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2017年12月 6日 (水)

日本・キューバ合作映画『エルネスト』

 

 

      ボリビア山中に散る若き命

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(写真・映画「エルネスト」のジャケット)

48年ぶりの日本・キューバ合作映画、坂本順治監督。この映画はオダギリジョーの演じる、日系人青年、実在のフレディ前村の物語である。

キューバ革命の英雄、余りにも有名なチェ・ゲバラと共にボリビア戦線に身を投じたフィレディ前村という若き日系ボリビア人がいた。“エルネスト”はゲバラから授けられた前村のファーストネームである。

 

     革命ではなく、医師を輸出したキューバ

 

フレディ・前村・ウルタード(19411967)は日系ボリビア人。鹿児島県出身、日本移民前村純吉とボリビア女性ロサウルタードの2男として生まれる。ボリビア共産党青年部所属。父親死去のため首都ラバスに引っ越し医師を目指す。しかし共産党青年部に所属していたこと等から医学部への門戸は閉ざされた彼に希望の扉を開いたのが、革命後3年しかたっていなかった社会主義国家キューバである。彼はハバナ大学の入学の前に、キューバのフィデルカストロが設立したヒロン浜勝利基礎・前臨床化学学校で予科過程を学ぶことになる。

 

キューバは1960年代初めから今日まで諸外国、主としてアジア、アフリカの開発途上国出身の若者に無償の奨学金を与え、多数の若者を向かい入れ、医学を学ばせ医者を大量に養成したことは有名である。超大国アメリカの経済封鎖に会いながらどうやって経済的にそれが可能になったか不思議なくらい、多くの医師を育て送り出している。

映画の中でも留学生たちのこざっぱりした寮生活の様子、死体への尊厳を踏まえた解剖の実習など医学講義、そしてゲバラや、カストロも大学を訪れ学生たちと「いかに生きるか」等親しく会話する様子が映し出される。

 

フレディ・前村がひそかに思いを寄せる女子学生が、彼の友人に妊娠させられる。そして彼は「自信がない」と言って卑怯にも女性から逃げる。彼女は子どもを産み学業を続けながら一人で赤ん坊を育てることになる。その時彼女は今までの寮を出て、家族で住める広い部屋が与えられ引っ越しする。子どもは保育所に入る。そうしたことをキューバ政府が保証している様子がさりげなく、映画に描かれている。

 

    ゲバラ…医師であり革命家に共通するもの

 

アルゼンチン人のチェ・ゲバラ(19281967)は2歳で小児喘息にかり生涯この病気に苦しむことになる。彼は様々な病気に苦しむ人を救おうと医者になる決意をする。ブエノスアイレス大学医学部生だった1952年、彼は南米を旅行し先住民、農民、鉱山労働者ら無数の人々が極貧の底で苦悩する現実を見て富裕層の白人のゲバラは衝撃を受ける。隣国ボリビアは19524月に鉱山労働者革命を経験していた。

53726日、キューバでは若き弁護士フィデルと弟ラウール(現国家協議会議長)のカストロ兄弟が革命の狼煙を上げるが失敗する。当時ボリビアにいたゲバラは2年後、フィデル・カストロに会い、その革命思想に共鳴する。

そしてゲバラは13年後、新しい革命を起こすためにフレディ・前村とともにボリビアにわたることになる。

 

 

    チェ・ゲバラと広島

 

映画のシーンは、革命直後のキューバから日本への特使として派遣されたチェ・ゲバラが広島の原爆公園を訪問するところから始まる。キューバ革命の立役者が日本に来ていたことさえ知らなかった私はまずこの設定にびっくりした。

映画は中国新聞社の記者の取材等、ゲバラの広島滞在の部分は日本語で、この後は総てスペイン語で、という作りになっていて、主演のオダギリジョーのセリフは見事なスペイン語である(と、言っても私はスペイン語はできない)。

 

「安らかにお眠り下さい。過ちは繰り返しませんから」という原爆ドームの原爆死没者慰霊碑」の碑文について「この主語は誰だ?」と問い、資料館を見て「君たちはアメリカにこんなひどい目にあわされて、どうして怒らないんだ」と述べるゲバラの言葉が印象的だ。

ゲバラはこのときのことを「平和のために断固戦うにはこの地を訪れるのがいい」と妻に書き送ったはがきもキューバで見つかっている。彼が撮影した原爆公園の写真(ゲバラは写真の腕もよかった!)とともに没後50年を記念して「広島・キューバ展」で公開された。(201792日毎日新聞)

ゲバラが広島を見学し原爆の恐ろしさを実感したこのシーンによって、私がはるか遠い南米の国キューバやボリビアの物語にぐいぐい引き込まれたのかもしれない。

 

 

      懐かしくも遠い青春

 

フレディ前村と私は同世代。南米大陸西海岸のボリビアと日本と離れてはいるが、同時期に青春を送った。前村はゲバラ率いる「ボリビア民族解放軍」兵士として19678月にとらえられ処刑され、ゲバラも同年10月に処刑されている。

米政府は「ラテンアメリカで第2のキューバは許さない」という方針で、ボリビア政府軍を指揮してゲリラ部隊を破った(伊高浩昭「なけなしの命を捧げたフレディとゲバラ―映画『エルネスト』の時代と背景」)。アメリカは革命へ干渉し有能な2人の若者を葬り去り、国家の民主化を遅らせた。医者となり、兵士となってひたすら祖国の解放の夢に向かっていった日系ボリビア人・前村の青春がまぶしい。

同じ時期、日本は60年安保の高揚が収まりかけ高度経済成長時代に入ろうとしていたが、私自身は人生の目標が定まっていたわけではない。あの当時の自分の思い、現代の若者たちの熱い情熱は何処に向かうのか、考えさせられる映画である。

 

NHKニュースによると、80年前にかかれた「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)がマンガとなって70万部も売れているという。生き方を模索することは時代を問わない。如何に生き如何に死すか.戦争が迫り来る時代に生きた昭和初期の知性は現代人にそうしたヒントを与えてくれるかもしれない。

(写真下・吉野源三郎著」「君たちはどう生きるか」がマンガ化されて、現代人に呼びかける)

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(写真上・参議院議員会館、12月は日暮れが早いまだ5時なのに。日本の針路を握る国会)

2017年11月25日 (土)

中国南京上海の旅 その3  2017年10月23日(月)

1842年上海、開港、1842年南京条約-辮髪の役人にイギリスによる租界強制、清朝が了解。墓地だった疎開地をイギリスが租借、イギリスに治外法権与える.1847年フランス租界要求、イギリスと同様の権限,1851年アメリカが疎界要求。1894年日清戦争

19世紀末から上海は列強に骨までしゃぶられた。 今回私達が訪問した上海は巨大な国際都市だった。

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写真・上海・豫園市場、大勢の人でごった返していた。

 

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(写真は私たち一行が南京で宿泊した古南都飯店)

 

 

<「中国人慰安婦資料館」20171023日午後>

 

