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2018年11月10日 (土)

朝鮮人労働者慰霊碑のある、「群馬の森公園」を歩く

  日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶ
    群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉の旅
 
2日目も天気は快晴。朝9時に旅館発、近くの長野原町の防空監視硝へ。

周囲は一面が畑ののどかな風景が広がる小高い丘の上にプラスティックの波板の屋根が見える(戦争中は藁葺屋根だった)。丘に登り屋根から中をのぞき込むと井戸よりはかなり浅い、二十人程が入れる風呂のような円形のコンクリートがあった。ここが戦争の際に敵機襲来の情報をキャッチして伝えた防空監視硝(聴音豪)である。 


   <敵機襲来の監視は、高等小学校生徒達にやらせた!>

 

太平洋戦争末期に日本は制空権も完全に奪われ東京を初め大中の都市は悉く空襲で破壊され人も建物も大きな被害が出た。

一九三〇年代から全国各地に敵機の襲来を監視する監視硝が設置された。そして群馬県には防空監視隊総本部の下、前橋、高崎、渋川に監視隊本部があり拠点の監視硝は40カ所もあったという。24時間体制で空の監視に当たったのは、多くは高等小学校の生徒だったという。肉眼や双眼鏡で、夜は爆音を頼りに機種、機数、進行方向を判断して本部に電話報告を行ったという。今の中学生の年齢である。

子どもが24時時間体制で敵機の襲来を監視させられるとは!空襲から国民を守るうえでは頼りなくもあり、子どもにこのような労働を課すとは、悲惨でもある。

米国の高度の技術と物量の戦争に、子どもたち中心の防空監視体制で都市の空襲が防げるはずがない。

二〇〇四年から長野原町の重要文化財として保存されている。こうした戦争遺跡を残すことは、いかに愚かな戦争だったか知る上で貴重である。


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(写真上・防空監視硝跡の全景、写真下・上から防空監視硝を覗き込む)

(写真は防空監視硝の跡) 

 <無残な吾妻渓谷、八ッ場ダム建設現場へ>

 

♪ 夕日は赤く 身は悲し 涙は熱く頬つたう…

さらば、故郷よ わが村よ 幼き夢のゆりかごよ…♪

この歌は父がよく歌っていた、ダムの湖底に沈む故郷への哀惜をテーマにした映画の主題歌である。

 

長年に渡りダム建設反対で結束してきた住民が結局ダム建設を受け入れ、歴史ある川原湯温泉を移転させ故郷をダムの湖底に沈めなければならなかった。人々の胸中や如何に・・・

八ッ場ダム計画は1952(昭和27)年にさかのぼる。そして群馬県が八ッ場ダム水源地域対策事務所を設置するのは1993(平成5)年、水源地域整備計画の閣議決定は1995(平成7)年である。参議院議員時代私は、八ッ場ダムの調査に何度かここを訪れている。

初めて訪問した時私たち一行は川原湯温泉に宿泊し、地元住民や旅館経営者の方々も含めたダム建設を阻止する大会に出席した。岩佐恵美・共産党議員ら超党派の衆参国会議員は定期的にここを訪れ運動を激励していた。

そして民主党が政権を奪還した時には一時ダム建設中止の方針を出した。しかしすでにかなり移転事業は進み、道路も鉄道も高い位置に移転された後であった。しかも民主党政権はすぐ変わり、自民党公明党は予定通り工事を再開させた。

ダムの本体工事が始まったのは2014(平成26)年でごく最近であるがしかし、それまで国は既成事実を着々と積み上げてきた。水需要はなくとも、住民の反対が多かろうと何が何でも工事を進めてきた。誰のために?

Photo_7 (写真・吾妻渓谷、川原湯温泉を湖底に沈めて進むダム本体工事、展望台で吉川)


 

  始めたことは、やめられない日本-戦争、無駄な公共事業、etc

 

八ッ場ダムは当初、首都圏の水需要に対応するとして計画されたが、既に首都圏の水の需要は減少して、八ッ場からの取水はなくてもたいして困らないことも数字が示している。

むしろ各自治体は八ッ場ダムの負担金が財政を圧迫する要因となっている所もある。

加えて、このダムは水害対策に有効なのか。温泉の継続営業の保障、地元の人々の暮らしは守られるのか…等々問題山積である。

しかも九州の耶馬渓にも匹敵する、絶景の吾妻渓谷の風景を台無しにし、移転先も地すべり地帯である。膨大な費用をつぎ込んで地滑り対策がされたと聞くが、効果はあるのか?

膨大な国の予算をつぎ込んで、反対運動が強い中でも強引に工事は進められ、完成は目前に迫っている。

「完成したらまたいらっしゃってくださいね」との声に送られて、私たちは八ッ場ダムを後にした。私は水没した河原湯温泉や、姿を変えた秋の吾妻渓谷を見るのはつらい。

 

無駄な公共事業に膨大な国家予算を費やす一方で、多くの「慰安婦」には支払われるべき賠償金を支払わない日本政府。国民の税金の使い方がおかしいのではないかと、私は思わざるを得ない。


 

<群馬の森・美しい公園の戦争の爪痕~>

 

旅の終わりに、内藤真治先生の解説で私たちは「群馬の森公園」を散策しながら、広大な敷地にある戦争遺跡をたどった。この公園は明治百年事業として一九七四年に高崎市に開園したが、東京都心にほこる新宿御苑の数倍の広さがあるのではないか。樹木の多さ、高さ、太さも引けを取らない。

 

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写真・「群馬の森公園の「ダイナマイト発祥の地」の碑

    火薬製造工場と強制労働の犠牲者

 

この県民憩いの場に生まれ変わる前は、一八七九(明治一二)年に設立された陸軍の火薬製造所(東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所)があった。日露戦争後の一九〇六年にはダイナマイト製造が始まる。公園内には「我が国ダイナマイト発祥の地」の大きな碑が建つ。

日中戦争開始とともに火薬の大増産の戦時体制に入り不慣れな労働者が長時間労働で劣悪な食事、労働環境の下で働かされた。一九三八年だけでも四回の爆発事故が起き、二四人もの死者を出している。

 

「群馬の森」公園に整備されるときに百棟も危険な火薬製造所が全て取り壊され痕跡は何も残っていない。敷地が隣接する日本原電や日本化薬の敷地にはまだいろいろ戦争遺跡が残っているが「群馬の森」から柵を隔てて覗き込むほかない、とは残念である。

1995年に国の文化財指定基準が変わりこの岩鼻火薬製造所も「軍事に関する遺跡」(戦争遺跡)の詳細調査対象五〇件の中にはいっているという(内藤真治氏)。

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(写真・「群馬の森公園」と民間の火薬工場の間に積まれたコンクリートの厚い壁に空いた明かりの漏れる“窓”~ポーランド映画『地下水道』(アンジェワイダ監督)のラストシーンを髣髴とさせる)


 

     ドイツのように戦争遺跡を残したい

 

戦争遺跡を残す点はドイツは徹底している。例えば各地にあったナチスの強制収容所が建物が残っているものもそうでないところも、全部ミュージアムとして保存され、公開されている。何故ナチスが猛威を振るったのかという研究が行われている機関でもある

私には負の歴史を繰り返さない、というドイツ国民の決意が伝わって来た。日本でもこうした措置が必要だが政府の酔っては殆ど行われていないということを痛感する。戦争遺跡を保存し残すという文化庁の試みに期待したい。

 

群馬の森・朝鮮人追悼碑

 

「群馬の森」の散策の終わりに、「朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」に行った。ここが今日のメインともいえる見学場所である。碑文には以下のように記されている。

 

◆碑文 

 20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。

 21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。

 過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。

 この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。(写真下は朝鮮人強制連行追悼碑)

