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2018年9月16日 (日)

#Me Too(タッグハッシュ・ミーツ―)、埼玉東部でも

埼玉県草加(そうか)市と、加須(かぞ)市で「『慰安婦』問題の講演会が開かれた。夏の暑さにも負けぬ人々が企画し、集い、性暴力被害の歴史を次世代に受け継ぐ、ハリウッド女優から始まった、さしずめ“埼玉東部版” Me Tooが行われた。

酷暑、そして酷暑の疲れが残る時期、会場はどこも満員だった。それには企画、取り組みに対する実行委員の並々ならぬ奮闘があった。

 

私は1976年に埼玉第4区から衆議院選挙に立候補した。加須は埼玉4区の北の拠点だった。また、草加(埼玉1区)は私の政治家としてスタートを切った八潮市に隣接する。どちらの講演にも知人友人が多数かけつけて下さった。

2018

(写真・パネル展に見入る人々)

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(写真・草加で講演する吉川)

 

<草加の講演会>

 

パネル展「軍隊は女性を守らない~沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力」

820日(月)~26日(日)

2次大戦中無数に作られた沖縄の「慰安所」や、今日も米軍基地で多発する女性への性暴力が数十枚のパネルにまとめられている(wam「女たちの戦争と平和資料館」制作)。

江戸時代大名行列が通った有名な松並木沿いにある「草加文化会館」の、1Fフリースペースギャラリーに展示されているので誰でもふらりと立ち寄る場所。市民が食い入るようにパネルを読んでいる姿が印象的。「日本軍『慰安婦』問題早期解決を求める会」が2013年から展示会を開く。「自分たち自身の学びの深まりと来場者の真摯な感想に励まされ」今年で5年目(山内かづ子事務局長)だという。

 

DVD「蘆葦(あし)の歌」~台湾元「慰安婦」阿まの人生の調べ~上映

822日(水)草加市民会館2階和室

 

講演会「憲法から『慰安婦』問題を考える~#Me TooそしてWith Youの世界へ~ 講師・吉川春子

825日(土)1Fレセプションルーム

 

 この夏特有の、うだるような午後だったが91人が参加し会場は満員だった。しかもその中29名の方から感想文が寄せられた。日本人「慰安婦」についての感想が最も多かった。一部を以下に掲げる

 日本人「慰安婦」が名乗り出ないのが疑問だったが、その背景を考えることができた

 日本人はお金をもらい仕事としていったというような感覚でいた。今日の学習でそうでない事実、そうであっても差別につながる考え方に反省した

 「遊郭」について息子とも話してゆかなければと思う

 日本人の「慰安婦」が被害者が名乗り出ても誹謗・中傷をさせない社会をつくる

 バスケットボール選手がインドネシア女性を「買春」したニュースは、日本軍性奴隷制度の問題と地続きではないか

 女性は戦争で被害を受ける側なのに女性の投票率が減っていることが大変心配

 ソ連兵に日本女性が性の奉仕を強制させられた番組を見たが戦争と性犯罪は切り離せない。今日の会場に男性の参加が多くて嬉しかった

 2001年の野党3党法案に日本人「慰安婦」を含めることに何故、民主、社民が反対したのか疑問

 「慰安婦」問題を人権問題として勉強したが、憲法とのつながりは初めての学習でよくわかった

いろいろな感想が寄せられ私もとても勇気づけられた講演会であった

 

<加須の講演会>

 

2018年9月8日(土)、2018「連帯のつどいin加須(かぞ)」は、埼玉県加須市の「市民プラザかぞ」でおこなわれた。参加人数は170名。近年、当ゼミナールの企画する講演会としてはかなりの参加者の多さであった。

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(写真上・会場全景、写真下・慰安婦の肖像に見守られ講演する吉川)

 

    素晴らしい会場、実行委員の活躍

 

北千住駅から東武線で約60分、加須駅で降りると駅前には今日の講演会のビラをプラカードに張り付け案内の人が立っていた。十数メートル歩くと、もう一人案内の人がいて、参加者が全く道に迷わない配慮がされていた。

 

私が会場「市民プラザかぞ」3Fでエレベーターを降りると多目的ホール、入口には9人ほどの受付の人がズラリと並びまた、少し離れた書籍売り場には3人が配置されていてお客様を迎える体制が充実していて度肝を抜かれた。

 

講演会場は階段式で、前面は広い舞台と大きなスクリーンでパワーポイントの文字も大写しになる。スクリーンが天井より降りてきて、しかも下が床面より1メートル以上高いので、後ろの席の人にも良く読める。

 

美しい朝鮮民族踊りから連想すること

 

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オープニングは広い舞台を縦横に使って朝鮮女性同盟会員による「舞」が披露された。私に聞き覚えのある曲「トラジ」等にのって美しいチマ・チョゴリの裾を翻して、笑顔を振りまきところせましと踊る。AALAの新年会ではいつも見ているが、この日は会場が広く豪華なので一層踊りが映えた。

 彼女たちが「慰安婦」にさせられたのね…と誰かがつぶやいた。あの当時若い朝鮮半島の女性達が挺身隊の名で「慰安婦」に連れ去られた忌まわしい歴史と、目の前で踊る女性達が二重写しになる・・・

 

   「慰安婦」達に見つめられて

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(写真上・広々した会場、写真下・吉川背後の「看板」は柴田広子さんの書)

 

 舞台の横には、埼玉の元教師が書いた「慰安婦」の肖像画が数十枚壁面いっぱいに張り出されていた。いつも来日すると、あるいは韓国でお会いすると近寄ってきてハグをするイヨンスさん、2000年国際女性戦犯法廷で証言中にPTSDの症状が出て、卒倒した・万愛花さん、インドネシアで親しくお目にかかった・マルディエムさん、後藤ひろみさんが紙芝居に仕立てた・コウコウレンさん…説明すれば私の頭に次々に浮かんでくる彼女たちの過酷な人生…彼女たちに見守られて私は講演をした。

 

   共催という形

 

この集いは、埼玉県アジア、アフリカ、ラテンアメリカ連帯委員会(埼玉AALA)と、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの共催である。

実行委員会は3回持たれ、私自身も3回目は出席した。リストアップしたチケット販売協力者30名超、また約20の民主団体への集会後案内等の協力要請で参加状況を予めつかんだ。参加者は170名で、内容的にも大成功だった。


その背景にはAALAの組織と、30年近く「慰安婦」問題に取り組んできた実績~金学順さんを韓国から呼んで証言を聞く会を持ち、「ナヌムの家」という初期の映画会開催、毎年1万人前後の署名を国会に届け続けたその他、その他…すべての事がこの集会に結集されているのだ。


「慰安婦」問題は終わってはいない。終らせてはならない。私はこの集会から改めて勇気をもらった。(吉川春子記)

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(写真提供―草加は山内和子さん、加須は佐藤龍雄さん)

 

 

2018年9月 2日 (日)

『ゲッペルスと私』そして、『ヒトラーを欺いた黄色い星』

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(映画・『ゲッベルスと私』のプログラム) 

 

この夏私は、『ゲッべルスと私』(2016年・オーストリア映画)と『ヒトラーを欺いた黄色い星』(2017年ドイツ)の2本のドキュメンタリー映画を相次いでみた。

 

ポーランドがドイツに6兆円の賠償請求か

 

201891日付の朝日によると、ドイツに対して、ナチス占領の損害「6兆円」の賠償請求をポーランド議会が検討しているという。1939年~45年、ユダヤ人を含む510万人のポーランド国民が殺され、ワルシャワを中心に都市のインフラ破壊での損害が発生したという。ポーランドは1953年に賠償請求を放棄し現ドイツ政府は賠償問題は「決着済み」との立場だが、ポーランド現政権は「賠償放棄は冷戦時代にソ連に強要されたもので国際法的には無効」と主張している。

