(福島申二・編集委員)は安倍首相に対する厳しい視点で書かれており選挙戦中盤にふさわしい主張である。

 

映画『新聞起者』は政権の暴走に切り込みかつ、日本のメディアに対しても警鐘を鳴らす映画である。(吉川春子)

 

 

 

 

2019年7月 7日 (日)

遊女の苦しみを飲み込んで、大河は流れる~ 仙台で日本人『慰安婦』の講演

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(写真は広瀬川、市民会館横から撮影)

 

 広瀬川 流れる岸辺 想い出は かえらず♪

 早瀬 おどる光に ゆれていた 君の瞳

♪ 時はめぐり また夏が来て あの日と同じ 流れの岸

  瀬音ゆかしき 杜の都 あの人はもういない♪

(『青葉城恋歌』星間船一作詞 さとう宗幸作曲)

 

広瀬川の流れは女性達の苦しみの歴史をずっと見つめていたのかもしれない。

私はそんな思いで仙台のけやき通りを行き来し東北地方随一と言われたかつての遊郭の街の跡を「仙台市観光マップ」を片手に歩いた。

 江戸時代初期に仙台藩は寛文事件(1660年~71年・伊達のお家騒動)が起き、その後、自粛のため遊女屋(貸座敷)を禁止した。政権が代わった明治からは遊郭が解禁され多い時は三十数軒の貸座敷と三百数十人の娼妓がいた。近隣の農村の娘たちが親に遊女屋に売り飛ばされて、前借金を背負い、奴隷の生活を送った。

広瀬川の流れは彼女達の涙ではないか。私は『青葉城恋歌』に遊女たちを重ねていた。

 

   『宮城の会』の地道な活動に敬意

 

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(写真左・講演する吉川 写真右・仙台市福祉プラザ第1研修室の会場風景)

 

 その前の日、即ち2019年6月30日(日)私は,仙台市福祉プラザで「女性の人権と『慰安婦』問題~日本人「慰安婦」から考える」と題して講演した。雨の中参加者は約50名だった。

主催団体の「日本軍『慰安婦』問題の早期解決を目指す宮城の会」は、2011年6月に結成された。2010年12月、宮城革新懇主催で『慰安婦』問題の講演会を行った(講師は私・吉川)時の参加者と、その前の福島県日本母親大会の「慰安婦」問題分科会(助言者は吉川)参加の女性たちで、宮城県でも『慰安婦』の会を作ろうとの機運が盛り上がり結成された由。

同会は、2011年から2018年の間、大森典子弁護士や川上詩朗弁護士等を講師に招いて毎年講演を8回行う。また、『終わらない戦争』、『太陽がほしい』等映画の上映、パネル展を各7回行い、またニュースを31号まで発行している。『慰安婦』問題解決のための草の根の取り組みを着実に行っている。

(ちなみに私たちの「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の創設が2010年5月で、その1年後にこの会は結成されている)

『慰安婦』問題最初の大きな山場が1990年代とすれば、その後、第二次安倍内閣の反撃・開き直りに対し被害女性たちが激しく追及した時期に「宮城の会」は結成されている。私は同じ時期の同じ問題意識で取り組んできた同会にたいして親近感を覚えた。

 

初めて、日本人「慰安婦」問題をテーマに

私が2007年に参議院議員をリタイアしてから求められるままに各地で行った「慰安婦」の講演数は百回を超えるか超えないか…という程度であろう。その中で、日本人「慰安婦」に焦点を当てた講演は今回の仙台が初めてである。

私の講演内容は、最初の頃は韓国人「慰安婦」問題が中心で、強制連行、日本の加害責任、歴史認識、3野党の『戦時性的強制問題解決促進法案』であった。

徐々に講演の内容も女性の人権へ変化し国連の動き、女性への暴力、日本人『慰安婦』へ重点が移っていった。

2010年代、ビルマ従軍軍医から入手した日本人「慰安婦」名簿に基づき九州と関西、山形を訪ね歩いた。1996年に警察庁が私の下に提出した内務省文書もじっくり読んだ。

一人も名乗り出ない日本人「慰安婦」問題を大きな課題として私は認識した。それは自省も込めて、あまりにも遅い対応である。

折しも、「# Me Too」(ハッシュタグ・ミー・ツー)の運動がアメリカ・ハリウッドから起こり、性暴力被害者が声を上げ始めた。これと日本人「慰安婦」はテーマとしても重なり合う。

というわけで、仙台では私は初めて、日本人「慰安婦」問題を中心に据えた講演を行った次第である。今後、この講演を各地で行い『慰安婦』問題と女性の人権問題をきちんと結び付けた運動を展開したいと思っている。

 

明治以降隆盛を極めた仙台の遊郭

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(写真左-かつての花街・常盤町あたり,今は市民会館が建つ 写真右-市民会館の通りの向かい側に一軒だけ日本家屋・一帯がビルに囲まれて、街に遊郭の面影はない)

 

 仙台では明治になって政権が変わったので、遊女屋の御法度も打ち破られた。それ以後第2次世界大戦敗戦迄、仙台の遊郭は(新常磐町遊郭=小田原遊郭)業者三十数軒、娼妓三百人で、東北地方随一と言われるほど隆盛を極めた。帝国陸軍と帝国大学の存在が遊郭の利用を支えたからだという。

戦前から女子の入学を受け入れる等リベラルで知られる東北大学であるが、最高学府に学ぶ男性が遊郭の“常連“という事が私の頭の中では一致しにくい。女性の人権など国民全体の意識にも上がらない時代なので大学も例外ではないということかもしれないが…

   敗戦後、米軍の「慰安施設」&RAA(特殊慰安協会)

      敗戦直後にRAA協会発足

 どのようにして米軍兵士の「慰安所」は作られたのか?政府の命令で中心的役割を果たしたRAAの設立趣意書は以下のように記している。

「1億国民が(敗戦で)茫然自失していた昭和20年8月18日、進駐してくる連合軍の将兵を慰安するための各種施設をつくることを閣議で決定し都道府県警察に無電で指示した。8月21日、都下の接客業者の代表が警視庁から進駐軍将兵の施設を至急作るようにとの指令を受けた」

「つどい来る女性は戦火で家を焼かれ肉親と別れたいとしい女性たちであった。その服装のなんとみすぼらしい事よ。これらの女性を急遽慰安所に送り込み、将兵慰安の実務に就かせることにした」

「八月二八日、宮城(きゅうじょう=皇居)前に集合し宣誓式を行い新日本発足と全日本女性の純潔を守るための礎石事業を自覚し滅私奉公の決意を固めた」云々。

 

RAAオフリミット~仙台の場合

  仙台にも米兵の「慰安所」があった

RAAは東京周辺の「慰安所」設置に関わったが仙台ではどうだったのか?

「各地で「特殊慰安施設」の設置を急ぐ余り・・・従業婦の獲得に狂奔し、女給、ダンサー、慰安婦等の求人広告を新聞紙上に掲載・社会風致上考慮すべきもの・・・を集めにわか仕立てでスタートした。

日本の「贈り物」に対してマッカーサーなど占領軍の幹部が一番神経をとがらせたのは米兵への性病の蔓延だった。彼らは「慰安婦」として動員された日本女性に対して徹底的に性病検査を行った。

「仙台では、市当局のバック・アップで市内の進駐軍兵舎の真向かいに127人のダンサーを置くダンスホールが、『性病のため』数日でオフリミットとなった。米軍の憂慮が性病にあったのは言を俟たない。」(ドウス昌子著『敗者の贈り物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』P111)

ダンスホールは「性的慰安施設」ではないので、ダンサーたちの性病検査は行っていないはずである。何故ダンサーが性病に感染していることが分かったのか?

私は次の証言に注目する。

「進駐軍が来てすぐだと思うけど、常磐町にはアメリカ兵がわっと押し寄せてきた。ところがどういう問題があったのか、何カ月もしないうちに『OFF LIMITS』(オフリミット・立ち入り禁止)って立札が立った。進駐軍の兵士たちは出入り禁止になったのさ。‥常磐町にアメリカ兵は来なくなった。(常磐町で生まれ育った宮島信子さんの話)」

「小田原遊郭全体が米兵立ち入り禁止に区域になったという事はここがその時期RAAによって管理された特殊慰安施設であったことを物語っている(千葉由香著「みちのくの仙台常盤町 小田原遊郭随想録」平成30年1月1日・カストリ出版)

 仙台にも米兵の「慰安所」は設置されて、東北地方の女性たちが敗戦後もなお「慰安婦」として提供されていたことは確実である。

 

   <コメント>

東北地方随一の遊郭「小田原遊郭」の女性たちは戦争中は貸座敷が閉鎖されてどんな生活をしたのか。ここから『従軍慰安婦』として送られた女性は皆無だったのか。また、戦後進駐軍が来てダンスホールがにぎわったことまでの記録はあるが、しかしすぐに「オフリミットになった」ことから「慰安所」があったことが確認できる。

1946年2月20日、三百年以上続いた日本の公娼制度は正式に廃止された。仙台小田原遊郭という名もこの時点で消えた。戦後の混乱の中で、多くの国民が生活苦にあえいだが、性産業で働いた女性たちは世間の蔑視の中、どうなったのか?

