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2018年7月15日 (日)

参加者募集中!「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール・フィールドワーク

~日本軍の加害・人権侵害の歴史を学ぶ~

群馬戦争遺跡巡りと草津温泉への旅

旅行実施:20181028日(日)~29()  集合は東京駅

申し込み締め切り:8月末   費用:37,000

群馬県高崎市は1872年に地方の陸軍拠点になって以来、高崎連隊は日清、日露、シベリア出兵に出動し、1937年の南京事件の際には、高崎115連隊は上海制圧後南京城に突入し「南京一番乗り」をしています。また、「零戦」などを製造する中島飛行機製作所と、軍用飛行場があり、終戦直前の85日前橋、14日伊勢崎、高崎に空襲を受けました。

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(JR・草津駅)

<主な見学先>

【国立療養所「栗生楽泉園」・重監房資料館】草津町 

「重監房」とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいました。 しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていました。

[重監房のあらまし]
  ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で通称「重監房」と言われています。
 重監房は昭和13(1938)に建てられ、昭和22(1947)まで使われていました。この、およそ9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が入室と称して収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。60年以上を経た現在、この建物は基礎部分を残すのみとなっています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていました。

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(重監房跡・樂泉園内、瀬古由紀子さんと吉川春子)


[重監房資料館の目的]
  重監房(特別病室)の収監に関しては、その運用や手続きなど未だに不明な点が多くあります。重監房資料館は、こうした重監房とハンセン病問題に関する資料の収集・保存と調査・研究の成果を発表することにより、人の命の大切さを学び、広くハンセン病問題への理解を促すことで、ハンセン病をめぐる差別と偏見の解消を目指す活動をしています。(重監房資料館・ホームページ)

 ハンセン病違憲国賠訴訟原告団前会長の谺(こだま)雄二さんは「人権の故郷として残せ」と施設の保存を訴えました。日本はハンセン病患者を「国辱」として明治以来隔離政策をとり、1932年国立栗生楽泉園を開設しました。患者の結婚条件として「断種・堕胎」、独房の「重監房」の設置など、差別、人権侵害の事実を見つめます。

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(写真・谺さんを草津の病院に見舞う。この時は元気に回復した)

 

「中国人殉難者慰霊の碑」水上町・如意寺 名胡桃楽園 鳥越山

 

第二次大戦末期、日本政府は国内の労働力不足を補うため、38,935人の中国人を強制連行し過酷な労働を強いた結果、6,830人の尊い命が失われました。 月夜野の岩本発電所水路掘削工事では、中国人43名の方が亡くなり、当時の住職が故郷から遠く離れて死んだ中国人を哀れみ、 「死ねば中国人も日本人もない」と戒名をつけて手厚く葬りました。
1970年、建設委員会により当寺に「中国人殉難者慰霊の碑」が建てられました。 中国人の遺骨を安置した本尊をまつった須弥壇の裏側には、記録として墨書された板が現在も残っています。

 

{朝鮮人労働者慰霊碑}群馬県立公園「群馬の森」高崎市

碑は、戦時中に朝鮮半島から徴用され、重労働などで命を落とした韓国・朝鮮人を追悼するためのもので、碑には「記憶 反省 そして友好」と刻まれている。

毎年碑の前で追悼集会が行われていたが、碑の建立から10年後の20144月。同年1月末に、碑の設置許可の更新期限を迎えるにあたり、碑の設置・管理団体が県に申請した更新許可が保留になっている。2014425日の朝日新聞では、「許可更新、県が保留」「『政治的利用』批判受け」という見出しで、2012年の集会以降、県に碑の撤去を求める意見が寄せられていること、許可更新の申請を受けて、県が団体に集会の内容について見解を問うたことなどを報じている。

碑の存続のために団体が県へ提出した回答書や代替案が取り上げられることなく不許可が決まる。不許可決定の撤回を求める裁判で、地裁では原告が勝訴したが、県側が控訴して高裁で係争中。

宿泊は、草津温泉ホテル櫻井  

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(写真・草津湯畑の前で、瀬古由紀子さんと)

草津といえばすべての病(恋の病を除き)に効く超有名な日本有数の温泉です。5★ 3つの源泉かけ流し、30の大浴場ある最高級のホテル宿泊です。(以上・吉川春子記

<全行程、内藤真治さん「群馬県高校教育研究所」前所長)の知識豊富な解説つきです。歴史を学び、草津温泉でゆったりする旅に会員以外も参加大歓迎、お誘い合わせてご参加ください>

     【郵便申込先】 東京都文京区本駒込6-24-8-602 吉川春子気付

           「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール         

     【Fax】 03-3936-1743 (棚橋昌代) 

     【電話問い合わせ】090-4227-7478(棚橋昌代)  

   (代金振込)郵貯銀行 0270-5-140303 

    加入者・「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール(群馬旅行代金と明記)   

2018年7月13日 (金)

元「慰安婦」達の正義を求める運動を、歴史遺産として継承しよう

    第27回ゼミナール、第2回運営委員会開く


豪雨で西日本、中部日本が大災害後発生。こうした中、78日日曜日に東京千代田区の全国教育文化会館(通称・エディカス東京)で第27回ゼミナールを開催し69名が参加しました。大阪、名古屋から交通困難の中駆けつけた会員もいました。

午後1時からのゼミナールの講師は藤目ゆき・大阪大学教授です

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(写真・会場風景)

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(開会挨拶・吉川、右は藤目先生、左・司会の小林さん)

       日本人「慰安婦」はなぜ、見えなくされているのか 

藤目ゆき・大阪大学教授の講演は、元「慰安婦」たちの正義を求める運動の歴史遺産として継承、その運動の主体となるはずの日本人「慰安婦」が何故、不可視化されたのかという、興味深い内容だった。

初それに先立って「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの吉川春子代表から開会挨拶と講師藤目先生の紹介を行った。

吉川代表は、2001年に野党3党の「慰安婦問題解決法案」を参議院に提案した時に被害女性からも外国議会や政府からだけでなく国内のNGOからも絶賛された法案に対して、藤目ゆき先生が同法案が日本人「慰安婦」を国籍条項を設けて排除したことを厳しく批判された事を紹介。自分もその点を譲歩した反省をしていたので、当時から藤目先生に注目していたとのべた。また藤目先生はフィリッピンのマリアロサヘンソンさんの手記を翻訳されたり(岩波書店)、「慰安婦」問題に独自視点での貢献をされていたと紹介した。

 

   キムハクスンさん名乗り出に感激

~苦界に身を沈めた日本女性に代わって、と受け止めた

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(写真講演する・藤目ゆき先生)


 

藤目ゆき先生は、自分は日本女性史を研究してきたが1991年、キムハクスンさんが名乗り出たことに驚き、感謝した。「慰安婦」たちは自殺したりして、生きているはずがないとと思っていた。彼女たちが生身で生きていたことに励まされたと、声を詰まらせながら述べました。そして苦界に身を沈めた事、少女時代に親戚にレイプされても「お前が悪い」と言われ沈黙してきた日本女性のための告白と受け止めた、と述べた。

1992年の国際会議や2000年の国際法廷でも「日本人はお金もらってそういうことされてもいいのか?」と問われたが、日本人は平気で娘を売って金もらっていた。それに甘んじていたから、「慰安所」の前に兵士が列を作っても平気だった。日本の奴隷制の根っこは公娼制にある、公娼制は奴隷制度であると強調した。