ひるがえって、「慰安婦」問題に対して日韓請求権協定で決着済みとする日本政府と、「慰安婦」個人に対する請求権はあるという韓国の被害者、政府の主張とダブる。過去の戦争は未来に向かって影を落とし続けるのだ。

日本と違い、ナチスの犯罪行為と向き合い戦後政治からナチスを一掃して隣国との友好関係を築きEU結成の指導的役割を果たしたドイツが、ポーランドの請求にどうこたえるのか注目したい。

 

     映画『ゲッベルスと私』

 

「ゲッベルスと私」はナチ宣伝相ゲッベルスの女性秘書だったブルン・ポムゼルの独白をカメラが追う。ヨーゼフ・ゲッベルスという人物は、国民社会主義ドイツ労働党(ナチス)の国民啓蒙・担当大臣としてプロパガンダを管轄し、大衆をナチス支持へと扇動した。

彼はユダヤ人にとっては身の毛もよだつ恐怖の人物だった。1943619日、ゲッべルスはドイツの首府ベルリンからユダヤ人を一掃したと発表した。ユダヤ人とわかると逮捕して強制労働所や絶滅収容所に送られ虐殺された結果である。195451日、第2次世界大戦終結間際、ヒトラーの自殺を追って相当地下壕で家族とともに自殺する(映画『ゲッべルスと私』、プログラム)

 

    ナチス党員だったが、自分は何も知らなかった

 

タイプライターが得意な彼女、ブルン・ポムゼルは、ナチ党員のユダヤ人の事務所で働き、ナチスが政権をとった後、勧められて10ライヒスマルクを投じてナチスに入党する。いつの間にかとか、知らないうちに協力したのではなく、自分の意思で積極的にナチスに協力した。彼女はこの映画公開の翌年2017127日に106歳で生涯を終えるが、撮影は今からわずか数年前の2013年に2回に分けて行われたのだという。101才にしては驚くべき迫力で自分の体験を語っている。

 

ポムゼルは31歳の時地元の放送局で秘書として高給で働くようになり、さらに1942年知人の紹介でナチ党の宣伝省に入る。ここではさらに高級をもって遇される。多くの国民が経済的にも困難な時代彼女の生活はかなり豊かで、仕事はナチスの犯罪行為に協力していた、のだ。忠誠心をもって上司に信頼されることに誇りをもって仕事をした。

 

そのゲッべルスについて「彼は見た目のいい人だった。やたらと洗練されていたわ」「最高級の布地で作った上等の服を着肌は少し日に焼けていて爪もとてもよく手入れされていたわ」と目を閉じて恋人を回想するように語る。

 

衝撃的なのは、ナチスの犯罪についての彼女の発言だ。「ゲッペルス宣伝相の身近にいて彼女はいろんな情報に接していたに違いない」と私でなくとも思うだろう。しかし彼女は「自分は何も知らなかった、「強制収容所は、政府に逆らった人や喧嘩をした人が矯正のためにはいる施設だと思っていた」「情報が制限されていた状態の人々は強制収容所の実態を知る由もなかった“みんな私たちは知っていたと思っている“」と。そうだろう、私もポムゼルが何も知らなかったなんて信じないし言わせない、という思いだ。

また、ポムゼルは「頻繁に、”もし自分があの時代に居たら、虐殺されていたユダヤ人を助けられたはずだ、”と言われるという。しかし彼らも私達と同じことをしていたと思う”という。

彼女は自己弁護に終始という印象である。アンナハーレントの言う“凡庸の悪”の1つか?

 

   良心を麻痺させ、目を背け…ドイツ大統領の演説

 

ワイツゼッカー大統領は1985年国会で演説した。

「目を閉ざさず、耳をふさがずにいた人々、調べる気のある人々なら(ユダヤ人を強制的に)移動する列車に気付かないはずはありませんでした。…犯罪そのものに加え、あまりにも多くの人たちが実際に起こった事を知らないでおこうと努めていたのが現実であります」「「良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし目を背け沈黙するには多くの形があります」「戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります」と。

私はこの老婦人の自己弁護を聞いてこの言葉を思い出した。   

 

彼女のアップにされた顔も首筋も深いしわに刻まれていて、この映画を見た友人は「あの皺だけで嫌悪感を持ち、映画を見たことを後悔した」と語った。

私の父は105歳で一昨年亡くなったが、人種の違いはあるとしても肌はずっときれいでしわは深くも多くもなかった。ほぼ同じ時代を100歳を超えて生きた2人だが、彼女の顔には生涯に体験した苦しみが刻まれているように思えてならない。

 

         『ヒトラーを欺いた黄色い星

~「善き人」に匿われ地獄を生き抜いた人の記録~

Photo_2(映画・ 『ヒトラーを欺いた黄色い星』プログラム 

19432月、強制労働のためにベルリンに残されたユダヤ人が逮捕されユダヤ人がいなくなったとゲッペルスが宣言する。しかし実際には約7000人のユダヤ人が潜伏し、最終的には1500人が戦争と迫害を生き延びた。これはそのうち4人の物語である」(「『ヒトラーを欺いた黄色い星』プログラムより」)

ナチスのユダヤ人迫害を見て見ぬふりをしなかったベルリン市民が大勢いた。映画は、彼らをかくまえば自分の命が危ないことを承知しながら、いろんな方法でユダヤ人をかくまった「善き人」の記録でもある。

 

〇 ツイオマ・シェーンハウス~20歳で潜伏開始。親切な家主の女性に巡り合う。あまりにもだらしない性格で命の危機にも直面するが、手先の器用さを生かしユダヤ人向けの偽造身分証を大量に作成し多くのユダヤ人の命を救う。

 

〇 ルート・アルント~医師だった彼女の父親を娘の命の恩人と慕うクリスチャンの婦人に匿われ、その後はドイツ国防軍の大佐の邸宅のメイドに雇われる。ナチスの高官を集めて毎晩宴会を繰り返す大佐だが、彼女をユダヤ人と気づきながら掃除やメイドの仕事を与え匿う

 

〇 オイゲン・フリーデ~家族の中で一人黄色い星のバッジ(ユダヤ人識別用)を付けさせられる。共産主義者の家族に受け入れられ娘と淡い恋をする。ある時、収容所から脱走してきた男から「ユダヤ人を全員ガスで殺す」実態を告げられ、反ナチビラ作成の手助けをするようになる

 

〇ハンニ・レヴィ~両親を亡くし孤児で知人のユダヤ人と同居していたが一人収容所行きを免れる。美容院で髪を金髪に染め別人となる。出征真近の映画館主の息子に好意を持たれ母の話し相手を頼まれる。その母親に「自分はユダヤ人で逃げ場がない」ことを打ち明けると匿ってくれ本当の親子のような絆をはぐくむが…。

 

 この映画は、ナチスの蛮行を目や耳を塞ぎ、見て見ぬふりをしなかったドイツ人(「善き人」)も多数いたという記録である。(吉川春子)

 

2018年7月31日 (火)

オウム事件死刑囚全員の刑の執行と死刑制度

   7月6日、上川法相の命令でオウム事件死刑確定者13名中7名が、そして7月26日6名の死刑が執行された。心神喪失の状態にあるのではないかと疑われる者(死刑が何たるかを理解できない精神状態とでもいうべきか?)、再審請求中の者も例外なく処刑された。死刑廃止の方向に向かっている国際社会からは、当然、驚きと強い批判の声が上がった。

