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2017年10月19日 (木)

ワークショップ・.日本人「慰安婦」を知っていますか

回東京都文京区「男女平等センター祭り」参加・

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 テーマ

日本人「慰安婦」問題を考える ~各地の調査から見えてきた事~

   あなたは日本人「慰安婦」について聞いたことがありますか?

 なぜ、大勢いた日本人「慰安婦」を私たちはよく知らないのでしょうか?

 ご一緒に考えませんか。私達は去年と今年、旧ビルマの「慰安所」にいた

  日本人女性の本籍地と、各地の元遊郭を調査しました。その結果見えてき

  た事とは…

  日 時:2017年10月28日(土)13時半~16時半

   場 所: 文京区男女平等センター 研修室C

  (地下鉄・丸ノ内線・本郷3丁目、都営三田線・春日下車、各5分)

 コーディネーター 吉川春子・

   「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミ

                  ナール代表 

          報 告 棚橋昌代・同事務局長

    具島順子・同運営委員

    藤園淑子・同運営委員

 

 {その他の企画・同じ会場で}

 

★「慰安婦」問題に関するパネル展示9時半~4時半

 

★ DVD『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』審議

9時半~13時半(2002年7月参議院内閣委員会)

 入場無料

 

   「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール

東京都文京区本駒込6~14~8~602吉川気付

電話&FAX 03~5976~5188

RAAと「奈良R・Rセンター」

    朝鮮戦争の時も、米兵のために日本女性の性がささげられた!

 

よく知られているように、敗戦直後に政府は民間組織・RAA(Recreation Amusement Association)を設置して「米進駐軍の強姦・性暴力を防ぐため」55千人~7万人の女性を集め全国に「慰安所」作った。

しかし、朝鮮戦争の時にも地方自治体で同じようなことをやっていた事を私は知らなかった。102日に奈良に行って湯沢さんから其のことを聞いてびっくりした。

 

奈良県は占領軍受け入れに伴い占領軍用慰安施設の設置に積極的に取り組んだ。1945(昭和20)年に奈良市登大路「新温泉ホテル」・「あやめ池温泉」にキャバレーが設けられ、大阪からダンサーが集められたらしい。天理市丹波市町にも酒場万年楼が開業された(『奈良県警察史昭和編』)。

1946(昭和21)年、GHQによる公娼制度の廃止の指令を受け、31日奈良県は貸座敷業を廃止した。ここまではほかの都道府県と同じ対応である。

 

しかし、その数年後、朝鮮戦争勃発とともに日本の米軍基地はアメリカの恰好な前線基地となった。そして米兵に日本女性の性が再びあてがわれたのである。女性を性的な側面しか見ない政府の体質は、「慰安所」制度を創設したアジア太平洋戦争の時代と変わっていない。政府の女性の人権に関する認識が、敗戦を経て、日本国憲法が制定されても変わっていない事は許しがたい大問題である。

 

「奈良R・Rセンター」は、朝鮮戦争で戦う兵士の元気回復施設

 

RRセンター」とは1952(昭和27)年、51日、朝鮮戦争に際して国連軍(米軍)兵士のための「休養と元気回復」の施設である「RRセンター」Rest and Recuperation Centerが、大阪市内から奈良市横領町(平城宮跡正面)のセキスイ工場に移転してきた。

1月後には近辺にカフェーバー34戸、ギフトショップ12戸、飲食店7戸、キャバレー4戸、ストリップショウ3戸などが立ち並んだ。売春婦は3千人いたと言われ、周辺の風紀の乱れは著しかった。

 

「このセンターは朝鮮戦争から5日間だけ帰休する兵士の休息・元気回復を目的とした宿泊施設で、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって195251日に奈良県旧横領町に設置された。

「R・Rセンター」自体は性的慰安施設ではなかったが、設置されるや否や周辺にはカフェ―、キャバレー、バー、土産物店、洋品店などの店舗ができ、まるで西部劇映画に出てくるような独特の景観が出現し、夜も眠らない不夜城のようだったという」

「帰休兵を相手に仕事をしよう」と歓楽街に全国から1000人とも2,000人ともいわれる女性が集まって来た。女性達と米兵を仲介するポン引きも集まり、平城宮跡の南に位置した「R・Rセンター」一帯は性売買の基地と化していった。

 

     週1回の性病検査、合格者に安全バッジ

 

1951年には奈良市に「売春取締条例」を制定。休暇を終え再び戦地に向かう兵士に性病が蔓延するのを防ぐために、県予防課では歓楽街の業者が中心になって「奈良駐留サービス協会」を設置させ、接客婦300人に会員になってもらい、米兵相手の女性を協会に登録させ、週1回の性病検診をうけさせた。性病に罹患していないことが証明されれば、バッチを与えこれを身につけることで「安全な女性」と米兵に知らせるシステムだった。…しかし隠れた多くの売春婦もおり、性病の状況は暗闇の中のように図りたいものがあった」(江夏香菜「R・Rセンターと古都の退廃」奈良県女性100年史㊻他)

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写真「R・Rセンター」傍の小学校、教師は毎朝コンドームを水路から拾う仕事…

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写真・小学校の道路の向かい側に建つ都跡村役場の碑

 

R・Rセンター傍の小学校教師は、毎朝・・・

 

 私は湯沢ご夫妻の案内で「R・Rセンター」のあった付近、旧・都跡村へ行った。都跡村跡には真新しい碑が建っていて(写真)、道路を隔てた向かい側は都跡小学校がある(写真)。

湯沢さんの話によると、当時教師は朝早く学校に来て、水路に投げ捨てられている沢山のコンドームを拾い、子どもの目に触れないようにすることが日課であったという。

 売春婦を間借りさせている家の3年生の子どもは、「どんなことがありましたか」の教師の質問に、「勉強を見に来る」、「パンパンガ風呂に入っている時アメリカ兵がたばこをくれと言って入ってくる」、「障子の影でキスをするのが見える」等々…児童の小さな目が好奇心を持って眺めている。小学生の中で「パンパンごっこという遊びが流行したり…近辺の子どもたちへの悪影響が心配される」と報告されている。(同上「古都の退廃」)