 「中国人慰安婦資料館」は、上海師範大学構内に(中国人と韓国人の)少女像ができたことがきっかけで、昨年10月にここに移転し、1年経った。昔は地下室で湿気が多く、資料が置けない状態だった。修士、博士課程の大学院生と大学生のボランティアで運営している。この1年で来館者が4千人。同大学の教授たちの調査によって、上海には172個所「慰安所」があったことが判明した。

<このミュージアム完成の経過~陳麗斐先生の話>

蘇智良教授が『慰安婦』についてユネスコ世界遺産の登録のためパリへ出発しお会いできなかったので夫人の陳麗斐・同大学教授が代わって対応していただいた。

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写真上海師範大学構内の少女像の前に全員集合、少女像後ろの黒いメガネの人が陳先生

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写真・「中国慰安婦資料館」のある建物

 

〇中国「慰安所」調査の発端

夫の蘇智良先生が東大に留学し韓国の被害者とデモ行進している姿を見た。妻である自分は一橋大へ研修で一緒に行っていた。日本の学者から「慰安所」の話を聞いたが初耳だった。上海事件の研究をしている蘇智良先生も初耳だった。それを知らなかったことにショックだった。この問題を知らなければならないと1993年2人が帰国した。

 上海の楊家宅の慰安所の調査を始めた、日本の文献に基づいて資料に間違いが多かった。自分も調査に加わり170個所の「慰安所」があることが判明した。

 

 〇ご自分自身について

1997年になって「慰安婦」の調査に加わった。日本にいた時は「『慰安婦』は売春婦」という感覚で居たのでこの研究に加わりたくなかった。また、資料を家に持ってくると子どもが読んでしまうのではないかと心配だった。しかし、研究が深まると被害者の数はビックリするような数で1997年国連人権小委員会の研究に加わった。フィリッピン、韓国…その中に中国人は含まれていなかった。それらのレポーターは人数が20万人前後だったが中に中国人が含まれていない。これが調査の結論だとは思えない。地域が広く(日中)戦争の期間が長いので、この被害者の数は(少なすぎて)正しくないと思った。中国人「慰安婦」がいないのは不思議なことだと思った。原因は2つある。

 

第1、責任は中国政府にある。この問題を国連に訴えていなかったので国連の調査が来なかった。日本が中国に対してODA援助をしていたので中国政府が「慰安婦」に積極的ではなかった。

第2、中国人である私たちの責任は重大である。中国の大学に慰安婦問題をテーマに研究している学部がなかった。しかしODAがなくもやって行けるので、研究に加わることになった。

 

 蘇智良先生が全面的に加わるようになった。経済的に厳しいので仕事は続けなければならないので、夏休み、冬休みに子どもを連れて調査に出かけた。

 <民間のサポート>

 80年代になると中国の地方の歴史編纂ブームが起きた。地方の歴史を調べる中で侵略の歴史を調べ、日本兵の暴行も調べた。現在は地方の歴史研究チーム、ボランティアの協力、老人、若者も加わるようになっている。

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写真・日本でも知られている「慰安婦」、万愛花さんのパスポート

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写真・上海市内の慰安婦マップ

 

<展示ケースの中>

真新しいケースの中には様々な興味深い品物が、壁には沢山の写真が飾ってあった。私が気が付いた幾つかの資料、展示物を上げる。

1.コンドーム、フィルム入れ

楊家宅「慰安所」の写真

2.上海で『慰安婦』性病検査を初めて行った、麻生徹男医師の発案の木製の性病検査の診察台

3.被害女性の手形、足型の石膏

4.24カ所の「慰安所」地図と場所の一覧表 上海、南京、雲南省、黒竜江省等々

5.村瀬守康写真集『私の従軍中国戦線』より、慰安所の前に順番待ちの列をなす兵士達(私はこの写真は国会でパネルで示せなかった…あまりにも醜いので)

6.スマラン事件、ジャワハラ・オハーン(オランダ「慰安婦」の写真)

7.纏足なので逃げられない女性の写真

8.雲南省の被害者の写真

万愛花、朴永心、上海被害者、4人姉妹が全員「慰安婦」に

朱巧妹(1910年生まれ)、夫はゲリラ戦で戦死

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写真・広い、上海師範大学キャンバス、後ろの旗は共産党大会を祝って掲げられている

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写真・上海師範大学構内の少女像、この像に対して日本総領事と日本政府高官は2回も抗議をしたとの事

 

 <吉川コメント>

 

この資料館は完成して1年なのですべてピカピカで新しい。学生が何人もいて私たちの見学を手伝ってくれた。陳麗斐先生の話しからは、ここまでくる道のりは長く、困難であったことがひしひしと伝わり、展示物以上に心打たれた。

 

 中国では「慰安婦」問題を人権問題としてとらえ調査活動が本格的に始まったのは、韓国等よりずっと遅れた、という。国連の調査に中国人が入っていない。そこに焦りを感じ、これではいけないと先生の必死の取り組みが始まったのだった。

「慰安婦」被害者の数が20万人?そんなはずはない、中国人女性が含まれていないのだ、という点が一つのスタートであったという。

 

「上海事変」「満州事変」から数えれば日本の侵略の期間は長いし、また満州から上海、雲南省というビルマ国境(垃孟)に及べば広大な地域であるが、日本は「慰安所」を各地に作り、中国、日本、朝鮮半島の女性達を集めたのである。

 

 上海だけで172個所も「慰安所」があった。中国全土では何カ所あったのか?、という我々の仲間の質問に対して、「現在調査中なので答えられない」と先生は答えた。今後の調査が注目される。

 

 さて、この旅を終えて中国の『慰安婦』問題の取り組みの様子は理解できた。一方、日本人「慰安婦」が限りなくゼロに近い状態を、日本で運動を担う私たちはどうべきなのか。ずっしりと重たい宿題を背負って帰ってきた(吉川)

 

 

2017年11月19日 (日)

中国 南京 上海への旅その3

20171021日(土)

 

<南京民間抗日戦争博物館>

日本人として、南京は絶対に行かねばならない都市であるが私は中国へ何回も行っているのに、南京は初めてである。

1937年末から1938年にかけて30万人の中国人が日本軍に虐殺され、数万人から10万人以上の女性が強姦された事実について、日本ではこれを否定する主張が公然と為されている。否定しないまでも「30万人も殺していない」等と数の問題に矮小化する意見が幅を利かせている。しかし、私達の旅はしっかりと日本軍隊が行った蛮行について向き合う旅であった。

「大量殺人の用具が発達し洗練された今世紀にはヒトラーが600万人ほどのユダヤ人を殺し、スターリンが4千万人以上のロシア人を殺したというのは確かな事だとしても、これらの死は数年間をかけてもたらされたものである。南京での虐殺はわずか数週間に集中して行われた(アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』200712月同時時代社)

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写真・揚子江の河岸にあった虐殺記念の碑

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写真・強姦を逃れて逃げ込んだ中国人女性をかくまった金陵女子学院

<日中市民交流会>2017.10.21 1300 

 

館長挨拶「来訪を楽しみにしていた。日中交流の基礎と喜んで受け入れた。日本には意見がバラバラあるようだが正しい認識にしてゆくために交流が第1.これもまた私がこの博物館をつくった目的の第1である。平和な生活は私たちにとって重要である。これがいつまでも続くように努力が必要。この博物館もその1つである