 

  ~~~~~~~   ☆  ~~~~~~Photo_5

民間団体が群馬県と協定を結びこの日が設置された。管理は民間団体が行っている。

この碑の前で毎年行っている追悼式などで、設置条件に反する政治的発言があったとして県議会で意見が出て、群馬県が設置期間の延長を拒否した。これに対して民間団体側が、延長拒否の処分取り消しを求めて、裁判が続いている。裁判の争点は主として以下の2点である。

 「政治的行事」は行わないとする設置条件は表現に自由を侵さないか

 不許可処分は合憲といえるか

 

一審判決では

 について、「強制連行」という言葉を使用した集会は「政治的行事」に当たると判断し、

県の主張を認めた。しかし、②について「処分は取り消す」と判断し、原告の主張を認め碑は撤去されないとした。現在、控訴審に継続中である。

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(写真・森「群馬の森公園」の朝鮮人強制連行追悼碑の前で)

 

   強制連行の痕跡を確認した旅

 

また、戦争中多くの公共事業に、多くの朝鮮半島や中国の労働者が強制動員され、過酷な労働を強いられていたことをあらためて知った。

群馬県でダム建設の強制労働に従事させられた中国の李万忠さんの証言は、戦争中に日本に送還されて言語に絶する奴隷の扱いを受けた様子が語られている(「群馬フィールドワーク資料2」)

「昼夜分かたず武装警察官が私たちがトンネルを掘るのを見張っていた」「3日に上げず逃亡者が出たが捉えられて後ろ手に針金で縛りあげられ、この傷痕は心の傷痕とともに残っている」「風呂には一度も入らず、タオルの支給もなかった」「寒い冬も綿の服もなくセメントの空き袋を服代わりにして着ていた」等々。

今年1031日、私たちの旅の終わった直後に韓国の元徴用工への損害賠償を日本企業に命じる判決が韓国最高裁で言い渡された。「日韓請求権協定で最終決着済み」などとは到底言えない、と私は思う。


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(写真・内藤先生の説明に聞き入る参加者・朝鮮人強制連行追悼碑前)


 

今年の私達のフィールドワークは、外国人への強制労働もハンセン病に対するぬぐえない差別感情もともに今日の問題でもある。人権という問題を深く突き付けられた旅であった。(吉川春子)

 

2018年11月 4日 (日)

草津楽泉園「重監房資料館」他を見学

 

第8回フィールドワーク・群馬県の旅  第1日目

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(写真・中国人殉難者慰霊の碑)


みなかみ町 如意寺(にょいじ)、草津のハンセン病患者施設へ

 

二〇一八年十月二八日(土)から二九日(月)にかけて、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール主催で、「日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶー群馬戦争遺跡巡りとゆったり草津温泉への旅」を行った。首都圏はじめ遠く福岡、山口、名古屋からも総勢二六名の参加者があった。

群馬県在住の吉村れい子さん(団長)を中心に企画し、ぐんま教育文化フォーラム運営委員、元群馬県高校教師、内藤真治先生の詳細な説明があり、群馬県の戦争遺跡、ハンセン病患者への人権蹂躙の歴史、また政府によるダム工事への中国人、朝鮮人強制労働の実態と、反面、それを償い慰霊する県民の良心にも触れた旅だった。

 

バスは東京駅を8時半に出発し1時間後には高崎駅前に到着。ここで吉村さん、内藤先生の2人が乗り込んだ。車中で高崎名物“だるま弁当”で昼食をとる。最初の訪問地、みなかみ町(合併前は月夜野町)の如意寺の「中国人殉難者慰霊の碑」へと向かう。(寺の本堂は住職親族の葬儀で使用中のため中に入れなかった)。ここは太平洋戦争中に東京都板橋区志村第三国民学校五,六年生一五五人の生活の場だった。濡れ縁には児童達の使用した木製の下足入れがずらりと残されていた。

 

如意寺に発電所導水路工事の「中国人犠牲者の慰霊碑」を訪ねる

 

一九四二年太平洋戦争開戦直後、岩本発電所建設のため利根川上流から取水する導水路敷設工事を開始、中国人労働者六〇六人と朝鮮人労働者約千人が動員された。

全長14.4キロメートルの大部分が地下を通るトンネルで、食糧はトウモロコシ、カボチャ、サツマイモが主食、一日一二時間労働という過酷な状況。日本人飯場頭の暴力・虐待…で1年足らずの間に四三人もの中国人が死亡し、近くの旧月夜野町の如意寺(曹洞宗)に葬られた。住職は「たとえ敵国の俘虜であってもしなば仏の前では一視同仁」と、手厚く葬り過去帳には出身地・年齢まで詳しく記載し遺骨は本堂に遺骨を安置した。

一九五三年に遺骨は返還されるが寺では「遺骨安置所」の看板を「取り去るべからず」と書き加えている。その後「慰霊碑を建立しよう」の声が上がり一九七〇年月夜野町(当時)の後援、自民党代議士・松村健三氏の揮毫で「中国人殉難者慰霊之碑」が建立された。

 

…そして朝鮮半島の強制労働犠牲者は?

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(写真・韓国人徴用工への賠償命じる韓国最高裁判決を報じる新聞10.31東京)

 

私たち一行は紅葉の木々に囲まれ秋空に青く高く聳えるように建つ碑を訪問し、強制労働の犠牲になった中国・朝鮮の労働者の労苦を忍んだ。

朝鮮人労働者については当時(植民地なので)日本人扱い(?)で、記録は全く残っていないという。くしくも韓国人徴用工に損害賠償支払いを命じる韓国最高裁判決が出たのはそれから3日後であった。この問題は日韓請求権協定では終わっていないのだ、ということを思い知らされた国民も多いのではなかろうか。

国と国とで条約による決着がついたとしても、個人の請求権は消滅しておらず、損害賠償請求について消滅させるものではない、ということは日本政府が明言してきた。日本政府は韓国併合、植民地支配について真摯に反省し問題解決に当たるべきである。

 

ハンセン病患者の強制収容施設・栗生楽泉園へ


私達はフィールドワークの訪問地にハンセン病元患者が共同で生活する栗生楽泉園を選んだ。

長い間、ハンセン病は遺伝性の病とされ怖れられた。しかし1873(明治6)年にはハンセンによってらい菌が発見され遺伝性はない事がわかった、感染力もとても弱い事もわかっていた(中村紀雄『死の川を越えて』上毛新聞社、他)。

しかし恐ろしい伝染病であるから感染を防ぐために隔離することが必要であるとし、1度隔離したら2度と外に出さないという日本政府の方針が長いこととられてきた。また戦争の時期と重なったためハンセン病の特効薬が患者の手に届くことが遅れれ、苦しみが倍加された。

ハンセン病患者組織はいわれなき差別と果敢に戦い、国との裁判に勝利し今日に至っている。ハンセン病患者組織の戦いは当時参議院議員であった私の目に焼き付いている。

 

一九三一年、国は患者隔離撲滅のために「らい予防法」を施行しハンセン病患者の強制隔離政策に転じた。栗生楽泉園はそれまで草津町内のハンセン病の患者自由療養地「湯之沢」を解散して、ハンセン病の患者を強制的に隔離し送り込む目的で1932年開設された施設だ。

太平洋戦争が終わり日本国憲法が施行された後もハンセン病患者の隔離政策は続いた。政府が誤りを認めたのは二〇〇一年、熊本在住の患者たちの提訴により裁判所が人権侵害認める判決を出し、政府が控訴を断念した小泉内閣の時、私がまだ参議院議員在職中のほんの最近の事である。

 

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小学生でハンセン病への恐怖を、中学生で患者の苦しみを知った 

 

私は中学1年生の担任に北条民雄著『いのちの初夜』を紹介されて読んだ時の衝撃を忘れられない。ハンセン病(当時は[ライ病]といわれた)を宣告された著者が親兄弟社会から一切切り離されてハンセン病施設に強制的に隔離される苦しみが描かれていた。長野県の小学校時代、教師から「ライ病」がどんなに恐ろしい病気かを教え込まれていた(文部省の方針だった)から、この小説の主人公を襲った悲劇が強烈に私の心に突き刺さったのだった。

 

一九八〇年参議院選挙全国区候補の私は、選挙区の群馬県栗生楽泉園を訪問し患者の皆さんと親しく懇談した。また、居住する患者さんの全戸に通じている有線放送を通じてマイクに向かって挨拶した。その時、マイクに耳を傾けているであろう数百人の患者の皆さんの一人一人たどった人生を思って、言葉が詰まった事を

(写真・栗生楽泉園の歴史、患者たちのくらしを語った入所者自治会副会長、左から4人目の男性)

 覚えている。

 

人権侵害の極致~重監房、証拠を残す意義

 

今度の栗生楽泉園見学の中心は、二〇一四年に完成した「重官房(正式名=特別病室)資料館」と遺構である。

 ハンセン病隔離政策により多くの患者が入所を強制された結果、患者の逃亡や反抗も頻繁に起きた。ハンセン施設所長には「懲戒検束権」が与えられ各施設にはこれに対する監禁所(監房)が置かれた。草津栗生園には、それよりも重い罰をあたえるための「重監房」と呼ばれる施設があった。全国の施設から「『監禁所』では対応できない」とされた患者が送られてきて草津の「重監房」に収容された。収監された患者の人権は完全に無視された。

 

 一九三八年設置の「重監房」は谷沿いの山を切り開いて108平米、高さ4メートルのコンクリートの塀で覆い厳重な仕切り8カ所内に木造平屋建ての監房があった。

 いくつもの南京錠を開けて入る房内は身をかがめてやっと入れ、広さは4畳ほど。床、壁は板張り天井に電灯の笠はあっても電球はなく外からの明かりは縦13センチ、横70センチの窓から辛うじて入る。食事は12回握り飯1つほどの箱ベンと梅干し、薄い味噌汁…運搬はおなじく患者だが看守が見張っていて言葉を交わせない。孤立地獄、闇地獄、飢餓地獄、冬季は零下20度の獄寒地獄だった。