戦争中も、敗戦直後も国家の政策で性奴隷とされた女性達。仙台も、一人の女性も名乗りを上げていない事は他の地域と同じだが、仙台の場合はオフリミットの記録がものの本に残されている(ドウス昌子著『敗者の贈り物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』、『県警史』他)。彼女たちの戦後を知る“よすが”は他にもないか。あれば、それは現代の「女性への暴力撤廃」の課題にも「# Me Too」も繋がる。

「『慰安婦』問題の解決を目指す宮城の会」がこれらの問題に取り組まれることを期待したい。(吉川春子記)

2019年6月22日 (土)

アメリカ映画・「RBG(アール・ビー・ジー)  最強の85才」

RBG(アール・ビー・ジー)  最強の85才」は、(監督・プロデューサー:ジューリー・コーエン、ベッツイ・ウエスト、2018年アメリカ

原題:RBG 配給:ファインフィルムズ)第91回アカデミー賞、長編ドキュメンタリー賞/歌曲賞ノミネート

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ルース・ベイダー・ギンズバーグ(RBG)は、現在アメリカ合衆国最高裁判所判事である。

2017年、女性差別者と非難されるトランプ大統領が就任し、そして「# Me Too 」が広がる米国で今大人気が沸騰している女性裁判官である。

人生をかけて、女性の差別やマイノリティのために戦ってきた。ギンズバーグ判事の人形や、キーホルダー、バッジ、ステッカーなどRBGグッズが次々発売され、若者たちが彼女との写真撮影に群がるほほえましいシーンを映画は映し出す。

最高裁判事というお堅い職業の高齢女性が、なぜこのような人気者になったのか?アメリカという国は面白い。そして民主主義が息づいていることを映画は映し出している。

トランプを大統領に選ぶ国民に失望していた私も、アメリカの奥深さをこの映画から感じ取った次第。

 

  ロースクールをトップの成績で卒業、しかし職に就けなかった

 

1933年ユダヤの家系に生まれる。コーネル大学入学、ハーバード・ロースクールに進学、1954年、コロンビア・ロースクールをトップで卒業、にもかかわらず就職先がなかったアメリカも女性差別の歴史はある。

しかし彼女の才能は埋もれなかった。30歳の若さでラトガーズ・ロースクールの教授になる。弁護士としての実績を積み、1980年、ジミー・カーター大統領からÐ・C巡回区控訴裁判所の裁判官に指名される。

 

1970年代若き弁護士として

最高裁で依頼人の代理を務めたドラマティックな事件の数々…。見事な法廷戦術によって法の下での男女を対等な立場に置くための大きな1歩を踏み出す画期的な数々の判決が下された。

○1973年、最高裁で初めて口頭弁論。空軍で働く既婚女性のために男性と同等の住宅手当を勝ち取る

○1975年、妻と死別した幼い子のいる依頼人に、夫と死別した女性と同様の給付金が支払われるべきだと主張し勝訴する

 

最高裁判事として

 1993年、ビル・クリントン大統領に指名されアメリカ合衆国最高裁判手判事に就任した。

女性裁判官としては史上2人目である。

○1996年、最高裁はヴァージニア州立軍事学校が男性にだけ入学許可を与える方針を無効とし、性差別を認める政策を違憲とみなすように結論づけた

○2006年、グッドイヤー社の従業員リリーレッドベターは女性であるとの理由で男性より低い賃金で働いてきたが、告訴までに時間がかかりすぎたために補償を受ける資格はないと最高裁は判断した。これに対し、ギンズバーグは「女性が被害者となりうる、賃金差別の狡猾な手法を理解していないか無関心であると、最高裁に間違いを正せと要求した。

議会はリリーレッドベター公正賃金回復法を可決し、同判事の意見に沿った連邦法が改正される

トランプ大統領の入国制限措置は合衆国憲法違反と指摘

「ギンズバーグ判事は男女の平等だけではなく、すべての市民の権利を守るために今も力を尽くしている」(「監督の言葉」)

最高裁はドナルト・トランプ政権が導入したイスラム圏5カ国を含む8カ国からの入国制限措置の支持を示した。一方で、ギンズバーグはソビア・ソトマヨル判事の反対意見に賛同し、両判事は、最高裁は憲法修正第1条に定められた宗教の自由を侵害していると主張した。ソトマヨル判事は「冷静な観察者であれば、入国制限措置は反イスラム教的な動機付けがされていると結論付けるはずだ」「法廷意見は合衆国憲法にも我々の洗礼にも反する」と述べた。(同映画プログラム RBG07)

 

 オペラ、ジム、トレーニング

彼女自身仕事人間を貫く。家事そして育児も夫マーティンがかなりの部分をサポートしていて、彼女は裁判官、弁護士の仕事に没頭してきた。

だが、大腸がん、すい臓がん等様々な病気にかかり克服している。映画の冒頭のシーンではジムでトレーニングを受ける彼女が映し出される。器具を使い、かなりハードなトレーニングである。

また、オペラが趣味で、プリマの唄う美しい曲,オーケストラの奏でる音楽が紡ぐ、オペラのストーリイに身を沈めると全てを忘れるという。

実際に彼女は美しい貴婦人に扮してオペラ「連隊の娘」に登場する。セリフだけであるが得意満面である。

米国の裁判官は終身制なので自らが引退しなければ何時までも続けられる。そして彼女は引退をせず今も裁判官のハードな仕事を継続している。# Me Tooが広まっている米国では彼女に「もっと頑張れ」との声援も多い事だろう。

 

「夫との出会いは人生で一番の幸運」

彼女の今日あるを切り開いたのは夫の存在ではなかろうか。夫マーティンは妻の才能を誰よりも信じ、業界筋に売り込みをかけたマーティンの手腕なくしてはクリントン大統領からの最高裁判事の指名は実現しなかったかもしれない。

自身も税務部門の弁護士としてはトップの手腕を持ちながら当時としては(現代でも)非常に珍しい、妻の仕事を献身的にサポートする男性だった。

ルースにとって最初で最後の恋人であり、夫だったマーティン・D・ギンズバーク。

「いとしいルースへ。愛と尊敬の念は56年前初めて会った時からずっと変わらない。君が法曹界の頂点に登って行く姿を見られて満足だ」という言葉を残し、2人の娘と息子、そして孫にも恵まれ78歳でこの世を去った(「プログラム」RBG03)

癌で最悪の体調の中、こんなにも美しい言葉を妻に残した男性。このシーンは非常に感激的だ。マーティンは人間的に、また男性としても最高だ。(吉川春子記)

 

 

2019年6月20日 (木)

治安維持法に負けなかった、輝かしい生涯描く、玉川寛治著『飯島喜美の不屈の青春』

 

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写真左・「飯島喜美の不屈の青春」の表紙    写真右・飯島喜美、モスリンの着物を着て女工のスタイルで

 

玉川寛治著『女工哀史を超えた紡績女工、飯島喜美の不屈の青春』(発行:治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟千葉県本部、発売:学習の友社2019年6月15日)をご紹介します。

 

<はじめに>

戦前の日本は天皇制や私有財産制を批判しただけで死刑になる、言論、思想の自由を否定する稀有の悪法・治安維持法の下で、資本家は労働者をとことん搾取した。著者の玉川氏は豊富な資料によって悪法に抗して闘った一人の女性の人生を通して当時の日本を暴く。

尋常小学校5年を終えただけの飯島喜美は15才で東京モスリン亀戸工場に就職した。労働者たちが闘い続ける職場で喜美は急速に成長してゆく。

圧巻は18歳の彼女がモスクワで開催されたプロフィンテルン第5回大会に派遣され、世界の労働者に日本の紡績工場の若い女性労働者の実情を訴えるシーンだ。「賃金は男性労働者の半分。女性繊維労働者の多くは農村から集められて居り、工場付属の寄宿舎に居住し、牢獄のような生活を強いられている」「日本の若い革命的運動に対して援助を!」と。

1935年喜美は逮捕され、2年2月長期間の拘留で結核が悪化し、弱冠24歳で獄死する。喜美の闘いはジェンダー平等推進の今日につながるものでもある。

喜美と同じ紡績工場(大東紡織)で技術者として働いた著者ならではの、紡織工場の実情、また男性の目で当時一層虐げられていた紡績工場女工の実情も詳しく描かれている。一読をお勧めしたい。