 

<犠牲者の末裔の発言1 男性>

 

生存者末裔劉さん。妻の母(義母)が南京大虐殺の生存者。義母が死亡したので義母の代わりに話す

義母が9歳の時に南京大虐殺あった。193712月に日本の侵略軍がやって来た。家族13人が殺され、13の家屋が燃やされた。義母は生き残った。義母はこの話をよくしてくれた。戦争は人の命が一瞬でなくなる。今の生活が貧しくとも平和であればいい生活だと言っていた。以下は義母の語った話

 

 「80年経ったが恨みは忘れても真実は永久に忘れたくない。日本がこの真実を…

11軒の隠れている家から村人が外に追い出され群れを男と女に分けた。若い男性がされ、老人と子供は1つの部屋に入れられた。部屋は狭かった。日本人が入り口で待機していた。母の兄弟、当時9歳と一緒に入れられた。夜になると燃えるものだされて日本兵にご飯を炊いた。(川へ?)手榴弾投げて魚を取ろうとした。若い男魚取りに。冬なので凍死した。大変だった。食べた後日本兵が火を燃やして、間もなく後に女性の部屋に入り、女を辱めようとした。若い女性は一人ひとり縛られていた。みんな恐怖心おぼえた。部屋に残った女たちが後ろの山へ窓から逃げた。母も弟と妹を連れて山へ逃げた(幸いなことに)。

翌日逃げた人は村の人々を助けたという事で村の男性全員捉まえた。担当の所は一人ひとり縛られて連れて行かれた。彼らを輪にして(並ばせ)真ん中で手榴弾投げて多くの人死んだ。母の兄、お祖父さんは幸い生き残った。日本兵が銃剣で死んでいない人を刺し殺し、母の兄は刺殺された。お祖父さんは生き残った。この後日本兵はいなくなった。

血まみれの祖父が逃げて…祖父はその事を一生話すことはなかった。(お祖父さんの写真示す)、だいぶ前に70歳で死去した。小さいころお祖父さんを見ていた。日本と中国が仲のいい隣人になるように願う(終わり)

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写真・南京民間抗日戦争博物館の前で

 

<犠牲者の末裔の証言2 女性・白髪>

 

今日ここで中日交流の場で話す。1942年父親を亡くす。父は国民党の軍人として秘密の戦いのために南京に派遣された。裏切り者の処罰の仕事をしていた。軍を裏切ったものの処刑で、弾が命中せずに摘発され処罰された。南京の憲兵隊(日本の?)が過酷な尋問したが父は一言も言わず、その結果殺害された。

 

1957年母が、父が死んだ経過を話した。日本憲兵が怒って高いところから突き落として内臓も犬に食われ悲惨な死だったと父の同僚が話してくれたことである。

自分は19424月生まれ、生後間もなくなので父の顔は知らない。幼い時に父を亡くし母は苦労して、母は私を連れてあちこち逃げ回る。健全ではない家庭で苦しんだ。それを思い出すとつらくなる。(泣く)。今回の訪問団(我々の事か?)70歳超えている。もう1回繰り返すと次の世代がくれぐれも(我々の時代のように)ならないように。孫の代のこの話をしても理解されない。理解してもらえなくともどんどん話をしてゆこうと思う。皆さんお伝えて行っていただきたいと思う。(終わり)

 

<研究者の講演―南京の人口は、事件1年前には百万人を超えていた!>

 

当時、公安局の調査で南京の人口が100万人を突破していたことは明確に分かっている。南京の人口は30万人も居なかったという日本の右翼の発言は誤り。

1937年、南京事件直前のデータ。勤労大学、政府の役所関係、全て調べられている。人口が増えたことは事実。

1軍人の数、12万人いたが、戦死、西方面への脱出で残ったのは10万人。

2増えた分―数えきれない難民、南京に流れ込んできた。どこが安全なのかと。

3 資料ではピーク時よりは少ないが南京陥落時の人口は70万人~80万人

南京大虐殺の後傀儡政権出来た。直後の人口40万人(傀儡政権・軍が調査)

 

しかし、人口が30万人いたか否か、一番重要なことではない。虐殺の事実が重要である。日本兵の100人斬りのような事実があった。日本の新聞が報道しているのであって、中国の作り話ではない。(虐殺の人数、人口等の数字も)人数は学術面で重要だが、虐殺があったことが重要である(以上)

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写真・死体が大量に流れ着いた揚子江、今は護岸もきれいに整備されている

 

旅行団の質問と館長&研究者の答え

 

Q上海から南京へ、日本軍は膨大な中国人を殺したその数はわかっているか

A.日本軍は集団として日清戦争以来やって居た事である。

1980年、南京の捕虜虐殺で毎日新聞社が写真集出版した。捕虜、民家の虐殺は上海から南京の間について調査行ってきた。昆山租借、蘇州の町調査などが進み明らかになっている、具体的数は調べている最中

 

Q自分は19375月生まれ(南京事件の年に生まれた事を強調)40歳の頃、南京大虐殺の写真集を出した村瀬守康さんと一緒に仕事していた。今回有り金は焚いて中国に来た。生活は楽ではないが

 

Q生存者はどんな活動しているか

A.南京大虐殺は中国でも注目されるようになった。民間の人から中秋の名月に慰問金届いたりしている。民間レベルでボランティア活動で高齢化している生存者に日頃の見守りやっている。90才等の高齢の生存者は100人居るかいないかである。親の活動を中断されずに語れるように力を入れている。

 

Q南京のシンドラー、ラーベの映画について

A.観客数は少ない。中身が悪かったわけではない。中国には『南京 南京』という映画もあって。日本ではそうした映画は少ないのではないか、「ラーベ」は日本で多く上映してほしい

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写真・虐殺から数万人の中国人を救ったジョンラーベの胸像、彼はドイツ企業の南京支社長でナチス党員だった

  吉川のコメント

 私はこの民間抗戦戦争博物館の館長の呉先斌氏には去年名古屋で会っている。名古屋市公会堂で開かれたシンポジューム・東アジアから日本の憲法を考える」(アジア太平洋文化フォーラム発足5周年行事/コーディネーターは水野磯子さん)で、パネラーとしてともに参加した縁で私はこのミュージアムの存在を知った。

 

その時、呉さんは、私財を投じて資料館をつくった事、経済的にも政府の援助は受けていない事、本当の歴史を伝えるために政府の出資をうけず、10年間続いていると述べた。

 また名古屋に来る前に京都、金沢、長崎、岡山を回っているうちに右翼の勢力が伸びていることを感じ氣が重くなった、中国のマスメディアより日本がひどいと感じた、とも語った。

シンポジュームに参加して、日本にはこんなに素晴らしい皆さんが居る事に敬意を表する。平和憲法を改悪されないようにと念じて皆様と連携したい。ぜひ南京に来てほしいと呼びかけた。

 

 私達は南京では「大虐殺博物館」が改修中で見学ができなかったが、呉館長が設定してくれた交流会で私たちは目的を達することができた。

  