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(写真・ー春日部の家のゴーヤの棚と実ったゴーヤ)3


 死刑廃止議連」

 

私は参議院議員在職中「死刑廃止議員連盟(死刑廃止議連)」に所属して活動していた。日本は死刑賛成の世論が強く、この議連は選挙の票を考えるとプラスになりにくいので、加入者はそんなに多くはなかったように思う。しかし、自民、公明、社会、共産党等全会派が参加し、死刑が廃止できないとしても執行停止は可能か…などの制度論も議論した。世界の潮流も死刑廃止、或は死刑制度は残しつつも執行停止に多くの国が傾き始めていた時期である。

 

 議連の会長が亀井静香議員だった時、私は「先生は何故、死刑廃止議連なのですか」と質問したことがある。それ以前亀井議員は建設大臣だった(現在は国土交通省)。建設問題で私は何度か亀井大臣に質問をぶつけたが、強面の答弁で辟易していた。なので死刑廃止という究極の価値観、人生観が私と同じとは不思議だった。

先生は「自分は警察畑を歩いてきたが、必ず犯人の誤認逮捕は生じる。その結果、誤って死刑判決が出れば取り返しがつかないから、死刑廃止論なのだ」との事であった。亀井議員の死刑廃止は筋金入りで、著書『死刑廃止論―死刑廃止は世界の流れ 死刑は何故廃止すべきか、国民的議論を呼びかける』(20027月花伝社)もいただいた。国会答弁の強面だけで人は評価できない。

 

ある時秘書から「吉川さんはオウムの麻原彰晃も死刑にすべきではないと考えるのですか?」と質問された。私は「麻原は死刑でいいけれど他の人の死刑はダメ、なんていう死刑廃止論はないわよ」と答えたが、オウム事件は、死刑制度存続の世論をさらに掻き立てるだろうとその時も思った。

これが契機かは判断できない。しかし日本は死刑制度の廃止に進む世界の逆をゆき、例えば少年にも死刑を適用すべしとか死刑肯定の世論が強まっていると危機感を持つ。


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(写真・春日部の家の庭を行く、セミの成虫) 

団藤先生の死刑廃止論の根拠

 

  ある時(1985年~90年代頃)死刑廃止議連で、高名な刑法学者・元東大教授

の団藤重光(だんどう・しげみつ)先生を講師として招き講演会を行った。先生の刑法理論を勉強した議員、官僚は多い。私も団藤先生の「刑法綱要」を繰り返し読んだ組だ。何をさておいても講演に駆けつけたが会議室はすでにいっぱいだった。 

 

先生は死刑廃止論を明確に述べられ、理由として裁判では誤審が絶対に防げない事を挙げられた。「後で真犯人が別にいた事が分かっても、処刑してしまえば取り返しがつかないのだ。(遺族への刑事補償が何の救済になろう)」。私はこの日の講演を深く心に刻んだ。

 

「思うに、残虐な殺人の現行犯を目撃した直後の者は、恐らく死刑を否定する気持ちにはならないであろうし、死刑の確定後既に完全に改悛して執行台に上がる前に祈りを捧げている犯人に接する者は、恐らく死刑を肯定する気持ちにならないであろう。…刑罰の裏付けとなっている事態には、変化がありうる。刑罰は根本的に動的な性格を持つものである。このような動的な性格に最も適切なのは自由形であり、最も不適切なのは死刑だと言わなければならない。かようにしてくわたしは、根本的に、死刑廃止論に傾かざるを得ない」(団藤重光著『刑法綱要総論』昭和37年・創文社第13刷発行)

 

  ドストエフスキー『白痴』

 

私・吉川は20歳代前半の時に、ドストエフスキーの『白痴』を読んで強い影響を受けて死刑反対になった。これは文庫本何冊かに及ぶ長編でストーリーはわかりにくい小説であったが、死刑囚の感じる死への恐怖が生々しく私の心に残っている。団藤先生は『白痴』にも触れている。私を死刑廃止論者にしたのは団藤先生の影響だったのかもしれない。

団藤先生は言う。「…死刑廃止論には人道的見地と刑事政策的見地がある。…前者(人道的な見地)には人間が人間を裁いてその生命を奪う権利を有するか、人間に生命を与える事の出来ない国家がいったいこれを奪うことを許されるのか、死刑は反文化的なものではないか、といった議論が追加される。

死刑への直面を身を持って体験したドストエフスキーが『白痴』で示している見解は、人道的見地からする死刑反対論に最大の文学的表現を与えたものといってよい、云々」

 

  マスメディアと死刑報道

 

オウムの13人の死刑執行について処刑の時期は天皇の代替わり前にとか、総裁選日程を考慮に、処刑の日程を決るなど論外で、絶対にあってはならない。

 

各紙ともオウム死刑囚の刑執行については大きな活字で、かなりの紙面を割いて報道はしている。処刑人数の多さの異常性、なぜこの時期の執行か?オウム事件はなぜ起きたか?について教訓が残されていない事への批判も共通している。

しかし国民世論の影響か、オウムについて死刑は当然、という雰囲気が各紙から漂い、死刑制度そのものについての深い言及はない。メディアと国民は相互に影響を与え合う。凶悪犯罪について死刑判決が出されないと遺族の「これでは故人が浮かばれない」という怒りのコメントをマスメディアはことさらに報道する傾向にある。現代の日本にも「目には目、歯には歯」は生きているのか。

その点でいうと、729日(日曜日)のTBS「サンデーモーニング」において死刑廃止について世界の潮流と日本の差について青木理氏が詳しくコメントしていたことは救われた。


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写真・長野県立科町蟹窪の農家の庭のオレンジの花。ムラサキツユクサ

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 朝日歌壇から(2018年7月29日)

 

 大きな事件があると必ず朝日歌壇にも反映され、時には本質を突き、或は感動的な歌が何首か投稿される。今回のオウム事件について死刑執行に関し3首が載っていた。内容が、肯定はしないが軽微な批判に留まるのは、て日本国民の間に「死刑制度」に関し必ずしも深刻な議論がされていない事の反映であろうか。

 

〇国中に大雨降る日選ぶごとオウム7名刑執行される(千葉市 鈴木 一成)

〇五輪前平成の中にの声あり人を死なすはタイミングらし(朝霞市 青垣 進)

以上、永田和宏・選

〇担任が卒業名簿をよむやうに法相は処刑されし名を告ぐ(春日井市 新海宏之)               以上、高野公彦・選

 

 死刑執行に抗議する集会―上川陽子法務大臣の13人の死刑執行を糾弾する

 

2018727日、東京都文京区民センターで処刑に対し抗議集会が開かれた。集会に参加した方から頂いた資料を見て感動し、心強く思った。6人の死刑執行のすぐ翌日、このような集会を即開く、関係者の機敏な取り組みは、死刑という野蛮な制度をいつの日か日本から追放するエネルギーとなると確信する。

 

「私たちはオウム関係者が引き起こした事件に強く反対するのと同じく、今回の一連の死刑執行についても強く反対します。私達は広く社会に向けて改めてこの様な殺戮の繰り返しや命を奪うことによっては何一つ問題は解決はしないこと、そして終身刑の導入など死刑を執行しなくともよい施策を真剣に検討することを呼びかけます」(同集会「抗議声明」部分)

2018年7月26日 (木)

安倍三選を許すな!