こうした扱いを受けた結果、死亡者は89名に達している。(「国立ハンセン療養所 栗生楽泉園ガイドブック」栗生楽泉園入所者自治会)

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(写真・納骨堂前で全員集合)


 

栗生楽泉園敷地内には重監房の遺構が残されて碑も建つが、私たち一行は、秋の日がとっぷり暮れて暗闇となり、残念ながらその場所へ行くことはできなかった。

 

裁判に勝つ、という意味

 

日本国憲法の施行後も続いたハンセン病患者の隔離政策が終焉したのは2001年「らい予防法違憲国賠訴訟」で患者側が勝訴して国が控訴を断念した結果である。

国はそれまでのハンセン病患者への扱いについて誤りを認めた。以後ハンセン病に関わる歴史を悉く残す努力が国によっても行われるようになった。

 

同じように人権侵害の極致を体験した被害者達に賠償も行われず、人権侵害の記録を保管展示する資料館もない「慰安婦」問題とは格段の違いがある。裁判に負け続けている結果である。

しかし、長きにわたってハンセン病への偏見が国民に植え付けられた結果、社会がハンセン病患者を受け入れる壁は依然篤い。その結果、元患者は社会復帰もできず故郷へも帰れない。故郷に帰れない遺骨が栗生楽泉園でも多く保管されている。

日本国憲法は基本的人権の保障をうたう。その人権保障を実現するためには関係者・国民の血のにじむ戦いが必要ということを感じた旅でもあった。(吉川春子)

2018年10月18日 (木)

女性の人権問題にビッグな贈り物―ノーベル平和賞 紛争下性暴力との闘いに授与!

 

 

今年のノーベル平和賞は、戦時性暴力と戦う2人の人物に贈られた。

 

ナディア・ムラド・バセ・タハさん(25才)

 

 

受賞の理由

彼女は、「イスラム国」に6人の兄弟と母親が殺害され、拉致され性奴隷として3か月にわたり売買された。そして20169月脱出しその後は、性暴力の体験を語り人身売買の実行犯の責任を追及した。現在は人身売買の被害者の尊厳を訴える国連親善大使に就任して活動している。

 

デ二・ムクウェゲさん(63才)

 

授賞理由

コンゴ民主共和国(旧ザイール)で、内戦状態が続く同国東部で武装勢力の戦闘員らによるレイプ被害を受けた数万人の女性の合併症などの治療に努める産婦人科医である。自分の生命の危険を冒しながら紛争手段としての性暴力を止める努力をした。訪日したことがある。

 

  性暴力被害は恥、という概念から女性を解放

 

ノルウエー・ノーベル賞委員会アンデルセン委員長は2人の授賞の理由を、彼らの行動が「戦時下の性暴力を白日の下にさらし、犯罪者への責任追及を可能にした」、また「MeTooと戦争被害(との戦いとの)…共通点もある。それは虐待の実態と女性の苦しみに目を向け、性被害が恥だという概念から女性を解放し、声をあげることの重要性だ」と語っている。

「今年の平和賞は2016年に続いて過去2番目に多い計331候補(216人、115団体)の中から選ばれた。賞金は900万スエーデンクローナ(約11300万円)  Photo

(写真は自分の「慰安婦」としての苦しい体験を語る金学順さん1994年埼玉教育会館)

金学順さんのカミングアウトもノーベル賞に匹敵

 

私はノーベル平和賞が戦時性暴力と戦っている2人に授与されたニュースに、韓国人「慰安婦」の金学順さんの勇気ある行動を思った。性暴力の被害者として名乗りを上げることがどんなに困難なことか。金さんは1991年、今から27年も前に名乗り出て、「慰安婦」問題を白日の下にさらし、性暴力被害者が次々に名乗り出るきっかけを作った。

女性史が専門の藤目ゆき・大阪大学大学院教授は「千田夏光さんの本で『従軍慰安婦』を歴史的事実として知っていたが性暴力が恥辱とされている中で、被害を受けた女性がメディアに登場し怒りを全身全霊でアピールされる姿に感動と尊敬を感じた」と語っている(201878日「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの講演・東京)。

彼女の勇気ある行為は称賛しても称賛しきれない。彼女は1997年死亡しているので今回のノーベル賞の対象とならないが彼女の行為もこの平和賞に該当すると私は確信する。

 

金学順さんの受けた性暴力~同年12月日本政府を提訴の訴状(吉川要約)

〇1923年中国東北地方吉林省生まれ。父親は抗日運動をしていて金さんが生後100日になる前に拷問で殺された。貧しいので学校をやめ子守として働く。

〇金泰元の養子となり14歳からキーセン学校に3年間通う。養父に連れられカッカ県鉄壁鎮へ。ここで養父に売られ、将校から中国人の家で強姦された。

〇中国人の空き家が「慰安所」だった。「アイ子」と名付けられ、朝8時から30分おきに兵隊が来た。週または月1回軍医の検診を受け、結核にもかかった。 

〇趙という男性と「慰安所」から逃げた。彼と結婚して、娘と息子が生まれたが夫と2人の子供も幼く亡くなった

〇死のうと思ったが死にきれず韓国を点々と家政婦をして、今は生活保護で暮らしている。

〇日本政府は悪いと認め謝るべきだ。事実を日本と韓国の若者に伝え二度と繰り返さない事を望む

 

なお、金学順さんが「慰安婦」にされた経緯について強制連行なのか人身売買なのか(学者・運動団体の間でも)異論があると聞く。私も正確な事実確認の必要性を否定しないが、金額順さんが性奴隷とされた経緯の如何によって彼女の苦しみ、あるいは勇気ある行動が減じるものではない。また、日本人「慰安婦」は殆どが人身売買であるが「慰安婦」としての補償・謝罪を行わなくてよいとは思わない。

 

「慰安婦」問題を抱える日本の責任

 

河野太郎外相は106日、東京都内でコンゴ民主共和国オキトゥンドゥ外相と会談し、ムクウェゲ氏のノーベル平和賞受賞決定に祝意を伝え、さらに「コンゴ政府がこの問題に真剣に取り組み、成果を上げていることに敬意を表したい」と述べたという(「週刊金曜日」10.12号)。元祖性暴力の「慰安婦」問題の加害国である日本の外相としてまるで他人事ではないか。しかし「慰安婦」問題はいまだ国連・国際社会から責任を問われている日本にとっては他人事ではありえない。

ちなみに父親の河野洋平元官房長官は1993年の『河野官房長官談話』で日本の加害責任を認めて謝罪し再発防止を誓っている。親子は別人格であり、親が立派でも子供がそのように育たない事例は数多いが、あまりにも違い過ぎる。

安倍総理が「慰安婦」問題の対応に不熱心な背景には、安倍内閣に40パーセントという高い支持率を与えている国民の存在がある。そして、国民が「慰安婦」問題に無関心な理由の一つに、日本人「慰安婦」問題を放置してきた(誰が?私を含めて…)つけでもあると私は自省している。

 

日本にとって未解決な戦時性暴力問題


日本では「慰安婦」問題のみならず、満州からの逃避行でソ連兵に差し出された女性たち、敗戦直後アメリカ進駐軍のために全国に「慰安所」を設置したとき駆り集められた女性たち等々戦時性暴力の犠牲になった日本女性は謝罪、補償はおろか顕彰もされていない。その結果現在起きている多くの性暴力加害者が責任を問われない結果多くの女性が泣き寝入りする風潮が続く。

改めて「慰安婦」問題にきちんと決着をつけることが女性の人権を守るためにいかに大切かを思う。わずかな希望は、#Me Tooの影響が日本にも少し及んで日本津々浦々で起きるセクハラ被害に女性が声を上げはじめて、責任を取って地位を去る男性のニュースが連日報道される事である。

ノーベル平和賞がこの動きを日本でも加速する力になることを期待したい。(吉川春子記)

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写真・20139月、京都で自らの体験を証言するナヌムの家の「慰安婦」3人と、司会をする吉川・左端


 

 

 

 

 

2018年10月15日 (月)

ご参加ください!旧日本軍が、南京、上海で行った行為を検証します

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虐殺の死体累々となった揚子江河岸

 


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南京市の「利済巷慰安婦資料館」前の北朝鮮籍の慰安婦朴永心さんの銅像

~「東京都文京区男女平等センター祭り」参加企画~

ワークショップ

  加害の歴史を見つめる南京・上海の旅から学んだこと

日時:2018年10月27日(土)13:30~16:30

場所:文京区男女平等センターC研修室

    (文京区本郷4-8-3  ☎03-3814-6159)

【お話しする人】

旅行団長・大森典子・弁護士

同参加者・小竹 弘子・元都議会議員

       笠井 恭子・当ゼミナール運営委員

       菅間  轍・同 常任運営委員

       後藤ひろみ・事務局次長

       吉川 春子・当ゼミナール代表(まとめ)

【司会】  棚橋 昌代・同 事務局長

 

達は昨年秋、第7回フィールドワークで日本人にとって忘れてはならない加害の象徴・南京事件の現場と、「慰安所」第1号を設置した上海を訪問しました。

 

南京大虐殺の被害者の御家族や中国人「慰安婦」の調査と資料館建設に努力された方々にもお会いし、歴史の事実を記録し、伝えていくことの大切さ、民間交流の意義の大きさを学びました。

 

私達はこの歴史の事実にどう向き合い、加害国の国民として何をなすべきか、みなさんと考えたいと思います。

 

【アクセス】

 

都営バス 真砂坂上下車徒歩3

 

都営地下鉄三田線 春日駅下車徒歩7分(A2

 

都営地下鉄大江戸線 本郷3丁目駅下車徒歩5

 

東京メトロ丸の内線 本郷3丁目駅下車徒歩5

 

東京メトロ南北線 後楽園駅下車徒歩10 

 