 

 <飯島喜美の子ども時代>

生れ…13人兄弟姉妹の長女

1912年、飯島喜美は父・倉吉、母・ちかの長女として千葉県旭町に生まれる。父の職業は提灯製造であった。喜美を筆頭に8人の娘と5人の息子が生まれたが多くは夭折。喜美と3人の妹と弟2人が成人した。出産とわが子の死を繰り返し体験した喜美の母親は当時の女性が置かれていた姿だ。喜美の闘いはそこから抜け出そうとしたものでもある。

小学校

旭尋常小学校卒業(6年)。学校への出欠―4年生間で出席は1041日中、病欠5日、事故欠1日、喜美は学校が好きだったに違いありません(玉川)。学校の成績は、甲、乙、丙、丁で評価された時代、全部甲をもらうような秀才ではなかったが、かといって丙も無い。甲と乙が7つずつでよくできる子だった。

小学校卒業後

子守の女中奉公にだされた。「被告人は貧困なる家庭に生育し尋常小学校卒業後ただちに各所に女中奉公を為し昭和2年2月より東京モスリン紡織株式会社亀戸工場の女工となりたるか」(「予審終結決定」記載)

<過酷な労働環境~東京モスリン亀戸工場>

1927年、飯島喜美が旭町の募集人・高橋源三郎の手引きで、京モス亀戸工場に入社。採用は零細農家の子女。亀戸工場は、秋田、青森、栃木が主、従は茨城、千葉、宮城だった。1936年、東京モスリンは社名を大東紡織株式会社に変更した。

女工の教育程度~亀戸工場在籍2,740人中、96.5パーセントが未就学を含む小学6年卒以下。高等小学校卒(現在の中学2年)は96人、わずか3.5%だった。

労働時間~年端も行かない子供たちが前番、午前5時から午後2時、後番、午後2時から午後11時の9時間二交代制ではたらかされた。休憩30分、実働8時間30分

ちなみに戦後の1958年3月から、全繊同盟の全国統一ストライキで30分の深夜業が撤廃された。

寄宿舎…梅寮は1室15畳で、居住定員は10人。竹寮は1室22畳で居住定員は14人

こうした劣悪な生活環境に対し労働組合は、「監獄的寄宿制度撤廃、通勤、結婚の自由獲得の闘争」(1932年日本繊維組合の行動綱領第29項を掲げる)を行い労働条件の改善を求めた。

一方、女子を募集する「日清紡績㈱本社工場工女募集案内」には美味しいげな言葉が並んでいる。

「当工場の寄宿舎は日本つくり2階建てで夜具布団は常に清潔なものを貸与し風呂は毎日朝夕沸かし、洗濯場も広く、各室内の換気を十分にし、冬季は室内を温め、専ら衛生に注意し悪い病気の起らぬよう努めていますから皆様にはまことに住み心地がよろしいのであります云々」と、まるで詐欺。

過酷な労働条件に労働者は果敢な戦いをくりひろげた

1914年 東京モスリン吾嬬工場女子労働者1600人が首切りと賃上げ反対ストライキ

1916年 日本で初めて労働組合婦人部、友愛会婦人部設立。東京モスリンに友愛会支部生れ繊維産業における労働組合運動の先駆となる

 1919年 友愛会大会で婦人部独立。

 1920年 3.日本総同盟友愛会東京モスリン支部結成。6・東京モスリン金町工場争議、8.東京モスリン亀戸工場争議、東京モスリン吾嬬工場(3,150名)争議

1929年 6.東京モスリン吾嬬工場で争議再燃、11.東京モスリン沼津工場で争議、12.東京モスリン金町工場で賃金引き下げに反対しストライキ、勝利す

1930年、2.東京モスリン亀戸工場で、工場閉鎖、スト、解雇者の一部復職、解雇手当支給

 東京モスリン亀戸工場スト、 9.東京モスリン沼津工場で争議

1933年 3.東京モスリン亀戸工場で争議

1934年 東京モスリン沼津工場で賃下げ反対で交渉、5.東京モスリン吾嬬工場と沼津工

場で待遇改善要求、6.東京モスリン亀戸工場で争議

1935年 2.東京モスリン金町工場で争議、スト、5.東京モスリン沼津工場で争議、6.東京

モスリン亀戸工場で争議

 <飯島喜美の闘いの記録>

こうした状況の中に喜美は1927年 喜美、東京モスリン亀戸工場に入社し、1928年ストライキを指導(伊藤憲一の回想P48)した。1929年「四.一六事件」(=共産党、支持者大弾圧事件)で男性の党員、同盟員が根こそぎ検挙された直後の五月に共産党に入党、27年入社間もなく喜美が細胞長(支部長)になった。大工場の細胞長を務めたのは喜美が初めて。

 

18歳でプロフィンテルン(労働組合国際連合)に出席、国際会議で演説

喜美は1930年8月15日から開催されたプロフィンテルン【=労働組合国際連合(1921年~1938年)の略称】第5回大会出席のため4月、会社を辞めてモスクワに向けて旅立つ。団長・紺野与次郎(東京地方委員)、団員―男性4人(全員労働者)、女性2人(喜美と党活動家)、通訳・蔵原惟人。日本の代表団はバラバラに、時間的にも違ってモスコウに到着して顔を合わせた。

世界各国から集まってきた、大勢の(殆ど)男性の参加者を前に演説した事は、喜美の人生最大の晴れ舞台であったであろう。大先輩の山本縣蔵の指導の下、原稿を書いて日本の情勢を訴え支援を呼びかけた。彼女の報告や、原稿はロシア語やその他の外国語に翻訳されており、演壇の下で同時通訳がお行われた。国内旅行もままならない当時、革命でできた新しい国ソ連にはるばる出かけた喜美の心は期待で膨らんだのではないか。密出国で緊張の連続だったと思うが、いろんな人物の援助の下、大役を果たした。

     ~~~~~~  ☆  ~~~~~~

日本婦人代表の演説(要旨)(「無産青年」第四十号 昭和五年九月二十七日掲載)

「日本の労働婦人の組織は非常に微弱で大衆を持っていない。黄色労働組合(総同盟組合同盟等)は皆で二万余の労働婦人が組織されている。この微弱な組織力は資本家に容易にむごい搾取をほしいままにさせている。繊維工業では80%即ち80万人に上り、主として若年の婦人である。これらの婦人労働者の賃金は非常に低く男子労働者の賃金の半分である。婦人繊維労働者の多くは「生きた商品」を買い集める様な方法で農村から集められて居り、従って彼女等はなくてならぬような用具すら備えていない工場付属の寄宿舎に住居し、牢獄のような生活を強いられている。おまけに彼女らの一日の行動は一々厳重に監視されているのだ。