 

  やるべきことしない日本政府、これを許した国民にも怒り

 

日本人は民族差別があった。外国女性ならいいか。日本政府はきちんと謝罪していない。日本政府はやるべきことやらずに終わっている。これを許した日本国民にも怒りをもつ。また、日本の市民が、(同胞の)日本人「慰安婦」を名乗り出ることを助けなかった。

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    先ず外国人、という選択しなければ「法案」出来なかったと理解

 

また、野党法案については「自分は国籍条項の批判をしたが、先ず外国人、そういう妥協もしないと法案出来ない。「日本人を入れたいと思っていた(吉川が)」ことは嬉しい。

民主党が政権を取ったらかえって立法化がもつれてしまった。

其の他、「公娼と『慰安婦』は違う」という運動側の立てた論議が問題の闇を深くしているなど運動・市民側にも疑問を投げかけるなど、多くの指摘を行った。「慰安婦」問題に取り組んできた者として多くの示唆を受けた講演だった。

当ゼミナールでは次号第33号で藤目ゆき先生の講演の詳細を掲載する予定。

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(写真・閉会挨拶とまとめの大森典子副代表)


 

<第2回運営委員会報告>

201878100012:00、ゼミナールに先立って運営委員会が行われた。

出席者:19人(常任運営委員9人、運営委員10人)

欠席者:5人(常任運営委員2人、運営委員3人)

 

{報告事項}

 

Ⅰ 会員・財政(原・ペーパーによる報告)

 

会 員 数 580人(201872日現在)

次期繰越金 1,601,418

*当ゼミナール規約により2年間会費滞納者は退会扱い。41日総会を待って、6月末で締め切ることにしている。今回は、会費未納の多い県には会費納入の努力をしてもらった

〇「会費納入アピール」を出すことに決定した

 

Ⅱ 第27回ゼミナールについて

 

〇事前の宣伝として、お誘い葉書152枚発送、「週刊金曜日」、東京民報、赤旗のお知らせさんに掲載していただいた

〇プログラム

講師―藤目ゆき・大阪大学教授

開会挨拶・講師紹介―吉川、閉会挨拶・まとめ―大森、

フィールドワーク宣伝―吉村、司会-小林

 

Ⅲ 群馬県フイ―ルドワーク(吉村報告)

 

南京陥落時、高崎の15連隊が一番乗りした、という県である。ハンセン病裁判で患者側が2007年勝利、草津に100人住んでいる。権利要求戦いの歴史に触れる旅、重官房は必ず見てほしいところ」(吉村)

〇参加者現在 十数名。参加者は三十数名を確保したい

 

{議論の部}

 

Ⅵ 講演会共催の申し入れ(柴田)(添付資料)

 

常任運営委員の柴田さんから、「つどい」を埼玉AALAと「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナールの共催で開きたい、との申し入れがあり了承した。

日時:20189814001630

場所:埼玉県加須市(東武線・

加須

(

かぞ

)

3分)

内容:第1部「朝鮮女性同盟の歌・舞、又は「二胡の演奏」、2部吉川春子の話し

 

Ⅶ 第28回ゼミナール・詳細は別紙(棚橋、笠井)

 

日時20181027日、文京区男女平等祭りの一企画・ワークショップとして参加する

 テーマ:南京事件 

午後13301530(午前は会場が借りられるか否か未定)

〇DVD南京、上海の旅上映(原さん制作) 

〇ワークショップ

・大森団長、旅の企画の趣旨

・参加者の感想

 小竹弘子・元都議(文京日中友好協会)、⑵菅間徹(大枚をはたいて!旅に参加した意味)、

 笠井恭子(南京で終戦を迎えた姉)、⑷後藤ひろみ(東京AALA・南京安全区について)

・」まとめ挨拶 吉川、・コーディネーター 棚橋

 

Ⅷ 今後の運動の進め方

 

910日(月)の第2回常任運営委員会で時間を取って議論する事になりました。

時間は10時~午後4時頃までの予定です。会場は追ってお知らせします。

<議論のテーマ>

8月の議事整理委員会で相談し会議前に連絡します。皆様からも事前にお色々なご意見・お考えをお寄せくださいますようにお願いします

(写真・会場から熱心な質問が寄せられた)26_2

720(写真・夏の夕焼け7時20分六義園7月13日)


 

2018年7月 1日 (日)

「女性参政権獲得」百年のイギリスの旅(最終)

 

 ~半端でない、イギリスの人権獲得の歴史~その5

 

マグナカルタ(1215年)から始まってイギリスの人権獲得の歴史は文部省の歴史教科書に詳しく載っていたので通り一遍の知識はある。それを再確認しさすがイギリス!と知った旅であった。

 

今年、イギリス国会前広場に初の女性の銅像

 

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  • 写真・ミリセントホーセットの銅像(2018年4月建立)

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  • 写真・台座にパンクハースト母と娘3人の写真(左から2つ目)

私たちは旅の3日目、6月9日(土)イギリス国会前の広場に、女性参政権獲得百年を記念して、今年4月25日建立された女性運動家であり経済学者であるミリセント・フォーセント(1833-1884)の像を見学した。国会前広場に女性の銅像の建立は初めてだという。

銅像は「どこでも勇気が勇気を呼ぶ」と書かれた布を手にした、ロングドレスのミリセント・フォーセットが国会の方向に向いて立っており、その台座には、多くの女性の著名人とともに、同じく女性参政権獲得目指して活動した、パンクハースト夫人とその3人の娘の写真も刻まれている。

除幕式にはイギリスのメイ首相(イギリス2人目の女性首相)も駆けつけ「フォーセットがいなければ私は今日首相としてここにいなかった。女性が議員となることもなく、私たちが現在享受する権利もなかった」と彼女をたたえる演説を行った。

フォーセットはジョン・スチュアート・ミルの思想に共鳴した。女性の大学就学に力を入れケンブリッジ大学のニューナム・カレッジ設立に貢献、1897年にNUWSSを結成した。彼女は.、過激な行動を展開したパンクハーストとは違ってリーフレットの発行、大会の組織や、ロビー活動等平和的な活動をつづけた。

 

国会の隣接地のエメリン・パンクハーストの銅像

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(写真・国会に隣接する公園に建つパンクハースト夫人の銅像)

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(写真・イギリス国会の建物。この建物の向こうにパンクハースト夫人の銅像がある) 

 サフラジェットのエメリン・パンクハーストの像は、ミリセント・フォーセットの銅像から歩いて数分はなれた、イギリス国会敷地に隣接する広々とした公園に建立されている。その台座には長女のクリスタベルの写真があるが、次女シルビアの写真はない。それは、方針の違いで母親と姉から追放されたシルビアは社会主義者になって、女性労働者の運動に加わっていったためか。私は理由を聞きそびれた。

 

今年マンチェスターにも、エメリン・パンクハーストの銅像建立

 

 今年の12月にはマンチェスター市の中心部にパンクハースト夫人の銅像が建つという。彼女の像建立に尽力した市議会議員が私達をマンチェスター市議会前の広場に案内し、パンクハースト夫人が右手をまっすぐ横に延ばしているミニチュアの像と同じ銅像が建立されると説明した。

 

 イギリス男性は「女性参政権付与」の運動の推進者

 