 そして、南京虐殺の生き残りの遺族が2人、虐殺の生々しい事実を、加害国の私達に語ってくれた。それだけではなく、日本と仲良くしたいと述べたことに感動した。

 南京に名100万を超える人口があり、事件発生当時も7~80万人がいた事もはっきりした。しかし、館長が言うように、人数が最大の問題なのではない。アイリスチャンが言うように、今世紀最大のホロコーストに対して明確に向き合っていない日本の責任が問われているのだ。

 

 日本人の最大の課題は歴史の事実と向き合い、それを記憶にとどめる事である、と改めて思った。加害の歴史博物館が日本に建立されるのはいつの日か。

2017年11月12日 (日)

中国 南京 上海の旅 そのその2

 

Ⅰ 南京利済巷慰安所旧跡陳列館(「利済巷慰安婦資料館」)

 旅の二日目、私たちの見学の最初に訪れた「利済巷(りざいこう)慰安婦資料館」に入るや否や建物の正面の大きな銅像に私は度肝を抜かれた。お腹の大きな女性とそれにすがって泣き崩れる2にの女性の像である。悲しみと怒りがこれほど伝わってくる銅像も珍しい。その人は北朝鮮の「慰安婦」朴永心さんである。

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写真・大きなおなかの女性にすがって泣きじゃくる2人の女性

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写真・利済巷慰安所の建物

 

「南京利済港慰安所旧跡陳列館」リーフによれば

「この建物は中華民国時代の8棟の歴史建築で構成され、国民党中将楊普慶氏のよって1935年から1937年築かれた2階建てのレンガと木材混合の建築物であり、「普慶新村」と名付けられた。1937年末日本軍が南京を占領後、利済巷2号の建物を「

東雲(しののめ)慰安所」(朝鮮人慰安婦・吉川注)に、18号の建物を「

故郷(ふるさと)

楼慰安所」(日本人慰安婦=吉川注)に改造した。利済巷2号の2階にある19号室は朝鮮籍「慰安婦」被害者朴永心氏が3年間日本軍の性奴隷に強いられたところであり20031121日、朴氏が南京に来られた際、この場所を確認した。ここもまた唯一の外国籍「慰安婦」被害者に現場で確認された慰安所である。201411月、南京人民政府が利済巷慰安所旧跡の修復、展示作業を行い、201512月から正式に開館した。

アジア最大の慰安所の資料館・201512月開館。日本軍第16司令部駐屯地近く。3か所の慰安所のうち2カ所が残った。記念館として残る。

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写真・ここは1等地。利済巷慰安婦資料館の周辺は超高層ビるが林立する

 

<こう館長挨拶>

「皆さんを歓迎する.。南京市のど真ん中にある利済巷ミュージアム。(「慰安所」の)現場に建てられた。7つの建物は1920年代から30年代に建てられた。「慰安所」の跡。2つの慰安所。

「東雲慰安所」は朝鮮人女性を監禁していた。

「故郷

慰安所」は日本人女性が監禁されていた。

 2003年に朴永心さんがここに自分が入れられていると本人が確認し外にある銅像は雲南省で米軍の捕虜となった時の写真を基づいて作られた像である。日本軍国主義者が起こした侵略戦争で朝鮮の人権を踏みにじった(朴永心の事か?)事の反省をすることがこの間の趣旨である。中国、日本、世界の人民の平和の時代に生きたいという願いが発展してきた。より多くの人に来館していただき再び悲劇を繰り返さないでほしいという事が我々の願いである」と語った。

 

<館長とのやり取り>

私は1995年北京女性会議では中国人の「慰安婦」はワークショップに参加をさせられなかった事を念頭に以下の質問した。

 

Qミュージアムの建設が遅いと思うが、中国政府の方針の変換があったのか

 

A「(朴永心さんによって?)現場が確認された後すぐに学者に呼びかけた。土地が高いし買収に大変苦労した(この辺りは1当地で高層マンションが林立している=吉川)。建設の条件がそろってから半年で建設した。「慰安婦」問題について政府の方針変わらない。自分も政府の一員だがこの先も新しい資料を求めてゆきたい。被害者は幅広く日本人、韓国人、ヨーロッパ人、中国人等でこれからも幅広く研究してゆく課題があり之からも頑張って行きたい」との回答であった。

 

その他活発な質問が出て、館長は精力的に回答してくれた。

 歴史教育は中国では全国民に対して行っている。しかし南京大虐殺と「慰安婦」に関しては小さい子どもには配慮して行う。館の広さに限界があるので入館者を制限している。1200人が限度で、「南京大虐殺記念館」のようには受け入れられない。

 

 地域の小中学校の社会科見学については、学生の来館者が多く、教育の場として館を利用することについて学校と協力関係にあり、学生ボランティアを活用している

 

 「慰安婦」の証言ビデオをとってほしいとの要望には、大事なことだ。しかし中国伝統的考えで人の前で語るのは困難だった、近年、映画監督によるものが公開された。32のドキュメントがある。今22のドキュメントを公表して大変好評を得た。「慰安婦」問題をますます多くの人に知られるようにしたい。

 

高齢などでなくなって、生存者はいま14人である。急がなければならない課題である。皆様の様な研究者と資料の共同研究をしたい。後藤ひろみさんが22人の「慰安婦」の映画の公開が日本で準備されていると補足した

 

 南京における日本人「慰安婦」の人数、「慰安所」の数についての質問には、管理者によって他へ連れていかれたか調べている。日本で情報があったら教えてほしい。

 

 南京大虐殺については学者のリュウさんが「この館は「慰安婦」がテーマだが南京大虐殺の中には性暴力も含まれる。我が館ではまだ十分見せることはできないと思うのでこのテーマについて頑張っている

 

朴永心さんの事

 「192112月平安南道南浦に生まれ17歳で日本人巡査に「お金が儲かる仕事がある」と騙されて南京の「慰安所(キンスイ楼)」に売られ2回の19号室に閉じ込められた。「いう事を聞かないと軍刀で切り付けられたり拷問された。1942年ビルマに移送、その後中国雲南省の第56師団の

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守備隊の慰安所に連れていかれた」(「第14回特別展カタログ・地獄の戦場ビルマの日本軍慰安所」)

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写真・「自分がここ2階19号室に閉じ込められていた」と証言のため2階へ急ぐ朴永心

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写真・源氏名「若春」、(本名・朴永心)の木札

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写真・保護された時の朴永心、裸足、目はうつろ、お腹は大きい

 

 拉孟陣地の陥落が刻一刻と迫り横股陣地から慰安婦の何人かが飛びたしたのを吉竹伍長が見ている。その中に「若春」本名朴永心もいた。日本人の女性(慰安婦)が「一緒に逃げよう」と言い、一緒に壕を飛び出した。中国兵に捕まった。…流産しかかって歩くのもつらかった。中国人医師の手術を受けたがおなかの子は死産であった。治療を受けた後…混迷の捕虜収容所に連行された。20068月死去している。

 