吾々の任務はそれらの大衆の活動を指導して正しい方向へ導くことにある。今まで日本の左翼労働組合(全国協議会)はその任務を軽視していた。革命的な婦人労働者はその指導下に統一することについては何もやらなかったと言っていい。それ故に左翼組合(全国協議会)は一九三〇年の繊維工場のストライキ(鐘紡、…日の出、東洋モス、東京モス等々)の指導権を握ることができなかったのである。この任務を実行するためには、工場内の婦人労働者の中から組織者並びに指導者を養成しなければならない。結論として、日本の労働者運動のために国際的連帯の特に重要であることを強調した。私はすべての同志に向かって日本の若い革命的運動に対して、思想的組織的援助を与えてくれるよう呼びかけるものである」

~~~~~~~~  ☆  ~~~~~~~~

 

プロフィンテルン第5回大会は終了後、飯島喜美はクートベ(東方勤労者共産大学)で短期間教育を受ける機会を与えられた。喜美が当時モスコウに在住していた日本共産党幹部から期待がかけられていたからであろう。そして、彼女はその期待に応え日本に帰国後、治安維持法の弾圧に抗して、思想的転向をせずに最後まで闘ったのだった。

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喜美にはカサブランカが似合う…

 

○共産党中央婦人部の時代の喜美

1931年10月にウラジオストークまで送られて帰国。直ちに日本共産党婦人部担当の岩田義道の下で中央婦人部の任に就く。中央での活動期間は短かったがそれなりの成果もあげた。

⑴  『赤旗』48号(32.7.15)1ページ立ての婦人欄設けられた。婦人のたたかいの記事が多くの節編集方針に。女性労働者を組織するために、共産党、強制、全協、全農などに婦人部を作り活動強化を進める。

⑵1932年「全協・日本繊維労働組合の行動綱領」の制定に大きな役割果たす。具体的内容は、臨時雇用制廃止、同一労働同一賃金支給の闘争、7時間労働制、月経1週間、産前産後8週間休養日獲得、監獄的寄宿者制度廃止等々。

○結婚、検挙…

1932年10月に結婚。相手は藤本正平、1930年慶大経済学部予科在学。慶応最初の学生スト指導。32年逮捕、拷問と虐待のため発病、保釈となり闘病の後38年3月6日死去。飯島喜美が共青中央オルグとして静岡県の共青再建に力を尽くしたが1933(昭和8)年5月21日、飯島喜美神奈川で活動中に検挙される。

 

*治安維持法違反事件年度別起訴人数、1928(昭和3)年~1934(昭和9)年の7年間で4,000人が起訴されている。喜美が検挙起訴された1933年が1,285人(女性92人、7.1%)と最高である。この年(昭和8年)検挙されている著名人は、小林多喜二(2月10日同日築地署で拷問虐殺)、野呂栄太郎(11月28日重病のため釈放されたが間もなく死亡)、宮本 顕治(12月26日残虐な拷問に耐えて生還)である。党への弾圧が最もはげ行われた年に喜美も検挙された。

1935(昭和10)年6月26日予審最終決定「東京刑事地方裁判所の公判に付す」ことが決定。

 玉川氏推測では、9月 懲役7,8年の判決、10月確定している。喜美は控訴しなかったので遅くも10月3日までに栃木刑務所に収監された。瀕死の重症の喜美が裁判中に死ぬのを恐れた権力が、もう充分苦しめたから、刑務所に送りそこで獄死させようとしたとしか考えられません―玉川氏)

1935年12月18日 栃木刑務所で獄死、24歳…残虐な拷問・屈辱に耐え不屈に戦う

(1933年5月に検挙され35年12月3日までは特高の手中におかれた。この間2年2カ月長期の拘留の間に若くて健康な喜美が結核で命を絶たれるほどの残酷な処遇を受けたのだ。

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吉川の自宅の紫陽花

2019年5月12日 (日)

ユニークな「慰安婦問題」の映画、『主戦場』

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(写真左・映画のプログラム、写真右・映画『主戦場』のチラシ)

The Main Battleground of The Comfort Women Issue

これは日系アメリカ人ミキ・デザキ氏の初映画監督作品で、「慰安婦」問題の真相に迫る映画である。

「慰安婦」問題に対して何故アメリカ人が映画までつくりたいほどの関心を持ったのか?

デザキ監督の曰く、「慰安婦」問題に関心を持ったのは元朝日新聞記者の植村隆さんが「ネトウヨ」と呼ばれる人から中傷されている話を聞いたから。また、アメリカの報道は「慰安婦問題」に対して「20万人の女性たちが強制的に性奴隷にされていた」でありこの問題に論争があるとは思わなかった。歴史修正主義者と呼ばれる人々が「アメリカこそが歴史戦の主戦場だ」というのを聞いて、アメリカ人として興味をもった」というのだ。

 

映画はまず、「慰安婦問題」のいくつかの論点を取り上げて肯定、否定論両者の見解がスクリーンに展開される。

 

<慰安婦の人数について>

先ず、歴史修正主義者は「慰安婦」の数が200,000という点に噛みつく。あまりにも多い数ではないかと。

ケント・ギルバート(日本のテレビタレント、カルフォルニア州の弁護士)は「もし左翼の主張が真実なら慰安婦たちが1日に20回もセックスを強要されたとすれば…」、

藤木俊一(テキサス親父のマネージャー)「1日に20回とか30回とか…最近では50回、強要されたと。…すぐに(慰安婦が)1000万人位になるんですよ。(日本軍は)150万人しかいないのに」

ケントギルバード「日本兵全員が単純計算でも1日6回のセックスしなければ、それも毎日しなければ計算が合わない」

 

ナレーション~20万という数字はどのように算出されたのか

 

吉見義明(歴史学者)「陸海軍軍人の数は最大350万人。日本軍は100人に1人の割合で慰安所を設置する基準なので3万人という数字が出る」

渡辺美奈(アクティブミュージアム『女たちの戦争と平和資料館』(wam)館長)「長い戦争で交替もあった…」

吉見「仮に半分入れ替わったとすると、4万5千で、全体で1度入れ替わったとなると6万という数字が出る、まあ最低で5万くらいかな」

ユンミヒャン(韓国挺身隊対策協議会)「当時慰安所の管理者たちの話の中に『29対1』という記録がありそれに基づいて研究者たちが約20万と推定している。私達は研究者による数字を用いているに過ぎない」

渡辺美奈「フィリッピンやインドネシアの部隊に慰安婦がいなければ自分たちで慰安所をつくっちゃう…そうなってくると『100人に一人』ではなくなってくる」

 

ナレーション

「アクティブミュージアム『女たちの戦争と平和資料館』は合計数を出すことには慎重だ。…この議論の結論から分かることは、慰安婦についての実際のデータは存在しない。よって概算の言及には注意が必要だ

 

<歴史教育 HISTORY EDUCATION

杉田水脈「ニッポン人は『まあこんな問題は嘘だろう』とあまり信じている人はいないと思う。『強制連行なんてやりっこない』というのが一般的になっているにもかかわらず、いまだ世界中ではナチスドイツのホロコースト…に匹敵する戦争犯罪だと世界中の人が信じ込んでいる」

 

ナレーション~性奴隷なんて話を日本人は信じていないと否定論者は言うが日本人の多くが問題自体を知らない事を忘れてはいけない。…

 

中野晃一「1997年以降中学校の歴史教科書が慰安婦の記述を含むと報じられた時から中学は義務教育ですから…右翼にとっては大ごとだった。彼らはいくつか団体を結成した。歴史修正主義の反動が始まった。安倍首相は未だ当選2回の若い国会議員だった。自民党議員中心になって議員団体を結成した。」…『日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会』というような」

 

ナレーション~「教科書議連」としてもしられている

 

俵義文「このまさに自民党が言った歴史認識をつくる、日本の戦争を正当化するような歴史認識を国民に定着するための国民運動組織として、学者を中心とした組織ができたのが『新しい歴史教科書をつくる会』なんですね」

稲田朋美(国会での発言)「総理は若手議員の頃から教科書から慰安婦の記述を削除して日本の名誉を回復するために尽力していた」

 

ナレーション~1997年中学校の全てに慰安婦の記述があったが2012年にはその記述が完全に削除された

 

中野晃一「朝日新聞を無理やり黙らせ、政府見解に屈させることに成功したて大胆になった安倍氏は更に国際的キャンペーンに関与、特にアメリカに注目し朝日新聞が広めた「誤った」認識を変えさせようとした」

安倍晋三(国会での発言)「政府としては客観的な事実に基づく正しい歴史認識が形成され、ニッポンの取り組みが国際社会から正当な評価を受けることを求め、戦略的な対外発信を強化しなければならない」

 

ナレーション~2014年日本の外交官がアメリカの教科書会社を訪問し、慰安婦問題に関する記述二段落分の削除を要求した。聞き入れられず総領事館の職員が執筆者―ハーバードーハーバードシグラー氏を突撃訪問し「アメリカの学生の頭の中を汚染している」と非難した。

2017年日本政府は公式な意見書を提出し目良浩一氏のグランデール訴訟に支持を表明した。信じられない事に慰安婦像の撤去は『日本の国益の中核である』と書かれている。何故安倍氏と右翼は慰安婦問題をここ迄重視するのか。