注目すべきはイギリスでは男性が女性参政権獲得運動の理解者・推進者であったということである。

『私の記録 婦人参政権運動の闘士=バンカースト夫人自伝』(エメリン・バンカースト著、平井英子訳 現代史出版会第1刷1975年)には次の記述がある。(下線は吉川)

イギリスでは、「1866年の選挙法改正(「世帯主選挙法」)通過…1832年以降初めての改正…年間10ポンド以上の家賃を払う世帯主に国会議員選挙権があたえられることになっていた。下院で審議中にジョン・スチュアート・ミルが『男性と並んで婦人の世帯主もこれに含める趣旨の修正動議提出→否決。…』『私の住むマンチェスターでは婦人の潜在的有権者総数四二一五人のうち、三九二五人が投票権を主張し、法廷では、後に私の夫となるバンカースト博士はじめ有能な法律家(法律家は全員男性、女性は当時なれなかった―吉川)たちが、この主張を弁護した』と。また、女性参政権獲得運動に参加した男性の組織も数十もあったという。

日本では男性が女性参政権獲得運動に加わった形跡はない。この点はイギリス男性の方がジェントルマン、といえそうだ。

 

近代的な母娘像?

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シルビア・パンクハースト研究所で英国女性の賃金格差、DV等について研究者の話しを聞く(前列左から2,3人目が教授)

 

パンクハースト夫人は3人の娘(3人目の娘は早く亡くなる)とともにWSPUを設立して運動をスタートさせた。しかし次女シルビアトとは袂を分かつ。

シルビアは破壊行為には消極的で母、姉を批判した。また、シルビアは労働者階級が多数を占めるイースト・エンドを活動の基盤としている。中流、上流の富裕層がおおいウエスト・エンドを基盤としている母親や姉とは考えを異にした。彼女は経済的差別に目を向けるようになる。(中村久司著『サフラジェット 英国参政権運動の肖像とシルビアパンクファースト』大月書店)

私は運動方針の違いのため、母親はたとえ娘であっても組織から追放してそれぞれが別の道を歩むというスタイルがイギリス的、合理的なものとして興味深く感じた。

また、男女を超えて参政権は女性にも与えるべし、という男性、インテリチゲンジャが日本の江戸時代、明治初期に当たる時代のイギリスには少なからずいた事も興味深い。

イギリスの社会、歴史を見直した旅であった。(吉川春子)


写真下・ゴッホのひまわりと、フェルメール(「ナショナルギャラリー」で)

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2018年6月28日 (木)

女性参政権獲得100年のイギリスを訪ねて、その3

 

   マンチェスター市議との懇談

 

     マンチェスターは、伝統ある労働者の町 

   

マンチェスターは人口541,319人、日本でいうと政令指定都市には入らない規模の中堅都市といえる。労働者の町である、労働党が圧倒的に強い。

最近上映された映画『マルクスとエンゲルス』のエンゲルスの父親が社長の工場がマンチェスターにあった。マッチ工場の女工のストライキが社会を揺るがした。

こうした労働運動だけではなく、女性参政権という、上流女性の要求運動も大きく発展したことは、相互に関連があるからであろう。

パンクハースト夫人は後の共産主義者となる次女のシルビアが女性労働者と連繫することを許さず、運動のたもとを分かっている。しかし、労働者階級の女性の戦いが、女性参政権獲得の一定の力として働いたことは否定できないだろう

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(写真上・マンチェスター市議会、写真下・市議会の廊下、天井が美しい)


 

サンドイッチのランチで懇談

 

12時市庁舎の建物の近くでマンチェスター市議会議員が10名参加して、私たち一行と懇談した。なかなかおいしいサンドイッチと飲み物(ジュース等)の軽食をとりながら日本人とイギリス人が56の丸いテーブルにそれぞれ交じって座った。(しかし、中には日本人の癖で自分の知り合いとだけで同じテーブルを囲んだりして、あとで仲間から批判が出た)通訳は中村氏。


 

議員の男女比はほぼ半数ずつ

 

 

市議会議員の定数は96人。そのうち女性が47人(48.9%)、男性が49人(51%)でほぼ半分ずつの割合である。女性議員が増えてすべての委員会に女性が所属しており、姿勢に女性の意見が反映されている。

マンチェスターでは選挙の供託金はない(0円)。だから女性の議員が多く立候補して当選できるのだ。日本とはえらい違いだ。日本は供託金がとても高く女性は立候補できない現実。

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写真・市議会を案内する議員と、通訳の中村氏


 

     市議会議員は無報酬!

 

マンチェスター市議会議員は報酬がない。だから全員が別に仕事を持っている。フルタイムは委員会の責任者だけで、この議員には特別手当がついている。

日本では市会議員は片手間では務まらない。年4回定例議会は条例や予算、決算でかなり忙しいし、専門知識が要求される。市議を経験している私は、無報酬で、他の仕事と掛け持ちをしていると聞いてとても驚いた。

マンチェスター議会は会期制だ。任期は普通は4年だが、1年、2年の場合もある。4年に3回選挙がある。最高得点を取った候補者は4年、2番目は2年、最下位は1年、というふうに。

 

イギリスにクオータ制がない理由

 

女性の地方参政権は、国政より数十年早く与えられている。女性議員を増やすことに各党の中央で取り組んでいる。女性50%、男性50%にして、勝てる選挙区に女性を立てる事に取り組むが、一方女性を優先的に立てることは男性差別という声がある。しかし、女性参政権が与えられて100年の歴史があるのに、イギリスの女性議員は3割強で、国際比較では最も多いグループではない。

クオータ制の法律はイギリスでは絶対作れない。反対の議員がいるから。また、クオータ制は憲法違反だという法律ができた。なかなか歴史は一筋縄ではいかないものだ。

 

女性参政権獲得百年、イギリスの旅その2

  過激な女性参政権獲得運動を知る旅

 

「英国の女性参政権運動は、穏健派「女性参政権協会全国同盟」(NUWSS)と戦闘派「女性社会政治連合(WSPU)の2大ライヴァル組織が相互に影響をうけつつ運動を織りなす」(川村貞枝他『イギリス近近現代女性史研究入門』)。

*「女性参政権協会全国同盟」NUWSSNational Union of Womens Suffrage Societies

*「女性社会政治連合」WSPU(Womens Social and Political Union)

 WSPUはサフラジェットと呼ばれ(揶揄され)、過激な行動もあえて辞さず女性の参政権を!と世論に訴え続けた団体である。その功罪は今も研究者の間では評価が分かれている。

 命がけで女性の人権のために戦った100年前の異国の女性達の意気込みに、現在女性の人権のために活動している私は、脱帽したのである。

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(写真・サフラジェットの旗の前で、水野、吉川―元全国労働運動史博物館)

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(写真・WSPUのメンバーはこのタスキをかけ胸にシンボルマークを付けてデモ行進した(吉川の洋服に掛ける)

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(写真は・タスキをかける江パンクハースト夫人) 

 今回私の参加した旅行はいわゆる過激派(WUSP)の運動をたどる旅であった。それは中村久司氏(著書「サフラジェット英国女性参政権運動の肖像とシルビア・パンクハースト」大月書店)が同行し、イギリス女性参政権獲得に至る歴史について詳しい解説付きであった。

 