 200311月に南京を訪れこの「慰安所」219号室にいたと証言している(利済巷慰安所資料館館長の話)という事は死ぬわずか29カ月前である。利済巷資料館は彼女の死後9年を経て解説している。

 波乱万丈というにはあまりにも痛ましい人生であった。しかし「慰安所」の事実を後世の記憶にとどめるため朴永心は大きな貢献をしたことになる。

2017年11月11日 (土)

加害と「慰安婦」の視点でめぐる 中国 南京 上海 その1

 

「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の今年のフィールドワークは中国の南京、上海で行った。突如、国会解散総選挙が入り旅行をキャンセルせざるを得ない方も数名出たが私たちは予定通り決行した。

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(写真・高層ビル、南京)

南京駅のすぐ傍は玄武湖があった。亀の上に蛇がいる日本の古墳の壁画に登場する玄武はここが発祥の地であったのだ。また、三国志の英雄・孫権が都とした地でもある。忌まわしい近現代の歴史がなければ南京のイメージはどんなにか文化的であったことか。

「上海だより」、「上海の花売り娘」、「上海帰りのリル」…戦前も戦後も歌謡曲に歌われなじみ深い上海はまた、「慰安所」第1号が設置され女性達の屈辱と苦しみの歴史で汚された都会である。いずれも中国人民に全く罪はない。私にとって懐かしい、親近感を持つ都市である。

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(上海の夜景)

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(揚子江の雄大な景色、昭和12年当時、死体累々の護岸は今は整備されて)

   以下数回に分けてフィールドワークを紹介する。

 

加害と「慰安婦」の視点でめぐるー中国 南京 上海

日本の加害の歴史に向き合う旅

 

2017年10月20日(金)~10月24日(火)6日間

 

{第1部 日程}

 

1020日 第1日目 東京~上海~南京

成田空港発 10:55 上海空港13:25 

福岡空港発 9:45 上海空港着 10:50

(成田発と、福岡発が合流)

鉄道 上海駅発15:30 南京着19:25

古南都ホテル(南京グランドホテル)泊

 

1021日 第2日目 南京

  利済巷慰安婦資料館見学(アジア最大の慰安婦の資料館、2015年開館)9:3011:30

  南京民間抗日戦争博物館見学13:3016:00

  夕食(江蘇人家:江蘇料理)

古南都ホテル(南京グランドホテル)泊

 

1022日 第3日目 南京

  南京国際安全区見学9:3012:00

  ○中山埠頭 ○旧金陵女子文理大学 ○ジョン・ラーベ記念館

 

  南京市内見学

  ○中華民国総督府

  夕食(レストラン福憶祥:広東料理)

 

1023日 第4日目 南京⇒上海

  南京発(高速鉄道)8:00  上海着 9:39

豫園市場見学10:1512:30

 

上海師範大学構内「中国慰安婦資料館」(中国初の「慰安婦資料館」)見学

14:0016:30

夕食(致琉餐庁:上海料理) 夕食後に外灘(バンド)の夜景観賞

1024日 第5日目 上海⇒羽田/福岡

  上海市内見学8:3011:45

  ○上海博物館、 ○魯迅公園

  大一サロン見学(世界初の「慰安所」の跡)

   (成田空港行きと福岡空港行きが分かれる)

  上海発(羽田行き)17:25  羽田空港着 21:20

  上海発(福岡行き)18:10  福岡空港着 20:50

2017年10月19日 (木)

ワークショップ・.日本人「慰安婦」を知っていますか

回東京都文京区「男女平等センター祭り」参加・

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 テーマ

日本人「慰安婦」問題を考える ~各地の調査から見えてきた事~

   あなたは日本人「慰安婦」について聞いたことがありますか?

 なぜ、大勢いた日本人「慰安婦」を私たちはよく知らないのでしょうか?

 ご一緒に考えませんか。私達は去年と今年、旧ビルマの「慰安所」にいた

  日本人女性の本籍地と、各地の元遊郭を調査しました。その結果見えてき

  た事とは…

  日 時:2017年10月28日(土)13時半~16時半

   場 所: 文京区男女平等センター 研修室C

  (地下鉄・丸ノ内線・本郷3丁目、都営三田線・春日下車、各5分)

 コーディネーター 吉川春子・

   「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミ

                  ナール代表 

          報 告 棚橋昌代・同事務局長

    具島順子・同運営委員

    藤園淑子・同運営委員

 

 {その他の企画・同じ会場で}

 

★「慰安婦」問題に関するパネル展示9時半~4時半

 

★ DVD『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』審議

9時半~13時半(2002年7月参議院内閣委員会)

 入場無料

 

   「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール

東京都文京区本駒込6~14~8~602吉川気付

電話&FAX 03~5976~5188

RAAと「奈良R・Rセンター」

    朝鮮戦争の時も、米兵のために日本女性の性がささげられた!

 

よく知られているように、敗戦直後に政府は民間組織・RAA(Recreation Amusement Association)を設置して「米進駐軍の強姦・性暴力を防ぐため」55千人~7万人の女性を集め全国に「慰安所」作った。

しかし、朝鮮戦争の時にも地方自治体で同じようなことをやっていた事を私は知らなかった。102日に奈良に行って湯沢さんから其のことを聞いてびっくりした。

 

奈良県は占領軍受け入れに伴い占領軍用慰安施設の設置に積極的に取り組んだ。1945(昭和20)年に奈良市登大路「新温泉ホテル」・「あやめ池温泉」にキャバレーが設けられ、大阪からダンサーが集められたらしい。天理市丹波市町にも酒場万年楼が開業された(『奈良県警察史昭和編』)。

1946(昭和21)年、GHQによる公娼制度の廃止の指令を受け、31日奈良県は貸座敷業を廃止した。ここまではほかの都道府県と同じ対応である。

 

しかし、その数年後、朝鮮戦争勃発とともに日本の米軍基地はアメリカの恰好な前線基地となった。そして米兵に日本女性の性が再びあてがわれたのである。女性を性的な側面しか見ない政府の体質は、「慰安所」制度を創設したアジア太平洋戦争の時代と変わっていない。政府の女性の人権に関する認識が、敗戦を経て、日本国憲法が制定されても変わっていない事は許しがたい大問題である。

 

「奈良R・Rセンター」は、朝鮮戦争で戦う兵士の元気回復施設

 

RRセンター」とは1952(昭和27)年、51日、朝鮮戦争に際して国連軍(米軍)兵士のための「休養と元気回復」の施設である「RRセンター」Rest and Recuperation Centerが、大阪市内から奈良市横領町(平城宮跡正面)のセキスイ工場に移転してきた。

1月後には近辺にカフェーバー34戸、ギフトショップ12戸、飲食店7戸、キャバレー4戸、ストリップショウ3戸などが立ち並んだ。売春婦は3千人いたと言われ、周辺の風紀の乱れは著しかった。

 

「このセンターは朝鮮戦争から5日間だけ帰休する兵士の休息・元気回復を目的とした宿泊施設で、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって195251日に奈良県旧横領町に設置された。