(以上は『主戦場』プログラムより引用)

 

否定論者に発言の場を与えてしまう…懸念はない

 

「慰安婦」の人数、強制連行、性奴隷、歴史教育という主論点について、肯定論者、否定論者双方の意見が様々な資料映像とともにスクリーンで展開されて、観客は引き付けられる。

私自身、金学順さんが「あまりに悲しくて自分の口からは話せない」と語る映像は初めて見た。また米議会でのイー・ヨンスさんの証言のシーン、や米在住の日本人の様々な証言(「慰安婦問題で日本人の子どもが学校でいじめにあう!」)等々アメリカ国内の情報も。テーマ毎にこうした賛否両論について対比させるという手法が新鮮である。

 

「主戦場」プロデューサーのハタ・モモコ氏が最初、「この映画の両論併記という形には懐疑的であった、否定論者へ発言の場を与えてしまうという事に抵抗を感じないわけではなかった」と述べているが、手方として成功したのではないか。

確かに「否定論者に発言の場を与えている」部分もあるが、両論を並立させることで彼らの嘘やとんでもない牽強(けんきょう)付会(ふかい)も観客に明らかになってくる。人柄の不真面目さが露呈された否定論者もいた。

この映画の作り手の歴史認識がしっかりしているので、「慰安婦」問題の本質が誤って観客に伝わることはない。

 

    映画から伝わるもの

 

映像は安倍総理など右翼勢力が、強制連行、性奴隷等否定できない事実にクレームをつけ、「慰安婦」問題を躍起になって否定するキャンペーンを展開する姿を伝える。そして、「慰安婦」問題を否定することで、日本のあの戦争は間違っていなかったという侵略戦争肯定論へ結びつけようとするという彼らの「壮大な」戦略を描く。

しかも私が驚愕したのは、安倍総理が国内だけでなく国際世論、とりわけアメリカの市民の認識までかえようとする、恐るべき「発展性」を映画が描いていることである。日本国内からは見えにくい在外公館を使い、アメリカの教科書執筆者に対する裁判にまで関与している。この映画を多くの日本人が見てほしいと思う。

 

問題は、日本の世論が「慰安婦」問題を外国の話しとしてとらえたりもう終わった事だなどとしていることに対して、どのような有効な手を打てるか、運動を発展させられるか、である。

「慰安婦問題」をどのようにして日本人自身の問題としてとらえる世論を喚起してゆけるかが課題である。それは# Me Tooの運動であり、日本人「慰安婦」問題への取り組みにかかっていると思う。(吉川春子記)

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2019年4月22日 (月)

「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の第7回総会開く

 <第7回総会>

第7回総会は2019年3月31日午後3時30分より東京都文京区民センターで開かれた。議長は後藤ひろみ事務局次長、出席者は40名。

 〇吉川春子・当ゼミナール代表から「2018年度活動の総括と2019年度方針」が提案された。(当ゼミナールニュース第35号に掲載)

 〇原康長・事務局次長から会員数、会費納入の状況が報告された。総会時点の会員数は544人。佐藤龍雄・監事より決算に関する報告が行われた。

 〇大森典子・副代表から「当会活動の基本方針」が提起された。(当ゼミナールニュース第35号に掲載)

質疑・討論の後全会一致でいずれも承認された。

 〇その後2019年度の常任運営委員、運営委員が選任された。

  常任運営委員10名(代表ー1名、副代表―1名、事務局長ー1名、事務局次長4名、その他の常任運営委員3名)

     運営委員10名。

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写真左・山田教授の講演に耳を傾ける参加者、右は信州長和町の雪柳・2019.4.28撮影

  <2019年度の当ゼミナールの行事>

 

【第30回ゼミナール

 日 時:2019年7月28日(日)会場は追ってお知らせします

 テーマ:「RAAと米兵のための『慰安所』~敗戦後も政府が「守るべき性」と「差し出す性」を選別し女性差別を公然と行う政策を実施!

 講 師:平井和子・一橋大学講師 *著書『日本占領とジェンダー 米軍買売春と日本女性たち』(2014年8月30日有志舎)

 

 敗戦直後、日本国内に政府が警察に作らせた多くの売春施設と運命を狂わされた日本女性たち

「慰安婦」は戦後もいた!終戦直後に政府は女性を駆り集めて進駐軍のセックスの相手をさせる「慰安所」を日本全国に作り女性たちの売春を強要した。その結果多くの女性の人生が狂わされた。政府は国会で追及されてみ謝罪もしないし認めてもいない。

 

【フィールドワーク】

 実施日:2019年11月19日(火)~11月20日(水)

 目的地:広島県竹原市忠海町大久野島の毒ガス資料館、

     女学生時代に大久野島に学徒動員された大久野島画家・岡田藜子さんの講演

     呉市江田島、戦艦大和資料館、海上自衛隊資料館等見学   

 費 用:45,000円程度(航空機使用の場合)

 交 通:東京ー航空機使用、大阪、名古屋、山口、福岡等は新幹線

 

毒ガス製造の大久野島を訪ね日本の加害の事実にふれる旅

中国では、現在も旧日本軍が中国に遺棄した毒ガスによる被害者が出ていて裁判になっている。それを製造していた大久野島、しかも学徒動員の子ども達に手伝わせていた。女学生は風船爆弾を製造させられ、アメリカに到着した風船爆弾はアメリカ市民の命を奪っている。自分は加害者、と絵本を作りアメリカ、フランスに寄贈した岡田藜子さんの体験も聞く旅です 

 

    < 記 念 講 演 >

 総会に先だって午後2時より、山田朗・明治大学文学部教授による記念講演に当ゼミナール単独企画では最高人数の95名が参加した。準備した資料70部では足りず急遽、増刷という嬉しいハプニングがあった。参加者も多様で、ソウルのフィールドワークに参加した大学生達や、『慰安婦』ミュージアム名誉館長、女子大名誉教授、元消費税なくす会会長、群馬県歴史教育協会員、元マスコミ記者…など。会場から初参加の大学教員の旧日本軍玉砕地中国雲南省の旅等興味深い報告があった。

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講演する山田朗・明治大学教授

 

    講演に関し寄せられた感想

 全体として、素晴らしい講演で受けてよかった、参考になった、先の見通しが開けた等の感想が寄せられた。以下は感想要旨

 <歴史認識>について

〇加害者・被害者と立場の違いから同じプラットホームで話し合うことの必要性を感じた。

 〇歴史認識という言葉のむつかしさ、「慰安婦」問題の奥の深さ等々考えさせられた

〇立場によって大きく異なることの認識が大事。それが共通の認識から未来の歴史を築くことができるのだと思った。

 〇歴史認識とは相互のやりとりと歩みそして理解なんだと。差別をどう乗り越えられるのか。

〇加害者側の考えと被害者側の考え方の相違についてはとても勉強になった。

 <日本の責任>

 〇日本は過去を隠蔽し、事実をねじまげて、徴用工や「慰安婦」の問題を相手(韓国)の考えを理解しようとしない。TBSラジオでさえ、韓国非難を繰り返すだけ。日本は本当にどうしようもない。この先、よい方向へ向かう展望がみえない。全く情けなく暗い気分にならざるを得ない。どうしたらいいのだろう。

〇(私の年代では、体験的にもわかっていることですが)、ちゃんと向き合うべきだと改めて考えます。中国にしても、韓国にしても、また日本の中でも、そちらの証拠資料をしっかり残して受け止めることが大切。頭から否定してかかることは、何も話が始まらない。

 〇安倍氏が直接「慰安婦」にされた方の前で、土下座して心からお詫びをすれば解決は早いと思います。

 

     <山田朗先生の講演概略、文責・吉川 

 歴史認識について対話と相互理解の必要性を強調された。例えば原爆投下について加害者側(アメリカ)は「多くの犠牲者を出したが世界に平和をもたらした」とするが、被害者(日本国民)は「多くの被害を出したので二度と繰り返してはならない」とする。また同じ被害者でもアジア諸国の人民は「日本が敗北しその植民地支配、占領支配から解放された」と捉える。

    政界における3談話打ち消し

山田先生はアジア諸国との歴史認識の“ずれ”の原因はこれまで日本政府が歴史認識で近隣諸国へのお詫びを何度か表明したにもかかわらず、その都度政界でこれらの「談話」を排斥してアジア諸国の怒りを買ってきた事にあるとした。

☆「宮沢談話」(官房長官、1982年)~日本の教科書が国際問題になったとき、近隣諸国への配慮を打ち出した

☆「河野官房長官談話」(1993年)~「慰安婦」の徴集、管理への関与、強制性、おわび、「反省」を表明。

〇2007年の辻本議員への政府答弁書が誤認の源。河野談話を認めてその後で「資料の中には強制連行を示す証拠はなかった」と付け加えた。日本がポツダム宣言受諾(8月14日)から米軍の日本上陸(8月28日)の2週間の間に政府は全国に通達を出して日本にとっての不利な証拠を徹底的に焼却させた。自ら焼却しておいて「証拠がない」とは!安倍内閣の卑劣さを示す答弁書である。