  パンクハーストセンターを訪問

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(写真上・1903年この居間で「女性社会政治連合スタート、写真下・パンクハーストセンター所長と)

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写真・パンクハースト母娘が住んだ家

 

68日(金)午前中私たちはマンチェスターのパンクハーストセンターを訪問した。この日は休日だがセンターの責任者が私達を迎えてくれた。

1903年にパンク・ハースト(1858-1928)は、このこじんまりとした家の居間で、娘2人(長女のクリスタベル、次女のシルビア)と数人の同志とともにWUSPを立ち上げた。

エメリン・パンクハーストは両親の意向で当時(19世紀)としては珍しくパリのエコールノルマルに留学、十分な教養と知識を身に着けた。20歳で24歳年上の弁護士リチャード・マースデン・パンクハーストと結婚して13女が生まれた。夫は女性参政権運運動の支持者であったが、1898年に死亡し、エメリンはその活動を引き継ぐかたちで1903年に政治組織を設立したのだ。

 

 

 

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(写真上・パンクハーストセンターの看板、写真下・パンクハースト夫妻の写真)

映画も描いた、過激な女性参政権獲得運動

昨年日本で公開された『未来を花束にして』はこのエメリン・パンクハースト率いるWUSPの過激な活動を一部フィクションを交えて映画化したものだ。エメリン・パンクハーストには女優のカトリーヌドヌーブがふんした。

(写真・映画「未来を花束にして」のジャケット、右端の女性がカトリーヌ・ドーブ扮するエメリン・パンクハースト)

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私は行きの飛行機の中で中村先生の著書を読破していった。イギリスの上流階級に属する女性達が中心になってかくも過激な行動が全国に広がっていったことに目を見張った。公共建物の窓ガラスの破壊、郵便ポストへ火を投げ入れ放火、そして逮捕されると断食で自死を辞さないそうした戦いを多くン女性が展開していった。

学校にも通い教養あるある女性達、服装もペチコートにロングドレス、髪には帽子をかぶった上流階級の女性達を過激な行動に走らせた参政権獲得運動は、日本のこの時代の女性の地位、社会の認識からは到底考えられないものだ。

しかも官権の弾圧も過酷である。女性達を乱暴に逮捕、投獄し、彼女たちがハンガーストライキに出ると、無理に口をこじ開けて食物を胃に流し込む。しかし殺さないうちに釈放して体力の回復を待つ「猫・鼠法」の施行する等、容赦しない。私はイギリス女性のイメージが変わった。

2018年6月23日 (土)

英国女性参政権獲得百年と、日本の女性政治参加の現状~エメリンパンクハーストを訪ねて    

 <今年、英国・女性参政権獲得百周年>


 英国議会前にサフラジェットの旗がひるがえり、

各地で記念行事、銅像建立の計画

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(写真上・イギリス議会前広場に翻るサフラジェットの旗―イメージカラーは紫、緑、白の3色、写真下・運動のリーダー、エメリン・パンクファーストのモザイク写真)

 

 私は6月7日から12日まで、水野磯子さんら、名古屋、岐阜、中部地方の女性の皆さんとともに、英国女性参政権獲得運動について学ぶ旅をして、サフラジェットと呼ばれる過激ともいえる参政権獲得運動の活動に触れました。

 サフラジェット(女性参政権獲得運動家)発祥の地、マンチェスターで、そしてロンドンで、イギリス女性参政権獲得百年を記念する行事があちこちで行われています。

昨年2月、日本で映画『未来を花束にして』が公開され、私は女性の政治活動が劇映画の題材になる事に驚き、又はメルリストリーブの演じるエメリン・パンクハーストに感動しました。今回の旅で、この映画が製作される土壌がイギリスにはあることを実感したのです。

 

今回、彼女らのゆかりの地を訪問し、ミュージアムも見学し各種資料に触れました。参政権獲得運動の中心はパンクハースト親娘はじめ、上流階級の女性で、一定の教養・学問知識のある女性達です。デモ行進といえばペチコートを履いたロングドレスに、髪には帽子を付けた女性達がデモ行進し、過激な行動に走るという、私のイメージする、あるいは見聞きし体験した日本のデモ行進とは異なる趣である。

長い苦しい戦いの末に勝ち取った女性の権利。さすが民主主義の国!との実感を持ちました。

  年表で過去にさかのぼると以下のようになる。

 

<イギリス女性参政権獲得までの動き>

 1928年

男女平等普通選挙権の成立

 1918年

国民代表法による女性参政権の成立~戸主または戸主の妻である30歳以上の女性に選挙権与える

・1903年

「女性社会政治同盟(WSPU)マンチェスターで創設

・1869年

地方自治体の選挙権が女性納税者に与えられる

・1865年

ジョン・スチュアート・ミルが選挙公約に、「女性参政権」を掲げ議会選挙に出馬・当選

 

  <日本女性の女性参政権獲得>


 

日本はイギリスに後れること37年、太平洋戦争敗戦後に、194510月女性参政権が認められました。明治維新以来、女性参政権なき日本は戦争に次ぐ戦争の明け暮れでした。

これに比して、女性が参政権獲得後の73年間は戦争は1度もありません。以下年表を示します。

 

    <女性参政権がない日本、戦争に明け暮れた

~明治維新~1945(昭和20)年まで~>

 

1898(明治27)年

日本、清国に戦線布告・日清戦争勃発

  1902(明治37)年

日本、ロシアに宣戦布告・日露戦争勃発

  1914(大正3)年

日本がドイツに宣戦布告(第1次世界大戦)  

  1918(大正7)年

シベリア出兵(英、仏、米がソビエト革命干渉戦争)

  1919(大正8)年

平塚らいてう、市川房江らが「新婦人協会」設立し女性参政権要求運動を開始

  1921(大正一〇)年

第四四通常国会に、男女平等選挙権を認める「衆議院議員選挙法改正」の請願書提出

  1931(昭和6)年

柳条湖事件(満州事変勃発)

  1937(昭和12)年

盧溝橋事件(日中戦争~1945)

  1941(昭和16)年

日本軍ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発)

  1945(昭和20)年

8月、天皇終戦の詔勅

10月、女性参政権を認める閣議決定

 

    <日本は女性議員数が最低の国>

 

 女性参政権を得て、73年もたつのに女性議員が一向に増えない日本。世界の中で最低レベルです。

 国際比較をしますと、

女性上院女性議員数の

1位―ルワンダ~下院の女性比率61.3%、上院の女性議員38.5

14位―フランス~       39%、        29.3

39位―イギリス~       32%、        25.7

99位―アメリカ合衆国     19.4%、       21

157位―日本         10,1%        20.7

世界平均下院(衆議院)23.6%。上院(参議院)    23.2

 なんとも情けない現状です。

 

   日本に女性議員を増やす契機が!