(春日町交差点から本郷3丁目交差点までの坂道の春日通りの途中、本郷4丁目交差点にあるハンバーガー店の所を、春日から来るとは左、本郷3丁目からは右に入るとすぐ、本郷小学校前にあります)

 

みなさま、ぜひご参加ください



28回「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール

連絡先:文京区本駒込6-14-8-602吉川気付 

 

当日連絡先 090-6505-3500(吉川)、 090-4227-7478(棚橋)

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「上海・南京の旅の報告集」500円で当日販売

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上海師範大学構内の少女像の前で、旅行参加者が記念撮影



   

 

     
 

 


  

 



 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

2018年10月 5日 (金)

大原富枝著『めぐりあい』 ~日本文学が描く遊郭の女と日本人「慰安婦」~

 

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これは、戦争に負け様変わりした日本社会を生きる二人の女性の物語である。

一人は、南方の島の「慰安所」の元日本人「慰安婦」の榊光子(節子)。もう一人はマッカーサー指令で廃止された遊郭の後続性産業“青線”で働く村中菊代である。

出身地も経歴も異なる2人だが、生きる支え“希望の星”は共に明石義人である。彼は南方でアメリカ軍のB29の搭乗員を殺しBC級戦犯を裁く軍事法廷で「30年の重労働」の判決を受けて現在巣鴨プリズンに服役中である。

 

米占領軍(GHQ)が放った、女性解放の嚆矢

 

<『めぐりあい』が描く、敗戦直後の日本>

 

1946(昭和21)年太平洋戦争敗戦の翌年、マッカーサーの「娼妓開放に関する覚書」が出されて日本の“伝統”であった遊郭が廃止され「人身売買」と「自由の拘束」が許されないことになった。それ以前は、娘たちは親から金で売り飛ばされて借金は膨らみ身体の自由は拘束され、いつ返せるか当てもない生活だった。

GHQの指令で女性たちを縛って居た借金がチャラにされた。女性史における大転換である。占領軍の政策として、農地開放あるいはそれ以上に意義は大きい。

これまで貧困な少女・若い女性達を金で買って売春をさせて大儲けをしていた男たち=性産業の業者たちは娼妓たちの借金を棒引きにされて打撃をこうむったが、GHQの指令なので敗戦国の男たちは抵抗できない。こうして革命的な女性解放事業が実施された。

 

   売淫は認めたGHQ

 

米占領軍によって「人身売買」「自由の拘束」は許されないことは明確に打ち出されたが同時に、「生計の資を得る目的をもって、個人が自発的に売いん行為に従事することを禁ずるものではない」との項目もあった。貧しい娼妓たちにとっては救いだった。娼妓たちは私娼として売春が認められた。遊郭地帯は赤線(指定地帯)として認められた。

GHQ(米占領軍)が嚆矢を放った性産業からの女性の解放への道は、七十数年後の今も継続中である。なんと長い道のりであることか!(吉川の嘆き)

 

『めぐりあい』のストーリー

 

<村中菊代VS.明石義人>

 

12歳で親に身売りされ苦界を泳いできた菊代は、GHQの指令で借金が棒引きされ自由になった。しかし、本当の食糧難と本当の空腹、ひもじさは戦後にやってきた。郷里の母親からは菊代の弟の学資の仕送りを求めてきている。売春稼業から足を洗うことはできなかった。収入の手段のない菊代は私娼の街に流れてきた。「2丁目の女」(新宿の赤線地帯)に戻ることは食い止めたが、「特飲街の女」「青線の女」とならざるを得なかった。

 

1952年、血のメーデー事件が起きる。明石義人は巣鴨プリズンの“同僚”とメーデーに参加して警察官の暴行を受け頭に怪我をした。警察はメーデー参加者を指名手配し、街角だけでなく家庭まで訪問して次々逮捕するという蒼然たる中、ケガ治療の包帯を巻いて帽子で頭を隠し、追手から逃れて特飲街の菊代の店の客となる。事情を知って菊代は二人の“客”を匿い件の客は無事逃げおおせる。この出来事を契機に菊代の心には明石義人への思いが深く刻まれる。

 

対日講和条約発効で「巣鴨プリズンの囚人たちの釈放相次ぐ」とのニュースが報じられて村中菊代はいてもたってもいられず、巣鴨プリズンに明石義人の面会に訪れる。突然の訪問に明石は、青線の女性が急に会いに来たので、「私はまたいつかの時に借金でもしてきたのかなと思って」と応対し、菊代は深く傷つく。

菊代はやがて明石義人には節子という恋人がいることを知る。しかし明石への思いを自らの「青線」脱出のエネルギーに変えて、知人夫婦の援助を得て、衣料品販売の商売に打ち込みたくましく戦後の日本を歩む。菊代は戦前の遊郭から戦後「青線」(私娼)を経て、経済的に自立してゆく女性の成功例として描かれる。

 

<榊光子(節子)VS.明石義人>

 

 騙されて「慰安婦」に

戦争中、明石義人は仏印から移っていった南の島で「慰安婦」節子に出会い、心を惹かれた。

彼女は「あたし、看護婦になるつもりだったのよ、南方に従軍したら早く資格が取れるって教えてくれた人があったの。騙されたのよ。大ウソよ、もう日本に帰れない、帰らないわ」と明石に訴えた。東北の生れで、雪国の娘らしく肌は白く豊かで輝くような身体をしていた。またたく間に流行りっ子になって、将校たちの間で彼女をはり合う騒ぎであった。少尉に任官したばかりの学徒出陣の彼は、士官学校の専任少尉や中尉の向こうを張って女を争う気にはなれなかったが、節子も明石義人に強い思いを寄せていた。

明石義人は「こんな南の島くんだりまで流れてくるについては、一人一人、それぞれの事情はあったのであろう。しかし、一歩踏みちがえるとずるずると奈落へ墜ちてゆく女の生涯というものが、彼にはもどかしい気がする。騙されてこんな生活に落ちたと嘆く節子だけは元の健全さに何とか立ち返らせてやれないものか」と思う。

…しかし(戦争中のこと故)彼の命には保証がなかった。「いい加減こんな生活からは足を洗うんだ。うかうかとこんなところで日を過ごしているべきじゃないよ。絶対に秘密だが、戦況はよくないんだ。君を内地に返しておきたいんだ」と告げるが、…しかし要員引き上げの船より先に赤石義人の(ニューギニアへの)転勤命令が来た。

 

巣鴨プリズンへ舞い込む1枚の葉書

 

差出人の名前を見ておっ!と明石は思った。「お久しぶりです…私は今、病気して療養所に入っています。ここであなたの帰られたことを知って心も体もふるえながらこの葉書を書いています」。結核療養所のある町は東京西部の郊外にあって楢や橡の木が散在して武蔵野の面影が残っている。節子はタオルの寝巻の上に銘仙の羽織を着て立っていた…

「どうしてわかった?おれがあそこにいることが」「偶然なの。事務所にいる人の兄さんが巣鴨に居るんですって。話しているうちにひょいとあなたの名前が出たの…」

「いつ病気になったの」「もう長いのよ、終戦の翌年からですもの」

「手術はどうなのだろう」「それができにくいところらしいの」

「家の方はどうなっているの。お母さんはあの頃いなかったんだなあ」「九つの時死んだの。いたらあんな南方へなんか流れて行かなかったわね」

「お父さんは」「一昨年死んだの。兄がいるけど子どもが沢山いるし…全然頼ってはいないわ」「泣くなよ、おれが帰って来たんだからもうそんな不自由はさせないよ。あんな所にいてもおれも何とか稼ぐことはできるようになったんだから」。 

 

若い医者は、明石は節子の病状について

「あなたにも見えるでしょう、空洞が3つもあるんです。この患者の場合…なおすてがかりがないのです。せめて5年前に栄養状態が手術に耐えうる程度だったら、僕なら切ったと思いますがね。僕は4年前にここへ来ました。すでに手遅れでした」

明石「彼女は希望は持てないのですね」

医者「本人がこうしたいということでしてやれることがあったらしてやってください。旨いものを食わせてやって、なるべく長持ちさせてください、それだけです」

 

<節子に結婚衣装を着せる菊代

~もう一人の自分がそこにいた…>

 

 なじみの喫茶店に偶然、菊代が現れる…明石義人は節子への見舞を頼む。「実はもうあんまり長くないとはっきり言われましてね。医者が会いたい人には合わせるように、と言うのです。」

 

菊代は明石の頼みを受けて自分の営む衣料品の商売の客でもある節子の入院する療養所へ見舞った。

節子は「打ち明け話ししましょうか。昔の恋人が生きて還って来たの。南方から…ねえ、よく生きて還って来たものでしょう。私元気になったら結婚式をあげるの」「今更結婚式なんか…とあの人は言うのよ。でも私はやっぱり結婚式をあげたいの、一度でいいから…わかってくれるでしょう、あなたは女だから」最後を節子は息切れしながらいった。

「そりゃあたしは、南方くんだりまで流れて行った女ですよ。騙されて…だからといって、どうしてまともな結婚がしてはいけないのでしょう?ねえ、そうでしょう?」

 

菊代は、なんとなく胸を引くような、ぎょっとした気持ちで相手を見た。まるで菊代自身の過去を知り抜いているような節子の愬(うったえ)であった。そうか、この人は南方で、そういう女として明石義人と知り合い、愛し合ったのかと初めて菊代は納得する。

 

節子の中に、菊代は自分を見ていた。もう一人の自分がそこにいた。もしも菊代が健康に恵まれていなかったらおそらく光子と同じ道をたどったに違いない。菊代は考え実行した。

彼女は商売の先輩に花嫁衣裳の調達を頼んだ。「せめて結婚式の着物をあの人に上げたいの。…あの人、考えてみると私自身みたいなんだもの。」「あの人にしてあげるというよりももう一人の自分にしてやるのと同じきもちなのよ」。