 

    反対運動

 

  こうした中、労同組合、大学教職員と学生、宗教者、地域住民の反対運動が活発化した。映画「饗宴」が当時のそうそうたる俳優を使って製作された。

1952(昭和27)年9月「R.Rセンター廃止期成同盟」結成(奈良ユネスコ協会、奈良総評、奈良教職員組合)、

1953(昭和28)年8月、奈良RRセンター調査団(奈良学生ユネスコ、奈良学芸大、奈良女子大学生)の調査行われる

812日、奈良R・Rセンター、神戸市への移転決定

824日、米海兵隊4000人が奈良市に駐留開始、

「R・Rセンター廃止期成同盟」は、「奈良市非武装都市建設同盟」を結成

912日、神戸R・Rセンター開設

926日、奈良R・Rセンター完全閉鎖

12月、映画『饗宴』ロケ開始、翌年公開(出演・望月優子、三島雅夫、東野栄次郎、中原早苗)

 

<吉川コメント>

平城京の美しい門が幹線道路から見えるが、そこを車で少し通り過ぎると、R・Rセンターの址付近都跡村役場跡の碑と都跡小学校がある。まさに平城京という日本の古代の中心地の真ん前で、アメリカ兵の性の狂乱の地となったのだ。

「語られてこなかった奈良の歴史のひとつが「奈良R・Rセンター(Nara Rest and Recuperation Center)」だ。「一般の女性の貞操を守るために兵士相手の女性を集め「守られるべき女性」と「彼女をまもるべき女性」の構図がつくられた。後者の女性達は戦争で働き手である親や夫を失い自活を余儀なくされたものだった」(「戦争と女性―奈良RRセンターが問いかけるもの」松村徳子(「奈良女子大アジア・ジェンダー文化学研究センターNo.11 )との指摘は重要である。

1953年同施設は神戸に移転し、「神戸R・Rセンター」が開設されたとあるが、その後どうなったのかについて今は情報がない。引き続き調査をしたい。日本人「慰安婦」問題を過去の問題にしてなはらない理由はここにもある。(吉川春子)

 

2017年10月15日 (日)

奈良県出身の日本人「慰安婦」を探す旅

 日本人「慰安婦」の身元は何故わからないのか

 

私はこの2年間、9人の日本人「慰安婦」等の本籍地と現住所を尋ねる旅をしてきた。しかし、なかなかご当人の消息に訪ね当たらない。この女性もその一人である。

笠置慧眼著『ああ、策はやて隊(私のビルマ従軍記)』に次のように記されている女性がいる。

 

本籍地 奈良県 芸名・ハツエ 本名 ●藤 トク

 

私は笠置慧眼医師の姪である藤園淑子さんを介して名簿について少しくわしい情報を入手した。現住所は大分県速見郡であった。

20163月私は藤園淑子、棚橋昌代、具島順子の3氏と共に大分県共産党書記局長の車で大分県へ調査に行った。元町議の安倍さんが案内役として加わり、現在は杵築市に合併されている該当の部落を尋ねた。そこは「限界部落」かとも思われる雰囲気である。1軒の家があり尋ねて見たが留守だった。通行人も通り過ぎる車も見当たらず、なす術もなくそこを後にするほかなかった。

現住所が遊郭の中だと、戦後赤線に移行し、さらに売春防止法施行で赤線も廃止される等で街も一変している。手掛かりはつかめない。しかしそこは山村で戦争前は人口が一定数いたと思われる。彼女の親戚縁者が全くいないはずはない、と思いつつも手掛かりはないので諦めた。

 

     戸主との姓(苗字)の違いが意味するもの

 

この女性を仮にK女と呼ぶことにする。現住所はだめでも、本籍地には親兄弟の痕跡があるのではと考え、2017102日私は藤園淑子さんと一緒に、K女の本籍地を尋ねた。

K女は戸主(父親又は夫等)との苗字が違うのだ。娘か夫である場合は戸主と同姓である。旧民法の知識に乏しい私には、どんな場合に戸主と苗字が違うのか、わからない。(どなたか教えて下さい)

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写真・女性の故郷の街道

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写真・部落名を刻んだ掲示板

 共産党宇陀市議の八木さんが色々調べてくれて、当日一緒に回っていただいた。本籍地の部落は現在の町の中心部からは少し離れている。ほんの狭い地域なので地番がわかれば住所は確定できるのだが笠置軍医から入手した名簿には地番がない。この地域のお寺も訪問して過去帳の調査をお願いした。突然訪ねたにもかかわらず住職が心よく事情を聴いて下さった。

小雨降る街道を行きつ戻りつしてK女の本籍地を目に刻んだ。そこはくすり問屋が沢山ある裕福な街として栄えた。町並み保存をしたら観光客が殖えそうな趣がある。八木市議のお父さんの友人という古老が、自分は一貫してこの町に住むが、そのような名前、苗字の人は聞いたことがないという。翌日町役場でいろいろ調査してくださったが、結局わからなかった。

 

将兵の名前・身元・軍歴は何故判明しているのか?