 この秋、自民党総裁選がある。安倍氏は三選に向けて意欲満々である。しかし、これほどひどい総理大臣が過去にいただろうか?私は第2次中曽根内閣の時に参議院議員となり、第1次安倍内閣まで24年間参議院議員を務めた。

その間総理大臣は13人変わった。①中曽根康弘、②竹下登、➂宇野宗佑、④海部俊樹、➄宮澤喜一、⑥細川護熙、⑦羽田孜、⑧村山富市、⑨橋本龍太郎、⑩小渕恵三、⑪森喜朗、⑫小泉純一郎、⑬安倍晋三、である。

野党共産党の立場で、一人の総理大臣に各々数回の質問をしているので、人柄や政治家としての力量、或は学力まで質問のやり取りを通じてたちどころに!わかる。もちろん相手も、吉川春子とは如何なる議員かを掴むだろう。国会質問はそうした意味で怖い。

 

私が安倍総理(在職2006926日~2007926日)に最後に質問したのは2007326日の参議院予算委員会総括質問。テーマは、「慰安婦」問題である。参議院予算員会での議員の持ち時間は、相手の答弁時間を含まないので、当弁者は自己主張を長々と展開できる。

しかしこの時は安倍総理は何を質問しても「吉川議員の言うことは、河野官房長官談話に記してある」「私は河野談話を継承している」と小さな声で答弁してすぐ席に座ってしまい、持論を全く展開しなかった。

右翼議員のリーダーとして教科書から「慰安婦」問題の記述を削除させ、2000年国際戦犯女性法廷のNHKのドキュメント番組を、官房副長官として干渉してつくりかえさせた迫力は、この時は全くなかった。総理になりたてで緊張していたのか(まさか!)。そして、この後半年後に安倍氏は総理を辞任している。

 

“ありえない!安倍三選”

 

2007年当時の安倍総理のおどおどとした態度は、今日の国会中継で見る彼のふてぶてしさとは隔世の観がある。

『週刊金曜日』(2018720日号)の特集“ありえない!安倍三選”、安倍晋三首相のデタラメ答弁 4つのパターンに見る前代未聞の悪質さ」によると、

ケース1 明らかなウソを平気でつく、

ケース2 質問と無関係な内容で質問者を攻撃する

ケース3 すぐにキレて質問者にヤジを飛ばす

ケース4 まったく意味不明の答弁をダラダラ続ける

 

質問と答弁は議事録に依っているので内容は正確である。

私だけではないと思うが、総理への質問は当然、一番神経を使うし、準備に時間をかける。たとえ30分間の質問でも1月以上前から、準備する。それに対してこんな不真面目な態度で臨まれることは許されない。こんなやり取りが今の国会で延々と続いてきたのだから、国権の最高機関は劣化し深刻な事態である。

 

    安倍総理の「お出かけ好き」…実は追及を免れる旅?

 

安倍総理は税金の浪費家である。安倍総理の外遊は131月から186月までの約5年半で計65回。ほぼ月1回ベースの外遊だ。第2次安倍内閣安倍内閣発足から16年5月まで40回分の外遊費総額は約87億7400万円、1回平均2億2千万円。ちなみに一番費用のかかるのは政府専用機で1回とばすのに1億円かかるとされる。65回の外遊をしているので現在までの総額は140億円超とされる。

…しかも安倍はこれまで疑惑や問題が発覚するたびに追及を逃れるように外遊を繰り返してきた。(野党からの証人喚問要求拒否している妻と手をつないでタラップを上る映像が何度テレビの映像に映し出されたことか)。

こんども西日本豪雨の最中、少なくとも7月7日までは66回目の外遊に行く気満々だったのだ。(同誌P15)

 

醜悪な「赤坂自民亭」

 

息をのむような大災害になった西日本豪雨。気象庁からはすでに豪雨の予想が出されていた7月5日夜、衆議院宿舎で自民党議員・大臣らの飲み会が開かれた。しかも本来ならこの間の悪い時の世間の目をはばかるべき出来事は、片山さつき議員と、官房副長官のツイッターへの投稿で明るみに出た。要するに本人たちは悪い事をしているとは思っていないのだ。

上から下まで、自民党は末期症状ではないか。「自民党議員は安倍官邸の顔色をうかがうばかりで、忖度とゴマすりが横行し、西日本豪雨など構っておられないという空気が蔓延している」(『週刊金曜日』)

 

<出席メンバー>

安倍晋三 総理

岸田文雄 政調会長

竹下亘 総務会長

小野寺五典・防衛相(自衛隊災害出動最高責任者)

吉野正芳・災害復興担当相

上川陽子・法務大臣~翌日オウム真理教関係者7人の死刑執行の署名済み

 

  死刑執行を翌日に 法務大臣が酒盛りに参加する これは人間ではない

 

豪雨の予報が出されていた夜、自民党議員が、総裁選と次の選挙の自分の当選を睨み、また、安倍総理との近さをアピールしたい議員らと酒盛り。総裁三選の手ごたえがあったのか安倍総理までもが、「和気あいあいでよかった」等とのんきなコメントを発した。

災害出動の責任者の防衛大臣、災害復興担当大臣、最大の犠牲者を出した広島が地元の岸田政調会長などが出席。

私が特に注目したのは翌日オウム真理教の死刑囚の死刑執行を前にしている、上川法務大臣の参加である。赤坂自民亭「女将」等とはしゃいでいる心境にどうしてなれるのか。この人、人間だろうか?

自らのサインで数人の命が国家権力によって奪われる。囚人・本人たちの苦悩を思ったら、署名は法務大臣の任務、とはいえ普通の心情ではいられないはずだ。かつては自民党の法務大臣(複数)も九〇年代、死刑執行許可の署名をしない(従って死刑執行はない)時期もあった。死刑制度の賛否はともかくとしても、自分の署名行為で人の命を奪うということについて、呵責・苦しみはないのか。宴会などに出ていられる心境に何故なれるのか。

 

国民は何故、こんな内閣と自民党を支持するのか

 

(私が参議院議員をしていた)1990年代~2000年一桁の時代と比べて、働く人にとって日本社会は確実に生きにくくなっている。

子どもを産みたいと思っても、産み育てにくい社会になっている。例えば、保育園も国の補助金が9割あったが1985年から徐々にカットされ今は、地方自治体に財政支出を押し付け、加えて保育園に子どもの遊ぶ園庭がなくとも保育所設置を認める等、保育園の質もどんどん落ちている。保育士も派遣、パート、アルバイトがふえ、正規職員でさえ賃金も低いままだ。企業が保育に参入し利潤を上げる保育所も出ている。

働く人々についても90年代初め迄は正規労働者が原則だったが、今や非正規労働者が男性でも5割近くかつ低賃金、身分不安定でいつ首(解雇)になるかわからない。

わずかに最低賃金は、私の時代は年に1円上げることも困難だったが、今は、今年度も56円引き上げられるように改善された。当事者や労働組合の頑張りの結果である。

他方金持ちはますます肥え太り、国民の間に格差が拡大していのに、安倍内閣の支持が4割もあるということが不思議でならない。

 

「小選挙区制と政党助成金で公認権と人事権を一手に握り党内の自由闊達な議論を許さない」ことが安倍1強の原因(『週刊金曜日』P24)であることは確かだが、こんなに安倍晋三氏のマイナス情報がテレビ、ネット、新聞、雑誌に溢れて国民も知っているのに、なお権力が揺るがないとすれば、選挙制度だけの問題ではないと思う。


しかし、日本の中に自民党・安倍内閣の横暴と闘う地道な努力をしている人々と、組織が少なからずある。私も諦めず、己の成すことを成す。

 

過日トランプ大統領が訪英した時、ロンドンは反トランプ・デモが活発に行われ、ロンドン市長も規制しなかったと報じられた。トランプ氏が来日したとして、国民の間から同じような大掛かりな反トランプ・デモが起きるか。起きたとして都知事はそれを黙認するか。