菊代の持って行った結婚式の留めそでを見て、節子が意識が朦朧としながらも、満足して喜ぶところでこの小説は終わっている。

 

吉川のコメント

~時代の制約の中の『めぐりあい』~

 

その1

戦争を挟んで日本女性の地位は大きく変わった。女性の人権のかけらもなかった戦前の時代から、敗戦後の憲法24条はじめ女性も人間らしく生きられる仕組みがつくられた。戦争、敗戦の傷痕を引きずりながら、困難な中でも女性は希望をもって生きられる。そうしたことをひたむきに求める女性の群像をこの小説は描こうとしているのではないか。

戦前の女性の中でもさげすまれ、みじめな境遇にあった売春によってしか生きられなかった女性がたくましく、或は病気に侵されながら人間らしく生きようとする姿を描くという点からして、昭和20年8月までは書けなかった新しい時代の小説であろう。

 

その2

ここに登場する明石義人はじめ男性陣が、性産業に働く女性への差別意識を持っていないないことについては、当時の一般男性の感覚とはかけ離れていると思うが、その理由は小説からは感じとれない。

 他方男性達は当時の世相でにわかに盛り上がっていた講和条約をめぐる論争、平和運動に一定の関心を持ち、運動にも参加していた進歩的な男性であったが、慰安婦、や遊郭、青線等性産業での自分たちの遊びに後ろめたさも違和感も持たない(らしい)。

この点は、民主主義、男女平等思想が嵐のように襲った時代であっても女性への固定観念=差別意識は戦前の男性のままである。性産業に働く女性に同情を寄せながらも、そのような制度の中に位置づけられている女性について違和感を持たないかのようである。女性を対等な人間として見ているのかとの疑問がわく。小説からはそれに対する女性作家の批判的な眼は感じられない。

 

その3

『めぐりあい』は女性への視点はあってもジェンダーの視点にやや欠ける、と言ったらこの時代の作品へのないものねだりになるのかもしれない。

これは金学順がカミングアウトし日本社会で「慰安婦」への認識が一挙に広がる1990年代の10年前に書かれた小説である。そのためか、遊郭、「慰安婦」の描き方に決定的な物足りなさを感じる。また既にメキシコ、ナイロビで国連世界女性会議が開催されてジェンダー思想も一定程度日本にも影響を与えていたが作品には反映されていない。結果、この小説については“時代の限界”を感じる。

むしろ逆に1991年以降の女性への暴力、人権思想の広がり、深まりについての日本社会の進歩を認識できる。それは日本の進歩勢力に対して金学順のカミングアウトが、日本の加害責任や女性を性奴隷にすること等の女性の人権問題への取り組みを促した結果といえる。

小説の甘さを云々するよりも、この間の日本の女性の人権をめぐる運動の発展、思想の進歩を評価すべきであろうと思う。今日も運動を継続する女性達の歴史を推進するエネルギーに喝さいを送るべきであろう。(以上)

2018年9月16日 (日)

#Me Too(タッグハッシュ・ミーツ―)、埼玉東部でも

埼玉県草加(そうか)市と、加須(かぞ)市で「『慰安婦』問題の講演会が開かれた。夏の暑さにも負けぬ人々が企画し、集い、性暴力被害の歴史を次世代に受け継ぐ、ハリウッド女優から始まった、さしずめ“埼玉東部版” Me Tooが行われた。

酷暑、そして酷暑の疲れが残る時期、会場はどこも満員だった。それには企画、取り組みに対する実行委員の並々ならぬ奮闘があった。

 

私は1976年に埼玉第4区から衆議院選挙に立候補した。加須は埼玉4区の北の拠点だった。また、草加(埼玉1区)は私の政治家としてスタートを切った八潮市に隣接する。どちらの講演にも知人友人が多数かけつけて下さった。

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(写真・パネル展に見入る人々)

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(写真・草加で講演する吉川)

 

<草加の講演会>

 

パネル展「軍隊は女性を守らない~沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力」

820日(月)~26日(日)

2次大戦中無数に作られた沖縄の「慰安所」や、今日も米軍基地で多発する女性への性暴力が数十枚のパネルにまとめられている(wam「女たちの戦争と平和資料館」制作)。

江戸時代大名行列が通った有名な松並木沿いにある「草加文化会館」の、1Fフリースペースギャラリーに展示されているので誰でもふらりと立ち寄る場所。市民が食い入るようにパネルを読んでいる姿が印象的。「日本軍『慰安婦』問題早期解決を求める会」が2013年から展示会を開く。「自分たち自身の学びの深まりと来場者の真摯な感想に励まされ」今年で5年目(山内かづ子事務局長)だという。

 

DVD「蘆葦(あし)の歌」~台湾元「慰安婦」阿まの人生の調べ~上映

822日(水)草加市民会館2階和室

 

講演会「憲法から『慰安婦』問題を考える~#Me TooそしてWith Youの世界へ~ 講師・吉川春子

825日(土)1Fレセプションルーム

 

 この夏特有の、うだるような午後だったが91人が参加し会場は満員だった。しかもその中29名の方から感想文が寄せられた。日本人「慰安婦」についての感想が最も多かった。一部を以下に掲げる

 日本人「慰安婦」が名乗り出ないのが疑問だったが、その背景を考えることができた

 日本人はお金をもらい仕事としていったというような感覚でいた。今日の学習でそうでない事実、そうであっても差別につながる考え方に反省した

 「遊郭」について息子とも話してゆかなければと思う

 日本人の「慰安婦」が被害者が名乗り出ても誹謗・中傷をさせない社会をつくる

 バスケットボール選手がインドネシア女性を「買春」したニュースは、日本軍性奴隷制度の問題と地続きではないか

 女性は戦争で被害を受ける側なのに女性の投票率が減っていることが大変心配

 ソ連兵に日本女性が性の奉仕を強制させられた番組を見たが戦争と性犯罪は切り離せない。今日の会場に男性の参加が多くて嬉しかった

 2001年の野党3党法案に日本人「慰安婦」を含めることに何故、民主、社民が反対したのか疑問

 「慰安婦」問題を人権問題として勉強したが、憲法とのつながりは初めての学習でよくわかった

いろいろな感想が寄せられ私もとても勇気づけられた講演会であった

 

<加須の講演会>

 

2018年9月8日(土)、2018「連帯のつどいin加須(かぞ)」は、埼玉県加須市の「市民プラザかぞ」でおこなわれた。参加人数は170名。近年、当ゼミナールの企画する講演会としてはかなりの参加者の多さであった。

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(写真上・会場全景、写真下・慰安婦の肖像に見守られ講演する吉川)

 

    素晴らしい会場、実行委員の活躍

 

北千住駅から東武線で約60分、加須駅で降りると駅前には今日の講演会のビラをプラカードに張り付け案内の人が立っていた。十数メートル歩くと、もう一人案内の人がいて、参加者が全く道に迷わない配慮がされていた。

 

私が会場「市民プラザかぞ」3Fでエレベーターを降りると多目的ホール、入口には9人ほどの受付の人がズラリと並びまた、少し離れた書籍売り場には3人が配置されていてお客様を迎える体制が充実していて度肝を抜かれた。

 

講演会場は階段式で、前面は広い舞台と大きなスクリーンでパワーポイントの文字も大写しになる。スクリーンが天井より降りてきて、しかも下が床面より1メートル以上高いので、後ろの席の人にも良く読める。

 

美しい朝鮮民族踊りから連想すること

 

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オープニングは広い舞台を縦横に使って朝鮮女性同盟会員による「舞」が披露された。私に聞き覚えのある曲「トラジ」等にのって美しいチマ・チョゴリの裾を翻して、笑顔を振りまきところせましと踊る。AALAの新年会ではいつも見ているが、この日は会場が広く豪華なので一層踊りが映えた。

 彼女たちが「慰安婦」にさせられたのね…と誰かがつぶやいた。あの当時若い朝鮮半島の女性達が挺身隊の名で「慰安婦」に連れ去られた忌まわしい歴史と、目の前で踊る女性達が二重写しになる・・・

 

   「慰安婦」達に見つめられて

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(写真上・広々した会場、写真下・吉川背後の「看板」は柴田広子さんの書)

 

 舞台の横には、埼玉の元教師が書いた「慰安婦」の肖像画が数十枚壁面いっぱいに張り出されていた。いつも来日すると、あるいは韓国でお会いすると近寄ってきてハグをするイヨンスさん、2000年国際女性戦犯法廷で証言中にPTSDの症状が出て、卒倒した・万愛花さん、インドネシアで親しくお目にかかった・マルディエムさん、後藤ひろみさんが紙芝居に仕立てた・コウコウレンさん…説明すれば私の頭に次々に浮かんでくる彼女たちの過酷な人生…彼女たちに見守られて私は講演をした。

 

   共催という形

 

この集いは、埼玉県アジア、アフリカ、ラテンアメリカ連帯委員会(埼玉AALA)と、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの共催である。

実行委員会は3回持たれ、私自身も3回目は出席した。リストアップしたチケット販売協力者30名超、また約20の民主団体への集会後案内等の協力要請で参加状況を予めつかんだ。参加者は170名で、内容的にも大成功だった。


その背景にはAALAの組織と、30年近く「慰安婦」問題に取り組んできた実績~金学順さんを韓国から呼んで証言を聞く会を持ち、「ナヌムの家」という初期の映画会開催、毎年1万人前後の署名を国会に届け続けたその他、その他…すべての事がこの集会に結集されているのだ。