 

今年5月に、政治分野における男女共同参画推進法」が成立しました。クオータ制を推進するNGOと超党派議員の長年の努力が実ったものです。女性議員を増やす契機となることが期待されます。

「政治分野における男女共同参画推進法」

目的

 男女が公選による公職(議員、知事、市町村長等)又は、総理大臣その他の国務大臣にあるものとして、政策決定参画の機会を確保される事が、多様な国民の意見が的確に反映されるため一層重要であり、政治分野における男女共同参画を積極的に推進し・・・民主政治の発展に寄与する 

第二条

 ①衆議院、参議院議員選挙、地方公共団体の議員の選挙において、政党その他政治団体の候補者選定の自由を確保しつつ・・・男女の候補者の数ができる限り均等となることを目指して行われるものとする

 ②政治分野における男女共同参画の推進は・・・性別による固定的な役割分担を反映した社会における制度または慣行が政治参画推進に及ぼす影響に配慮して、男女が、その性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮できるようにすることを旨として行われなければならない

③政治分野における男女共同参画の推進は、男女がその性別にかかわりなく、相互の協力と社会の支援の下に・・・活動と家庭生活の円滑かつ継続的な両立が可能となることを旨として行われなければならない

     ~~~~~~~~     ☆     ~~~~~~

 さて、こうした日本から英国女性達の過激な選挙権獲得の運動を見ると、強い衝撃を受けました。次回以降は彼女たちについて少し具体的内容に触れます(以下次号

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(写真・戦争博物館・ロンドン)


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(写真・戦争博物館前で)


 

2018年6月 3日 (日)

NHKスペシャル・「ミッシィングワーカー、働き盛りが働けない」の衝撃

 

201862日NHK第1テレビで、親の介護が引き金になり働く意欲を失ってしまった…非正規・中高年の苦難を描く番組が放映された。ミッシングワーカーとは労働者性を失った人々、ということか。働き盛りが働く意欲も場も奪われて行く…日本の暗部に愕然とした。

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(写真・千曲川(上田市)の堤防に咲くムラサキツユクサ、2018年5月22日撮影)

 

         親の介護が人生を狂わせる

 

50歳代の男性の母親の介護をしている、身なりに構わない息子の姿と、乱雑以上の足の踏み場もない部屋のわずかなスペースにベットを置いて暮らす様子が映し出される。この環境で日々生を繋いでいる姿に胸がつぶれる。

〇また別の50代の男性は、仕事を止めて両親を介護する。両親の年金が26万円あったのでこれで生活ができると判断した。父親が亡くなり年金が16万円に減って苦しくなったが、母親の介護を引き続き行う。そして母親も亡くなり一人になって働く障碍はなくなるが今は働く意欲が全くない。自分で料理をするが全く調味料を使わないのだという。どこから見ても「健康で文化的な生活」(憲法26条)に程遠い。

〇契約社員として役所で働く女性。契約期限は待ったなしに来て仕事を失う。北海道に90歳代の父親がいて、時々北海道にかえって父親の面倒を見て、買い物もするのできちんとした職には着けない。父親に施設に入ってほしいが、父親は「死んでも自宅を離れない」と言う。娘の人生をどう考えるのか?と私は心の中で父親に向かって叫んだ。

 

       統計に現れないミッシングワーカー

 

統計によると失業者は72万人だが、ミッシングワ―カーは103万人も居るのだという。彼らは失業者にカウントされていない。失業者とは「職業安定所で求職活動をしている人の人数」なので、働くことをあきらめてしまって職を求めて職安にゆかない人々は失業者ではないのだ。

こうした点を見ても失業率の多寡だけでは雇用情勢や景気は推し量れない現実がある。

それにしても働き盛りの4050代が社会からドロップアウトしてしまうとは日本の社会の病巣は深刻である。

 

NHK番組に登場した人々の共通点は、非正規労働者である事、或は最初は正規労働者であっても何かのきっかけで非正規労働者に転落した人々であるという点と、結婚していないので独身で支え合う家族がいない点である。政府のセイフティネットがない、家族という最後の砦もない人々である。(自民党改憲草案は憲法24条改定に「家族は助け合わねばならない」との文言を書き込もうとしている)

 

労働者・国民のセイフティネット切断の歴史

 

日本社会は1980年代から、国民のセイフティネットを次々と細くし、或は切断していった。

その一 

先ず1985年は労働者派遣事業を合法化。セイフティネット切断の元年ともいうべき年である。

戦前、小林多喜二の『蟹工船』で過酷な状況下で働かされる労働者を描いているが戦後はその反省から派遣労働は刑罰(懲役刑)をもって禁止されていた。それを財界の要求で合法化し不安定雇用、非正規労働者を大量に増やし続けて今日に至っている。

 

その二

“期間の定めのない”雇用契約の原則から、有期雇用契約(定めのある)原則へ

1990年代は「規制緩和」が荒れ狂い、財界・使用者の要求で、労働者権利保護の労働基準法など労働法の規制緩和を大幅に進めた。

それまでは正社員が中心で期限付きは例外だったが、先ず雇用期間を「3年~5年」とする有期雇用が認められた。そのうちに契約期間はどんどん短縮されて半年かそれ以下の雇用契約も有効にされるようになった。

非正規労働者が女性の場合は50%以上になっている。非正規の場合は健康保険、年金等の社会保険に入っていない(企業が入れてない)ケースが多い。企業にとって非正規雇用の“醍醐味”は社会保険の企業負担を払わずに済むことである。

NHKテレビに登場した人々は親の年金で暮らし、親が亡くなっても、自分の年金はかけていないのでない。

 

その三 特別養護老人ホームの有料化

 私は候補者の時の肩書は共産党・社会福祉対策委員会責任者だった。1980年以降当選迄、二年余の候補者活動で一〇〇カ所以上の各地の特別養護老人ホーム(「特養」)を地域の共産党の案内で見学した。

当時特養は無料で誰もがタダで入れた。参議院議員時代は厚生委員会は在籍していないこともあって、何時から有料になったかは定かではない。

私の父がお世話になったキリスト教系の「特養」は10万円ちょっとでとても行き届いた介護をしていただいた。

今それは安い方で月額12,3万円以上は普通である。テレビに登場した人々は有料化された特養に入所する費用がなかったので、やむを得ず仕事を止めて自分で親の面倒を見た人々だった。

 

ミッシングワーカーを産みだす背景

 

 2次大戦で無条件降伏した権力が徐々に立ち直り、日本国憲法で保障された国民の民主的権利を露骨に奪ってゆく時代が1980年代から始まったのだろうか?

犯罪だった派遣労働を合法化し、安定雇用の原則を不安定雇用に変えて企業は何時でも労働者を解雇できるようになり、社会保険の負担を負わない労働契約を原則にして、福祉の分野では特養を有料化する・・・そうした一連の事が社会的弱者の立場に立たされた人々の人間としての暮しを奪ってゆく。

 

 NHKのこの番組は救いがない。未来が見えない。しかしこれはNHKの責任ではない。何らかの弥縫策で改善できる問題ではないからである。

 いかに少子化が危機といっても、それは数年かけて、財界の利益追及に従ってきた政治の責任である。きびしいかもしれないが、その時々の政策を支持し、政権を支持した国民の責任にも目を塞いではなるまい。

 

解決策は社会の変革しかない。(吉川春子)

2018年5月31日 (木)

松代大本営跡を、日本の侵略戦争の遺跡として保存することを求める

 

私は2018年5月20日に民主長野県人会の旅行で松代大本営跡を訪れました。訪問は今回で6、7回目になりますがここ、松代大本営跡は国の責任で保全され、公開する必要があることを改めて感じました。それは『政府の行為によって戦争の惨禍の起こる事のないようにすることを決意し』(日本国憲法前文)た私たち日本人の責任であると思います。

 