ローマは一日にして成らず。日本の民主主義は未だ日が浅いのかもしれない。

(吉川春子)

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(写真・春日部自宅のカサブランカ~同名の映画に思いをはせる)

2018年7月15日 (日)

参加者募集中!「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール・フィールドワーク

~日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶ~

群馬戦争遺跡巡りと草津温泉への旅

旅行実施:20181028日(日)~29()  集合は東京駅

申し込み締め切り:8月末   費用:37,000

群馬県高崎市は1872年に地方の陸軍拠点になって以来、高崎連隊は日清、日露、シベリア出兵に出動し、1937年の南京事件の際には、高崎115連隊は上海制圧後南京城に突入し「南京一番乗り」をしています。また、「零戦」などを製造する中島飛行機製作所と、軍用飛行場があり、終戦直前の85日前橋、14日伊勢崎、高崎に空襲を受けました。

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(JR・草津駅)

<主な見学先>

【国立療養所「栗生楽泉園」・重監房資料館】草津町 

「重監房」とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいました。 しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていました。

[重監房のあらまし]
  ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で通称「重監房」と言われています。
 重監房は昭和13(1938)に建てられ、昭和22(1947)まで使われていました。この、およそ9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が入室と称して収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。60年以上を経た現在、この建物は基礎部分を残すのみとなっています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていました。

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(重監房跡・樂泉園内、瀬古由紀子さんと吉川春子)


[重監房資料館の目的]
  重監房(特別病室)の収監に関しては、その運用や手続きなど未だに不明な点が多くあります。重監房資料館は、こうした重監房とハンセン病問題に関する資料の収集・保存と調査・研究の成果を発表することにより、人の命の大切さを学び、広くハンセン病問題への理解を促すことで、ハンセン病をめぐる差別と偏見の解消を目指す活動をしています。(重監房資料館・ホームページ)

 ハンセン病違憲国賠訴訟原告団前会長の谺(こだま)雄二さんは「人権の故郷として残せ」と施設の保存を訴えました。日本はハンセン病患者を「国辱」として明治以来隔離政策をとり、1932年国立栗生楽泉園を開設しました。患者の結婚条件として「断種・堕胎」、独房の「重監房」の設置など、差別、人権侵害の事実を見つめます。

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(写真・谺さんを草津の病院に見舞う。この時は元気に回復した)

 

「中国人殉難者慰霊の碑」水上町・如意寺 名胡桃楽園 鳥越山

 

第二次大戦末期、日本政府は国内の労働力不足を補うため、38,935人の中国人を強制連行し過酷な労働を強いた結果、6,830人の尊い命が失われました。 月夜野の岩本発電所水路掘削工事では、中国人43名の方が亡くなり、当時の住職が故郷から遠く離れて死んだ中国人を哀れみ、 「死ねば中国人も日本人もない」と戒名をつけて手厚く葬りました。
1970年、建設委員会により当寺に「中国人殉難者慰霊の碑」が建てられました。 中国人の遺骨を安置した本尊をまつった須弥壇の裏側には、記録として墨書された板が現在も残っています。

 

{朝鮮人労働者慰霊碑}群馬県立公園「群馬の森」高崎市

碑は、戦時中に朝鮮半島から徴用され、重労働などで命を落とした韓国・朝鮮人を追悼するためのもので、碑には「記憶 反省 そして友好」と刻まれている。

毎年碑の前で追悼集会が行われていたが、碑の建立から10年後の20144月。同年1月末に、碑の設置許可の更新期限を迎えるにあたり、碑の設置・管理団体が県に申請した更新許可が保留になっている。2014425日の朝日新聞では、「許可更新、県が保留」「『政治的利用』批判受け」という見出しで、2012年の集会以降、県に碑の撤去を求める意見が寄せられていること、許可更新の申請を受けて、県が団体に集会の内容について見解を問うたことなどを報じている。

碑の存続のために団体が県へ提出した回答書や代替案が取り上げられることなく不許可が決まる。不許可決定の撤回を求める裁判で、地裁では原告が勝訴したが、県側が控訴して高裁で係争中。

宿泊は、草津温泉ホテル櫻井  

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(写真・草津湯畑の前で、瀬古由紀子さんと)

草津といえばすべての病(恋の病を除き)に効く超有名な日本有数の温泉です。5★ 3つの源泉かけ流し、30の大浴場ある最高級のホテル宿泊です。(以上・吉川春子記

<全行程、内藤真治さん「群馬県高校教育研究所」前所長)の知識豊富な解説つきです。歴史を学び、草津温泉でゆったりする旅に会員以外も参加大歓迎、お誘い合わせてご参加ください>

     【郵便申込先】 東京都文京区本駒込6-24-8-602 吉川春子気付

           「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール         

     【Fax】 03-3936-1743 (棚橋昌代) 

     【電話問い合わせ】090-4227-7478(棚橋昌代)  

   (代金振込)郵貯銀行 0270-5-140303 

    加入者・「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール(群馬旅行代金と明記)   

2018年7月13日 (金)

元「慰安婦」達の正義を求める運動を、歴史遺産として継承しよう

    第27回ゼミナール、第2回運営委員会開く


豪雨で西日本、中部日本が大災害後発生。こうした中、78日日曜日に東京千代田区の全国教育文化会館(通称・エディカス東京)で第27回ゼミナールを開催し69名が参加しました。大阪、名古屋から交通困難の中駆けつけた会員もいました。

午後1時からのゼミナールの講師は藤目ゆき・大阪大学教授です

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(写真・会場風景)

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(開会挨拶・吉川、右は藤目先生、左・司会の小林さん)

       日本人「慰安婦」はなぜ、見えなくされているのか 

藤目ゆき・大阪大学教授の講演は、元「慰安婦」たちの正義を求める運動の歴史遺産として継承、その運動の主体となるはずの日本人「慰安婦」が何故、不可視化されたのかという、興味深い内容だった。

初それに先立って「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの吉川春子代表から開会挨拶と講師藤目先生の紹介を行った。

吉川代表は、2001年に野党3党の「慰安婦問題解決法案」を参議院に提案した時に被害女性からも外国議会や政府からだけでなく国内のNGOからも絶賛された法案に対して、藤目ゆき先生が同法案が日本人「慰安婦」を国籍条項を設けて排除したことを厳しく批判された事を紹介。自分もその点を譲歩した反省をしていたので、当時から藤目先生に注目していたとのべた。また藤目先生はフィリッピンのマリアロサヘンソンさんの手記を翻訳されたり(岩波書店)、「慰安婦」問題に独自視点での貢献をされていたと紹介した。

 

   キムハクスンさん名乗り出に感激

~苦界に身を沈めた日本女性に代わって、と受け止めた

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(写真講演する・藤目ゆき先生)


 

藤目ゆき先生は、自分は日本女性史を研究してきたが1991年、キムハクスンさんが名乗り出たことに驚き、感謝した。「慰安婦」たちは自殺したりして、生きているはずがないとと思っていた。彼女たちが生身で生きていたことに励まされたと、声を詰まらせながら述べました。そして苦界に身を沈めた事、少女時代に親戚にレイプされても「お前が悪い」と言われ沈黙してきた日本女性のための告白と受け止めた、と述べた。

1992年の国際会議や2000年の国際法廷でも「日本人はお金もらってそういうことされてもいいのか?」と問われたが、日本人は平気で娘を売って金もらっていた。それに甘んじていたから、「慰安所」の前に兵士が列を作っても平気だった。日本の奴隷制の根っこは公娼制にある、公娼制は奴隷制度であると強調した。