 

70数年前の事なので、「慰安婦」として送られた芸妓・娼妓の身元がわからないのは不思議ではない」という見方もあるかもしれない。しかし、同じく戦場に駆り出された男性達、即ち数百万人の日本軍将兵は名簿と軍歴が明らかになっていて、軍人恩給がきちんと支払われているのだ。兵士が死亡した場合には妻子に恩給が支払われて来た。

戦火を経て、また敗戦後は不利な証拠の隠滅を政府、地方組織に至るまで、大々的に焼却したが、兵隊の名簿は、何処にあったにせよ、残っていたという事である。

赤紙1枚で戦場に駆り出し、命を奪ったのだから、名前、軍歴を政府がきちんと掴み保存することは当然である。その資料を焼却しなかったことも当然である。

一方、なぜ女性の名前は不明なのだろうか。日本人「慰安婦」の数はおそらく多くても数万人であろう。遊郭から女性を「慰安婦」として東南アジアへ送るときは、住所、本籍、戸主等の名前を警察に申告させて許可証を発行している。そうしないと海外渡航は許可されない時代であった。警察が名前等を掴んで、保存していてもおかしくはない。それは植民地であった朝鮮も同様である。私の入手した名簿には朝鮮人の女性の名前も掲載されている。

   県警の歴史に「慰安婦」の記述がない、不思議さ

 そういえば、『各都道府県の警察史』には廃娼運動、遊郭の取り締まりに関する記事は詳しく記述されている。遊郭について知ろうと思えばまず警察史をよむべきである。また、敗戦後の米進駐軍のための「慰安所」についてもどのようにして設置したかの記述も詳しい。しかし、遊郭から娼妓・芸妓を「慰安婦」として海外渡航させた記述を、私はまだ読んでいない。(沖縄県史にはあるかも…)

ぜひ次の警察史発刊の折にはこの件について県警は語ってほしいと思う。

   政府は日本人「慰安婦」実態を公表すべき

 

政府は「慰安婦」として海外に送った女性達たちにも、兵士の恩給と同額は言わないが、生活の糧を支給すべきであった、と私は考える。すくなくとも、何人の女性を「慰安婦」として海外に送ったのかをぜひ明らかにしてほしい。(吉川春子)

2017年10月14日 (土)

奈良県大和郡山市の遊郭調査へ

 

 遊郭は日本人「慰安婦」の供給源 

 

 2017年103日、私は奈良県出身の日本人「慰安婦」の調査に宇陀市に行った(この件は別項で報告したい)。翌日奈良県の遊郭を見学した。遊郭の調査は、日本人「慰安婦」調査の一環である。

 

奈良は古都にふさわしく遊郭の歴史も古い。私は湯沢和子・忠一ご夫妻の案内で大和郡山市の「洞泉寺」遊郭跡を見学し、帰りに郡山駅に行く途中車で「東岡」遊郭跡を商店街の中を通過した

 

日本人「慰安婦」の中かなりの人達が遊郭から動員されている。戦争で遊郭の商売が成り立たなくなって、町が寂れ料理店など遊郭の業者も日本の侵略、占領地へ商売を移動していった。女性達は軍が前借金を500円~1000円出すという条件に呼応していった。こうして遊郭は「慰安婦」供給源となったのだった。*遊郭=ある定められた一角に、貸座敷、娼妓、芸者、待合、料理店等の集合している遊里のこと

 

 

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写真・市の協力を得て保存、活用されている建物。ハート形の窓の下は隣接の寺の境内

Photo_2 写真・道に面した貸座敷の面影遺す建物 

 

  郡山遊郭には300人以上の芸妓・娼妓が

 

 

「奈良県に置かれていた遊郭は、奈良市内の「辻」、大和郡山市の「洞泉寺」「東岡」

 
の合わせて3か所。…大和郡山は城下町。商業の街として栄え戦時中も空襲の被害をうけ
 
なかった。妓楼は洞泉寺の門前から参道一体に並び昭和5年6月には17軒の店に娼妓
 
165人。戦後は赤線に移行することなく廃止された。現在も当時の建物が数棟姿をとどめ
 
ており、ハート型の窓が目を引く三層楼「川本邸」は市によって保存活用が進められてい
 
る」(木村総『色町百景―定本赤線跡を歩くー』2014.6.30 彩流社) 
 

 奈良の遊郭には県内以外の大阪、京都、兵庫などからも女性が集められてきたと

いう。女性が自立して働くことができなかった時代、また義務教育は小学校6年まで

で上級に進学できない女の子が圧倒的に多かった時代、彼女たちは性産業以外に働

き口は皆無に等しかった。

 

ここは時代をタイムスリップしたかのような古色漂う街並みで、歴史を感じる建物

が軒を接して残されており、街角から芸妓が三味線を抱えてふと出てくるような趣

がある。

 

   女性が体を売ることを当然としていた戦前の日本 

 

また、別の本によると「郡山東岡遊郭は奈良県生駒郡郡山町字東岡に在って関西線

郡山駅の東南約7丁の地点に当たっている。…ここもやはり遊郭になっていて、揚屋(貸座敷)が21軒娼妓が全部で190人居る。ここは総て大阪式で、置屋から娼妓を揚屋に呼んで遊ぶのである。従って*廻しは一切取らずに全部時間制または仕切り制になっている。…洞泉寺遊郭は、東岡遊郭よりは建築においても…あらゆる点において一歩譲って居る。貸座敷は目下17軒あって、娼妓は150人居る」(全「コレクション・モダン都市文化 第34巻 遊郭と買春 全国郭案内」2008125日 ゆまに書房)*貸席=関西方面の言葉で、御茶屋または揚屋を言う。芸娼妓を上げて遊ぶ家料理は仕出し屋からとっている  *貸座敷=芸者の置屋、揚屋、又は兼営の家等を総称したもの  *廻し制=一人の娼妓が同時に2人以上の客を取って順次客から客へ回って歩く事

 

 

 芸妓・娼妓は性奴隷だった

 

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写真・貸座敷の内部

         芸妓・娼妓は性奴隷だった

「東岡」遊郭の細い路地を歩いていると2メートル程しかない狭い路地の両側に大きな石が置いてあって、そこに見張り番がいて、女性の逃亡を防ぐ場所が残っていた。

 

 

古色騒然とした木造の建物の窓は一面に格子で覆われており、当時も建物の中で何が行われているのかうかがい知ることはできなかっただろうと思う。 

 