「慰安婦」問題は終わってはいない。終らせてはならない。私はこの集会から改めて勇気をもらった。(吉川春子記)

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(写真提供―草加は山内和子さん、加須は佐藤龍雄さん)

 

 

2018年9月 2日 (日)

『ゲッペルスと私』そして、『ヒトラーを欺いた黄色い星』

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(映画・『ゲッベルスと私』のプログラム) 

 

この夏私は、『ゲッべルスと私』(2016年・オーストリア映画)と『ヒトラーを欺いた黄色い星』(2017年ドイツ)の2本のドキュメンタリー映画を相次いでみた。

 

ポーランドがドイツに6兆円の賠償請求か

 

201891日付の朝日によると、ドイツに対して、ナチス占領の損害「6兆円」の賠償請求をポーランド議会が検討しているという。1939年~45年、ユダヤ人を含む510万人のポーランド国民が殺され、ワルシャワを中心に都市のインフラ破壊での損害が発生したという。ポーランドは1953年に賠償請求を放棄し現ドイツ政府は賠償問題は「決着済み」との立場だが、ポーランド現政権は「賠償放棄は冷戦時代にソ連に強要されたもので国際法的には無効」と主張している。

ひるがえって、「慰安婦」問題に対して日韓請求権協定で決着済みとする日本政府と、「慰安婦」個人に対する請求権はあるという韓国の被害者、政府の主張とダブる。過去の戦争は未来に向かって影を落とし続けるのだ。

日本と違い、ナチスの犯罪行為と向き合い戦後政治からナチスを一掃して隣国との友好関係を築きEU結成の指導的役割を果たしたドイツが、ポーランドの請求にどうこたえるのか注目したい。

 

     映画『ゲッベルスと私』

 

「ゲッベルスと私」はナチ宣伝相ゲッベルスの女性秘書だったブルン・ポムゼルの独白をカメラが追う。ヨーゼフ・ゲッベルスという人物は、国民社会主義ドイツ労働党(ナチス)の国民啓蒙・担当大臣としてプロパガンダを管轄し、大衆をナチス支持へと扇動した。

彼はユダヤ人にとっては身の毛もよだつ恐怖の人物だった。1943619日、ゲッべルスはドイツの首府ベルリンからユダヤ人を一掃したと発表した。ユダヤ人とわかると逮捕して強制労働所や絶滅収容所に送られ虐殺された結果である。195451日、第2次世界大戦終結間際、ヒトラーの自殺を追って相当地下壕で家族とともに自殺する(映画『ゲッべルスと私』、プログラム)

 

    ナチス党員だったが、自分は何も知らなかった

 

タイプライターが得意な彼女、ブルン・ポムゼルは、ナチ党員のユダヤ人の事務所で働き、ナチスが政権をとった後、勧められて10ライヒスマルクを投じてナチスに入党する。いつの間にかとか、知らないうちに協力したのではなく、自分の意思で積極的にナチスに協力した。彼女はこの映画公開の翌年2017127日に106歳で生涯を終えるが、撮影は今からわずか数年前の2013年に2回に分けて行われたのだという。101才にしては驚くべき迫力で自分の体験を語っている。

 

ポムゼルは31歳の時地元の放送局で秘書として高給で働くようになり、さらに1942年知人の紹介でナチ党の宣伝省に入る。ここではさらに高級をもって遇される。多くの国民が経済的にも困難な時代彼女の生活はかなり豊かで、仕事はナチスの犯罪行為に協力していた、のだ。忠誠心をもって上司に信頼されることに誇りをもって仕事をした。

 

そのゲッべルスについて「彼は見た目のいい人だった。やたらと洗練されていたわ」「最高級の布地で作った上等の服を着肌は少し日に焼けていて爪もとてもよく手入れされていたわ」と目を閉じて恋人を回想するように語る。

 

衝撃的なのは、ナチスの犯罪についての彼女の発言だ。「ゲッペルス宣伝相の身近にいて彼女はいろんな情報に接していたに違いない」と私でなくとも思うだろう。しかし彼女は「自分は何も知らなかった、「強制収容所は、政府に逆らった人や喧嘩をした人が矯正のためにはいる施設だと思っていた」「情報が制限されていた状態の人々は強制収容所の実態を知る由もなかった“みんな私たちは知っていたと思っている“」と。そうだろう、私もポムゼルが何も知らなかったなんて信じないし言わせない、という思いだ。

また、ポムゼルは「頻繁に、”もし自分があの時代に居たら、虐殺されていたユダヤ人を助けられたはずだ、”と言われるという。しかし彼らも私達と同じことをしていたと思う”という。

彼女は自己弁護に終始という印象である。アンナハーレントの言う“凡庸の悪”の1つか?

 

   良心を麻痺させ、目を背け…ドイツ大統領の演説

 

ワイツゼッカー大統領は1985年国会で演説した。

「目を閉ざさず、耳をふさがずにいた人々、調べる気のある人々なら(ユダヤ人を強制的に)移動する列車に気付かないはずはありませんでした。…犯罪そのものに加え、あまりにも多くの人たちが実際に起こった事を知らないでおこうと努めていたのが現実であります」「「良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし目を背け沈黙するには多くの形があります」「戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります」と。

私はこの老婦人の自己弁護を聞いてこの言葉を思い出した。   

 

彼女のアップにされた顔も首筋も深いしわに刻まれていて、この映画を見た友人は「あの皺だけで嫌悪感を持ち、映画を見たことを後悔した」と語った。

私の父は105歳で一昨年亡くなったが、人種の違いはあるとしても肌はずっときれいでしわは深くも多くもなかった。ほぼ同じ時代を100歳を超えて生きた2人だが、彼女の顔には生涯に体験した苦しみが刻まれているように思えてならない。

 

         『ヒトラーを欺いた黄色い星

~「善き人」に匿われ地獄を生き抜いた人の記録~

Photo_2(映画・ 『ヒトラーを欺いた黄色い星』プログラム 

19432月、強制労働のためにベルリンに残されたユダヤ人が逮捕されユダヤ人がいなくなったとゲッペルスが宣言する。しかし実際には約7000人のユダヤ人が潜伏し、最終的には1500人が戦争と迫害を生き延びた。これはそのうち4人の物語である」(「『ヒトラーを欺いた黄色い星』プログラムより」)

ナチスのユダヤ人迫害を見て見ぬふりをしなかったベルリン市民が大勢いた。映画は、彼らをかくまえば自分の命が危ないことを承知しながら、いろんな方法でユダヤ人をかくまった「善き人」の記録でもある。

 

〇 ツイオマ・シェーンハウス~20歳で潜伏開始。親切な家主の女性に巡り合う。あまりにもだらしない性格で命の危機にも直面するが、手先の器用さを生かしユダヤ人向けの偽造身分証を大量に作成し多くのユダヤ人の命を救う。

 

〇 ルート・アルント~医師だった彼女の父親を娘の命の恩人と慕うクリスチャンの婦人に匿われ、その後はドイツ国防軍の大佐の邸宅のメイドに雇われる。ナチスの高官を集めて毎晩宴会を繰り返す大佐だが、彼女をユダヤ人と気づきながら掃除やメイドの仕事を与え匿う

 

〇 オイゲン・フリーデ~家族の中で一人黄色い星のバッジ(ユダヤ人識別用)を付けさせられる。共産主義者の家族に受け入れられ娘と淡い恋をする。ある時、収容所から脱走してきた男から「ユダヤ人を全員ガスで殺す」実態を告げられ、反ナチビラ作成の手助けをするようになる

 

〇ハンニ・レヴィ~両親を亡くし孤児で知人のユダヤ人と同居していたが一人収容所行きを免れる。美容院で髪を金髪に染め別人となる。出征真近の映画館主の息子に好意を持たれ母の話し相手を頼まれる。その母親に「自分はユダヤ人で逃げ場がない」ことを打ち明けると匿ってくれ本当の親子のような絆をはぐくむが…。

 

 この映画は、ナチスの蛮行を目や耳を塞ぎ、見て見ぬふりをしなかったドイツ人(「善き人」)も多数いたという記録である。(吉川春子)

 

2018年7月31日 (火)

オウム事件死刑囚全員の刑の執行と死刑制度

   7月6日、上川法相の命令でオウム事件死刑確定者13名中7名が、そして7月26日6名の死刑が執行された。心神喪失の状態にあるのではないかと疑われる者(死刑が何たるかを理解できない精神状態とでもいうべきか?)、再審請求中の者も例外なく処刑された。死刑廃止の方向に向かっている国際社会からは、当然、驚きと強い批判の声が上がった。

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(写真・ー春日部の家のゴーヤの棚と実ったゴーヤ)3


 死刑廃止議連」

 

私は参議院議員在職中「死刑廃止議員連盟(死刑廃止議連)」に所属して活動していた。日本は死刑賛成の世論が強く、この議連は選挙の票を考えるとプラスになりにくいので、加入者はそんなに多くはなかったように思う。しかし、自民、公明、社会、共産党等全会派が参加し、死刑が廃止できないとしても執行停止は可能か…などの制度論も議論した。世界の潮流も死刑廃止、或は死刑制度は残しつつも執行停止に多くの国が傾き始めていた時期である。

 

 議連の会長が亀井静香議員だった時、私は「先生は何故、死刑廃止議連なのですか」と質問したことがある。それ以前亀井議員は建設大臣だった(現在は国土交通省)。建設問題で私は何度か亀井大臣に質問をぶつけたが、強面の答弁で辟易していた。なので死刑廃止という究極の価値観、人生観が私と同じとは不思議だった。

先生は「自分は警察畑を歩いてきたが、必ず犯人の誤認逮捕は生じる。その結果、誤って死刑判決が出れば取り返しがつかないから、死刑廃止論なのだ」との事であった。亀井議員の死刑廃止は筋金入りで、著書『死刑廃止論―死刑廃止は世界の流れ 死刑は何故廃止すべきか、国民的議論を呼びかける』(20027月花伝社)もいただいた。国会答弁の強面だけで人は評価できない。

 