 

  やるべきことしない日本政府、これを許した国民にも怒り

 

日本人は民族差別があった。外国女性ならいいか。日本政府はきちんと謝罪していない。日本政府はやるべきことやらずに終わっている。これを許した日本国民にも怒りをもつ。また、日本の市民が、(同胞の)日本人「慰安婦」を名乗り出ることを助けなかった。

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    先ず外国人、という選択しなければ「法案」出来なかったと理解

 

また、野党法案については「自分は国籍条項の批判をしたが、先ず外国人、そういう妥協もしないと法案出来ない。「日本人を入れたいと思っていた(吉川が)」ことは嬉しい。

民主党が政権を取ったらかえって立法化がもつれてしまった。

其の他、「公娼と『慰安婦』は違う」という運動側の立てた論議が問題の闇を深くしているなど運動・市民側にも疑問を投げかけるなど、多くの指摘を行った。「慰安婦」問題に取り組んできた者として多くの示唆を受けた講演だった。

当ゼミナールでは次号第33号で藤目ゆき先生の講演の詳細を掲載する予定。

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(写真・閉会挨拶とまとめの大森典子副代表)


 

<第2回運営委員会報告>

201878100012:00、ゼミナールに先立って運営委員会が行われた。

出席者:19人(常任運営委員9人、運営委員10人)

欠席者:5人(常任運営委員2人、運営委員3人)

 

{報告事項}

 

Ⅰ 会員・財政(原・ペーパーによる報告)

 

会 員 数 580人(201872日現在)

次期繰越金 1,601,418

*当ゼミナール規約により2年間会費滞納者は退会扱い。41日総会を待って、6月末で締め切ることにしている。今回は、会費未納の多い県には会費納入の努力をしてもらった

〇「会費納入アピール」を出すことに決定した

 

Ⅱ 第27回ゼミナールについて

 

〇事前の宣伝として、お誘い葉書152枚発送、「週刊金曜日」、東京民報、赤旗のお知らせさんに掲載していただいた

〇プログラム

講師―藤目ゆき・大阪大学教授

開会挨拶・講師紹介―吉川、閉会挨拶・まとめ―大森、

フィールドワーク宣伝―吉村、司会-小林

 

Ⅲ 群馬県フイ―ルドワーク(吉村報告)

 

南京陥落時、高崎の15連隊が一番乗りした、という県である。ハンセン病裁判で患者側が2007年勝利、草津に100人住んでいる。権利要求戦いの歴史に触れる旅、重官房は必ず見てほしいところ」(吉村)

〇参加者現在 十数名。参加者は三十数名を確保したい

 

{議論の部}

 

Ⅵ 講演会共催の申し入れ(柴田)(添付資料)

 

常任運営委員の柴田さんから、「つどい」を埼玉AALAと「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの共催で開きたい、との申し入れがあり了承した。

日時:20189814001630

場所:埼玉県加須市(東武線・

加須

(

かぞ

)

3分)

内容:第1部「朝鮮女性同盟の歌・舞、又は「二胡の演奏」、2部吉川春子の話し

 

Ⅶ 第28回ゼミナール・詳細は別紙(棚橋、笠井)

 

日時20181027日、文京区男女平等祭りの一企画・ワークショップとして参加する

 テーマ:南京事件 

午後13301530(午前は会場が借りられるか否か未定)

〇DVD南京、上海の旅上映(原さん制作) 

〇ワークショップ

・大森団長、旅の企画の趣旨

・参加者の感想

 小竹弘子・元都議(文京日中友好協会)、⑵菅間徹(大枚をはたいて!旅に参加した意味)、

 笠井恭子(南京で終戦を迎えた姉)、⑷後藤ひろみ(東京AALA・南京安全区について)

・」まとめ挨拶 吉川、・コーディネーター 棚橋

 

Ⅷ 今後の運動の進め方

 

910日(月)の第2回常任運営委員会で時間を取って議論する事になりました。

時間は10時~午後4時頃までの予定です。会場は追ってお知らせします。

<議論のテーマ>

8月の議事整理委員会で相談し会議前に連絡します。皆様からも事前にお色々なご意見・お考えをお寄せくださいますようにお願いします

(写真・会場から熱心な質問が寄せられた)26_2

720(写真・夏の夕焼け7時20分六義園7月13日)


 

2018年7月 1日 (日)

「女性参政権獲得」百年のイギリスの旅(最終)

 

 ~半端でない、イギリスの人権獲得の歴史~その5

 

マグナカルタ(1215年)から始まってイギリスの人権獲得の歴史は文部省の歴史教科書に詳しく載っていたので通り一遍の知識はある。それを再確認しさすがイギリス!と知った旅であった。

 

今年、イギリス国会前広場に初の女性の銅像

 

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  • 写真・ミリセントホーセットの銅像(2018年4月建立)

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  • 写真・台座にパンクハースト母と娘3人の写真(左から2つ目)

私たちは旅の3日目、6月9日(土)イギリス国会前の広場に、女性参政権獲得百年を記念して、今年4月25日建立された女性運動家であり経済学者であるミリセント・フォーセント(1833-1884)の像を見学した。国会前広場に女性の銅像の建立は初めてだという。

銅像は「どこでも勇気が勇気を呼ぶ」と書かれた布を手にした、ロングドレスのミリセント・フォーセットが国会の方向に向いて立っており、その台座には、多くの女性の著名人とともに、同じく女性参政権獲得目指して活動した、パンクハースト夫人とその3人の娘の写真も刻まれている。

除幕式にはイギリスのメイ首相(イギリス2人目の女性首相)も駆けつけ「フォーセットがいなければ私は今日首相としてここにいなかった。女性が議員となることもなく、私たちが現在享受する権利もなかった」と彼女をたたえる演説を行った。

フォーセットはジョン・スチュアート・ミルの思想に共鳴した。女性の大学就学に力を入れケンブリッジ大学のニューナム・カレッジ設立に貢献、1897年にNUWSSを結成した。彼女は.、過激な行動を展開したパンクハーストとは違ってリーフレットの発行、大会の組織や、ロビー活動等平和的な活動をつづけた。

 

国会の隣接地のエメリン・パンクハーストの銅像

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(写真・国会に隣接する公園に建つパンクハースト夫人の銅像)

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(写真・イギリス国会の建物。この建物の向こうにパンクハースト夫人の銅像がある) 

 サフラジェットのエメリン・パンクハーストの像は、ミリセント・フォーセットの銅像から歩いて数分はなれた、イギリス国会敷地に隣接する広々とした公園に建立されている。その台座には長女のクリスタベルの写真があるが、次女シルビアの写真はない。それは、方針の違いで母親と姉から追放されたシルビアは社会主義者になって、女性労働者の運動に加わっていったためか。私は理由を聞きそびれた。

 

今年マンチェスターにも、エメリン・パンクハーストの銅像建立

 

 今年の12月にはマンチェスター市の中心部にパンクハースト夫人の銅像が建つという。彼女の像建立に尽力した市議会議員が私達をマンチェスター市議会前の広場に案内し、パンクハースト夫人が右手をまっすぐ横に延ばしているミニチュアの像と同じ銅像が建立されると説明した。

 

 イギリス男性は「女性参政権付与」の運動の推進者

 

注目すべきはイギリスでは男性が女性参政権獲得運動の理解者・推進者であったということである。

『私の記録 婦人参政権運動の闘士=バンカースト夫人自伝』(エメリン・バンカースト著、平井英子訳 現代史出版会第1刷1975年)には次の記述がある。(下線は吉川)

イギリスでは、「1866年の選挙法改正(「世帯主選挙法」)通過…1832年以降初めての改正…年間10ポンド以上の家賃を払う世帯主に国会議員選挙権があたえられることになっていた。下院で審議中にジョン・スチュアート・ミルが『男性と並んで婦人の世帯主もこれに含める趣旨の修正動議提出→否決。…』『私の住むマンチェスターでは婦人の潜在的有権者総数四二一五人のうち、三九二五人が投票権を主張し、法廷では、後に私の夫となるバンカースト博士はじめ有能な法律家(法律家は全員男性、女性は当時なれなかった―吉川)たちが、この主張を弁護した』と。また、女性参政権獲得運動に参加した男性の組織も数十もあったという。

日本では男性が女性参政権獲得運動に加わった形跡はない。この点はイギリス男性の方がジェントルマン、といえそうだ。

 

近代的な母娘像?