貧しい農家出身の娘で芸妓・娼妓となった女性達は、客を次々に取らされて自分の体を犠牲にして稼がざるを得なかった。病気で働けなくなるまで働かされ、廃業の自由は事実上なく、借金は増えても減ることはなかった。性病をうつされ、結核になり、或は妊娠して子どもの出産はどうしたのだろう。子どもは無事に育てられたのか…等々、女性達の苦しみは想像以上だっただろう。 

 

江戸時代の浮世絵の花魁を芸術作品として鑑賞の対象としてきた私は、今は苦い思いを噛みしめている。観賞用に着飾れるだけ着飾り、高いぽっくりを履き、大きく結った髪にかんざしを沢山さして街を歩く派手な女性達。そのいでたち以上に借金を負い、家族の生活を背負い、心の傷に耐えていたに違いない、という思いが今の私にはある。

 その女性達が、アジア太平洋戦争の時代、「お国のために」という、軍と政府の誘い文句で、前借金を軍が支払って『慰安婦』にさせられたのである。

彼女たちは強制連行させられたのではない。また無垢な少女でもない。しかし遊郭の女性なら「慰安婦」にさせられても仕方がない、彼女たちは金もうけのために「慰安婦」になった、ともし考えるならそれは大変な女性蔑視の考えではないだろうか。

彼女たちが一人も名乗り出て政府の責任を追及いない日本。日本人「慰安婦」の政府の責任が明らかになるまで、「慰安婦」問題が解決したとは言えないのである(吉川春子)。

 

 

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写真・3階建ての元貸座敷

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  写真・格子に覆われた外壁

 

 

 

2017年10月 1日 (日)

第20回全国シェルター・シンポジュームひらく

   

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  写真・シンポジュームの資料集

    
   永田町の目と鼻の先で

 

永田町では、安倍首相が権力欲むき出しの衆議院解散を挙行し、これを奇貨とし便乗した小池都知事の新党「希望」の立ち上げ等のむき出しの権力闘争が行われている。海外諸国にも恥ずかしい日本の政治の姿である。

 

この永田町とは目と鼻の先の文京区で2017930日(土)、「全国シェルター・シンポジュームin東京」が開かれた。女性への性暴力をなくし、被害者救済の活動を20年間続けているNGOの集会(NPO法人全国女性社ルターネット共同代表・北中千里、実行委員長:戒能民江お茶の水大学名誉教授)が開かれた。この大会は全国各地で持ち回りで行われ、私も何カ所かは参議院議員として参加した。

 

このNGOは、かつて「配偶者暴力防止法制定」時には被害者当事者の声を直接国会議員に利かせる等、積極的に行動し、法律の内容を充実させる役割を果たした。会場の東京都文京シビック大ホール(オペラも上演される)は、加者で9割方が埋まった。

 

基調講演は「乗り越える力:当事者から見た暴力の影響とトラウマ」と題して、オルガ・トゥルヒーヨさん(米国弁護士・コンサルタント)が行った。

 

先の通常国会で刑法が110年ぶりに改正され、強姦罪の非親告罪化、同罪の法定刑の下限の引き上げ、家庭内で父親等の幼い娘に対する性暴力を犯罪とする等の画期的な内容である。講演は刑法改正後に、まさに時宜にかなったものであった。

 

 3才で実の父親に強姦された少女の体験

 

オルガさんは暴力が日常的に行われる家庭で育った。父親が母親をレイプする場面を少なくとも5回は目撃した。彼女はそれを止めようとして、逆に父親からレイプされた。3歳の時だった。彼女が父親の暴力に立ち向かうたびに、父親の暴力は逆に狂暴化した。父親はオルガさんの兄たちにも彼女にレイプするように仕向けた。

 

11歳の時に父親は心臓発作で亡くなる。しかし彼女に対するレイプは終わらなかった。彼女の兄達、そして兄達の友人によるレイプがずっと続いたからである。

 

親切で勇敢な隣人の女性が居なければ今自分はここにいないだろう、とオルガさんは語った。また学校の先生たちの様々な援助もあった。他方、暴力の現場に警察を電話で呼んだ時、父親はその場をごまかし、彼女の境遇からの救助にはつながらなかった。アメリカの警察も当時は家庭内暴力を見抜くノウハウを持っていなかった、という。

 

彼女は幸運にも大学に進学し、法科大学院にもゆき弁護士になった。レイプが止んだのは、就職して仕事が余りにも忙しいので外出する時間がなく、レイプ相手の男性達と会わなくて済んだからだという。

 

彼女が余りにもすざまじい自分の体験を淡々と語ることに私は息をのんだ。また彼女は、性暴力にあっても必ず立ち直れる、そして当事者こそが最高の専門家であるという事を力を込めて語った。

 

シンポジュームでパネルの発言後短いコメント

 

オルガさんは12401530分という長い講演の後のシンポジュームにも参加して、感動的なコメントを残した。     

 

彼女は司法省で仕事をする中で、上司からもっと自分の体験を語るように助言を受けた。しかし初めは語ることで信頼を失うことを恐れたという。

 

オルガさんは幼い時から自分の身に何が起きたのか把握することができなかった。多くの被害者もそれを把握していない、という。それを把握できてから、自分の経験を多く語って来た。サバイバーが声を上げる事で実態が伝わる、とオルガさんは強調した。

 

父親がなぜこんなに暴力をふるうのか?のだ、と指摘する。加害行為を行う人は権力を行使する。加害者はそれが自分に許されいると考えるからである。オルガさんの父親はオルガさんを自分の所有者であると考えていたからである。

 

ここまでひどくなくても日本でも親は子供が自分の所有物と考える人は少なくないかもしれない。日本でもある親子心中は、善意であったとしても、子どもが自分の所有物と考えるからできるので、子どもを独立の人間と認めていない表れである。

 

   トランプ政権に負けない!