ある時秘書から「吉川さんはオウムの麻原彰晃も死刑にすべきではないと考えるのですか?」と質問された。私は「麻原は死刑でいいけれど他の人の死刑はダメ、なんていう死刑廃止論はないわよ」と答えたが、オウム事件は、死刑制度存続の世論をさらに掻き立てるだろうとその時も思った。

これが契機かは判断できない。しかし日本は死刑制度の廃止に進む世界の逆をゆき、例えば少年にも死刑を適用すべしとか死刑肯定の世論が強まっていると危機感を持つ。


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(写真・春日部の家の庭を行く、セミの成虫) 

団藤先生の死刑廃止論の根拠

 

  ある時(1985年~90年代頃)死刑廃止議連で、高名な刑法学者・元東大教授

の団藤重光(だんどう・しげみつ)先生を講師として招き講演会を行った。先生の刑法理論を勉強した議員、官僚は多い。私も団藤先生の「刑法綱要」を繰り返し読んだ組だ。何をさておいても講演に駆けつけたが会議室はすでにいっぱいだった。 

 

先生は死刑廃止論を明確に述べられ、理由として裁判では誤審が絶対に防げない事を挙げられた。「後で真犯人が別にいた事が分かっても、処刑してしまえば取り返しがつかないのだ。(遺族への刑事補償が何の救済になろう)」。私はこの日の講演を深く心に刻んだ。

 

「思うに、残虐な殺人の現行犯を目撃した直後の者は、恐らく死刑を否定する気持ちにはならないであろうし、死刑の確定後既に完全に改悛して執行台に上がる前に祈りを捧げている犯人に接する者は、恐らく死刑を肯定する気持ちにならないであろう。…刑罰の裏付けとなっている事態には、変化がありうる。刑罰は根本的に動的な性格を持つものである。このような動的な性格に最も適切なのは自由形であり、最も不適切なのは死刑だと言わなければならない。かようにしてくわたしは、根本的に、死刑廃止論に傾かざるを得ない」(団藤重光著『刑法綱要総論』昭和37年・創文社第13刷発行)

 

  ドストエフスキー『白痴』

 

私・吉川は20歳代前半の時に、ドストエフスキーの『白痴』を読んで強い影響を受けて死刑反対になった。これは文庫本何冊かに及ぶ長編でストーリーはわかりにくい小説であったが、死刑囚の感じる死への恐怖が生々しく私の心に残っている。団藤先生は『白痴』にも触れている。私を死刑廃止論者にしたのは団藤先生の影響だったのかもしれない。

団藤先生は言う。「…死刑廃止論には人道的見地と刑事政策的見地がある。…前者(人道的な見地)には人間が人間を裁いてその生命を奪う権利を有するか、人間に生命を与える事の出来ない国家がいったいこれを奪うことを許されるのか、死刑は反文化的なものではないか、といった議論が追加される。

死刑への直面を身を持って体験したドストエフスキーが『白痴』で示している見解は、人道的見地からする死刑反対論に最大の文学的表現を与えたものといってよい、云々」

 

  マスメディアと死刑報道

 

オウムの13人の死刑執行について処刑の時期は天皇の代替わり前にとか、総裁選日程を考慮に、処刑の日程を決るなど論外で、絶対にあってはならない。

 

各紙ともオウム死刑囚の刑執行については大きな活字で、かなりの紙面を割いて報道はしている。処刑人数の多さの異常性、なぜこの時期の執行か?オウム事件はなぜ起きたか?について教訓が残されていない事への批判も共通している。

しかし国民世論の影響か、オウムについて死刑は当然、という雰囲気が各紙から漂い、死刑制度そのものについての深い言及はない。メディアと国民は相互に影響を与え合う。凶悪犯罪について死刑判決が出されないと遺族の「これでは故人が浮かばれない」という怒りのコメントをマスメディアはことさらに報道する傾向にある。現代の日本にも「目には目、歯には歯」は生きているのか。

その点でいうと、729日(日曜日)のTBS「サンデーモーニング」において死刑廃止について世界の潮流と日本の差について青木理氏が詳しくコメントしていたことは救われた。


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写真・長野県立科町蟹窪の農家の庭のオレンジの花。ムラサキツユクサ

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 朝日歌壇から(2018年7月29日)

 

 大きな事件があると必ず朝日歌壇にも反映され、時には本質を突き、或は感動的な歌が何首か投稿される。今回のオウム事件について死刑執行に関し3首が載っていた。内容が、肯定はしないが軽微な批判に留まるのは、て日本国民の間に「死刑制度」に関し必ずしも深刻な議論がされていない事の反映であろうか。

 

〇国中に大雨降る日選ぶごとオウム7名刑執行される(千葉市 鈴木 一成)

〇五輪前平成の中にの声あり人を死なすはタイミングらし(朝霞市 青垣 進)

以上、永田和宏・選

〇担任が卒業名簿をよむやうに法相は処刑されし名を告ぐ(春日井市 新海宏之)               以上、高野公彦・選

 

 死刑執行に抗議する集会―上川陽子法務大臣の13人の死刑執行を糾弾する

 

2018727日、東京都文京区民センターで処刑に対し抗議集会が開かれた。集会に参加した方から頂いた資料を見て感動し、心強く思った。6人の死刑執行のすぐ翌日、このような集会を即開く、関係者の機敏な取り組みは、死刑という野蛮な制度をいつの日か日本から追放するエネルギーとなると確信する。

 

「私たちはオウム関係者が引き起こした事件に強く反対するのと同じく、今回の一連の死刑執行についても強く反対します。私達は広く社会に向けて改めてこの様な殺戮の繰り返しや命を奪うことによっては何一つ問題は解決はしないこと、そして終身刑の導入など死刑を執行しなくともよい施策を真剣に検討することを呼びかけます」(同集会「抗議声明」部分)

2018年7月26日 (木)

安倍三選を許すな!

 この秋、自民党総裁選がある。安倍氏は三選に向けて意欲満々である。しかし、これほどひどい総理大臣が過去にいただろうか?私は第2次中曽根内閣の時に参議院議員となり、第1次安倍内閣まで24年間参議院議員を務めた。

その間総理大臣は13人変わった。①中曽根康弘、②竹下登、➂宇野宗佑、④海部俊樹、➄宮澤喜一、⑥細川護熙、⑦羽田孜、⑧村山富市、⑨橋本龍太郎、⑩小渕恵三、⑪森喜朗、⑫小泉純一郎、⑬安倍晋三、である。

野党共産党の立場で、一人の総理大臣に各々数回の質問をしているので、人柄や政治家としての力量、或は学力まで質問のやり取りを通じてたちどころに!わかる。もちろん相手も、吉川春子とは如何なる議員かを掴むだろう。国会質問はそうした意味で怖い。

 

私が安倍総理(在職2006926日~2007926日)に最後に質問したのは2007326日の参議院予算委員会総括質問。テーマは、「慰安婦」問題である。参議院予算員会での議員の持ち時間は、相手の答弁時間を含まないので、当弁者は自己主張を長々と展開できる。

しかしこの時は安倍総理は何を質問しても「吉川議員の言うことは、河野官房長官談話に記してある」「私は河野談話を継承している」と小さな声で答弁してすぐ席に座ってしまい、持論を全く展開しなかった。

右翼議員のリーダーとして教科書から「慰安婦」問題の記述を削除させ、2000年国際戦犯女性法廷のNHKのドキュメント番組を、官房副長官として干渉してつくりかえさせた迫力は、この時は全くなかった。総理になりたてで緊張していたのか(まさか!)。そして、この後半年後に安倍氏は総理を辞任している。

 

“ありえない!安倍三選”

 

2007年当時の安倍総理のおどおどとした態度は、今日の国会中継で見る彼のふてぶてしさとは隔世の観がある。

『週刊金曜日』(2018720日号)の特集“ありえない!安倍三選”、安倍晋三首相のデタラメ答弁 4つのパターンに見る前代未聞の悪質さ」によると、

ケース1 明らかなウソを平気でつく、

ケース2 質問と無関係な内容で質問者を攻撃する

ケース3 すぐにキレて質問者にヤジを飛ばす

ケース4 まったく意味不明の答弁をダラダラ続ける

 

質問と答弁は議事録に依っているので内容は正確である。

私だけではないと思うが、総理への質問は当然、一番神経を使うし、準備に時間をかける。たとえ30分間の質問でも1月以上前から、準備する。それに対してこんな不真面目な態度で臨まれることは許されない。こんなやり取りが今の国会で延々と続いてきたのだから、国権の最高機関は劣化し深刻な事態である。

 

    安倍総理の「お出かけ好き」…実は追及を免れる旅?

 

安倍総理は税金の浪費家である。安倍総理の外遊は131月から186月までの約5年半で計65回。ほぼ月1回ベースの外遊だ。第2次安倍内閣安倍内閣発足から16年5月まで40回分の外遊費総額は約87億7400万円、1回平均2億2千万円。ちなみに一番費用のかかるのは政府専用機で1回とばすのに1億円かかるとされる。65回の外遊をしているので現在までの総額は140億円超とされる。

…しかも安倍はこれまで疑惑や問題が発覚するたびに追及を逃れるように外遊を繰り返してきた。(野党からの証人喚問要求拒否している妻と手をつないでタラップを上る映像が何度テレビの映像に映し出されたことか)。

こんども西日本豪雨の最中、少なくとも7月7日までは66回目の外遊に行く気満々だったのだ。(同誌P15)

 

醜悪な「赤坂自民亭」

 

息をのむような大災害になった西日本豪雨。気象庁からはすでに豪雨の予想が出されていた7月5日夜、衆議院宿舎で自民党議員・大臣らの飲み会が開かれた。しかも本来ならこの間の悪い時の世間の目をはばかるべき出来事は、片山さつき議員と、官房副長官のツイッターへの投稿で明るみに出た。要するに本人たちは悪い事をしているとは思っていないのだ。

上から下まで、自民党は末期症状ではないか。「自民党議員は安倍官邸の顔色をうかがうばかりで、忖度とゴマすりが横行し、西日本豪雨など構っておられないという空気が蔓延している」(『週刊金曜日』)

 

<出席メンバー>

安倍晋三 総理

岸田文雄 政調会長