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シルビア・パンクハースト研究所で英国女性の賃金格差、DV等について研究者の話しを聞く(前列左から2,3人目が教授)

 

パンクハースト夫人は3人の娘(3人目の娘は早く亡くなる)とともにWSPUを設立して運動をスタートさせた。しかし次女シルビアトとは袂を分かつ。

シルビアは破壊行為には消極的で母、姉を批判した。また、シルビアは労働者階級が多数を占めるイースト・エンドを活動の基盤としている。中流、上流の富裕層がおおいウエスト・エンドを基盤としている母親や姉とは考えを異にした。彼女は経済的差別に目を向けるようになる。(中村久司著『サフラジェット 英国参政権運動の肖像とシルビアパンクファースト』大月書店)

私は運動方針の違いのため、母親はたとえ娘であっても組織から追放してそれぞれが別の道を歩むというスタイルがイギリス的、合理的なものとして興味深く感じた。

また、男女を超えて参政権は女性にも与えるべし、という男性、インテリチゲンジャが日本の江戸時代、明治初期に当たる時代のイギリスには少なからずいた事も興味深い。

イギリスの社会、歴史を見直した旅であった。(吉川春子)


写真下・ゴッホのひまわりと、フェルメール(「ナショナルギャラリー」で)

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2018年6月28日 (木)

女性参政権獲得100年のイギリスを訪ねて、その3

 

   マンチェスター市議との懇談

 

     マンチェスターは、伝統ある労働者の町 

   

マンチェスターは人口541,319人、日本でいうと政令指定都市には入らない規模の中堅都市といえる。労働者の町である、労働党が圧倒的に強い。

最近上映された映画『マルクスとエンゲルス』のエンゲルスの父親が社長の工場がマンチェスターにあった。マッチ工場の女工のストライキが社会を揺るがした。

こうした労働運動だけではなく、女性参政権という、上流女性の要求運動も大きく発展したことは、相互に関連があるからであろう。

パンクハースト夫人は後の共産主義者となる次女のシルビアが女性労働者と連繫することを許さず、運動のたもとを分かっている。しかし、労働者階級の女性の戦いが、女性参政権獲得の一定の力として働いたことは否定できないだろう

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(写真上・マンチェスター市議会、写真下・市議会の廊下、天井が美しい)


 

サンドイッチのランチで懇談

 

12時市庁舎の建物の近くでマンチェスター市議会議員が10名参加して、私たち一行と懇談した。なかなかおいしいサンドイッチと飲み物(ジュース等)の軽食をとりながら日本人とイギリス人が56の丸いテーブルにそれぞれ交じって座った。(しかし、中には日本人の癖で自分の知り合いとだけで同じテーブルを囲んだりして、あとで仲間から批判が出た)通訳は中村氏。


 

議員の男女比はほぼ半数ずつ

 

 

市議会議員の定数は96人。そのうち女性が47人(48.9%)、男性が49人(51%)でほぼ半分ずつの割合である。女性議員が増えてすべての委員会に女性が所属しており、姿勢に女性の意見が反映されている。

マンチェスターでは選挙の供託金はない(0円)。だから女性の議員が多く立候補して当選できるのだ。日本とはえらい違いだ。日本は供託金がとても高く女性は立候補できない現実。

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写真・市議会を案内する議員と、通訳の中村氏


 

     市議会議員は無報酬!

 

マンチェスター市議会議員は報酬がない。だから全員が別に仕事を持っている。フルタイムは委員会の責任者だけで、この議員には特別手当がついている。

日本では市会議員は片手間では務まらない。年4回定例議会は条例や予算、決算でかなり忙しいし、専門知識が要求される。市議を経験している私は、無報酬で、他の仕事と掛け持ちをしていると聞いてとても驚いた。

マンチェスター議会は会期制だ。任期は普通は4年だが、1年、2年の場合もある。4年に3回選挙がある。最高得点を取った候補者は4年、2番目は2年、最下位は1年、というふうに。

 

イギリスにクオータ制がない理由

 

女性の地方参政権は、国政より数十年早く与えられている。女性議員を増やすことに各党の中央で取り組んでいる。女性50%、男性50%にして、勝てる選挙区に女性を立てる事に取り組むが、一方女性を優先的に立てることは男性差別という声がある。しかし、女性参政権が与えられて100年の歴史があるのに、イギリスの女性議員は3割強で、国際比較では最も多いグループではない。

クオータ制の法律はイギリスでは絶対作れない。反対の議員がいるから。また、クオータ制は憲法違反だという法律ができた。なかなか歴史は一筋縄ではいかないものだ。

 

女性参政権獲得百年、イギリスの旅その2

  過激な女性参政権獲得運動を知る旅

 

「英国の女性参政権運動は、穏健派「女性参政権協会全国同盟」(NUWSS)と戦闘派「女性社会政治連合(WSPU)の2大ライヴァル組織が相互に影響をうけつつ運動を織りなす」(川村貞枝他『イギリス近近現代女性史研究入門』)。

*「女性参政権協会全国同盟」NUWSSNational Union of Womens Suffrage Societies

*「女性社会政治連合」WSPU(Womens Social and Political Union)

 WSPUはサフラジェットと呼ばれ(揶揄され)、過激な行動もあえて辞さず女性の参政権を!と世論に訴え続けた団体である。その功罪は今も研究者の間では評価が分かれている。

 命がけで女性の人権のために戦った100年前の異国の女性達の意気込みに、現在女性の人権のために活動している私は、脱帽したのである。

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(写真・サフラジェットの旗の前で、水野、吉川―元全国労働運動史博物館)

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(写真・WSPUのメンバーはこのタスキをかけ胸にシンボルマークを付けてデモ行進した(吉川の洋服に掛ける)

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(写真は・タスキをかける江パンクハースト夫人) 

 今回私の参加した旅行はいわゆる過激派(WUSP)の運動をたどる旅であった。それは中村久司氏(著書「サフラジェット英国女性参政権運動の肖像とシルビア・パンクハースト」大月書店)が同行し、イギリス女性参政権獲得に至る歴史について詳しい解説付きであった。

 

  パンクハーストセンターを訪問

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(写真上・1903年この居間で「女性社会政治連合スタート、写真下・パンクハーストセンター所長と)

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写真・パンクハースト母娘が住んだ家

 

68日(金)午前中私たちはマンチェスターのパンクハーストセンターを訪問した。この日は休日だがセンターの責任者が私達を迎えてくれた。

1903年にパンク・ハースト(1858-1928)は、このこじんまりとした家の居間で、娘2人(長女のクリスタベル、次女のシルビア)と数人の同志とともにWUSPを立ち上げた。