〇結果「強制連行はなかった」、「強制されたものではなく自由意思だった」発言続々

☆「村山首相談話」(1995年)~「植民地支配と侵略」への痛切な反省と「心からのお詫び」を表明。

しかし「安倍談話」で村山談話を否定。これ等の「談話」排斥の総仕上げが安倍談話である。安倍内閣こそアジア諸国との友好関係を傷付けている張本人である事が明らかにされた。

       「徴用工」問題の根深さ 

 徴用工問題では先生は日本が植民地支配していたとの認識が(国民の間に)弱いと指摘。きっかけは1937年の日中戦争勃発で常備兵力に+70万人が徴兵されて、兵力動員と軍需生産の拡大に伴う労働力不足を補うために朝鮮から当時あった渡航制限を解除し労働力を移入した。人数は在留朝鮮人を加えて10年間に4倍に増加した。

 当初は募集形式で行ったが、過酷な労働条件で逃亡者が多く出るようになったので1942年より官斡旋(かんあっせん)方式で地域ごとに人数を割りてる方式を取った。戦争末期の1944年からは国家総動員法の下で国民徴用令が朝鮮人にも適用され、強制的に軍需産業に徴用された。鉱山や炭鉱では組長、熟練工として比較的徴用されたが、非熟練層は肉体労働で低賃金で酷使され劣悪な生活環境だった。松代大本営工事は朝鮮人の非熟練工も大量に徴用され、また各地で逃亡、抵抗が多発した。

 記録や映画で朝鮮人の労働者の目を覆うばかりの過酷な実態に私も触れてきた。当ゼミナールのフィールドワークで松代大本営の見学や、昨年の群馬県では発電所で酷使されていた朝鮮人労働者の慰霊碑も見学した。植民地支配が強制労働を可能にしたとの事実に私たちは目を向けなければならない。

     連れて来られ方ではなく、自由奪われた強い拘束が問題 

 先生は「問題は『強制連行』=連れて来られ方ではなく、『個人の意思』で日本に来たとしても帰国、就労、居住、賃金使用などの自由を奪われた強い拘束性が問題である」と指摘する。確かにどんな形態で来たにせよその後の過酷な「たこ部屋労働」から抜け出る方策がない事が問題なのである。しかも植民地朝鮮では明治憲法は完全には実行されず参政権がない。即ち朝鮮の人々は権利がなく義務のみ押し付けられていたという植民地政策の下におかれていた実態に目を向けなければならない。。

 (強制連行については「慰安婦」問題にも共通する。一時期国会でも「強制連行」の議論が盛んにおこなわれたが。官憲がドアに押し入り女性の手を引っ張って連行する事が「強制連行」だと安倍首相は勝手に意義を変えた。また、「吉田清治なる人物が朝鮮半島に於いてトラックで女性を強制的に狩りだした」、「いや彼はペテン師だ」云々。そして「証拠がある」とか「無い」とかに論議が向いて繰り返された。私は、これは政府の「慰安婦」問題の論点をそらす術中に陥るものでではないかと懸念した。「慰安婦」問題の本質は「慰安所」で兵士の相手を強制させられて性奴隷だった事が問題なので、募集の方法にだけ目がいってはならないのだ。このコメントは吉川)

 同時に徴用工は国家総動員法に基づく政令によって強制的に労働に駆り出されたので、法的根拠のないまま引っ張られた「慰安婦」とは決定的に違う点であり、それだけに日本は賠償責任を負っていることは確かである。

      歴史認識はなぜ必要か 

 過去を見ないと現代が見えない。日本は大きな犠牲を払って加害を学んだ。加害の問題を残そうとしないから加害の記憶は消えてゆく。忘却は罪悪である。日本では徴用工問題は報道されなかった。何が事実だったのか、日韓の共通の土台をつくることが必要である。戦争処理が終わっていない事の認識が日本人に必要である。戦後生まれの世代にも「戦争責任」はある。先人が清算していない「負の遺産」を清算する必要がある。アジア諸国と友好関係を築くためにそれは必要である(吉川春子記)。

(講演要旨は「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールニュース第46号2019年5月20日発行に掲載予定)

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会場は文京区民センター大会議室2019年3月31日(日)

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写真・信州の”花モモ”満開2019.4.28

 

 

 

2019年3月25日 (月)

早明浦ダム建設で人口400人に減少した大川村を訪ねて

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(写真・村の宿泊施設前で3月20日・左端吉川)


、 女性議員のいない町村を訪ね、今回は! 


3月19日(火)~20日(水)に女性元参議院議員4人で高知県土佐郡大川村を訪ねた。ここは以前に「議会廃止も検討…」などと報道されたいわゆる「限界集落」だ。村議のなり手不足解消のために地方自治法の「兼業禁止」を緩和する条例制定に歩み始めている(2018年12月、朝日)との報道を笹野貞子元参議院議員が見つけて今回の訪問となった。


私達「参議院協会」会員の女性は2、3年前から女性議員のいない村、町を訪ねて原因をさぐって来た。戦後70年間女性議員が一人も当選しない、海水浴場と「月の砂漠」のモデルとして有名な千葉県御宿町や日航機が墜落した群馬県上野村等を訪ねた。今回もその一環であった。しかし私が目の当たりにしたダムの街の姿は女性の政治参加云々を超える問題があり私は衝撃を受け、国(行政)への不信感を一層募らせた旅となった。(宿泊施設前で平賀真助議員と3月19日)


離島を除いて、日本最少人口の村にしたのは誰? Photo_1


 私は朝6時30分東京発新幹線のぞみで岡山駅下車、飛行機で先に着いていた黒岩秩子氏と共に笹野氏の車に便乗させていただく。瀬戸大橋を渡り高知自動車の大豊で降りて県道に入る。ここからは早明浦(さめうら)ダムに沿ってくねくねと曲がる道でハンドルはベテランの運転手が握るが眼下はダムなので心穏やかでは居られない。大川村役場に着いたのは家を出てから8時間後の午後2時まえだった。


 村役場で私たち一行を迎えてくれたのは初対面の平賀真助共産党議員だった。こんな険しい場所で奮闘する彼に尊敬の念でいっぱいである。「早明浦ダムで村はズタズタにされた」「水没地域の住民は補償金をもらって村を出て行った。主要産業だった鉱山が閉山され、林業も廃れた」と彼は言った。


同じ言葉が私達の会った方々から繰り返し出た。和田知士村長は「村にとってダムのメリットはゼロ」、「かつては大川村は不交付団体だったがダムと三身一体改革で村はとてつもない財政難に陥った」と。昭和47年、別子銅山と並び称された白滝鉱山の閉山が追い打ちをかけ4000人の村民が2018(平成30)年403人に迄減少する。


和田村長のお父さんは反対運動のリーダーだった。ダムは昭和42年に着工されたが、村民は昭和45年に湖底に沈むとわかって居ながら役場の庁舎を建築した。今でも渇水になると村役場が湖底から姿を現す。大川村発行のリーフにその写真が掲載されている。村民は今もダム建設に反対、の意思が伝わり心が痛む。


私は当初は大川村が早明浦ダムの立地であることを知らなかった。しかし、かの有名な早明浦ダムがここ!と、私の記憶がよみがえりダム建設反対運動の村の歴史が私の中で現実のものとなった。


東京オリムピック前年に建設省がダム計画を立ち上げてオリンピック景気に浮かれ、東京中心に戦後復興で華やかな時代に、東京から遠く、高知県大川村では故郷を守るため熾烈な反対運動が闘われていたのだ。国家権力がそれをなぎ倒してダムが完成したのは1973年。私が埼玉県八潮市議会議員に当選した年である。 


         子どもたちに希望が 


 “限界集落”という心痛む言葉が日本で聞かれるようになって久しい。大川村は400人の人口の内で、80歳代が一番多いという。また10年後は300人にまで減少するかもとの予測もある。


小中学生は25名だがそのうち10名は他所の県や自治体からの山村留学の子どもたちである。義務教育さえ外部の力を借りなければ成り立たない状況である。


私は早朝No散歩の時通学の中学生4人と会った。おはようございます、と声をかけてきた彼らの頬はバラ色、学校は楽しい?と私が聞くとクラスが少人数で先生とよく話せるから、と答えが返ってきた。


また、この2年間で子どもが11人が生まれるという希望もある。これは30年前からゼロ歳児保育(生後6カ月)を実施していて、保育料はタダだという、働く母親にやさしい施策の効果であろうか。


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(写真・橋の上からダムを覗く)


    村議会の危機に、兼職禁止を緩和


浅倉慧(あきら)村議会議長は「定数6名の大川村議会では果たして議員になり手がいるのか?そこで地方自治法94条にある村民総会について研究をしておこうと思った。それがマスコミで(議会廃止かのように)誤って伝えられてしまった」と言われた。「議員定数は8名欲しい6名では委員会が成り立たない」とも。


地方自治法92条の2は地方議員が当該地方自治体の請負する者との兼職を禁じる。今年の議会で大川村は兼職緩和条例が成立し平成31年4月1日から施行される。条例は「請負」等について緩和規定を設けた。これによって大川村村議の資格を拡大する狙いである。この規定が何人かの候補を増やす効果が上がるのかはいまだ不明である。