「R・Rセンター」自体は性的慰安施設ではなかったが、設置されるや否や周辺にはカフェ―、キャバレー、バー、土産物店、洋品店などの店舗ができ、まるで西部劇映画に出てくるような独特の景観が出現し、夜も眠らない不夜城のようだったという」

「帰休兵を相手に仕事をしよう」と歓楽街に全国から1000人とも2,000人ともいわれる女性が集まって来た。女性達と米兵を仲介するポン引きも集まり、平城宮跡の南に位置した「R・Rセンター」一帯は性売買の基地と化していった。

 

     週1回の性病検査、合格者に安全バッジ

 

1951年には奈良市に「売春取締条例」を制定。休暇を終え再び戦地に向かう兵士に性病が蔓延するのを防ぐために、県予防課では歓楽街の業者が中心になって「奈良駐留サービス協会」を設置させ、接客婦300人に会員になってもらい、米兵相手の女性を協会に登録させ、週1回の性病検診をうけさせた。性病に罹患していないことが証明されれば、バッチを与えこれを身につけることで「安全な女性」と米兵に知らせるシステムだった。…しかし隠れた多くの売春婦もおり、性病の状況は暗闇の中のように図りたいものがあった」(江夏香菜「R・Rセンターと古都の退廃」奈良県女性100年史㊻他)

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写真「R・Rセンター」傍の小学校、教師は毎朝コンドームを水路から拾う仕事…

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写真・小学校の道路の向かい側に建つ都跡村役場の碑

 

R・Rセンター傍の小学校教師は、毎朝・・・

 

 私はこの問題に詳しい研究者の案内で「R・Rセンター」のあった付近、旧・都跡村へ行った。都跡村跡には真新しい碑が建っていて(写真)、道路を隔てた向かい側は都跡小学校がある(写真)。

その方の話によると、当時教師は朝早く学校に来て、水路に投げ捨てられている沢山のコンドームを拾い、子どもの目に触れないようにすることが日課であったという。

 売春婦を間借りさせている家の3年生の子どもは、「どんなことがありましたか」の教師の質問に、「勉強を見に来る」、「パンパンガ風呂に入っている時アメリカ兵がたばこをくれと言って入ってくる」、「障子の影でキスをするのが見える」等々…児童の小さな目が好奇心を持って眺めている。小学生の中で「パンパンごっこという遊びが流行したり…近辺の子どもたちへの悪影響が心配される」と報告されている。(同上「古都の退廃」)

 

    反対運動

 

  こうした中、労同組合、大学教職員と学生、宗教者、地域住民の反対運動が活発化した。映画「饗宴」が当時のそうそうたる俳優を使って製作された。

1952(昭和27)年9月「R.Rセンター廃止期成同盟」結成(奈良ユネスコ協会、奈良総評、奈良教職員組合)、

1953(昭和28)年8月、奈良RRセンター調査団(奈良学生ユネスコ、奈良学芸大、奈良女子大学生)の調査行われる

812日、奈良R・Rセンター、神戸市への移転決定

824日、米海兵隊4000人が奈良市に駐留開始、

「R・Rセンター廃止期成同盟」は、「奈良市非武装都市建設同盟」を結成

912日、神戸R・Rセンター開設

926日、奈良R・Rセンター完全閉鎖

12月、映画『饗宴』ロケ開始、翌年公開(出演・望月優子、三島雅夫、東野栄次郎、中原早苗)

 

<吉川コメント>

平城京の美しい門が幹線道路から見えるが、そこを車で少し通り過ぎると、R・Rセンターの址付近都跡村役場跡の碑と都跡小学校がある。まさに平城京という日本の古代の中心地の真ん前で、アメリカ兵の性の狂乱の地となったのだ。

「語られてこなかった奈良の歴史のひとつが「奈良R・Rセンター(Nara Rest and Recuperation Center)」だ。「一般の女性の貞操を守るために兵士相手の女性を集め「守られるべき女性」と「彼女をまもるべき女性」の構図がつくられた。後者の女性達は戦争で働き手である親や夫を失い自活を余儀なくされたものだった」(「戦争と女性―奈良RRセンターが問いかけるもの」松村徳子(「奈良女子大アジア・ジェンダー文化学研究センターNo.11 )との指摘は重要である。

1953年同施設は神戸に移転し、「神戸R・Rセンター」が開設されたとあるが、その後どうなったのかについて今は情報がない。引き続き調査をしたい。日本人「慰安婦」問題を過去の問題にしてなはらない理由はここにもある。(吉川春子)

 

2017年10月15日 (日)

奈良県出身の日本人「慰安婦」を探す旅

 日本人「慰安婦」の身元は何故わからないのか

 

私はこの2年間、9人の日本人「慰安婦」等の本籍地と現住所を尋ねる旅をしてきた。しかし、なかなかご当人の消息に訪ね当たらない。この女性もその一人である。

笠置慧眼著『ああ、策はやて隊(私のビルマ従軍記)』に次のように記されている女性がいる。

 

本籍地 奈良県 芸名・ハツエ 本名 ●藤 トク

 

私は笠置慧眼医師の姪である藤園淑子さんを介して名簿について少しくわしい情報を入手した。現住所は大分県速見郡であった。

20163月私は藤園淑子、棚橋昌代、具島順子の3氏と共に大分県共産党書記局長の車で大分県へ調査に行った。元町議の安倍さんが案内役として加わり、現在は杵築市に合併されている該当の部落を尋ねた。そこは「限界部落」かとも思われる雰囲気である。1軒の家があり尋ねて見たが留守だった。通行人も通り過ぎる車も見当たらず、なす術もなくそこを後にするほかなかった。

現住所が遊郭の中だと、戦後赤線に移行し、さらに売春防止法施行で赤線も廃止される等で街も一変している。手掛かりはつかめない。しかしそこは山村で戦争前は人口が一定数いたと思われる。彼女の親戚縁者が全くいないはずはない、と思いつつも手掛かりはないので諦めた。

 

     戸主との姓(苗字)の違いが意味するもの

 

この女性を仮にK女と呼ぶことにする。現住所はだめでも、本籍地には親兄弟の痕跡があるのではと考え、2017102日私は藤園淑子さんと一緒に、K女の本籍地を尋ねた。

K女は戸主(父親又は夫等)との苗字が違うのだ。娘か夫である場合は戸主と同姓である。旧民法の知識に乏しい私には、どんな場合に戸主と苗字が違うのか、わからない。(どなたか教えて下さい)

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写真・女性の故郷の街道

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写真・部落名を刻んだ掲示板

 共産党宇陀市議の八木さんが色々調べてくれて、当日一緒に回っていただいた。本籍地の部落は現在の町の中心部からは少し離れている。ほんの狭い地域なので地番がわかれば住所は確定できるのだが笠置軍医から入手した名簿には地番がない。この地域のお寺も訪問して過去帳の調査をお願いした。突然訪ねたにもかかわらず住職が心よく事情を聴いて下さった。

小雨降る街道を行きつ戻りつしてK女の本籍地を目に刻んだ。そこはくすり問屋が沢山ある裕福な街として栄えた。町並み保存をしたら観光客が殖えそうな趣がある。八木市議のお父さんの友人という古老が、自分は一貫してこの町に住むが、そのような名前、苗字の人は聞いたことがないという。翌日町役場でいろいろ調査してくださったが、結局わからなかった。

 

将兵の名前・身元・軍歴は何故判明しているのか?