侵略戦争推進の精神的バックボーンとなった靖国神社は、今も戦前の思想そのままでありながら、多額の税金で維持管理されている一方、侵略戦争遂行の戦争遺跡にほとんど国費を投じない日本の在り方は、再び戦争を引き起こす危険性があると痛感します。

 

長野県の由緒ある城下町松代(長野市)に、第2次世界大戦末期に天皇、大本営、霞が関の行政機能を移す大計画で、巨大な地下壕(大本営地下壕、あるいは象山壕等と呼ばれる)が建設されました。

昭和197月、サイパン陥落、グアム陥落で日本全土が連合軍による爆撃可能になりました。

日本の主要地方都市そして東京空襲が迫り、さらに地上戦も想定される中、時の権力者は天皇制維持のために最後まで戦う態勢をとって大本営、国家行政組織(霞が関)、NHK、電信・電話等を安全な地へ疎開させる巨大地下壕建設を極秘裏に進めました。

 

 長野県民を開拓団として中国へ送り出した結果、地下壕建設の労働力が足りない分を朝鮮人を動員し過酷な労働に従事させ200人の犠牲者を出しました。

 

地下壕のすぐ近くには「慰安所」を設けました。明治時代から製糸工場として栄えた六工社の元娯楽場を、持ち主の渋るなか警察が無理やり「慰安所」として借り上げ、富岡製紙工場で名を挙げた和田英という優れた女工指導者の歴史を、女性の性暴力の場に変えました。

 

長野県で幼少期を過ごした私は、1990年代に参議院予算委員会で、長野県選出の羽田孜大蔵大臣(後の総理大臣)に、「松代大本営跡」を国の責任で保存するように要求しました。当時初めて松代大本営の豪に入りその重要性を感じた私はたまたま羽田氏が長野県選出ということもあり、故郷の重要施設ということなので理解を得られると考えたからです。

しかし、羽田氏は上田市が選挙区の中心で長野市とは近いこともあり「自分も子供の当時壕の中に入って遊んだ」ことなど述べる一方で、「文化財の保護は100年未満のものはむつかしい」と消極的な答弁でした。

 

私はその後、ドイツに行ってナチスの強制収容所跡もことごとく保存され、あるいは破壊された物は再建され、ミュージアムを建設し公開されていることを知りました。ゲシュタボの建物(地下)はナチスの地勢史資料館として、ヒトラーのあのような暴力的行為をなぜ可能にしたか研究、資料公開施設になっています。

 

河野官房長官談話も指摘しているように私たちは「誤りを再び繰り返さないために、後世に事実を引き継」がなければなりません。日本のミュージアムは加害の事実をほとんど展示していません。国民も自らの戦争被害だけを声高に叫ぶとしたら、国際社会との友好関係を築くことはできません。侵略性戦争遂行に最後の最後までこだわった日本のかつての指導者の愚を、肝に銘ずる施設として松代地下壕を国家の責任で保存、公開することを求めます。

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写真・松代にある海津城は真田家が幕末まで10万石の城主であった。石垣が美しい)

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(写真・大本営跡の地下壕で説明を受ける一行)

 

<資料・松代大本営跡(象山壕)とは>

(「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール・ブログ吉川春子引用・2016914日訪問)

 

太平洋戦争末期、地上戦をにらみ199411月より大本営、霞が関の行政機能、天皇の御座所を東京から長野県に疎開させるために象山地下壕を掘った。

昭和1910月工事命令(小磯内閣)縁起を担いで、111111時に初めの発破かける。

昭和20816日工事中止命令(天皇の戦争終結宣言の翌日!)

 

<大本営とは?>戦争のときに天皇の下に陸軍参謀総長(陸軍の作戦と指揮を執る最高指導者)、海軍軍令部長(海軍の作戦と戦争を指揮する)が最高の作戦を練り指揮する機関。日清戦争が始まる1893年設置。その後、1904年(日露戦争)、1942年~45年(アジア太平洋戦争)の3カ所のみ

大本営を長野県へ移転させようとした理由

 

  地理的条件 長野県は地上戦で真っ先にやられる東京からは離れ、飛行場があった(今はない)

  地盤が固く山が沢山あった

  都会から疎開している人多く、労働力が豊かと思われていた。しかし当時長野県は満蒙開拓団に23千人も送り出していたので高齢者、女性子どもが多かった。他の県より労働人口は少なかったのが実態で、計画に誤算を生じた。その結果、朝鮮人労働者を6,500名集める

  信州は神州に通じるー皆神山の地名がある(この根拠は疑わしい)

そのうち②が最大の理由である

 

そして、地域住民109戸、124世帯の住民が強制的に立ち退きさせられ平穏な生活が奪われました

松代大本営・地下壕の規模

 

陸軍東部軍が西松建設、鹿島建設とその下請けで工事行う。幅4.3M、高さ2.7M。

総工費:2億円弱(研究費、調査費含め)~今に換算すると4,000億円

人 員:延べ300万人(11万人)*女性は入れない、山の神が怒る(嫉妬する)

(地下壕群、3個所合計で1万米)

工事は初めは、8時間3交代制でスタートしたが途中から12時間2交替制に変更

  大本営~天皇の御座所予定地 舞鶴山1600M。 20163月まで地震計設置、いまは無人

  象山 5900M(5.19には公開)、国家公務員、NHK、NTT-1万人~地下壕を公開中

  皆神 1900M 皇族居住棟予定。しかし地盤が弱いので食糧庫に

さんかん機 56センチ穴にダイナマイト仕掛ける 穴が小さいので危険。ズリ(岩を砕いたかけら)を運ぶトロッコの線路敷設の跡(レールをはがした跡あり)

 

朝鮮人労働者

 

長野県は1938年ころから農民を満蒙開拓団として全国トップの33千人送り出し、残されたのは、高齢者と女性、子どもであった。誤算の結果、大本営設営の労働力を補うために西松組、鹿島組が6,500人の朝鮮人労働者を使役した

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(写真・象山壕入口近くに建つ朝鮮人犠牲者追悼碑)

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(写真・地下壕の壁に書かれた文字等、大邱と読める)

【労働者の集め方】

 

  4,000名は徴用令に基づき朝鮮半島から5回に分けて強制的に連行。初めは会社の「募集」方式、1942年朝鮮総督府が管理する「官斡旋」方式、1944年国民徴用令を適用。徴用令で集めて脱走を防ぐ

  在日朝鮮人に松代に働き口あると誘う。

日 当――日本人4円、朝鮮人(親方)135

食 事――高粱のおかゆ、塩味。自分で来た人は金を持っているので近所の人から食料を買って食べたが、強制連行の人々は金を持っていない

宿 舎――きよのの飯場に3800人いた。三角兵舎~冬寒く夏は暑い。長野県は寒冷地のため、冬は宿舎の中も-3℃~4℃になった

犠牲者数――200名以下と思われるが不明。名前は4人だけわかるのみ

崔小岩(チエ・ソアン)自主的に来た人

 朝鮮人労働者は日本敗戦後は暴動も起こさず「万歳」と各地に散っていった。実態については、証拠の書類を全て燃やしたので何もわからない

少し経った頃から、チエ・ソアンさん(日本名を催本小岩)が生き証人として徐々に重い口を開き、いろいろわかった。残念ながら1991年死去(71歳)、死因はじん肺

 

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(写真・金網の向こうは非公開の空間)

沖縄地上戦と松代地下壕建設との関連

 