議員のなり手を増やし、村議会を維持したいとの意向で、学者の知恵を借り、総務省の同意を取り付けて画期的な条例施行となった。全国初の事であり、今後議員になり手を増やす方途として大川村に続く自治体が生まれるであろう


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(写真・村議会議場、椅子、演壇は地元産の木材で作られていた。議長席に座る吉川)


      村議へ女性の立候補 


3月19日、東京では桜の開花が云々されるのに冬のような寒さの大川村で私達一行は村の宿泊施設に泊まった。村特産の“はちきんブロイラー”の焼き肉は頗る美味だ。一方住民の暮しは山間地でもあり生活条件は都会の私から見て厳しい。


この宿泊保養施設は大川村からの指定管理者業務を委託されている「大川村ふるさと公社」が運営している。ここを切り盛りしているのは渉外課長の近藤京子さん(56才)である。


この公社の職員は本来ならば議員になれないが、今度の条例第3条の(2)では指定管理者を外し、「自治法92条の2の請負に該当せず」とした。その結果、近藤さんはにわかに脚光を浴びた。村議選への立候補に対して各方面から熱い視線が注がれているからである。


法的には立候補可能となっても女性の場合は家族の状況、同意等超えるべき課題もあるだろう。この村では村史上2人の女性議員がいたという。彼女が3人目の女性議員となるか、まだ彼女は立候補についても答えを出していない。


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(写真は早明浦ダムにかかる橋)


 


  八ッ場ダム、原発との類似性 


 私は大川村を訪問し早明浦ダムをこの目で見てダムはこんなにも人々の生活を困難に陥れるものかと衝撃を受けた。1960年代から70年代の日本の経済成長期に全国でダムをつくり、その結果人生を変えられてしまった多くの人々を思った。ダムが必要だったと仮定しても、ダム湖を抱える住民にのみ犠牲を押し付けていいのか。


 昨年バス旅行で、群馬県の八ッ場ダムへ行った。かつて八ッ場ダム反対住民の決起集会に参加したこともある私は、既に自然を破壊し9割方完成している八ッ場ダムの姿を見るのはつらかった。


昭和30年代から反対運動が続き、又宙ぶらりんの期間が長引いて旅館業者もついには賛成に転じダムは建設された。しかし、名目とされた首都圏の水需要はほとんどなくなり、他方、酸性の強い水に石灰を膨大に投げ入れて、それを利根川に流す等々環境破壊が凄まじい。何のためのダムなのか疑問はなお解けない。


そして早明浦ダムが大変な苦労を子孫に今も強いている愚を思うと、この八ッ場ダムも後の世代にどんな負の遺産を残すのか、暗澹たる思いがする。


 原発も同じことがいえよう。原発で利益を得る者のために建設され、いったん事故が起きると犠牲は国民に押し付けられる。裁判では東電の最高幹部はこれだけ深刻な被害を発生させながらこぞって無実を主張する。国家もこれを擁護する。国家とは何なのか。人間とは何なのか。


 

2019年3月17日 (日)

関東大震災当時の日本を描く韓国映画「金子文子と朴烈(パクヨル)」

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(『金子文子と朴烈」のジャケット)

 

    日本人監督には撮れない?映画


 

渋谷駅は大規模工事中でわかりにくい上に街もなじみ少ない私は親切な通行人に会ってこの映画館シアター・イージーフォラムにやっとたどり付けた次第。

ここで上映中の韓国映画『金子文子と朴烈』(イ・ジュンイク監督)は、日本人が観るべきだと私は思う。このような映画は日本人の映画監督には制作できないと思うから。

即ち日本人はこれほど天皇制について痛烈な批判はできない。また関東大震災に対してこの様なリアルなシーンの映像は取れないだろう。これはしかし事実なのだ。祖父母の世代が植民地支配の苦しみを心底味わい、関東大震災の時に恐怖の体験を味わった朝鮮半島の人でない限りこうした映画は撮れない、あるいは日本社会が受け入れないだろうと思う。

主人公たちはアナキストだったが、アナキストであろうと社会主義者であろうと思想を罰する治安維持法の下で植民地支配下の朝鮮人に過酷な弾圧が降り注ぐ。そのことを描いている映画である。

 

キラキラする青春映画の側面

 

映画の冒頭で金子文子は朴烈を訪ねて、彼の「犬ころ」の詩に惹かれたといって同棲を申し込む。当時の日本社会で差別されていた朝鮮人の青年の詩に共感し、生涯を共にしたいという自分の意思を明確に表せる金子文子とは並みの女性ではない。

彼女は両親から出生届も出されず、従って小学校にも行っていないが、獄中や公判での堂々とした態度はどうして身に付いたものか、同棲者(内縁の夫)たる朴烈への信頼と愛情のためか。映画では描かれていない。

以後、どこまでも信じあう心は変わらず一心同体である。簡単に同棲を始めたかに見えるがそれはいい加減な気持ちではない。それは二人が交わした3点の規則が物語る。文子は以下の二人の約束事を書面に書いて、それぞれ拇印を押す。

その1、同志として同棲すること

その2、私が女性であるという観念を取り除く事、

その3、一方が思想的に堕落して権力者と手を結んだ場合は直ちに共同生活を解消すること

この規約には、固い思想で結ばれ権力にも屈しない決意がみなぎっている。それは過酷な日本の官憲の弾圧に対しても貫かれる。

1923年(大正12年)おでん屋で働く文子と朴烈の二人は「不逞社」を設立し他の仲間と政治活動を行う。

 

    関東大震災が2人の運命を変えた

 

同年9月新婚の2人を関東大震災が襲う。町では流言飛語による自警団、警察の朝鮮人への虐殺が始まり、東京と神奈川全域に戒厳令が出される。亀戸署に河合義虎など南葛労働者、日本人社会主義者が逮捕殺害される。

数千人(映画では6千人)の朝鮮人が虐殺された。今日もなお慰霊祭が行われているが、小池都知事になってからこの集会に向けたメッセージを拒否している。関東大震災に端を発した朝鮮人虐殺に無反省の都知事であってはならない。

文子と朴烈が予防検束される。朴烈らは「爆弾を入手しようとした(だが実現しなかった)」だけなのに長期の取り調べの中で供述が誘導され皇太子暗殺を謀ったという話に膨らみ、法定刑は死刑のみの大虐罪で起訴される。大審院での審議が始まると本人たちも法廷闘争を通じて自分たちの主張を述べる場とする。二人はひるむことなく日本の官憲への批判を述べる。

その過程で、朴烈は文子を説得し東京牛込区役所に婚姻届けを出す。身寄りの全くない文子の遺体を朴烈の遺族が引受人となり荼毘に付されるようにと。文子に対する朴烈の愛情を感じるシーンである。死刑判決宣告後に婚姻届けのコピーが文子に渡されるシーン。本当の妻と夫になったのだ。

文子と朴烈は恩赦により死刑判決を無期懲役に減刑される。これが獄中にいる二人に告げられるシー-ン。死刑が執行されなくて私は心からホットした。

しかしせっかく生を得たのに文子は宇都宮刑務所で自死する。彼女の不幸な生い立ちが生きることに心底絶望させたのか。朴烈は22年間服役して1945年10月治安維持法の日本人服役者と同じ日に釈放される。朝鮮に帰国1974年北朝鮮で死去した。

 

   反日映画ではない

 

「体制内の良心を体現する立花検事」(これも実像とは異なる)」や、2人を支援する布施辰治弁護士、作家の中西伊之助といった多様なキャラクターを描き出し物語に深みを与えることができた」(「葛藤の時代を生きた二人を浮き彫りにする虚実の妙」加藤直樹 ノンフィクション作家~映画のジャケットより)の指摘するように、単純な反日映画ではない。

文子と朴烈の無罪を信じ弁護を積極的に買って出た布施辰治を映画に登場させてもいる。かれは2004年韓国政府から「大韓民国建国勲章」を授与された唯一の日本人である。

予審判事になった韓国人の俳優の日本語の上手さに舌を巻いた。それ以上に朴烈、文子の取り調べに彼の法律家としての誠実さを垣間見、早く起訴して死刑に持ってゆきたい上司との板挟みに苦しむシーン等もあった。閣内の様子も一様ではなく矛盾点も描かれていた。

日本は植民地政策で朝鮮の人々にどんな傷を負わせたのか、直視する国民は残念ながら少ない。ネトウヨの極端な嫌韓街頭宣伝に対する日本人の批判も乏しい気がする。

真実に向き合うことは時には苦しいけれど、被害を受けた方がもっと苦しい事を忘れてはならない、と語りかける映画である。(以上)

2019年2月11日 (月)

日韓関係を考える、「三一独立宣言」一〇〇周年

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現在、日韓関係は最悪の状態に陥っている。この20年近く「慰安婦」問題に取り組んでいる私はこの状態を大変に憂いている。こうした中今年は「3.1独立宣言」が1919年2月8日に発せられて百年を迎え、様々な民間団体が日韓の歴史について考える会を催している。私はこの間三人の専門家の講演から朝鮮と日本の近現代史について学び、今何をなすべきかの示唆を得た

 

         朝鮮独立宣言が発せられた日に    

 