 

一方、サバイバーは自分のせいで暴力を振るわれると考えている。自分にも原因(あるいは責任)があると考えるのだ。そして暴力が、加害者と自分の個人的な問題であると考えている。

 

しかしそれは違うのだと、オルガさんははっきり言う。新しい変化。社会が私たちにどういう変化をもたらすのか。現在のアメリカの動きは、二歩進んだと思ったら三歩下がる状態である。去年まで性暴力について政府はどうにかしてくれるという状態だった。今の政権は違う。前進していたことが今は後退している、という。

 

でも我々は躓いてもまた立ち上がってまた(性暴力撤廃の運動を)続けることをしよう!

皆さんが居る事が、パネルの人がいることが性暴力被害者の力になっている。全てにつながっている。大切にして下さい。私達全員がいて大切な仕事を続けよう(大きな拍手)

 

     妻、子を自分の所有物と思う父親の思想との戦い

                               ~洋の東西を問わず

とても勇気づけられる講演だった。私も「配偶者暴力防止法」の立法に携わった際に性暴力被害者の声を直接聞いた。子どもが犠牲になっていることに心が痛んだ。これを契機に住民基本台帳の公開を止めさせた。

 

オルガさんの父親は妻を、子どもを自分の所有物と思い、暴力で支配した。奴隷を扱うように家族に接した。これが許される社会、が恐ろしい。周囲の大人も気が付きながらストップできなかった。警察も通り一遍の対応しかできず、幼い子を救うチャンスを逃した。

 

シェルターネットは家庭内能力や様々な暴力の犠牲になっている人々を救い、社会を変える活動を地道に行っている。世の中を簡単にいい方向にはリセットできないものだ。倦まず、たゆまず、努力しなくてはならない(終わり)

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 住宅地で見つけた秋の花

2017年9月19日 (火)

 『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールニュース29号完成

916日にニュース発送しました

 

29

P1の画面です

298

ニュースP8の画面です

  内容

   1ページ

   ⑴ 24回ゼミナール開催 テーマは「国家が家族に介入、自民党改憲草案に見

   る憲法24条改憲批判」で、山口智美・モンタナ大準教授の講演報道記事

   ⑵ 716日午前中に開かれた第1回運営委員会

 

  Ⅱページ

   ⑴ 9人の新役員のプロフィールと写真。読者はこの会が地方在住の様々な経歴を

   持つ役員によって支えられていることを実感されるはず。

   ⑵ 日本母親大会に当ゼミナールの役員会員が参加した記事(P6に関連記事)

 

  Ⅲページ

   ⑴ 山形県出身の日本人「慰安婦」~吉川春子 522日~2日間日本人調査チー

   ムが山形に行き背景を政府の公文書、山形県警察史により明らかにする

 

   Ⅳページ,Ⅴページ

    ⑴ 「国家が家族に介入―安倍内閣の改憲手法を斬る」第4回ゼミナール、

    山口智美先生の講演要旨(P1に関連記事あり)

    ⑵ 年会費納入のお願い 

 振込口座・ゆうちょ銀行 口座番号00270-5-140303

 

   Ⅵページ

    ⑴ 埼玉縣草加市で、「慰安婦」問題パネル展と大森典子副代表講演

    ⑵ 山口県母親大会から「衝撃的な少女たちの実態」山口市・松冨明子さん記

    ⑶ 全国母親大会分科会の報告

 

   Ⅶページ

   「日本政府が、戦争犯罪であり性奴隷制であった証明文書を入手」小林久公

     さん・記(日本軍「慰安婦」問題解決全国行動資料チーム)

 

   Ⅷページ

    ⑴ 第25回ゼミナールお知らせ 

  日 時:2017年11月26日(日)13時~16時30分

  場 所:文京区民センター2階大会議室 

  テーマ:「慰安婦」問題と今日の性暴力

  講 師:皆川満寿美・早大他非常勤講師 

  「『女性に対する暴力』の現状と政策―男女共同参画基本計画を踏まえて」

  特別報告:池内沙織・日本共産党衆議院議員

  「110年ぶりの刑法改正審議に携わって」

 

   ⑵ 当ゼミナールが文京区男女平等センター祭り参加 

 日時 20171028日(土)

 場所:文京区男女平等センター研修室C(地下鉄丸ノ内線、本郷3丁目下車

 分)

 内容:

   ① 10001600「慰安婦」問題に関するパネル展示

   ② 10001330DVDの上映

  『戦時性的強制問題解決促進法案』審議、2002722日参議院内閣委員会

   ③ ワークショップ…日本人「慰安婦」問題を考える~山形県調査で見えてき

   た事

  時間:13301600

   発言:吉川春子(コーディネーター)、具島順子、棚橋昌代、藤園淑子

 

     ⑶当ゼミナール活動日誌 20175月~9

 

2017年8月31日 (木)

「夜明けの祈り」~戦場の性暴力、修道女の苦しみ

 

 

 

    映画の背景

 

 

 

(アンヌ・ホンテーヌ監督フランス・ポーランド)、東京新宿武蔵野館で上映中

 

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(写真上映画「夜明けの祈り」ジャケット)

 

 

 

 私は20129月に、当ゼミナールのフィールドワークでポーランドを訪問し、ワルシャワ蜂起の悲劇の記念碑を見た。

 

19448月、ナチス占領下でポーランドの地下国家の軍隊が「ドイツ軍の瓦解は時間の問題」との情勢判断をして、赤軍(ソ連軍)のワルシャワ入場前に「ロシア人に対してポーランド人は主人として姿を現す」との意図で蜂起した。

 

しかし戦況を見誤っていた。瓦解寸前と見たドイツ軍はその後10カ月も激しく抵抗をつづけた。またビスワ川岸に迄進駐しているソ連軍は、ワルシャワ市民の蜂起を応援せず待機して見殺しにした。

(写真下・ワルシャワ蜂起記念碑の前で、当ゼミナールのフィールドワーク)

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 戦時下の性暴力、男たちは自分に許された褒美と捉える

 