 ガイド氏の話を聞いて私は大変驚き、また心が痛んだ。戦争末期米軍を沖縄にくぎ付けにしておいたため、沖縄住民に被害を増大させたのだという。沖縄は、1945530日、首里陥落、それでも降伏しなかった。その最大の理由は、大本営地下壕工事推進の時間かせぎのため!だというのだ。

616日、阿南陸軍大臣が松代を視察し工事の見通しを得た?結果、621日阿南大臣が沖縄の牛島中将に「本土決戦の準備が完成」と打電。623日牛島中将自決、沖縄戦の組織戦が終結した。

 

「米軍上陸から3か月、10数万人の住民と10万人の将兵が死んだが司令官は、これを『軍の任務を遺憾なく遂行できた』と言って、『同慶の至り』とし、この事態にいたっても、生き残った将兵に対し、降伏させず、最後まで戦って死ねと命令した。

将兵らは、住民の保護について米軍と交渉することもせず、彼らを砲煙弾雨の中に放置したまま自決した」(「ひめゆり平和記念館資料館ガイドブック」P50

 

726日連合軍、ポツダム宣言、

815日日本ポツダム宣言受諾を表明(この間に広島長崎に原爆投下)。

日本政府の情報収集能力の完全なる欠如。この間に国体護持(天皇の地位まもる)の可能性を探る

ソ連に戦争終結の仲介依頼(ヤルタ協定で、ソ連はドイツ敗戦後3日後に対日宣戦布告することを知らなかった!

 

子や孫に伝えよ―ガイド氏

 

天皇と地下豪~天皇御座所の天井はコンクリート(3月まで人がいた。今は無人地下壕)。敗戦後の昭和2210月、天皇が長野県訪問の際、林虎雄知事に「このあたりに無駄な穴を掘ったというが、どこか?」と聞いたという。天皇が地下壕について知らないことは絶対ない(ガイドの塚田氏)

「今後、戦争に巻き込まれないために、この地下壕について、今日見学した皆さんがぜひ内容を伝えてください。」と話を締めくくったガイド氏。聞いている私たちも思いを共有した。

 

 

数少ない?日本国内の「慰安所」

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(写真・像塹壕入口の小さなミュージアムの看板)

 

地下壕入口付近に元製糸工場六公社の工女娯楽場の建物を強制的に借上げ「慰安所」を設けた。ここには朝鮮人一家5人と用心棒、「慰安婦」4人(3人との証言もある)がいた。韓国人「慰安婦」カンドッキョンさんがここにいた。写真左・韓国人「慰安婦」カンドッキョンさんの描いた「松代の慰安所」1996

 

<吉川コメント>

“遷都”(天皇の信州への疎開)準備のために本土空襲、地上戦を1日でも遅らせるべく、沖縄の司令部(首里)陥落後も「頑張らせ」、沖縄県民の被害を拡大した政府。国民の犠牲をかえりみず、ひたすら天皇制維持を策した政府の眼中にあるのは国体護持のみ。地下壕建設の進捗状況を見ながら沖縄司令部にサインを送った陸軍大臣の非情さに思わずおののいた。

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(写真・姥捨て駅から見下ろせば棚田風景)

 

2018年5月 1日 (火)

まぶしい!若きマルクス・エンゲルス~映画「「マルクス・エンゲルス(THE YOUNG KARL MARX)」を見る~

 

 

この映画は1818年生まれのマルクス、6歳年長の妻イェニ-(貴族階級出身)、マルクスより2年若いエンゲルス。3人の若者が社会変革を目指しかの有名な「共産党宣言」を著すまでの物語である。

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 産業革命による生活の糧を奪われた農民の姿

 

映画の冒頭、ドイツ・ライン州、薄暗い森の中で落ちた枯れ枝を拾う貧しい服装の農民たち。彼らを騎馬警察官が容赦なく蹴散らし暴力的に排除するシーン。産業革命で資本家、地主も肥え太り貧富の格差は広がるばかり。落ちた枯れ枝を薪として使い生計の足しにする人々に初期資本主義の過酷な姿を見る。

 入会権は日本の民法でも認められているが戦後も20世紀後半山林地主との長い戦いがあった。

1843年プロイセン政府はそれまで慣習によって認められていた地域の農民の木材採取(落ちた枯れ枝等)を禁じる「木材窃盗取締法」が施行される。森林の枯れ枝も地主の財産と主張し入会権を認めない州議会議員達に対し、マルクスは貧しい人たちの慣習的権利を奪うこの法律を厳しく批判する記事を「ライン新聞」に書く。

 

     暴利を貪る資本家を仮借なく追及するマルクス

 

マルクスが健筆を奮った「ライン新聞」は官憲によって発禁処分となり、ここへの記事の執筆を生活の糧としていたマルクスも生活の糧を失った。

それに加えて、マルクスの仮借ない鋭い資本家批判の論文に対し、仕事を奪われ、資本家の手先である官権はマルクス一家に対し居住するフランスから24時間以内の国外退去を命じられる。幼子と、妊娠中の妻イェニ―とともに途方に暮れるマルクス。ベルギーに生活の拠点を移すが個々にも居られなくなり,一家でイギリスに渡る。

「彼等は裕福な家庭に育ったものの当時の不公平、不平等、出版物などの検閲を受け入れることができず、そんな窮屈な世界を変えようとしたのだ」(ラウルペック監督)。社会に妥協する道を選ばず、貧困に負けず、変革の困難な道を歩む3人の姿に感動した。

 

マルクスの父親はユダヤ人で弁護士である。マルクスもボン大学からベルリン大学に学ぶ知識階級である。この映画のもう一つの見所はエンゲルスである。(映画の原題は「若きマルクス」となっていてマルクスの方に焦点を当ているが…)

 

    階級を超えた恋が、

「家族私有財産国家の起源」に結実?エンゲルス

 

エンゲルスはイギリス・マンチェスターの紡績工場を共同経営する父親を持つ、いわば社長の“お坊ちゃま”である。彼と父親との確執を映画は描く。

映画では、エンゲルスの父親が経営する紡績工場の過酷な労働条件の下で働く状態に不満を述べる女子工員が解雇され、啖呵を切って工場を飛び出すシーンがある。若きエンゲルスがこの女工を追って貧民窟へと足を踏み入れる。これがきっかけで階級を超えた恋に陥り二人は結ばれる。

エンゲルスの著す数々の著作から非常に温かいものが感じられるのもこうした貧しい労働者の生活に目を向け、実態を知っているエンゲルスならではといえるかもしれない。

貧しい女工を愛したエンゲルスが後に女性解放の書『家族私有財産国家の起源』(『起源』)を書き上げるのも、女工との恋で、女性の置かれているあまりに過酷な状態からその淵源をさかのぼったのではなかろうか。

マルクス理論はジェンダーの視点に欠ける」と批判を受けることがある。しかし、エンゲルスは女性解放のバイブルともいえる書をなし、また女性差別開始時期について「女性の世界史的敗北」にあると喝破した。今日の女性への暴力の淵源を突き止めている。

私はその昔、『起源』について各地で講師活動をして勉強し、階級社会をなくすことが男性による女性への暴力支配の廃絶の道であり、それ以外ない事を学んだ。(いわゆる一元論)。こうした提起の根底!に階級を超えた恋が、あったのではないか。

 