竹下亘 総務会長

小野寺五典・防衛相(自衛隊災害出動最高責任者)

吉野正芳・災害復興担当相

上川陽子・法務大臣~翌日オウム真理教関係者7人の死刑執行の署名済み

 

  死刑執行を翌日に 法務大臣が酒盛りに参加する これは人間ではない

 

豪雨の予報が出されていた夜、自民党議員が、総裁選と次の選挙の自分の当選を睨み、また、安倍総理との近さをアピールしたい議員らと酒盛り。総裁三選の手ごたえがあったのか安倍総理までもが、「和気あいあいでよかった」等とのんきなコメントを発した。

災害出動の責任者の防衛大臣、災害復興担当大臣、最大の犠牲者を出した広島が地元の岸田政調会長などが出席。

私が特に注目したのは翌日オウム真理教の死刑囚の死刑執行を前にしている、上川法務大臣の参加である。赤坂自民亭「女将」等とはしゃいでいる心境にどうしてなれるのか。この人、人間だろうか?

自らのサインで数人の命が国家権力によって奪われる。囚人・本人たちの苦悩を思ったら、署名は法務大臣の任務、とはいえ普通の心情ではいられないはずだ。かつては自民党の法務大臣(複数)も九〇年代、死刑執行許可の署名をしない(従って死刑執行はない)時期もあった。死刑制度の賛否はともかくとしても、自分の署名行為で人の命を奪うということについて、呵責・苦しみはないのか。宴会などに出ていられる心境に何故なれるのか。

 

国民は何故、こんな内閣と自民党を支持するのか

 

(私が参議院議員をしていた)1990年代~2000年一桁の時代と比べて、働く人にとって日本社会は確実に生きにくくなっている。

子どもを産みたいと思っても、産み育てにくい社会になっている。例えば、保育園も国の補助金が9割あったが1985年から徐々にカットされ今は、地方自治体に財政支出を押し付け、加えて保育園に子どもの遊ぶ園庭がなくとも保育所設置を認める等、保育園の質もどんどん落ちている。保育士も派遣、パート、アルバイトがふえ、正規職員でさえ賃金も低いままだ。企業が保育に参入し利潤を上げる保育所も出ている。

働く人々についても90年代初め迄は正規労働者が原則だったが、今や非正規労働者が男性でも5割近くかつ低賃金、身分不安定でいつ首(解雇)になるかわからない。

わずかに最低賃金は、私の時代は年に1円上げることも困難だったが、今は、今年度も56円引き上げられるように改善された。当事者や労働組合の頑張りの結果である。

他方金持ちはますます肥え太り、国民の間に格差が拡大していのに、安倍内閣の支持が4割もあるということが不思議でならない。

 

「小選挙区制と政党助成金で公認権と人事権を一手に握り党内の自由闊達な議論を許さない」ことが安倍1強の原因(『週刊金曜日』P24)であることは確かだが、こんなに安倍晋三氏のマイナス情報がテレビ、ネット、新聞、雑誌に溢れて国民も知っているのに、なお権力が揺るがないとすれば、選挙制度だけの問題ではないと思う。


しかし、日本の中に自民党・安倍内閣の横暴と闘う地道な努力をしている人々と、組織が少なからずある。私も諦めず、己の成すことを成す。

 

過日トランプ大統領が訪英した時、ロンドンは反トランプ・デモが活発に行われ、ロンドン市長も規制しなかったと報じられた。トランプ氏が来日したとして、国民の間から同じような大掛かりな反トランプ・デモが起きるか。起きたとして都知事はそれを黙認するか。

ローマは一日にして成らず。日本の民主主義は未だ日が浅いのかもしれない。

(吉川春子)

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(写真・春日部自宅のカサブランカ~同名の映画に思いをはせる)

2018年7月15日 (日)

参加者募集中!「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール・フィールドワーク

~日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶ~

群馬戦争遺跡巡りと草津温泉への旅

旅行実施:20181028日(日)~29()  集合は東京駅

申し込み締め切り:8月末   費用:37,000

群馬県高崎市は1872年に地方の陸軍拠点になって以来、高崎連隊は日清、日露、シベリア出兵に出動し、1937年の南京事件の際には、高崎115連隊は上海制圧後南京城に突入し「南京一番乗り」をしています。また、「零戦」などを製造する中島飛行機製作所と、軍用飛行場があり、終戦直前の85日前橋、14日伊勢崎、高崎に空襲を受けました。

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(JR・草津駅)

<主な見学先>

【国立療養所「栗生楽泉園」・重監房資料館】草津町 

「重監房」とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいました。 しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていました。

[重監房のあらまし]
  ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で通称「重監房」と言われています。
 重監房は昭和13(1938)に建てられ、昭和22(1947)まで使われていました。この、およそ9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が入室と称して収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。60年以上を経た現在、この建物は基礎部分を残すのみとなっています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていました。

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(重監房跡・樂泉園内、瀬古由紀子さんと吉川春子)


[重監房資料館の目的]
  重監房(特別病室)の収監に関しては、その運用や手続きなど未だに不明な点が多くあります。重監房資料館は、こうした重監房とハンセン病問題に関する資料の収集・保存と調査・研究の成果を発表することにより、人の命の大切さを学び、広くハンセン病問題への理解を促すことで、ハンセン病をめぐる差別と偏見の解消を目指す活動をしています。(重監房資料館・ホームページ)

 ハンセン病違憲国賠訴訟原告団前会長の谺(こだま)雄二さんは「人権の故郷として残せ」と施設の保存を訴えました。日本はハンセン病患者を「国辱」として明治以来隔離政策をとり、1932年国立栗生楽泉園を開設しました。患者の結婚条件として「断種・堕胎」、独房の「重監房」の設置など、差別、人権侵害の事実を見つめます。

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(写真・谺さんを草津の病院に見舞う。この時は元気に回復した)

 

「中国人殉難者慰霊の碑」水上町・如意寺 名胡桃楽園 鳥越山

 

第二次大戦末期、日本政府は国内の労働力不足を補うため、38,935人の中国人を強制連行し過酷な労働を強いた結果、6,830人の尊い命が失われました。 月夜野の岩本発電所水路掘削工事では、中国人43名の方が亡くなり、当時の住職が故郷から遠く離れて死んだ中国人を哀れみ、 「死ねば中国人も日本人もない」と戒名をつけて手厚く葬りました。
1970年、建設委員会により当寺に「中国人殉難者慰霊の碑」が建てられました。 中国人の遺骨を安置した本尊をまつった須弥壇の裏側には、記録として墨書された板が現在も残っています。

 

{朝鮮人労働者慰霊碑}群馬県立公園「群馬の森」高崎市

碑は、戦時中に朝鮮半島から徴用され、重労働などで命を落とした韓国・朝鮮人を追悼するためのもので、碑には「記憶 反省 そして友好」と刻まれている。

毎年碑の前で追悼集会が行われていたが、碑の建立から10年後の20144月。同年1月末に、碑の設置許可の更新期限を迎えるにあたり、碑の設置・管理団体が県に申請した更新許可が保留になっている。2014425日の朝日新聞では、「許可更新、県が保留」「『政治的利用』批判受け」という見出しで、2012年の集会以降、県に碑の撤去を求める意見が寄せられていること、許可更新の申請を受けて、県が団体に集会の内容について見解を問うたことなどを報じている。

碑の存続のために団体が県へ提出した回答書や代替案が取り上げられることなく不許可が決まる。不許可決定の撤回を求める裁判で、地裁では原告が勝訴したが、県側が控訴して高裁で係争中。

宿泊は、草津温泉ホテル櫻井  

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(写真・草津湯畑の前で、瀬古由紀子さんと)

草津といえばすべての病(恋の病を除き)に効く超有名な日本有数の温泉です。5★ 3つの源泉かけ流し、30の大浴場ある最高級のホテル宿泊です。(以上・吉川春子記

<全行程、内藤真治さん「群馬県高校教育研究所」前所長)の知識豊富な解説つきです。歴史を学び、草津温泉でゆったりする旅に会員以外も参加大歓迎、お誘い合わせてご参加ください>

     【郵便申込先】 東京都文京区本駒込6-24-8-602 吉川春子気付

           「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール         

     【Fax】 03-3936-1743 (棚橋昌代) 

     【電話問い合わせ】090-4227-7478(棚橋昌代)  

   (代金振込)郵貯銀行 0270-5-140303 

    加入者・「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール(群馬旅行代金と明記)   

«元「慰安婦」達の正義を求める運動を、歴史遺産として継承しよう