 

 

 監督の鋭い的確な言葉ではある。しかし、許されない、絶対に。

 

この映画はポーランドで実際に起きた衝撃の事件の映画化である。舞台は、ドイツ敗戦(4556日)から8か月後の194512月。ポーランドの修道院である。ドイツ軍はいなくなっても平和は訪れない、女性達は恐怖と不安に苛まれていた。ドイツ兵撤退の前後ソ連兵がポーランドに侵攻、ここ修道院にもソ連兵たちが乱入して、“貞操が命”の修道女が次々と強姦され妊娠。いま出産の時期を迎えていた。

 

 

 

この映画の主人公のマチルドは実在の女医(マドレーヌ・ボーリアック)で親しい友人の医師には自分は共産主義者であると告げていた。第2次世界大戦中レジスタンス運動に参加していた。戦後、赤十字の医療施設で負傷したフランス人兵士を祖国へ帰還させる仕事に従事していた。

 

ある日、彼女のもとにポーランド語で助けを求めて駆け込んできたシスターの必死の要求に応じて軍用ジープでカソリック系の修道院を訪れる。

 

女医が目撃したのは、信仰と妊娠が両立しないはずの若い修道女が身ごもり激しい苦痛に泣き叫ぶ姿だった。緊急の手術が必要と判断した彼女は修道院長と補佐役のシスターにこの事を口外しないと約束して、若い修道女の体内から帝王切開で赤ん坊を取り出し母親の命も救った。

 

しかし翌日再び修道院を訪れたマチルドが知った事実は、身ごもった女性は他にも彼女を含めて7人もいるという事実だった。衝撃を受けたマチルドは、助産婦など外部の専門家を呼ぶべきだと主張する。しかし院長はかたくなに拒否し「誰にも修道院には立ち入らせない」と主張、人に知られたら修道院は閉鎖され、恥をさらすことになるからである。生死の境目にある女性達を見捨てるわけにはいかない。マチルドは赤十字の激務の合間を縫って修道院に通う。修道女たちも女医に心を開き、お腹を触らせるようになる

 

 

 

献身的な彼女を二つの悲劇が襲う。

 

ある夜診察を終えて赤十字に帰途、ソ連軍の検問に引っかかり、車を止められる。クルマには赤いペンキで大きな赤十字のマークがついており、彼女の身分証明書もある。にもかかわらず数人のソ連兵彼女を車から降ろし、集団で襲う。すんでのところで、彼女の悲鳴を聞きつけた上官が現れ、彼女は救われる。しかし「通行止めだから通せない。戻れ」と言われ修道院に引き返す。一夜を車と共に無断外泊したマチルドは、翌日職場の上司からは厳しい叱責を受けるが、真実は語れない。

 

 

 

もう一つの悲劇。最初に命を救った修道女の赤ん坊を事実の発覚を恐れる修道院長は、森の奥深く置き去りにする。この事を知った修道女は、建物から身を投げて自殺する。血まみれの死体に接してマチルドは喪失感を漂わせる。院長は修道女から「人殺し!」と非難を受ける。

 

 

 

     余韻漂う、物語の終わり

 

 

 

映画の初めのシーンで、必死で「ドイツ人でも、ポーランド人でもない医師」を捜す修道院のシスターを、フランス赤十字の医療施設に案内するのは戦争孤児達である。戦争で孤児が溢れるポーランドである。

 

マチルドは修道院長に、親を失い路上で生活する彼らをここで養育する事を提案する。そうすれば、修道女予から次々生まれる赤ん坊を殺さないで修道院で一緒に育てることが出来る、という提案だ。自分が赤ん坊を森に捨てた罪を自覚する院長はこれを受け入れた。

 

院長もまた強姦され医療行為は断固として拒否しているが、重い梅毒をうつされ苦しんでいるのだ。

 

 

 

出産が次々あって修道院から緊急電話の連絡がマチルドに入るシーンでは、マチルド一人では対応できなくなり、同僚の男性医師の手助けを借りて2人で修道院に駆けつける。「私一人ではない」と入口でつげる。修道院が男性医師を中に入れるのか?緊迫感が漂う。

 

男性医師が扉の前で言う。「自分は医師だ。そしてユダヤ人だ」と。修道院は彼を中に入れる。ユダヤ人、という言葉がこのシーンのキーワードである。私はアウシュビッツを想起した。

 

 

 

マチルダはこの男性医師と心も肌も許しあっている。赤十字医療施設は帰国命令が出て、作業は終了する。その後、二人がどうなったかを映画は触れない。

 

 

 

また実話ではこの若い女医は2年後、事故死している。それも触れていない。衝撃なシーン、心締め付けられるシーン、そして余韻を残してこの映画は終わる。

 

 

 

    日本映画よ!

 

 

 

 先月私はヒトラーへ245通の手紙を書き続け、町に撒いて、その結果捕まり処刑された夫婦の映画を見た。繰り返しこうした戦争映画を生産する、ヨーロッパの国々。

 

この夏、私は、戦争をテーマにした日本の映画に出会っていない。(終わり)

 

2017年7月31日 (月)

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 2017年7月29日(土)~30日(日)の2日間、東京豊島区で日本AALA第53回定期大会が開かれた。これまで代表理事として活動してきた小松崎栄氏(写真上)が顧問に退き、新しく、澤田有、田中靖宏、吉田万三の3氏が選ばれた。 東京都議選勝利と、仙台市長選勝利という情勢もあり活気にあふれた発言が続いた。

 私は同組織の理事を務めている。「慰安婦」問題について以下の発言をした。

 

AALAの皆様の活動について心から敬意を表します。第53回定期大会の活動報告と活動方針に触れられている日本軍「慰安婦」問題について発言します。

 

 