 

70数年前の事なので、「慰安婦」として送られた芸妓・娼妓の身元がわからないのは不思議ではない」という見方もあるかもしれない。しかし、同じく戦場に駆り出された男性達、即ち数百万人の日本軍将兵は名簿と軍歴が明らかになっていて、軍人恩給がきちんと支払われているのだ。兵士が死亡した場合には妻子に恩給が支払われて来た。

戦火を経て、また敗戦後は不利な証拠の隠滅を政府、地方組織に至るまで、大々的に焼却したが、兵隊の名簿は、何処にあったにせよ、残っていたという事である。

赤紙1枚で戦場に駆り出し、命を奪ったのだから、名前、軍歴を政府がきちんと掴み保存することは当然である。その資料を焼却しなかったことも当然である。

一方、なぜ女性の名前は不明なのだろうか。日本人「慰安婦」の数はおそらく多くても数万人であろう。遊郭から女性を「慰安婦」として東南アジアへ送るときは、住所、本籍、戸主等の名前を警察に申告させて許可証を発行している。そうしないと海外渡航は許可されない時代であった。警察が名前等を掴んで、保存していてもおかしくはない。それは植民地であった朝鮮も同様である。私の入手した名簿には朝鮮人の女性の名前も掲載されている。

   県警の歴史に「慰安婦」の記述がない、不思議さ

 そういえば、『各都道府県の警察史』には廃娼運動、遊郭の取り締まりに関する記事は詳しく記述されている。遊郭について知ろうと思えばまず警察史をよむべきである。また、敗戦後の米進駐軍のための「慰安所」についてもどのようにして設置したかの記述も詳しい。しかし、遊郭から娼妓・芸妓を「慰安婦」として海外渡航させた記述を、私はまだ読んでいない。(沖縄県史にはあるかも…)

ぜひ次の警察史発刊の折にはこの件について県警は語ってほしいと思う。

   政府は日本人「慰安婦」実態を公表すべき

 

政府は「慰安婦」として海外に送った女性達たちにも、兵士の恩給と同額は言わないが、生活の糧を支給すべきであった、と私は考える。すくなくとも、何人の女性を「慰安婦」として海外に送ったのかをぜひ明らかにしてほしい。(吉川春子)

2017年10月14日 (土)

奈良県大和郡山市の遊郭調査へ

 

 遊郭は日本人「慰安婦」の供給源 

 

 2017年103日、私は奈良県出身の日本人「慰安婦」の調査に宇陀市に行った(この件は別項で報告したい)。翌日奈良県の遊郭を見学した。遊郭の調査は、日本人「慰安婦」調査の一環である。

 

奈良は古都にふさわしく遊郭の歴史も古い。私は湯沢和子・忠一ご夫妻の案内で大和郡山市の「洞泉寺」遊郭跡を見学し、帰りに郡山駅に行く途中車で「東岡」遊郭跡を商店街の中を通過した

 

日本人「慰安婦」の中かなりの人達が遊郭から動員されている。戦争で遊郭の商売が成り立たなくなって、町が寂れ料理店など遊郭の業者も日本の侵略、占領地へ商売を移動していった。女性達は軍が前借金を500円~1000円出すという条件に呼応していった。こうして遊郭は「慰安婦」供給源となったのだった。*遊郭=ある定められた一角に、貸座敷、娼妓、芸者、待合、料理店等の集合している遊里のこと

 

 

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写真・市の協力を得て保存、活用されている建物。ハート形の窓の下は隣接の寺の境内

Photo_2 写真・道に面した貸座敷の面影遺す建物 

 

  郡山遊郭には300人以上の芸妓・娼妓が

 

 

「奈良県に置かれていた遊郭は、奈良市内の「辻」、大和郡山市の「洞泉寺」「東岡」

 
の合わせて3か所。…大和郡山は城下町。商業の街として栄え戦時中も空襲の被害をうけ
 
なかった。妓楼は洞泉寺の門前から参道一体に並び昭和5年6月には17軒の店に娼妓
 
165人。戦後は赤線に移行することなく廃止された。現在も当時の建物が数棟姿をとどめ
 
ており、ハート型の窓が目を引く三層楼「川本邸」は市によって保存活用が進められてい
 
る」(木村総『色町百景―定本赤線跡を歩くー』2014.6.30 彩流社) 
 

 奈良の遊郭には県内以外の大阪、京都、兵庫などからも女性が集められてきたと

いう。女性が自立して働くことができなかった時代、また義務教育は小学校6年まで

で上級に進学できない女の子が圧倒的に多かった時代、彼女たちは性産業以外に働

き口は皆無に等しかった。

 

ここは時代をタイムスリップしたかのような古色漂う街並みで、歴史を感じる建物

が軒を接して残されており、街角から芸妓が三味線を抱えてふと出てくるような趣

がある。

 

   女性が体を売ることを当然としていた戦前の日本 

 

また、別の本によると「郡山東岡遊郭は奈良県生駒郡郡山町字東岡に在って関西線

郡山駅の東南約7丁の地点に当たっている。…ここもやはり遊郭になっていて、揚屋(貸座敷)が21軒娼妓が全部で190人居る。ここは総て大阪式で、置屋から娼妓を揚屋に呼んで遊ぶのである。従って*廻しは一切取らずに全部時間制または仕切り制になっている。…洞泉寺遊郭は、東岡遊郭よりは建築においても…あらゆる点において一歩譲って居る。貸座敷は目下17軒あって、娼妓は150人居る」(全「コレクション・モダン都市文化 第34巻 遊郭と買春 全国郭案内」2008125日 ゆまに書房)*貸席=関西方面の言葉で、御茶屋または揚屋を言う。芸娼妓を上げて遊ぶ家料理は仕出し屋からとっている  *貸座敷=芸者の置屋、揚屋、又は兼営の家等を総称したもの  *廻し制=一人の娼妓が同時に2人以上の客を取って順次客から客へ回って歩く事

 

 

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写真・貸座敷の内部

         芸妓・娼妓は性奴隷だった

「洞泉寺町」遊郭で細い路地を歩いていると2メートル程しかない狭い路地の両側に大きな石が置いてあって、そこに見張り番がいて、女性の逃亡を防ぐ場所が残っていた。

 

 

古色騒然とした木造の建物の窓は一面に格子で覆われており、当時も建物の中で何が行われているのかうかがい知ることはできなかっただろうと思う。 

 

貧しい農家出身の娘で芸妓・娼妓となった女性達は、客を次々に取らされて自分の体を犠牲にして稼がざるを得なかった。病気で働けなくなるまで働かされ、廃業の自由は事実上なく、借金は増えても減ることはなかった。性病をうつされ、結核になり、或は妊娠して子どもの出産はどうしたのだろう。子どもは無事に育てられたのか…等々、女性達の苦しみは想像以上だっただろう。 

 