     若者にこの映画を薦める

 

私の人生を変えた重要人物、マルクスとエンゲルスの映画ということもあり、上映2日目、岩波ホールへ駆けつけた。上映時間30分前に行ったのに切符売り場は長蛇の列で、私の整理券番号は122番。30年も岩波ホールに通って映画を見ているがこんなに観客が多い場面には初めて出くわした。マルクス、エンゲルスは遠からず、の感がした。

しかし、「本作は若者のために制作し、(ドイツ、フランスなど)その反応も素晴らしいものだった」(ラウル・ペック監督)との言葉に反して、日本では行列の中心が私を含めて高齢者で、若干の中年世代が混じり、若者の姿は殆どなかった。

6月中旬まで上映されるので、ぜひ若者に多く足を運んでほしい。社会の矛盾に切り込み社会を変革者の姿にぜひ接してほしいものである。(了・吉川春子)

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Photo_3 (文京区・近所のお宅のバラ)

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2018年4月 7日 (土)

第6回総会と第26回ゼミナール開く

 

 

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(写真・夕日を浴びて…枝垂桜、東京都六義園)

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(写真。会場ぎっしり埋めた参加者)

『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール・会員の皆さまへ。201841日(日)、東京都千代田区駿河台の中央大学記念館で第6回の総会を開きました。以下要旨をお知らせします。

 

1回運営委員会

 

まず、午前10時~1210 第1回運営委員会が開かれた。出席は運営委員22名中18名、欠席は4名。理由は仕事、介護、病気、娘の出産です。司会・報告事項は特別報告者がないものは吉川代表が行った。議題、内容は以下の通り。

 

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(JR四ツ谷駅線路に咲く紫金草、日中友好の花。笠原先生が講演の中で「四ツ谷駅に咲いていたと言われ、翌日通ったら咲いていた)

             第1部 報告

 

Ⅰ 会員数と財政状況について(報告財政担当・原)

 

会員数

2017年度末在籍会員数 569名

2018年度期首会員 573

 

2017年度

入会者:35名

退会者:89名(規約退会者68名、自主退会者21名)

 

予算・規模 2,160,000円、

収入 

会費 878,000円、ゼミナール参加費 150,000円、繰越金≒910,000

支出

会報発送日240,000円、会報製作費 400,000円、旅費交通費178,000円等

 

Ⅱ 2018年度の活動計画

 

⑴ ゼミナール

 

☆第27回ゼミナール 201878日(日)

テーマ:日本人「慰安婦」供給元だった遊郭と、売春婦は「慰安婦」にされてもかまわないという奥に潜む女性差別思想

講 師:藤目ゆき 大阪大学大学院人間科学研究科教授 

著書『「慰安婦」問題の本質 公娼制と日本人「慰安婦」の不可視化』(白澤社20152月)、

『ある日本軍「慰安婦」の回想』マリア・ロサL・ヘンソン著、藤目ゆき・訳199512月岩波書店)

☆第28回ゼミナール(文京区男女平等祭り参加)20181027日・予定、テーマ未定

 

⑵ フィールドワーク(報告・吉村)

 

群馬県へ、1028日(日)~1029日(月)

高崎駅集合でみなかみ(月夜野)如意寺参拝でスタートし、高崎群馬の森(朝鮮人追悼碑)、栗生楽泉園(ハンセン病患者施設)の重監房、八ッ場ダム等…歴史、人権、無駄な公共施設見学します。宿泊は、「一つの病以外はすべてに効く」と言われる草津の湯に浸かって…

 

⑶ 議事整理委員会

 

常任運営委員会に提案する議題を整理・検討する委員会として2017年に発足しました。2018年度は財政担当の原さんを加えて、小林、後藤、棚橋、吉川の5人で担当し、定例的に開催されます。

 

⑷ 役員体制

 

常任運営委員12名(代表・吉川春子、副代表・大森典子、事務局長・棚橋昌代、事務局次長・岩下弘、後藤ひろみ、原康長)。運営委員12名、計24名、監事 2

なお、水野磯子さんは副代表を辞任し地元愛知県での活動に専念することになった。常任運営委員には留まる。また、監事の池田靖子さんは家族の介護のため交替することになった。

 

⑸ 日本人「慰安婦」問題

 

チームとして、ビルマ従軍軍人から入手した日本人「慰安婦」名簿9人全てについて2016年、2017年の2年で調査行い、201710月にその結果を文京区男女平等祭りに際してのワークショップで発表した。この問題に対してメディアからも関心が寄せられている。

 

           第2部 議論の部

 

Ⅰ 慰安婦問題解決のために、当ゼミナールは何をなすべきか

 

ニュース第31号(2018220日発行)の2018年活動方針では「署名活動の提唱」を行いました。しかし3月の常任運営委員会で署名の具体的項目で一致せず引き続き議論を継続します。運営委員からは以下の意見が出た

               記

署名活動を進めてほしい、署名用紙を持って帰れるかと思った。署名はいつまでにやるのか、期限を切ってほしい

署名で『慰安婦』問題が解決できるとは思わない、地域会員の活動の手段に署名を行うのは本末転倒、

◎署名とDVD上映、小集会を合わせて行ってはどうか。地域で沢山の集会、ミニ学習会を持ってこの問題を深めたい

◎日本人「慰安婦」問題を署名項目にぜひ入れてほしい

◎日本人「慰安婦」を署名項目に入れることは早い。この問題をわかる人いるか?

◎他の女性団体では7種類も署名を行っている。署名をするなら何のためするかわかって署名すべきだ。「慰安婦」問題は終わったでしょう、まだやっているの、みたいに言う人もいる

全県でゼミナールをすれば地元での(世論を)堀起こしができるのではないか

 

Ⅱ 『日本軍「慰安婦」慰安婦問題解決全国行動 声明』に、大森典子副代表より説明があり、賛否について議論した。次の常任運営委員会で決める事とする

 

記念講演13時~15

(写真・中央大学駿河台記念館の比較的大きな会場を確保したが、73名集り超満員の盛況だった。)

K

 

講 師:笠原十九司・都留文科大学名誉教授

テーマ:南京事件80周年を経て=中国における日本軍の大虐殺、大強姦を考える

 

 笠原先生には当ゼミナール第1回総会の時も、講師として南京事件について講演していただいた。今回は昨年秋のフィールドワークを踏まえ、特に女性への性暴力に焦点を当てて話していただいた。

詳細は当ゼミナールニュース第32号に講演要旨を掲載する。

 

総会 1515分~1630

 

まず、棚橋事務局長から2017年度の活動について総括を行った。

続いて吉川代表が当ゼミナールニュース第31号に掲載されている2018年度の活動方針を読み上げる方法で提案した。その中の6 署名活動の提起については常任運営委員会で意見の一致を見なかったとして撤回した。併せて「2 署名活動を進めるために他団体との協力関係を進める」点も修正した。

財政問題については原事務局次長から決算、予算について報告した。2017年度の決算の監査については佐藤龍雄、池田靖子両監事より監査報告書が提出された。

以上の点について質疑、意見表明が行われた。

吉川代表から新年度の役員の提案があった。

最後に以上の点について一括承認された。

 

全てを終了し会場を移して懇親会がもたれた。

Photo_3

(写真・会場正面左手に貼ったこのブログの”コピー”、場所が場所だけに近づいて読む人はいない)

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