エメリン・パンクハーストは両親の意向で当時(19世紀)としては珍しくパリのエコールノルマルに留学、十分な教養と知識を身に着けた。20歳で24歳年上の弁護士リチャード・マースデン・パンクハーストと結婚して13女が生まれた。夫は女性参政権運運動の支持者であったが、1898年に死亡し、エメリンはその活動を引き継ぐかたちで1903年に政治組織を設立したのだ。

 

 

 

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(写真上・パンクハーストセンターの看板、写真下・パンクハースト夫妻の写真)

映画も描いた、過激な女性参政権獲得運動

昨年日本で公開された『未来を花束にして』はこのエメリン・パンクハースト率いるWUSPの過激な活動を一部フィクションを交えて映画化したものだ。エメリン・パンクハーストには女優のカトリーヌドヌーブがふんした。

(写真・映画「未来を花束にして」のジャケット、右端の女性がカトリーヌ・ドーブ扮するエメリン・パンクハースト)

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私は行きの飛行機の中で中村先生の著書を読破していった。イギリスの上流階級に属する女性達が中心になってかくも過激な行動が全国に広がっていったことに目を見張った。公共建物の窓ガラスの破壊、郵便ポストへ火を投げ入れ放火、そして逮捕されると断食で自死を辞さないそうした戦いを多くン女性が展開していった。

学校にも通い教養あるある女性達、服装もペチコートにロングドレス、髪には帽子をかぶった上流階級の女性達を過激な行動に走らせた参政権獲得運動は、日本のこの時代の女性の地位、社会の認識からは到底考えられないものだ。

しかも官権の弾圧も過酷である。女性達を乱暴に逮捕、投獄し、彼女たちがハンガーストライキに出ると、無理に口をこじ開けて食物を胃に流し込む。しかし殺さないうちに釈放して体力の回復を待つ「猫・鼠法」の施行する等、容赦しない。私はイギリス女性のイメージが変わった。

2018年6月23日 (土)

英国女性参政権獲得百年と、日本の女性政治参加の現状~エメリンパンクハーストを訪ねて    

 <今年、英国・女性参政権獲得百周年>


 英国議会前にサフラジェットの旗がひるがえり、

各地で記念行事、銅像建立の計画

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(写真上・イギリス議会前広場に翻るサフラジェットの旗―イメージカラーは紫、緑、白の3色、写真下・運動のリーダー、エメリン・パンクファーストのモザイク写真)

 

 私は6月7日から12日まで、水野磯子さんら、名古屋、岐阜、中部地方の女性の皆さんとともに、英国女性参政権獲得運動について学ぶ旅をして、サフラジェットと呼ばれる過激ともいえる参政権獲得運動の活動に触れました。

 サフラジェット(女性参政権獲得運動家)発祥の地、マンチェスターで、そしてロンドンで、イギリス女性参政権獲得百年を記念する行事があちこちで行われています。

昨年2月、日本で映画『未来を花束にして』が公開され、私は女性の政治活動が劇映画の題材になる事に驚き、又はメルリストリーブの演じるエメリン・パンクハーストに感動しました。今回の旅で、この映画が製作される土壌がイギリスにはあることを実感したのです。

 

今回、彼女らのゆかりの地を訪問し、ミュージアムも見学し各種資料に触れました。参政権獲得運動の中心はパンクハースト親娘はじめ、上流階級の女性で、一定の教養・学問知識のある女性達です。デモ行進といえばペチコートを履いたロングドレスに、髪には帽子を付けた女性達がデモ行進し、過激な行動に走るという、私のイメージする、あるいは見聞きし体験した日本のデモ行進とは異なる趣である。

長い苦しい戦いの末に勝ち取った女性の権利。さすが民主主義の国!との実感を持ちました。

  年表で過去にさかのぼると以下のようになる。

 

<イギリス女性参政権獲得までの動き>

 1928年

男女平等普通選挙権の成立

 1918年

国民代表法による女性参政権の成立~戸主または戸主の妻である30歳以上の女性に選挙権与える

・1903年

「女性社会政治同盟(WSPU)マンチェスターで創設

・1869年

地方自治体の選挙権が女性納税者に与えられる

・1865年

ジョン・スチュアート・ミルが選挙公約に、「女性参政権」を掲げ議会選挙に出馬・当選

 

  <日本女性の女性参政権獲得>


 

日本はイギリスに後れること37年、太平洋戦争敗戦後に、194510月女性参政権が認められました。明治維新以来、女性参政権なき日本は戦争に次ぐ戦争の明け暮れでした。

これに比して、女性が参政権獲得後の73年間は戦争は1度もありません。以下年表を示します。

 

    <女性参政権がない日本、戦争に明け暮れた

~明治維新~1945(昭和20)年まで~>

 

1898(明治27)年

日本、清国に戦線布告・日清戦争勃発

  1902(明治37)年

日本、ロシアに宣戦布告・日露戦争勃発

  1914(大正3)年

日本がドイツに宣戦布告(第1次世界大戦)  

  1918(大正7)年

シベリア出兵(英、仏、米がソビエト革命干渉戦争)

  1919(大正8)年

平塚らいてう、市川房江らが「新婦人協会」設立し女性参政権要求運動を開始

  1921(大正一〇)年

第四四通常国会に、男女平等選挙権を認める「衆議院議員選挙法改正」の請願書提出

  1931(昭和6)年

柳条湖事件(満州事変勃発)

  1937(昭和12)年

盧溝橋事件(日中戦争~1945)

  1941(昭和16)年

日本軍ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発)

  1945(昭和20)年

8月、天皇終戦の詔勅

10月、女性参政権を認める閣議決定

 

    <日本は女性議員数が最低の国>

 

 女性参政権を得て、73年もたつのに女性議員が一向に増えない日本。世界の中で最低レベルです。

 国際比較をしますと、

女性上院女性議員数の

1位―ルワンダ~下院の女性比率61.3%、上院の女性議員38.5

14位―フランス~       39%、        29.3

39位―イギリス~       32%、        25.7

99位―アメリカ合衆国     19.4%、       21

157位―日本         10,1%        20.7

世界平均下院(衆議院)23.6%。上院(参議院)    23.2

 なんとも情けない現状です。

 

   日本に女性議員を増やす契機が!

 

今年5月に、政治分野における男女共同参画推進法」が成立しました。クオータ制を推進するNGOと超党派議員の長年の努力が実ったものです。女性議員を増やす契機となることが期待されます。

「政治分野における男女共同参画推進法」

目的

 男女が公選による公職(議員、知事、市町村長等)又は、総理大臣その他の国務大臣にあるものとして、政策決定参画の機会を確保される事が、多様な国民の意見が的確に反映されるため一層重要であり、政治分野における男女共同参画を積極的に推進し・・・民主政治の発展に寄与する 

第二条

 ①衆議院、参議院議員選挙、地方公共団体の議員の選挙において、政党その他政治団体の候補者選定の自由を確保しつつ・・・男女の候補者の数ができる限り均等となることを目指して行われるものとする

 ②政治分野における男女共同参画の推進は・・・性別による固定的な役割分担を反映した社会における制度または慣行が政治参画推進に及ぼす影響に配慮して、男女が、その性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮できるようにすることを旨として行われなければならない

③政治分野における男女共同参画の推進は、男女がその性別にかかわりなく、相互の協力と社会の支援の下に・・・活動と家庭生活の円滑かつ継続的な両立が可能となることを旨として行われなければならない

     ~~~~~~~~     ☆     ~~~~~~

 さて、こうした日本から英国女性達の過激な選挙権獲得の運動を見ると、強い衝撃を受けました。次回以降は彼女たちについて少し具体的内容に触れます(以下次号

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(写真・戦争博物館・ロンドン)


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(写真・戦争博物館前で)


 

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