2月8日、文京区民センターで、「『日本人の明治観をただす』(中塚明・著)刊行記念 韓国三・一独立運動100年―東京での2.8宣言の日に」が行われ、歴史家 奈良女子大学名誉教授・中塚明先生が講演した。大変寒い、ウイークデイの昼間の時間帯であったが101人(主催者発表)が集まった。百年前も東京は雪が降ったという。

 

1910年に韓国併合条約が締結され日本の植民地政策が始まる。そして1919年2月8日に日本にいた朝鮮人400人~600人が集まり独立宣言は発せられた。

冒頭に曰く「2千万の民を代表し正義と自由の勝利を得た世界万国の前にわが独立を宣言する」と。また、「ここにわが民族は日本および世界各国に対して自決の機会を与えることを要求する。もしその要求が入れられないならば、わが民族はその生存のために自由な行動をとり、わが民族の独立を期成せんことをここに宣言する」と結ばれている。彼らはその後過酷な日本の植民地支配と闘うべく朝鮮、各地に散って行った。

 

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(写真は講演する中塚明先生・東京文京区民センターで)


輝かしい明治、昭和…坂の上の雲の歴史認識

日本人の明治観を質す~

 

中塚先生の講演は、鋭く、深く興味深い内容だった。日本史が専門の先生は1993年、奈良女子大教授退官後も含め日本の朝鮮侵略戦争の歴史を明らかにする研究・執筆を60年間続けてきた。

中塚先生は当時の外務大臣・陸奥宗光の著「蹇蹇録(けんけんろく)」を引用して、日本が朝鮮に対し何をしたのかを日清戦争(1894~95年)に迄さかのぼり説明。

歴史を記憶してそこから学ぶ事が韓国・朝鮮との和解の道である。しかしマスコミ、文筆家、学者が偏見はあっても事実は知らないと、ズバリ批判する。赤旗にも登場する半藤一利氏は「赤い夕陽の満州から始まった…明治は素晴らしい時代』について3ページにわたり書いているが、なぜ、朝鮮で何が起きたのかを書かないのか。立派な半藤さんにしてこうだ、と関川夏生央、川上操六の各氏も批判する。

また、朝鮮への偏見=侵略の隠ぺい・忘却と表裏の関係にある日本の近代現代について司馬遼太郎の坂の上の雲に表れている「明治栄光論」がまかり通ってきたことを批判した。

先生は国会図書館で公開されている「陸奥宗光関係文書」を研究する。日清戦争翌年に書かれた外相自身の手になる、日清戦争は誰がやったのかを陸奥自身が書いた「蹇蹇録(けんけんろく)」が明らかにしている。彼は明治の代に和歌山出身で長州閥でなく不遇の時代がある。5年間獄中にもいた、「外相は陸奥で大丈夫か?」と明治天皇の覚えもよくない。そうした評価の中で「蹇蹇録(けんけんろく)」は「日清戦争は自分が担った」と外相が初めて書いた本名著である。

中塚先生は軍事書物を収集している福島県立図書館「佐藤文庫」にも再々足を運んだ。参謀本部の168冊中40冊がある。

先生は研究を重ねて「輝かしい」明治、ではなく、退廃する明治、歴史の偽造、偏見の増幅、歴史の推移を客観的に見られなくなった日本帝国の姿をとらえる。

 

朝日新聞が「東学農民戦争の旅」を連載

 

私が先生を尊敬しているもう一つの李通は、研究室から飛び出して現場に足を運び、朝鮮の人々と直接触れ合うことにある。先生は1929年生まれで88歳にもかかわらず、13年間韓国への研究の旅を続けている。

私は2014年の第9回の旅など2回参加して、教科書で学んだ「東学党の乱」とは全く違う事実を目の当たりにした。バスで4~5日掛けて東学農民党の歴史が刻まれている慰霊碑、資料館を巡る旅である。中塚先生がリーダー、朴孟沫・円光大学教授が説明役である。日本からの旅行者だけでなく韓国の活動家が数名同乗し日韓共同のフィールドワークである。

学者・研究者の「朝鮮人が独立を言ったことはない」とか、「東学農民党は民間人が勝手にやった事で戦時法規は適用されない。殺されても仕方がない」等の言説がまかり通る。教科書の誤りも訂正されていない。

しかし、今年1月朝日新聞夕刊に「東学農民戦争を訪ねる旅」の記事が5回連載された。記者が旅に同行し書いたのだという。地道な努力にメディアも注目し多くの国民に知らせたことは素晴らしい。


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(写真・和田春樹氏の著書「アジア女性基金と慰安婦問題」)

 

   和田春樹・教授の声明に見る日韓関係打開の道

 

この集会の冒頭に和田春樹・東大名誉教授が「2019年日本市民知識人の声明『村山談話、韓談話に基づき、植民地支配を反省謝罪することこそ日刊・日朝関係を続け発展させる鍵である』 2019年2月」について訴えた。

この文書は私にも二月二日に送られて来て署名した。声明は「日本と韓国は隣国で、協力しなければ両国に暮らす者は人間らしく生きていけない間柄である」という文言で始まる。そして「1904年以来41年間の軍事占領、19010年以来の35年間の植民地支配が日本帝国によって加えられた。日本人はこれに対して人間的に対処することから逃れることはできない」としている。

1965年に結ばれた日韓条約は「韓国側の日韓併合条約が当初より無効であった」という韓国側の主張をうけいれず、「完全かつ最終的に解決された」として請求権協定が結ばれた。根本的認識の分裂は克服されず放置されたまま今日に至っている。

この条約の下で日韓関係は維持されてきた。1995年村山談話で初めて植民地支配について反省謝罪した。

2010年8月民主党菅直人総理は閣議決定で総理談話を発表した。「3・1独立運動などの激しい抵抗にも示された通り政治的、軍事的背景の下韓国の人々は国と文化を奪われ民族の誇りを深く傷つけられた…この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対しここに改めて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明致します」として、同じ年のうちに「朝鮮王朝儀軌」を韓国政府に引き渡した。

朝鮮民族はなおあの日、日本人に朝鮮の独立を求めることが日本のためだと説得しようとしたとして和田先生は「宣言」の以下の部分を引用した。

「三.一朝鮮独立宣言」は「今日われわれが朝鮮独立を図るのは、朝鮮人に対しては、民族の正当なる正栄を獲得させるものであると同時に、日本に対しては邪悪なる路より出でて、東洋の支持者たるの重責を全うさせるものである」

この宣言は朝鮮民族の独立のためばかりではなく、日本人が正しい道を歩むように、そして国際社会で日本が負っている責任を果たすように促しているものである。

 

日本はどのように過去の植民地支配に向き合ってきたか

 

 2月9日に浦和で、埼玉AALA連帯委員会の新年会があり、日本共産党中央委員会・国際委員会事務局長の田川実氏が講演した。田川氏は日本政府の植民地支配への反省とそれに対する現段階の反動的動きに言及した。

サンフランシスコ条約で「日本国は朝鮮の独立を承認して済州島…朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と宣言した。この時点で植民地支配は終わっている。1965年日韓基本条約を締結し、大日本帝国と大韓帝国との間の全ての条約は無効とされたが、日本が植民地支配をしたことは認めていない。

それから30年以上経た1998年、小渕総理大臣と金大中大統領の間の『日韓共同声明―21世紀に向けた新たなパートナーシップ』において、日本は「過去の一時期韓国国民に対して植民地支配により多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた」。これは村山談話の流れと同一である。

また、2002年9月17日の『日朝平壌宣言』では「2.日本側は過去の植民地支配によって朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明した」としているがそれも同様である。

1990年代に出てきた首脳間、或は両国間の歴史に向き合う動きが、今は途切れかけていることが重大だと私は思う


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(写真・講演する田川実氏)

 

   日韓、日朝の人民の意思で

 

日本は1990年代以降、従軍慰安婦に関する「河野官房長官談話」(1993年)を初め、「村山談話」(1995年)、『日韓共同声明―21世紀に向けた新たなパートナーシップ』(1998年)、『日朝平壌宣言』(2002年)で「慰安婦」、「植民地支配」への謝罪と反省を表明して、若い世代への認識を深める事等についての必要を認めている。こうした政府の方針を前に進めてゆく事が求められている。

日本は過去の反省を何もしてこなかった、のではなく不十分ながら何度か謝罪も行っている。それは日韓、日朝人民の願いの反映でもある。この声明に基づき時の政権がさらに発展させる義務を負っているが不十分だった。

こともあろうに、こうした積み上げを、悉く崩そうとしているのが現安倍内閣である。これは日本にとっても朝鮮半島にとっても危険な存在以外の何物でもない。3.1宣言に見る朝鮮人民の高い希望を実現させるためにも日韓、日朝の友好関係に取り組む日本の政府に交替させる必要がある。(吉川春子)

 

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