江戸時代の浮世絵の花魁を芸術作品として鑑賞の対象としてきた私は、今は苦い思いを噛みしめている。観賞用に着飾れるだけ着飾り、高いぽっくりを履き、大きく結った髪にかんざしを沢山さして街を歩く派手な女性達。そのいでたち以上に借金を負い、家族の生活を背負い、心の傷に耐えていたに違いない、という思いが今の私にはある。

 その女性達が、アジア太平洋戦争の時代、「お国のために」という、軍と政府の誘い文句で、前借金を軍が支払って『慰安婦』にさせられたのである。

彼女たちは強制連行させられたのではない。また無垢な少女でもない。しかし遊郭の女性なら「慰安婦」にさせられても仕方がない、彼女たちは金もうけのために「慰安婦」になった、ともし考えるならそれは大変な女性蔑視の考えではないだろうか。

彼女たちが一人も名乗り出て政府の責任を追及いない日本。日本人「慰安婦」の政府の責任が明らかになるまで、「慰安婦」問題が解決したとは言えないのである(吉川春子)。

 

 

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写真・3階建ての元貸座敷

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  写真・格子に覆われた外壁

 

 

 

2017年10月 1日 (日)

第20回全国シェルター・シンポジュームひらく

   

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  写真・シンポジュームの資料集

    
   永田町の目と鼻の先で

 

永田町では、安倍首相が権力欲むき出しの衆議院解散を挙行し、これを奇貨とし便乗した小池都知事の新党「希望」の立ち上げ等のむき出しの権力闘争が行われている。海外諸国にも恥ずかしい日本の政治の姿である。

 

この永田町とは目と鼻の先の文京区で2017930日(土)、「全国シェルター・シンポジュームin東京」が開かれた。女性への性暴力をなくし、被害者救済の活動を20年間続けているNGOの集会(NPO法人全国女性社ルターネット共同代表・北中千里、実行委員長:戒能民江お茶の水大学名誉教授)が開かれた。この大会は全国各地で持ち回りで行われ、私も何カ所かは参議院議員として参加した。

 

このNGOは、かつて「配偶者暴力防止法制定」時には被害者当事者の声を直接国会議員に利かせる等、積極的に行動し、法律の内容を充実させる役割を果たした。会場の東京都文京シビック大ホール(オペラも上演される)は、加者で9割方が埋まった。

 

基調講演は「乗り越える力:当事者から見た暴力の影響とトラウマ」と題して、オルガ・トゥルヒーヨさん(米国弁護士・コンサルタント)が行った。

 

先の通常国会で刑法が110年ぶりに改正され、強姦罪の非親告罪化、同罪の法定刑の下限の引き上げ、家庭内で父親等の幼い娘に対する性暴力を犯罪とする等の画期的な内容である。講演は刑法改正後に、まさに時宜にかなったものであった。

 

 3才で実の父親に強姦された少女の体験

 

オルガさんは暴力が日常的に行われる家庭で育った。父親が母親をレイプする場面を少なくとも5回は目撃した。彼女はそれを止めようとして、逆に父親からレイプされた。3歳の時だった。彼女が父親の暴力に立ち向かうたびに、父親の暴力は逆に狂暴化した。父親はオルガさんの兄たちにも彼女にレイプするように仕向けた。

 

11歳の時に父親は心臓発作で亡くなる。しかし彼女に対するレイプは終わらなかった。彼女の兄達、そして兄達の友人によるレイプがずっと続いたからである。

 

親切で勇敢な隣人の女性が居なければ今自分はここにいないだろう、とオルガさんは語った。また学校の先生たちの様々な援助もあった。他方、暴力の現場に警察を電話で呼んだ時、父親はその場をごまかし、彼女の境遇からの救助にはつながらなかった。アメリカの警察も当時は家庭内暴力を見抜くノウハウを持っていなかった、という。

 

彼女は幸運にも大学に進学し、法科大学院にもゆき弁護士になった。レイプが止んだのは、就職して仕事が余りにも忙しいので外出する時間がなく、レイプ相手の男性達と会わなくて済んだからだという。

 

彼女が余りにもすざまじい自分の体験を淡々と語ることに私は息をのんだ。また彼女は、性暴力にあっても必ず立ち直れる、そして当事者こそが最高の専門家であるという事を力を込めて語った。

 

シンポジュームでパネルの発言後短いコメント

 

オルガさんは12401530分という長い講演の後のシンポジュームにも参加して、感動的なコメントを残した。     

 

彼女は司法省で仕事をする中で、上司からもっと自分の体験を語るように助言を受けた。しかし初めは語ることで信頼を失うことを恐れたという。

 

オルガさんは幼い時から自分の身に何が起きたのか把握することができなかった。多くの被害者もそれを把握していない、という。それを把握できてから、自分の経験を多く語って来た。サバイバーが声を上げる事で実態が伝わる、とオルガさんは強調した。

 

父親がなぜこんなに暴力をふるうのか?のだ、と指摘する。加害行為を行う人は権力を行使する。加害者はそれが自分に許されいると考えるからである。オルガさんの父親はオルガさんを自分の所有者であると考えていたからである。

 

ここまでひどくなくても日本でも親は子供が自分の所有物と考える人は少なくないかもしれない。日本でもある親子心中は、善意であったとしても、子どもが自分の所有物と考えるからできるので、子どもを独立の人間と認めていない表れである。

 

   トランプ政権に負けない!

 

一方、サバイバーは自分のせいで暴力を振るわれると考えている。自分にも原因(あるいは責任)があると考えるのだ。そして暴力が、加害者と自分の個人的な問題であると考えている。

 

しかしそれは違うのだと、オルガさんははっきり言う。新しい変化。社会が私たちにどういう変化をもたらすのか。現在のアメリカの動きは、二歩進んだと思ったら三歩下がる状態である。去年まで性暴力について政府はどうにかしてくれるという状態だった。今の政権は違う。前進していたことが今は後退している、という。

 

でも我々は躓いてもまた立ち上がってまた(性暴力撤廃の運動を)続けることをしよう!

皆さんが居る事が、パネルの人がいることが性暴力被害者の力になっている。全てにつながっている。大切にして下さい。私達全員がいて大切な仕事を続けよう(大きな拍手)

 

     妻、子を自分の所有物と思う父親の思想との戦い

                               ~洋の東西を問わず

とても勇気づけられる講演だった。私も「配偶者暴力防止法」の立法に携わった際に性暴力被害者の声を直接聞いた。子どもが犠牲になっていることに心が痛んだ。これを契機に住民基本台帳の公開を止めさせた。

 

オルガさんの父親は妻を、子どもを自分の所有物と思い、暴力で支配した。奴隷を扱うように家族に接した。これが許される社会、が恐ろしい。周囲の大人も気が付きながらストップできなかった。警察も通り一遍の対応しかできず、幼い子を救うチャンスを逃した。

 

シェルターネットは家庭内能力や様々な暴力の犠牲になっている人々を救い、社会を変える活動を地道に行っている。世の中を簡単にいい方向にはリセットできないものだ。倦まず、たゆまず、努力しなくてはならない(終わり)

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 住宅地で見つけた秋の花

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