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 20151228日、当時の韓国の朴槿恵大統領と安倍総理に代わって外務大臣が日韓合意を取り交わしました。日本のマスコミはこれを歓迎し国民の間では「慰安婦」問題はこれで決着したかのような雰囲気がただよいました。しかし韓国で運動を進めている挺対協と「慰安婦」は強く反発し日韓合意の無効、白紙撤回を主張し韓国国民も多くはこの合意に厳しい評価をしています。理由は安倍総理が真摯に過去の歴史と向き合い「慰安婦」被害者に謝罪する姿勢を示していないからです。韓国では政権が変わり、ますます問題が複雑化しています。

 

日韓合意後、日本に於いても「慰安婦」問題解決に取り組んでいるNGOは間でまとまった運動方針を持てない事態です。かつて1995年、日本政府がアジア女性基金を設立し元「慰安婦」に「償い金」支払事業を開始した時に、償い金をもらう、もらわないで対立し運動が10年間に渡って停滞しましたが、その轍を踏んではなりません。どうすればいいのか。

 

私は2010年に「「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール」というNGOを結成して活動しています。私たちはいま日本政府に「河野官房長官談話」の誠実な実行を求める書名活動に取り組む準備をしています。この談話は歴代の自民党政府が侵略戦争における加害責任を初めて認めた画期的方針です。そして国籍を問わず「慰安婦」とされた女性に謝罪し、歴史研究・歴史教育をつうじて誤りを繰り返さない決意を表明しています。「河野談話」の路線を発展させることが日本の戦争責任をしっかりとる道なのです。

 

「慰安婦」問題は日韓問題と受け取られがちですが、北朝鮮、中国、フィリッピン、インドネシア、オランダ、東チモール、ビルマ等々被害者は多くの国に存在します。視野を広くして「慰安婦」問題を解決するために立法解決を目指す動きが出てきています。とても重要な動きです。

 

最後に日本人の「慰安婦」問題に一言触れます。戦前日本中至る所にあった遊郭から大勢の遊女たちが「慰安婦」として海外に送られました。しかし、1991年韓人のキムハクソンさんが名乗りを上げてこれに続き各国の被害女性が続々と被害者が日本政府の補償を求めましたが、同じように「慰安婦」とされ性奴隷として筆舌に尽くしがたい体験をした日本人女性は一人も名乗り出ません。なぜでしょうか?

 

「「慰安婦」の定義として、「性的経験のない少女か、若い女性で強制連行あるいは騙されて『慰安婦』にさせられた人」とすれば、日本人「慰安婦」は外れるのです。

日本女性は、21歳以上で、売春婦で、軍隊の要求している「仕事」の内容を知って「慰安婦」になったので、彼女たちを「慰安婦」とは認めない、という考えがあります。しかし、売春婦だからといって「性奴隷」にされてもいいのでしょうか。

 

私は数年前偶然に、旧日本軍軍医の方から日本女性人「慰安婦」の名簿を入手しチームで調査をはじめました。何人かの方の住所を探し当てましたが生存者は一人もいませんでした。しかし、5年前まで、は生存されていた方がいらっしゃいました。1990年代~2000年代にかけて、韓国人の「慰安婦」問題で大揺れに揺れている日本社会を眺めて彼女たちはひっそり世を去って行かれたのでしょうか。 

 

「慰安婦」問題は決して過去のものではなく、沖縄等基地で女性への暴力は頻発しています。「慰安婦」制度を可能にしたのは女性差別思想と、家父長制です。家父長制と女性差別を否定したのが日本国憲法24条です。安倍内閣の改憲を草の根から支えている日本会議の最大のターゲットが第9条と共に憲法24条です。改憲阻止が最も重要課題であることを述べて発言を終わります(終わり)

 

                      

2017年7月22日 (土)

国家が家族に介入、安倍内閣の改憲手法を切る

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(写真・講演する山口智美先生)

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(質問に答える山口智美先生。右は大森典子副代表)

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(写真・会場風景2017.7.16午後)

 

 1回運営委員会で、活発な意見交換

 

716日(日)、東京都文京区民センターで第24回ゼミナールを開いた。午前中は2017年度選ばれた新役員による第1回運営員会が開かれ、法事、怪我等でやむを得ない欠席者も出たが22人中18人が出席した。

 現在の会員数が財政担当より報告された。規約により2年連続会費未納者の退会扱い、及び高齢化に伴い施設入所及び死亡等の理由で毎年一定数の減少が避けられない。会費未納をできるだけ防ぐ方策について意見交換をし、会費納入の働きかけとともに、ゼミナールに参加できない会員に活動に参加していただくためにも、ゼミナールの地方開催や署名活動を行い会員拡大に取り組む必要性について確認された。

 

 9条と第24条は戦後、ずっと改憲のターゲット

 

午後からは、「国家が「家族」に介入―安倍内閣の改憲手法を切る」と題して、山口智美・米モンタナ州立大学准教授が講演した。DVDやパワーポイントを駆使して、「フェミニストの目線」で、改憲を目指す安倍内閣の下、婚活、少子化対策(女性のいかに子どもを産ませるか)、家庭教育への介入等、権力が個人の領域に介入する政策を国でも地方でも着々と進めている実態が詳しく述べられた。

「美しい日本の憲法をつくる国民の会」「日本会議」等の右翼勢力は、憲法24条は行きすぎた個人主義の元凶であるとして、これにより家族崩壊や、少子化をもたらしているとして第24条改憲に執念を燃やし、草の根から改憲運動を展開している。戦前の家族制度復活の危険性が指摘された。

閉会挨拶で私は当ゼミナールが憲法第24条に着目して度々テーマに選ぶ理由は、「慰安婦」問題を可能にした背景に家父長制と、女性差別思想があるからであると強調した。憲法第24条こそは女性を男性に隷従させていた家族制度から女性を解放した規定である。24条の改憲は阻止しなければならない。

大森副代表は最高裁で棄却された吉見裁判について報告し、高裁判決の不当性、それを引き継いだ最高裁等、三権分立を担う日本の裁判所の憂うべき現実を厳しく批判した。

参加者は73名だった。詳細はニュース第29号で報告する(吉川春子記)

2017年7月14日 (金)

映画『ヒトラーへの285枚のはがき』

 

ドイツと日本、彼我の国民の差は大きい!

 

 ヒトラーへのレジスタンスとしてミュンヘン大学学生による「白バラ」運動が知られている。大学でナチス批判のビラをまきゲシュタボに捕まり、裁判にかけられ死刑判決、即日処刑される兄弟の物語である。

新宿武蔵野館で7月14日鑑賞したが、上映中のこの映画は、平凡な労働者の夫婦が愛する息子の戦死によって人生の希望が打ち砕かれ、ヒトラーに対する怒りに目覚め、ベルリン市民にそれを知らしめる葉書作戦に立ち上がる物語である。

この種の映画がひっきりなしに制作され海外(日本)にまで輸出されるドイツ。ドイツ市民がヒトラーに無抵抗ではなかったというこの話が教科書にも掲載されてきた。70年を経てもファシズムに対する反省を心に刻み次世代に伝えようとする国民に敬意の念を禁じ得ない。

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(「ヒトラーへの285枚の葉書」ジャケット)

ひるがえって、戦前の治安維持法をほうふつさせる共謀罪法がつい最近成立し、引き続き戦争放棄の日本国憲法を一気に改正しようとする安倍首相が高い世論の支持によって支えられて日本とは、いったいどんな国民によって構成されているのか?

願わくは、やっと下落しかけている内閣支持率が下がり止まらず、消費税率並みの8%に近づくことを!そうでなければかつての同盟国(ドイツ)に顔向けできないではないか。

 

<ストーリー>

 

フランスがドイツに降伏した1940年6月、ベルリンの古めかしいアパートで暮らすクヴァンゲル夫妻(オットー&アンナ)のもとに最愛の一人息子ハンスが戦死したとの通知が届く。アンナは「生きていてもしょうがない」と悲しみのどん底に沈む。ペンを握りしめたオットーは「総督は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」とヒトラーへの怒りを葉書に書く。そして妻のアンナとともに公共の場に置いて立ち去るという活動を繰り返すようになる。

 ゲシュタボがポストカードをばらまくレジスタンスの捜査に乗り出す。犯人はカードの文面から戦争で我が子を失った父親ではないか、住処はアレクサンダー通りにあるはずと推測するが複数の路面電車を乗り継いで移動し、決して指紋を残さないので犯人を絞り込めない。ある日ゲシュタボ幹部は部下が誤認逮捕した賭博好きの男を釈放するが、上司に批判されて、結局自殺に見せかけて射殺する。

「ヒトラー政権では暴力が正義に勝つ。加担するな」、「この自由な報道を広めよう。人殺しヒトラーを止めろ」…オットーとアンナは同じ志のもと死刑さえも覚悟して100枚、200枚と葉書を書きつづける。

 こんなことをしても無意味ではないのか。夫は答える「少なくとも自分は体制の「共犯者」ではなく自由で居られる」。まっとうな人間として生きたあかしになる、と。二人はゲシュタボに捕まり、斬首される。かくすればかくなるものと知りながら…息子の戦死が彼らをヒトラーへの抵抗をせざるを得ない道に駆り立て、まっとうな人間として生きた。

 映画は「ハンベル事件」と言って第2次大戦中にベルリンで実際に起きた事件である。ドイツ人作家ハンス・ファラダ(18931947)の小説『ベルリンに一人死す』の映画化である。彼は秘密文書を旧ゲシュタボから入手し、ヒトラー時代のドイツでの日常生活を折り込み小説を執筆、書き上げて3か月後に死去した。小説は60年経って英訳され、英米でベストセラーになり、2016年独・仏・英合作で映画化(英語)された。

 

今年の7.7(盧溝橋事件勃発)を北京で迎える

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(写真・北京は高層ビル建設ラッシュ2017.7.7吉川撮影)

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(写真・いたるところで目に付く、健康作りに熱心な敦煌市の市民2017.7.7吉川撮影)

 

私は77日、参議院協会の中国への研修旅行で北京に滞在していた。この日は80年前、盧溝橋事件が勃発し日中全面戦争に発展した日である。中国では日本の侵略戦争で重大な被害を蒙っており忘れがたい日である日本では知らない人の方が多い。

私は今回の中国旅行で受け入れ団体の「国家発展・改革委員会」の中央、地方幹部と何回も会談し、78日にはシンポジューム”幸せ社会実現のために“に参加した。その際、中国側の幹部が繰り返し口にした言葉、「戦争がなければ中国はもっと発展できる」が私の心に残った。NHKニュースは尖閣諸島で中国が無法を繰り返していると報じており、一触即発、の状態にあると国民は錯覚しそうである。

78日、帰国当日午前中に行われたシンポジュームでは、「中国は認知症が4千万人いる。自宅介護を政策と方針とするが態勢が整わない。日本の進んだ介護制度に学びたい」と発言した専門家がいた。日本の10倍、13億の人口を抱え経済発展は目覚ましい中国だが矛盾もいっぱい抱えている。国民の生活向上と国の経済発展のために戦争は絶対避けたいのだと私には伝わった。

私達と会談した幹部はみんな若かった。この人々の父親・母親、祖父母は戦争中日本にどんな目にあったのか、そのことを子や孫の世代は伝え聞いているだろうか。

今日はフランス革命記念日(パリ―祭)、そして「独仏再び戦わず」がEUの精神である。「日中不戦、日中友好」が真のスローガンになってほしいと痛感した、旅であった。(713日ノーベル賞受賞者劉曉波氏が死去した。彼への対応について国際社会の批判がたかまっている。人権問題は中国のアキレス腱である)

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(写真・鳴沙山・ゴビ砂漠(敦煌市2017.7.𠮷川撮影)

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